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藤川基先生の思出

2022-05-17 16:07:11 | A●●-PUNKs
藤川基(叢三)先生の思い出

先生とは、私が19才で大学に入学した時、必修科目「彫塑1
」にて『あばたのビーナス』のレリーフ模刻を受講した時からだった。ありえないほど生意気な私が唯一学びがあって、ずっと一緒にいたいな😁と思う先生だった。私の中で「土をいじっている人に悪い人はいない」っていう意味不明な価値観を全て賄ってくれる、上品で優しい紳士だった。
3Dの立体と平面の写生とは、違うんですね。あれだけ2Dでデッサンが得意な友達が模刻に苦戦してた時、私はもちろん😂粘土得意ってやつよ。それについても、藤川先生は生徒の仕事をリスペクトしながら、立体の話を心地よくしてくれたと思う。覚えてないけどさ。その模刻は確か1ヶ月くらいは続いたの。で、ある日・・・私は、、、自分の粘土模刻を間違って、、、他人の似たようなヤツを自分のだと思って、、、やってたの。そしたら間違われた生徒が「僕のが無いんです^^;」って授業中に訴えたわけ・・・。あらららら、あたしのだったわい! 慌てて、交換したんだけどさ、藤川先生は優しかったのよ。「お姫さまは、こんなに頭良さそうに見えるけれどね、こんなこともあるのですね。模刻の授業ですからね、模してるっていう1週間前に作った形がありますよね、それがうんと似かよるのは・・・普通です。でも・・・学生番号と名前が貼ってあるから、ごめんなさいね。二人とも良くできていますから、気を取り直して、模するものを造っていきましょうね」
 私は、かなり決まりが悪かったのに、とっても癒されて仕事を続けられたんだ。もちろん彫刻研究室のコンパも欠かさなかった。土から作品に至るまでは、一人じゃ出来ないことが沢山あって彫塑研究室の先輩たちは、常に協力してそれぞれのゴールに加担していた。
 さて、藤川先生の愛妻はすでに亡くなっていた。そして二人には子どもがいなかった。先生がマリノマリーニに弟子入りしてイタリアに行っていた時に、情熱溢れる奥さんになる前の奥さんはイタリアまで行ったそうだ。それ以来ずっと先生を支えて時には政治的発言をしたり家のバラ園の面倒を見たり・・・熱狂的なファンであって先生の「奥方」というステイタス通して画会を啓蒙していった方だと思う。そんなことを風の噂で聞きながら大学生の私は常に未来についての不安を抱えていた。藤川先生とは、仲良しだった。私は教育大学にとってかなり問題ある生徒だったけれど、私の「今やりたいこと」が世間にも先生にも「わがまま」に見えることや、さて今やってみようね♪っていうことを伝えてくれた。お酒が年取ることに強くなってるってことや、朝食にバナナを一本食べると安心することや、自分の話し言葉を丁寧にするとどんな不良も聞いてくれることや・・・トランプの「スピード」をやりながら、ゆったりと構えて、私という変な生徒に向き合ってくれたんだ。スピードは、先生が負けてくれないから、もちろん私の負けだらけだったけど、そんな事忘れるほど、楽しい話をしてくれたんだ。戦時中、先生は戦艦大和の護衛船にいた。ある時、海軍で短歌のコンテストがあって、先生が応募したんですって。そしたら、一等賞に選ばれて・・・その賞品で2泊三日の休日を貰ったんですって。。。残念なことにそのおくゆかしい船の名前も先生が休日に何をしたのかも・・・思い出せない。すてきな船の名前だったなぁ・・・。そんなこんなで、いい気になった私は、ある日先生に言った。
「先生の養女にして下さい。もちろん、バラ園の手入れやります」
先生は、女か男かおじさんかおばさんかも分かんないようなお酒の飲み方をしながら答えた。
「お姫さまがねぇ、うちにいるのは楽しそうよね。でもね、先生も年をとってしまって、お姫さまが散らかしたものを片付けたりご飯の用意をしたり、洗濯したりね・・・そんなことは、もうできないのよ・・・」・・・
私だって、充分若くて、そんなこと全て自分で出来るし、ただ先生と夢のような次元を過ごして先生が大切だと思うものをうんと大切にして、心から共感したりさ、色々プロモーションを考えていたのだけれど・・・見かけとやらかしてる実績で先生にお断りされたって・・・ちょっとショックだったよ。

 藤川先生の退官が決まって、怖かった。

先生の退官が近づいて、彫塑室の月1のパーティ(部活のような地下彫塑室でのコンパ)で私はクグロフ型で焼いたパウンドケーキを持ってきた。先生は、「パネトーネ♪」ってとっても喜んでたのだけれど、私が大人になり過ぎてから成城石井で買ってみたパネトーネとはかなり違ったのよ。パネトーネだと思い込んでいた先生は幸せそうにイタリアの話をしていた♪どんなに辛い時もパネトーネがある時は、気持ちを切り替えてお茶をする。美味しいパネトーネは、楽しく生きているっていう証拠のケーキだって。

小樽潮陵高校美術部から札幌美術学園を経て、晴れて北海道唯一の公立特美の大学生になれてやる気満々だった大学は、当時私にとって(落ちるところまで落ちたような・・)環境だった。小学校からの美術の先生も中学の時の千葉先生の素晴らしい水彩も私にとってあたりまえのことだった。そして画材や本が高価で、その為に体力の半分以上をバイトにつぎ込んでいた。大学には北海道限定のカリスマ的な指導者は、もちろん居た。けれど、小樽という芸術特区で育った私が根っこの根っこで浴びたいという開放の哲学的なことを大学の教授達から、魅力的に魔法をかけられることはなかった。なんせ、教育大学内の「特設美術科」時代なのである。殆どの標準的な日本の若者は、『先生』になるためにそこに居て素直に『よい先生』になるために学習し そしてよい先生になったことだろう。

私は自覚なしに英才教育を受けていたんだと思う。その中には「権威に対する反抗」とか「正直で実直な記録」とか「駆り立てるものが形を取ってもいいのか❓」という課題まで含まれていた。所謂試験のための学業で「傾向と対策」からの組み立て方も所作として組み込まれていたんだ。

時は、バブル前期だったし、イケてる教授はその辺の「傾向と自分が持ってくテクニックと趣向の定義」みたいなことはやってた。

先生は、晩年と言える私が在籍していた2年以上前から所謂新作の発表をしていない。彫刻界の経済的グルグルに、彼は賛同出来かねるという意志だったと私は思うんだ。確定的な資本の約束がないと「重たい彫刻」がどこかに設置されという機会は無いし、スポンサーがプロパガンダで行って下さいと言うと、自身の資本が潤沢で『権威』じゃな限り、毎週木曜にパニクってるデザイナーのように「スポンサーの願いを叶える」しか近未来の目標がなくなる。しかも、例えば銅像のような場合において、作家個人が最後まで一人でプロデュースして納品するというのは・・・皆無なんだ。

藤川先生の作品は、札幌大通り公園で会える。
重力の筋が通ってるから、ある意味保守的かも知れないけれど、私は大好きさ。先生に出会う10年以上前から、私のバイブルみたいなあの画集でx脚ギリギリの重力と力と形の関係は・・・故郷なのよ。
静かな今思い出すことは無き札幌南30条の札幌教育大西校舎の・・・
藤川先生の研究室に行くと先生は黙々と仏面を作っていた。ただただ沈黙のうちに流れるナイフの一筋と、ホスピタリティーとして眺めていてもよかった私と先生の時間は、今も啓示的でロマンチックだ。
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