母に描いてもらった太陽燈図。
色々調べていくうちに大正時代に家庭用に島津製作所が作っていて、魅力的なポスターで販促をしていた。
1937年以降、旧陸軍の攘夷軍人への社会復帰対策の(昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション ―傷痍軍人の就労への道―上 田 早記子)中で【後療法】として、太陽燈の名前が出てくる。
後療法は、機能障害を取り除くとともに残存能力の増進を図り、必要に応じて義肢の装着や 医学的加療を行うものである。後療法を行う場所は機械療法室や超短波療法室、空気イオン療 法室、太陽燈室、赤外線療法室、紫外線浴療法室、平流感伝電気療法室などが設けられており、 多様な後療法が行われた-上田氏の論文より
https://www.lib.pref.yamanashi.jp/cgi-bin/refjirei/refs.cgi…
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/…/3…/1/hemmi_hokekan54.pdf
逸見勝亮氏によると、
=
ところで、僕が1950年に入学した室蘭市立 天沢小学校保健室には太陽燈があった。保健室 は2階北側の角で校長室の真上にあたっており、 皐体検査・ BCG接種を行う「恐ろしい」揚所 に 近 づ く 理 由 は な か っ た が 、 大 き な 円 球 状 の 太 陽燈は眼を引いた。太陽燈は、結核性疾患(小 児結核)の温床とされていた虚弱兜に紫外線を 照射して健康増進を図ろうと、 1930年代以降 各地の小学校に広まった。天j尺小学校の太陽燈 は校舎改築に伴って処理されており 、由来を示 す資料ち得られないので…
とあった。
http://showamodern.blog.fc2.com/blog-entry-1060.html
島津製作所の家庭用太陽燈
http://www.ogasawara.oswb.net/archives/28080
小樽市稲穂女子尋常高等小学校に母は在籍していた。母が太陽燈にあたったのは、1937年(昭和12)当時6才から8才までのことだったらしい。
記事の中の「織姫」の踊りに関しては紅白のテープではなく、群青色と薄い空色の2色で、「織姫」は5、6年生にならなければ踊れず、低学年生は「早く織姫が踊りたいな」と言っていたそうだ。