大学に入学当初、私は初めて鬼丸吉弘先生のもと「美学」という学問があることを知った。美学の講義で「マグナマータ」に出会ったことは、特に公募展にも所属せずに無謀にも二十歳で初個展をしてから30年以上制作活動を続けられたきっかけだと思う。さらに、このキーワードを発展させ、具体的にどう続けるのか、美術が抱える問題、多角的な魅力を教えてくれたのは、丸山先生だった。東京芸大から助手という肩書で着任した30代の先生には、途方もなく迷惑をかけながら、途方もなく影響されたのだと今さらながらよく思う。
1985年彫刻科の3年生は、実質私独りだった。その時間はあまりにも贅沢だったのに、それしか知らない私はそれが当たり前だった。時はバブル前段で、先生の作品はコレクターをはじめ「墓石」としても需要があった。中央の動きや所謂「彫刻」ではない新しいムーブメントの紹介者でもあり、彫刻自体の価値やその流通、「写す」ことと「創る」ことの根本的な違いなど教わった。
「小樽博1984」にてルイジ・コラーニの大作が使われたことを先生はとても評価していた。その時、自分の第一印象以上に「先生が評価することに興味を持つ自分」にびっくりした。それまでは、頑なに感じることのひとりよがりに浸っていたから。
モデルひとり先生ひとり、私ひとりの授業も多かった。モデルさんと3人で「生業」について語ることも多々あった。着任した翌年には肩書が講師になって書籍費が20万円出るとのことで喜び勇んで本を買いに行ったりもした。その後、講師初給料が今までより月額100円しか上がっていないのを知った先生の落胆ぶりは今も忘れないけれど、プロジェクトになることの多い彫刻業界での独特な経済観念は確かなものだった。
モデルさんがお休みの時には、展覧会よりもむしろ遺跡現場へドライブに行った。太陽や雲や巨大に迫る山を見つつ私が「神様にはかなわないや」というと「芸術ってさ、今見えるものだけじゃないじゃない? 僕の作りたいものっていうのは、僕が責任を持つっていうことだと思う。大人でしょう」「へぇ、、、。先生は、彫刻家じゃなかったら何になりたかったの?」「物理学者!(即答!!)」「私は、ファーブル先生みたいな博物学者!」先生の彫刻は、実は論理前提の物理だった。年が近かったせいもあり反発・反抗・喧嘩・甘えの上でさらに、先生がカッコつけてるように思ったりしながら、遠目では先生の「今」を眺めていた。そのような特殊な環境であったため「印象的な言葉」、「エピソード」を書くにあたっては原稿用紙50枚あっても足りない。ただ、宇宙人のような私と先生との不思議な距離感が、今はとても心地よく感じる。
抽象形態の裏付けに関するディベート術は、丈夫な体に恵まれなかった丸山先生の生き急ぐ姿に沿って、北海道らしい器で生かされ続けるのだろう。先生のメインステージであった北海道教育大学札幌分校「あいの里組」よりのこの記憶素子展プロジェクトを多面体だとすると、ちっぽけなプレステージの一面にて「藻岩組」の私は囁きたいと思った。
ありがとう、先生!!!!!
2017.10.10
ナカムラアリ
画像*マグナ・マータ・1987一版多色刷り木版モノプリント
個展にて彫刻が2体しか出来ていなくって、壁面を埋めようと版画を作り出した。「アリちゃん、これならどこにいてもいつまでも続けられるね」と言った先生が恐れ多くも私の中で生きているのかな?
1985年彫刻科の3年生は、実質私独りだった。その時間はあまりにも贅沢だったのに、それしか知らない私はそれが当たり前だった。時はバブル前段で、先生の作品はコレクターをはじめ「墓石」としても需要があった。中央の動きや所謂「彫刻」ではない新しいムーブメントの紹介者でもあり、彫刻自体の価値やその流通、「写す」ことと「創る」ことの根本的な違いなど教わった。
「小樽博1984」にてルイジ・コラーニの大作が使われたことを先生はとても評価していた。その時、自分の第一印象以上に「先生が評価することに興味を持つ自分」にびっくりした。それまでは、頑なに感じることのひとりよがりに浸っていたから。
モデルひとり先生ひとり、私ひとりの授業も多かった。モデルさんと3人で「生業」について語ることも多々あった。着任した翌年には肩書が講師になって書籍費が20万円出るとのことで喜び勇んで本を買いに行ったりもした。その後、講師初給料が今までより月額100円しか上がっていないのを知った先生の落胆ぶりは今も忘れないけれど、プロジェクトになることの多い彫刻業界での独特な経済観念は確かなものだった。
モデルさんがお休みの時には、展覧会よりもむしろ遺跡現場へドライブに行った。太陽や雲や巨大に迫る山を見つつ私が「神様にはかなわないや」というと「芸術ってさ、今見えるものだけじゃないじゃない? 僕の作りたいものっていうのは、僕が責任を持つっていうことだと思う。大人でしょう」「へぇ、、、。先生は、彫刻家じゃなかったら何になりたかったの?」「物理学者!(即答!!)」「私は、ファーブル先生みたいな博物学者!」先生の彫刻は、実は論理前提の物理だった。年が近かったせいもあり反発・反抗・喧嘩・甘えの上でさらに、先生がカッコつけてるように思ったりしながら、遠目では先生の「今」を眺めていた。そのような特殊な環境であったため「印象的な言葉」、「エピソード」を書くにあたっては原稿用紙50枚あっても足りない。ただ、宇宙人のような私と先生との不思議な距離感が、今はとても心地よく感じる。
抽象形態の裏付けに関するディベート術は、丈夫な体に恵まれなかった丸山先生の生き急ぐ姿に沿って、北海道らしい器で生かされ続けるのだろう。先生のメインステージであった北海道教育大学札幌分校「あいの里組」よりのこの記憶素子展プロジェクトを多面体だとすると、ちっぽけなプレステージの一面にて「藻岩組」の私は囁きたいと思った。
ありがとう、先生!!!!!
2017.10.10
ナカムラアリ
画像*マグナ・マータ・1987一版多色刷り木版モノプリント
個展にて彫刻が2体しか出来ていなくって、壁面を埋めようと版画を作り出した。「アリちゃん、これならどこにいてもいつまでも続けられるね」と言った先生が恐れ多くも私の中で生きているのかな?
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