うすめして ほおあてる
かざしもに よりあいて
きぎのめの かげかくれ
ようせいは
まいちりおどる
みなみかぜ とうからず
われをのせ
きみがもと。。。。
もとのもと。。。。たぐりよする
もとのもと たぐれども
とおかれば ほほよせる
きみがもと ともわらう
はなのせい
てをとりて
うたごえあわす
やまのこだまの うみこえわたる。。。
とどかねど
ただようは
いつくしみ
ひかりつぶ
ここにある。。 ここにいる。。。
われのもと。
ドロドロに溶けたブロンズは
型を流れる
型の近くは 粘って流れる
溜まって行き場のなくなったヤツは
ユミチに逃げ込む
アリの巣みたいな細いユミチには
たまに瘤が出来る
全てのユミチ穴からブロンズが顔を覗かせば
サクセス!!!!
冷え固まった触角みたいなユミチ棒は
カツンと折られる
君は、その瘤をデザインどおりきれいに削るかい?
僕は、取っておくよ
出口があった証拠だから。。。。。
画像* unknown 5×5cm 1984 ブロンズ
ゆきのひに すのーぼーる もらったの
おつきさまみたいな 3にんぐみが とどけにきたの
こころのえいようだってさ
こまかいこまかい しろいおさとうにまぶしてあって
やさしいバターとあーまんど♪
すのーぼーる。。。。
とっても今日に にあってた。。。。。
しんめぶく気に あごあげる
みわたす細き えださきに
なごりましたる かれはもて
かこなる上影 なごりゆき
つつみて愛し きみのすみずみ。。。。。
ながれゆく。。。。 なかそと満たす
君しずく
僕しずく
さすらいゆきて 風となる。。。。
たとえ きれいにかさなっても もれてくるんだ
それがとってもすきなんだ
ちいさなこだまがおどったり
ねころんだり
じっとこっちみたり
もれるものってすてき ぐうぜん ぐうぜん。。。。。。
ぐうぜん ぐうぜん!!
篭って 仕事してるとき
おつう 気分になる
だれに恩返ししてるわけでもないのに
自分の羽をむしってる気分になる
滞積する遺跡のような床は
まき散らす不良品の羽たち
箱に収められたりファイルされる羽より
劣るというのだろうか
分別しきれない彼らは あたしを呼び
あたしは 鳥肌に産毛が生えるのを待つ
毎日毎日がすんでいきました。相変わらず幼稚園には行きたくなかったけれど、お友達もなんとなく出来て好きな先生もいたのでしぶしぶ行っていました。たまに母が役所を休むときがあってそんな日は父が園へ行く前にパン屋さんでお菓子パンを買ってくれました。私は、クリームパンやあんパンが好きじゃなかったしその頃は今のようにケーキみたいなお菓子パンは売ってなかったのでいつもいつもメロンパンを買ってもらいました。今から思うと母は病院へ行っていたのでしょうか。
その時が来たのは、いつの季節か覚えていませんが白熱灯のついた暖かい夜だったと思います。父が、
「ここに来なさい。」と呼びます。しかられるような事はしてないと思いましたが、お兄ちゃんと二人両親のところへ行くと母から重大な発表がありました。
「クリスマスがすんだら二人にすごいプレゼントがあります。」お兄ちゃんと私はとりあえず大喜びして、それはピアノかそれとも新しいお人形かとか自分の欲しいものを聞きました。母はわたしたちが欲しいものをみんな聞きおわったあとで
「赤ちゃんがきます。」と言いました。私はびっくりするのと同時にわくわくしてやる気が一杯になりました。本物のお姉さんになれるのです。お兄ちゃんと手と手を取り合ってぐるぐる回りました。
そんなすばらしい発表があったのに私の園生活は続きます。そんなある日、月曜の朝会で私はおしっこをがまんして失敗してしまいました。しかられると思ったのに先生はとってもやさしくひよこ組の部屋で着替えさせてくれました。甘えるのが大好きだった私は次の日もわざとしてみました。その日も先生はやさしくしてくれました。そしてその次の日もわざとにしたのです。さあ、先生はわざとにしているとわかったらしく私は今までの分ぜんぶしかられることになったのです。そんなことをするのは赤ちゃんみたいで恥ずかしいことだとわかっていたのにきっとそれを乗り越えるほどやさしくしてもらいたかったか、寂しかったのではないかと思います。
母の出産が近づいて私は毎日赤ちゃんの大きさを聞くようになりました。家の中がさわがしくなりいとこのお姉さんがやって来て、母は、入院しました。いとこがご飯を作ってくれたり寝かしつけてくれたりしているうちに父が女の子が生まれたことを知らせました。そして私にこれからはお姉さんだからひとりでトイレへいったり遊んだあとかたずけをしなければならないことを話しました。私は本物のお姉さんになるのにやる気一杯でした。母がしばらく入院している間、幼稚園の先生をしているいとこのお姉さんは、母の三倍きびしくておやつもちょっぴりで、お兄ちゃんと一刻も早く母の帰りを待ちました。
赤ちゃんはなにもかも小さくてすごくかわいかったです。母と赤ちゃんが帰ってきても私は幼稚園へ行かされました。
四才の誕生日が近づいてきたある日、私はきゅうに勘違いをして四つになったら学校に行けると思いました。誕生日の前の日先生たちに
「四つになると学校へ行かなければならないのであしたからもう幼稚園にはきません。」と言ってまわりました。先生は六才だと言います。でも私はきっぱり宣言しました。母が迎えにきてそのことを確かめると四才ではなく六才だというではありませんか。私は、それを聞いてショックをうけました。次の日もうこないと言ったのに幼稚園へ行くと案の定先生にひやかされました。私は、そんな先生達が大嫌いでした。そのうちにお兄ちゃんが小学校へ上がるのといっしょにわたしもここをやめることになりました。お兄ちゃんは、卒園式の合奏で木琴をたたくことになり毎日一番こわい先生のもとで特訓されていました。まちがうと木琴のバチでコツンとされるそうです。わたしはそんなこととても耐えられないのでいっしょに卒園して良かったと思います。堪え性のない性格なのであと二年もいたらひねくれ者になっていたでしょう。
春になり、卒園式の合奏もとても上手にできてお兄ちゃんはこわい先生に誉められて鼻高々でした。
文*エッセイ「ママといっしょにいたかった」より
版画*木版画「むかし。。。むかし。。。」