お盆だったので、父を偲んで・・・
父が亡くなった時のことを書こうと思います。
父は平成19年の11月に、動脈瘤破裂で倒れ、
その日のうちに帰らぬ人になりました。
動脈瘤があることはわかっていたのですが、
高齢だったので手術を断念。
2年持つか持たないか・・・と医師に宣告されていましたが、
持ったのは1年半でした。
父も私も覚悟をしていた死でした。
86年の生涯でした。
父は社交的で、人当りもよく誰からも好かれる人でした。
外と家と・・・その姿にまったく変わりがなく、いつも笑顔の穏やかな人でした。
愚痴はいっさいこぼさず、いろんなことを楽しみに変えられる人でした。
自分の身内をこう言うのもなんですが、
主人が「こんないい人に今まで出会ったことがない」と言っていたくらいでした。
義母も「仏さんのような人」と言っていました。
貧乏農家に生まれ、12人兄弟の8男。
ひとつのりんごを兄弟で分け合うような暮らし。
尋常小学校を卒業すると、親が奉公先を決めていました。
奉公があけると次の奉公先へ。
今では想像できないような苦労の日々だったようです。
晩年は、遊べなかった若い頃の日々を取り返すように、
いろんな趣味を楽しんでいました。
グランドゴルフ、カラオケ、囲碁、写真、旅行・・・
それぞれの仲間とよく出かけていました。
その日も、グランドゴルフをするために、近くのグランドに向かう
父を玄関で見送りました。
いつもの光景でした。
その後、私は、その頃通っていたテニススクールへ。
私がテニスをしている最中に、父はグランドで倒れました。
幸いにも仲間が側にいたので、救急車で搬送される時も父に付き添ってくれました。
テニスが終わり、やっと私がその事態を知った時には、
すでに、最初の病院から別の遠くの病院に搬送されている時でした。
母を連れて病院に行こうと、一旦、家に戻りましたが
母はいませんでした。
留守番をしていた母は、最初の一報を受けた時に、「今から行きます」と
慌てて外に飛び出してしまったようです。
認知症の母が行ったこともない病院に辿りつけるわけもなく
(歩いていける距離ではない)そのまま行方不明になってしまいました。
母のことが心配でしたが、父の元へ急がなければならないので、
家に鍵を閉めず、お隣さんに母と学校に行っているケン太のことをお願いして
ひとりで病院に向かいました。
車で約40分の離れた病院。
やっと辿りつき、診察室に通されると、
すでに父が息を引き取ったことを知らされ、父と対面しました。
倒れた時にすでに意識がなく、搬送される救急車の中で
最期を迎えたとのことでした。
ついにその時がきてしまった・・・
先生にお礼を言い、涙を流しながら、
まだ温かい父の頬に手をあて頭をそっと撫でてあげました。
その後、病院に葬儀屋さんの手配をお願いして、葬儀屋さんが到着するまで、
警察に連絡して母のことお願いしたり、親戚に連絡を入れたり、
お隣さんに様子を伺ったり・・・
出張している主人とまったく連絡がつかず・・・
母も見つからないまま・・・
葬儀屋さんと一緒に自宅に戻り、父を安置し、
わたしひとりで葬儀の打ち合わせをしました。
通夜や告別式までに母が見つからなかったらどうなるんだろう・・・
と思いながら。
母は夜の10時過ぎに見つかりました。
民家の庭に迷いこんでしまったため住民に通報され、保護されたのです。
本来ならば迎えに行かなければならないのですが、事情を話すと
パトカーで家まで連れてきてくれました。
すでに、父の死後10時間近く経っていたと思います。
祭壇の前で、白い布を被された父の姿を呆然と見つめ、
何が起きたか事情が呑みこめない母。
そんな母の姿にケン太が涙をこぼしていました。
その後も、父の姿に混乱して、
「お父さん、なんでここで寝ているの?」
「死んだの?」って何度も何度も聞いてきた母。
「こんな冷たい物置いて、かわいそう!」と父の胸の上の保冷剤を取ってしまったり。
葬儀が終わった後も、遺影を見ては
「これ、お父さんの写真?」
「なんでここに写真があるの?」
「お父さんって死んだの?」といつも混乱を起こしてしまう母。
あまりにもかわいそうで、しばらく遺影を隠していました。
「お父さんゴメンネ。でも、わかってくれるよね」と父に謝りを入れて・・・
永年連れ添った夫の死もわからなくなってしまうなんて
本当に哀れに思います。
でも、わからないから、落ち込んでしまうこともなかったので、
かえってよかったのかなと思うようにしています。
父の葬儀の後、
「娘さん、テニスやっていたんだってね」と聞えよがしに言う人がいました。
あの日、父が倒れたのに娘は呑気にテニスをやっていた・・・
と呆れているのでしょうか。
確かにあの日、家にいれば、最初の一報を私が聞いて
すぐ駆けつければ、最初に運ばれた病院に間に合ったかもしれません。
その後、別の病院に搬送される時、救急車の中で
父の死に立ち会うこともできたかもしれません。
でも、私は病に伏している父を置いて、テニスをしに行ったわけではありません。
父はいつもと変わらず家を出て行きました。
だから私もテニスに向かいました。
その後に起きたことで、誰にも予想できなかったことです。
仕方のないことです。
私はテニスに行ったことについて後悔などはしていませんでした。
そのことをどう受け止めるかは、その人それぞれでいいはず。
当事者でもないのに、勝手なことを言う人がいるものだなと思いました。
確かに父の死の瞬間に立ち会えませんでした。
でも、すでに倒れた時に意識はなく、私がすぐ駆けつけても
もう言葉を交わすことなどできなかったのです。
父が倒れて、息を引き取るまでの緊迫した様子は何も知りません。
何も思い出せるものがないのです。
思い出せるのは、すでに亡くなっている安らかな父の顔だけ。
出て行く前の元気な姿だけ。
父が、残された者の脳裏にそれだけを残すようにしてくれたのかもしれません。
悲しい父の姿よりも、元気な姿だけを思い出せるように・・・
どこまでも優しい父です。
遺影の父は今日も穏やかな笑顔です。
今も天国でいろんなことをして楽しんでいるかな?
隣で微笑んでいる母と何時までも仲良くね。
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父が亡くなった時のことを書こうと思います。
父は平成19年の11月に、動脈瘤破裂で倒れ、
その日のうちに帰らぬ人になりました。
動脈瘤があることはわかっていたのですが、
高齢だったので手術を断念。
2年持つか持たないか・・・と医師に宣告されていましたが、
持ったのは1年半でした。
父も私も覚悟をしていた死でした。
86年の生涯でした。
父は社交的で、人当りもよく誰からも好かれる人でした。
外と家と・・・その姿にまったく変わりがなく、いつも笑顔の穏やかな人でした。
愚痴はいっさいこぼさず、いろんなことを楽しみに変えられる人でした。
自分の身内をこう言うのもなんですが、
主人が「こんないい人に今まで出会ったことがない」と言っていたくらいでした。
義母も「仏さんのような人」と言っていました。
貧乏農家に生まれ、12人兄弟の8男。
ひとつのりんごを兄弟で分け合うような暮らし。
尋常小学校を卒業すると、親が奉公先を決めていました。
奉公があけると次の奉公先へ。
今では想像できないような苦労の日々だったようです。
晩年は、遊べなかった若い頃の日々を取り返すように、
いろんな趣味を楽しんでいました。
グランドゴルフ、カラオケ、囲碁、写真、旅行・・・
それぞれの仲間とよく出かけていました。
その日も、グランドゴルフをするために、近くのグランドに向かう
父を玄関で見送りました。
いつもの光景でした。
その後、私は、その頃通っていたテニススクールへ。
私がテニスをしている最中に、父はグランドで倒れました。
幸いにも仲間が側にいたので、救急車で搬送される時も父に付き添ってくれました。
テニスが終わり、やっと私がその事態を知った時には、
すでに、最初の病院から別の遠くの病院に搬送されている時でした。
母を連れて病院に行こうと、一旦、家に戻りましたが
母はいませんでした。
留守番をしていた母は、最初の一報を受けた時に、「今から行きます」と
慌てて外に飛び出してしまったようです。
認知症の母が行ったこともない病院に辿りつけるわけもなく
(歩いていける距離ではない)そのまま行方不明になってしまいました。
母のことが心配でしたが、父の元へ急がなければならないので、
家に鍵を閉めず、お隣さんに母と学校に行っているケン太のことをお願いして
ひとりで病院に向かいました。
車で約40分の離れた病院。
やっと辿りつき、診察室に通されると、
すでに父が息を引き取ったことを知らされ、父と対面しました。
倒れた時にすでに意識がなく、搬送される救急車の中で
最期を迎えたとのことでした。
ついにその時がきてしまった・・・
先生にお礼を言い、涙を流しながら、
まだ温かい父の頬に手をあて頭をそっと撫でてあげました。
その後、病院に葬儀屋さんの手配をお願いして、葬儀屋さんが到着するまで、
警察に連絡して母のことお願いしたり、親戚に連絡を入れたり、
お隣さんに様子を伺ったり・・・
出張している主人とまったく連絡がつかず・・・
母も見つからないまま・・・
葬儀屋さんと一緒に自宅に戻り、父を安置し、
わたしひとりで葬儀の打ち合わせをしました。
通夜や告別式までに母が見つからなかったらどうなるんだろう・・・
と思いながら。
母は夜の10時過ぎに見つかりました。
民家の庭に迷いこんでしまったため住民に通報され、保護されたのです。
本来ならば迎えに行かなければならないのですが、事情を話すと
パトカーで家まで連れてきてくれました。
すでに、父の死後10時間近く経っていたと思います。
祭壇の前で、白い布を被された父の姿を呆然と見つめ、
何が起きたか事情が呑みこめない母。
そんな母の姿にケン太が涙をこぼしていました。
その後も、父の姿に混乱して、
「お父さん、なんでここで寝ているの?」
「死んだの?」って何度も何度も聞いてきた母。
「こんな冷たい物置いて、かわいそう!」と父の胸の上の保冷剤を取ってしまったり。
葬儀が終わった後も、遺影を見ては
「これ、お父さんの写真?」
「なんでここに写真があるの?」
「お父さんって死んだの?」といつも混乱を起こしてしまう母。
あまりにもかわいそうで、しばらく遺影を隠していました。
「お父さんゴメンネ。でも、わかってくれるよね」と父に謝りを入れて・・・
永年連れ添った夫の死もわからなくなってしまうなんて
本当に哀れに思います。
でも、わからないから、落ち込んでしまうこともなかったので、
かえってよかったのかなと思うようにしています。
父の葬儀の後、
「娘さん、テニスやっていたんだってね」と聞えよがしに言う人がいました。
あの日、父が倒れたのに娘は呑気にテニスをやっていた・・・
と呆れているのでしょうか。
確かにあの日、家にいれば、最初の一報を私が聞いて
すぐ駆けつければ、最初に運ばれた病院に間に合ったかもしれません。
その後、別の病院に搬送される時、救急車の中で
父の死に立ち会うこともできたかもしれません。
でも、私は病に伏している父を置いて、テニスをしに行ったわけではありません。
父はいつもと変わらず家を出て行きました。
だから私もテニスに向かいました。
その後に起きたことで、誰にも予想できなかったことです。
仕方のないことです。
私はテニスに行ったことについて後悔などはしていませんでした。
そのことをどう受け止めるかは、その人それぞれでいいはず。
当事者でもないのに、勝手なことを言う人がいるものだなと思いました。
確かに父の死の瞬間に立ち会えませんでした。
でも、すでに倒れた時に意識はなく、私がすぐ駆けつけても
もう言葉を交わすことなどできなかったのです。
父が倒れて、息を引き取るまでの緊迫した様子は何も知りません。
何も思い出せるものがないのです。
思い出せるのは、すでに亡くなっている安らかな父の顔だけ。
出て行く前の元気な姿だけ。
父が、残された者の脳裏にそれだけを残すようにしてくれたのかもしれません。
悲しい父の姿よりも、元気な姿だけを思い出せるように・・・
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