こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ
中山道鳥居峠(とりいとうげ)を取り上げてみたいと思います
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/25/e06c019d648218055a44cb5d3a0fdf0c.jpg)
中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、
長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠
標高 1,197m
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/45/206c2facfd3f5a63d34f62ae8222a55b.jpg)
新鳥居トンネルを木祖村藪原方面に抜けて
明治新道を歴史ある鳥居峠へ向かいます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/86/31baf428e2ab88b6202e97770bb5f50d.jpg)
ナビ地図では林道が途中で行き止りとなっていましたが、
古の明治新道が鳥居峠迄伸びているように思え
弟の運転で悪路をひたすら先に進む事にしました(弟は度胸が座っています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/02/5a5d8800e09ff39b13f2306c2c096ec3.jpg)
古の車道を200m進むと中山道遊歩道が交差
中山道の古道が見えます 中山道石の道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/b8/7be864782ff3f37df5ab59400ea0418c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/4e/271c1ae1f026d30cbe80a4097023c319.jpg)
この先は中山道遊歩道
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/bf/eb326cecf4a58f94d140cda84a7f1225.jpg)
鳥居峠とありますが残り1.4km先に本当の鳥居峠があるようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/d7/df5b81bd785625450e950f2f1fb013cd.jpg)
鳥居峠について記されている案内板周辺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/b9/7c2f5121a5972c6292e3893f8cf51881.jpg)
鳥居峠付近まで来ました
路面が至る所で凍結している箇所がありました
1890年(明治23年)の長野県による七道開削事業により初めて
車道として開通した明治新道(馬車が通れる道)
この先は奈良井宿までつながっているようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/85/ae2540651043e3fb99a81623ecd54f2d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/94/2222d4f922860eb981018777cd96e16f.jpg)
古の中山道道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b6/3b57b79d9455945829dd042fef88a40e.jpg)
鳥居峠は右上にあるようです
弟が鳥居峠の場所を探してくれました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/a3/d25905e7a16d5b86d974512186c11dae.jpg)
中山道遊歩道の案内先に
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑があるようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/4a/d433d0e1df44ae6c0e088eb22b832ddc.jpg)
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑
天子が行幸の途中、一時乗り物をとめることを意味しています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/09/a7a2f1ff0d7ec1c45e3128cd906ccaf1.jpg)
古の中山道が残っています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/28/6e73c955079e7a83242fcaa9ebc7c02c.jpg)
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑の先に鳥居峠
標高 1,197m
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/9a/2c8aad4fb480d1501f26cd4602989750.jpg)
鳥居峠
713年(和銅6年)、美濃国と信濃国の境で
東山道の神坂峠(岐阜県中津川市・長野県阿智村)が
危険な為に新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが
「岐蘇(吉蘇)木曽路」である
吉蘇路(きそじ)の鳥居峠は、かつて「県坂」(あがたざか)と呼ばれていた
木曾谷地方の信濃国編入以前は、
峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(信濃川水系)と、
西側を南に向かって流れる木曽川(木曽川水系)との
中央分水嶺と境峠(長野県道26号奈川木祖線)
・木曽峠・清内路峠・鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境であった
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた
平安時代後期、以仁王の令旨を受けた
源義仲(木曽義仲)は平家追討の旗揚げをし、
八幡宮にて挙兵の奉納をした後、県坂(現在の鳥居峠)
御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り
「我が事ならば、この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/4a/a7a2deed0d3358a8c56b8958fc949c96.jpg)
奈良井宿側より眺める鳥居峠
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/dd/80a076a802663d2c67d38947077197d8.jpg)
「鳥居峠の合戦」は伝承が非常に多く
一度の合戦では無理があるので、
ここでは西筑摩郡史・岐蘇古今沿革志等の二度の合戦にて追記する
1549年(天文18年)4月、甘利左衛門を大将とする
武田晴信(後の武田信玄)の軍勢と木曽義康の軍が鳥居峠で衝突
武田軍は敗れ、兵を引く
1555年(天文24年)3月、武田晴信は本隊を分け、
一隊は鳥居峠、もう一隊は奈良井川支流の陣ヶ沢、
別動隊を萩曽(現在の木祖村小木曽)とする3隊で木曽軍を攻める
木曽義康は鳥居峠を下り敗走し、
小沢川の合戦、王滝城(崩越城・鞍馬城)の合戦に負け、
篭城の末に武田の軍門に下る
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/f0/1f6af62a1af6ec5e926edd52e8d17229.jpg)
鳥居峠(とりいとうげ)より奈良井宿方面の峠道を眺める
松尾芭蕉は貞享元年の野ざらし紀行と
元祿元年の更科紀行の2度、鳥居峠を越え、
「木曽の栃浮き世の人の土産かな」、
「雲雀よりうえにさすらふ嶺かな」の句を残した
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/a1/f4ecf85b7127a91b70017cfbf06eb0b0.jpg)
鳥居峠付近より眺める御嶽山方面の山並
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ
中山道鳥居峠(とりいとうげ)を取り上げてみたいと思います
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/25/e06c019d648218055a44cb5d3a0fdf0c.jpg)
中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、
長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠
標高 1,197m
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/45/206c2facfd3f5a63d34f62ae8222a55b.jpg)
新鳥居トンネルを木祖村藪原方面に抜けて
明治新道を歴史ある鳥居峠へ向かいます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/86/31baf428e2ab88b6202e97770bb5f50d.jpg)
ナビ地図では林道が途中で行き止りとなっていましたが、
古の明治新道が鳥居峠迄伸びているように思え
弟の運転で悪路をひたすら先に進む事にしました(弟は度胸が座っています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/02/5a5d8800e09ff39b13f2306c2c096ec3.jpg)
古の車道を200m進むと中山道遊歩道が交差
中山道の古道が見えます 中山道石の道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/b8/7be864782ff3f37df5ab59400ea0418c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/4e/271c1ae1f026d30cbe80a4097023c319.jpg)
この先は中山道遊歩道
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/bf/eb326cecf4a58f94d140cda84a7f1225.jpg)
鳥居峠とありますが残り1.4km先に本当の鳥居峠があるようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/d7/df5b81bd785625450e950f2f1fb013cd.jpg)
鳥居峠について記されている案内板周辺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/b9/7c2f5121a5972c6292e3893f8cf51881.jpg)
鳥居峠付近まで来ました
路面が至る所で凍結している箇所がありました
1890年(明治23年)の長野県による七道開削事業により初めて
車道として開通した明治新道(馬車が通れる道)
この先は奈良井宿までつながっているようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/85/ae2540651043e3fb99a81623ecd54f2d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/94/2222d4f922860eb981018777cd96e16f.jpg)
古の中山道道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b6/3b57b79d9455945829dd042fef88a40e.jpg)
鳥居峠は右上にあるようです
弟が鳥居峠の場所を探してくれました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/a3/d25905e7a16d5b86d974512186c11dae.jpg)
中山道遊歩道の案内先に
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑があるようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/4a/d433d0e1df44ae6c0e088eb22b832ddc.jpg)
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑
天子が行幸の途中、一時乗り物をとめることを意味しています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/09/a7a2f1ff0d7ec1c45e3128cd906ccaf1.jpg)
古の中山道が残っています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/28/6e73c955079e7a83242fcaa9ebc7c02c.jpg)
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑の先に鳥居峠
標高 1,197m
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/9a/2c8aad4fb480d1501f26cd4602989750.jpg)
鳥居峠
713年(和銅6年)、美濃国と信濃国の境で
東山道の神坂峠(岐阜県中津川市・長野県阿智村)が
危険な為に新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが
「岐蘇(吉蘇)木曽路」である
吉蘇路(きそじ)の鳥居峠は、かつて「県坂」(あがたざか)と呼ばれていた
木曾谷地方の信濃国編入以前は、
峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(信濃川水系)と、
西側を南に向かって流れる木曽川(木曽川水系)との
中央分水嶺と境峠(長野県道26号奈川木祖線)
・木曽峠・清内路峠・鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境であった
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた
平安時代後期、以仁王の令旨を受けた
源義仲(木曽義仲)は平家追討の旗揚げをし、
八幡宮にて挙兵の奉納をした後、県坂(現在の鳥居峠)
御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り
「我が事ならば、この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/4a/a7a2deed0d3358a8c56b8958fc949c96.jpg)
奈良井宿側より眺める鳥居峠
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/dd/80a076a802663d2c67d38947077197d8.jpg)
「鳥居峠の合戦」は伝承が非常に多く
一度の合戦では無理があるので、
ここでは西筑摩郡史・岐蘇古今沿革志等の二度の合戦にて追記する
1549年(天文18年)4月、甘利左衛門を大将とする
武田晴信(後の武田信玄)の軍勢と木曽義康の軍が鳥居峠で衝突
武田軍は敗れ、兵を引く
1555年(天文24年)3月、武田晴信は本隊を分け、
一隊は鳥居峠、もう一隊は奈良井川支流の陣ヶ沢、
別動隊を萩曽(現在の木祖村小木曽)とする3隊で木曽軍を攻める
木曽義康は鳥居峠を下り敗走し、
小沢川の合戦、王滝城(崩越城・鞍馬城)の合戦に負け、
篭城の末に武田の軍門に下る
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/f0/1f6af62a1af6ec5e926edd52e8d17229.jpg)
鳥居峠(とりいとうげ)より奈良井宿方面の峠道を眺める
松尾芭蕉は貞享元年の野ざらし紀行と
元祿元年の更科紀行の2度、鳥居峠を越え、
「木曽の栃浮き世の人の土産かな」、
「雲雀よりうえにさすらふ嶺かな」の句を残した
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/a1/f4ecf85b7127a91b70017cfbf06eb0b0.jpg)
鳥居峠付近より眺める御嶽山方面の山並
最後まで御覧頂きありがとうございます
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