こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は新潟県と福島県に通じる豪雪地帯の峠道
六十里越(ろくじゅうりごえ)を掲載してみたいと思います
六十里越峠開道記念碑
国道252号を新潟県魚沼市方面へ走行していくと
六十里越トンネル手前に六十里越峠開道記念碑がある
昭和48年9月開通、あの田中角栄総理大臣の時代です
六十里越(ろくじゅうりごえ)は、
魚沼市大白川と、只見町大字田子倉の間に所在する峠で、
最高点の標高は863 m
六十里越峠開道記念碑付近からの景観
六十里越峠開道記念碑付近から眺める田子倉湖絶景
六十里越隧道へつながる豪雪地帯の峠道
六十里越峠開道記念碑付近から眺める浅草岳(あさくさだけ)
浅草岳は、越後山脈に位置し、新潟県魚沼市、福島県南会津郡只見町にまたがる
第四紀火山 標高1,585.5m 一等三角点「浅草岳」設置
越後三山只見国定公園に属する
六十里越峠開道記念碑付近からの景観
六十里越峠開道記念碑
六十里越の名の由来は、実際の距離は六里(約24 km)でありながら、
険しさゆえに一里が十里にも感じられるほど余りに急峻かつ長大な山道であること、
あるいは中世まで東日本においては一里は500 mであったことなど、諸説ある
古くから新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道の一つであるものの、
国内有数の豪雪地帯に位置し、
かつ雪崩や落石の危険性が高い箇所を経由することから
通年では通行できない難所であった
昭和時代に入ってから道路改築と鉄道建設が進められ、
まず1971年(昭和46年)に日本国有鉄道(国鉄)只見線
(現在は東日本旅客鉄道〈JR東日本〉が継承)の、
さらに1973年(昭和48年)9月には国道252号の、
それぞれ県境区間が開業および開通した
いずれも区間内にはトンネルやスノーシェッドが連続して設けられている
六十里越峠開道記念碑付近からの絶景
越後山脈の山並が見える
新潟県側より眺める六十里越トンネル
六十里越隧道の標記
新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道
この両県境の区間には2006年(平成18年)11月、
六十里越 雪わり街道という愛称が命名されている
六十里越 の歴史
戦国時代末期から江戸時代にかけて、会津と越後の結びつきは深い
戦国時代に“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信から家督を継いだ
上杉景勝が会津に移封し、高田藩初代(1614年)藩主である
松平忠輝は徳川家康の六男で、
会津松平藩祖である保科正之の叔父にあたる
会津藩と高田藩の交流が生まれるのは自然で、
険峻でありながら「六十里越」を経る街道の往来が続いたようだ
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は新潟県と福島県に通じる豪雪地帯の峠道
六十里越(ろくじゅうりごえ)を掲載してみたいと思います
六十里越峠開道記念碑
国道252号を新潟県魚沼市方面へ走行していくと
六十里越トンネル手前に六十里越峠開道記念碑がある
昭和48年9月開通、あの田中角栄総理大臣の時代です
六十里越(ろくじゅうりごえ)は、
魚沼市大白川と、只見町大字田子倉の間に所在する峠で、
最高点の標高は863 m
六十里越峠開道記念碑付近からの景観
六十里越峠開道記念碑付近から眺める田子倉湖絶景
六十里越隧道へつながる豪雪地帯の峠道
六十里越峠開道記念碑付近から眺める浅草岳(あさくさだけ)
浅草岳は、越後山脈に位置し、新潟県魚沼市、福島県南会津郡只見町にまたがる
第四紀火山 標高1,585.5m 一等三角点「浅草岳」設置
越後三山只見国定公園に属する
六十里越峠開道記念碑付近からの景観
六十里越峠開道記念碑
六十里越の名の由来は、実際の距離は六里(約24 km)でありながら、
険しさゆえに一里が十里にも感じられるほど余りに急峻かつ長大な山道であること、
あるいは中世まで東日本においては一里は500 mであったことなど、諸説ある
古くから新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道の一つであるものの、
国内有数の豪雪地帯に位置し、
かつ雪崩や落石の危険性が高い箇所を経由することから
通年では通行できない難所であった
昭和時代に入ってから道路改築と鉄道建設が進められ、
まず1971年(昭和46年)に日本国有鉄道(国鉄)只見線
(現在は東日本旅客鉄道〈JR東日本〉が継承)の、
さらに1973年(昭和48年)9月には国道252号の、
それぞれ県境区間が開業および開通した
いずれも区間内にはトンネルやスノーシェッドが連続して設けられている
六十里越峠開道記念碑付近からの絶景
越後山脈の山並が見える
新潟県側より眺める六十里越トンネル
六十里越隧道の標記
新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道
この両県境の区間には2006年(平成18年)11月、
六十里越 雪わり街道という愛称が命名されている
六十里越 の歴史
戦国時代末期から江戸時代にかけて、会津と越後の結びつきは深い
戦国時代に“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信から家督を継いだ
上杉景勝が会津に移封し、高田藩初代(1614年)藩主である
松平忠輝は徳川家康の六男で、
会津松平藩祖である保科正之の叔父にあたる
会津藩と高田藩の交流が生まれるのは自然で、
険峻でありながら「六十里越」を経る街道の往来が続いたようだ
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