★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

コネなし、金なし、能力なし。50を過ぎて、単身ハノイで会社を作り10年目。毎日「こんなふうに」すごしています。

ベトナムハノイの「ようやく年明け通常勤務」

2024-02-19 10:22:04 | ベトナム・ハノイ

 今年のテト元日は2月10日、土曜日ということも有り結局は次週いっぱい正月気分で

会社(特に公務員や国の会社)はまともに機能していなかった。

自分のアパートの近くの有名な「お寺」(Chua Ha)などでは昨日の日曜日も「参拝客」でいっぱいで、

歩道に作られた「即席駐車場(有料)」で歩行者が迷惑を被っていた。

 ようやく本日から「通常の勤務」になったようだ。

この週末、いつものように「掃除洗濯片付け」相棒ミッの散歩、そして週一回の「スイミング」と

意識して「いつも通りのルーティンをこなした」日本の年末年始から始まり、ベトナムのテトの年末年始

公私ともに「いろんなことがあり」意気消沈、疲労、精神的な重圧に苦しんでいた(居る)

なんとか「通常の状況に戻すべく」いつもの週末に戻したつもりだ。

(当たり前の普通の生活とは簡単ではない事を痛感した、普通の生活ができるのは幸せな事である)

 未だしばらくは「この普通ではない状況が続くのだろうが?」

自分で選んだ「ベトナム起業、ベトナム在住」である。今しばらく、「すっきりするまで」

何とか「肉体的にも精神的」にも「きびしい状況は続く」にしろ

頑張らなくては。

 3月には「知り合いの若者(18~21歳)」が3名、自分を頼ってベトナムに来る(観光)

彼らにとっては「就職前、そして進学前の記念すべき旅行らしい」

準備して「良い思い出を作ってあげたいものだ」

ようやく「テト気分も明けて」いつものように誰もいないオフィスで「爆睡している相棒ミッ」を見ながら

そんなことを考えた。

 

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ベトナムハノイの「ミッとの再会」

2024-02-06 10:16:43 | ベトナム・ハノイ

 昨晩「相棒ミッ」と17日ぶりに「再会」をはたした。

「自分がよんどころない事情」で日本に行かなければならず、その間

「現在でもミッの飼い主である6歳友人宅」にあずけることになった。

しかしこのお宅も「忙しいため」6歳友人の母上の兄の家に預けられたのである。

場所は「ハノイではなくPHU TO省のVIET TI]と言うところ。ハノイから60kmぐらい離れた街だ。

そこに行くのも帰るのも大変だったろうが?

 幸いなことに「私を忘れてはいなかった」ちょうど「6歳友人宅」で母上の妹さんの誕生日会が行われ

招かれついでに「ミッを迎えに行った」・・・私を見るなり「飛びついてきて」その後は「片時もそばを離れなかった」

きっと、おいていかれた「不安」があったのだろう? 一緒に「パーティーの鍋料理」を頂き「バースディケーキ」まで

ごちそうになった。子供たちと、ミッも一緒に散歩に行き、お開きになった。大変おいしい「鍋」だった。

「ごちそうさまでした」

 昨晩はそれからが大変だった「17日間、田舎の大自然でのびのびと過ごしたのだろう」ミッは元は白い犬だったが?

昨日は「浅黒く、小汚い野良犬」のようになっていた。帰宅早々「シャワータイムだ、念入りに1時間ほどかけてきれいにした」

それでもまだ「浅黒さが抜けず、預ける前には皮膚病」もあっため本日「スパと、健康診断」を予約した。

帰宅して「長時間のシャワー」の後は、いつもの居場所に移動し「爆睡」してしまった。よほど「ストレス」と「疲労」が

溜まっていたのだろう? 未だやり残しの作業があったので「ミッ」を先にベッドに寝かしつけた。普通なら私が寝ないと

寝付かないのだが、昨晩は「すんなり爆睡」した。その後私もベッドに入り久しぶりにベッドを共にした。

17日間の「外出」で「トイレのしつけ」が大丈夫かと思ったが、ちゃんと「指定場所にしており」安心した。

ミッにとっても「夢のような17日間だったのだろう」自分にとっても同じだ。

 時はテト前、「6歳友人」一家は今日故郷へ帰るようだ。【在宅勤務】の弊社は「会社始まって以来初めて」

テトに「会社を閉める」(この時期新暦の日本会社は普通に仕事を出してくるため、今までは出社して対応していた)

仕事は有るため「管理者が自宅でデータを受託し、各セクションで仕事を振り分け、テト期間中でも在宅で行える

体制を作った」 ご苦労な事である。自分も「一応自宅でスタンバイはしているが? もうあまり質問も来なくなった。

穏やかな「静かなテト」になりそうである。

17日間だったが「いろんな事情から、もう二度と会えないかもしれない状況も考えられた」今回の状況。

「再びミッと会うことが出来て、本当に良かった」そう思った。テト期間の「この1週間余り」

再び元の「ルーティーンに戻し、楽しく、穏やかに過ごそうと思う」

テト前出社最終日(仕事納めの今日)いつも通り「誰よりも早くミッと出社し」いつものソイを食べながら

日本から持ってきた「緑茶のティーバッグ」を飲みながら「そんなことを考えた」

今日も疲れがたまっているのか、会社のデスク上で爆睡の「ミッ」

もうすぐテト、自分のアパートのロビーにもこのように「テトの飾り付け」がセットされた

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ベトナムハノイの「父の思い出【ジンライム】」

2024-02-05 10:59:48 | ベトナム・ハノイ

 今回の「日本滞在」で大事に買って持ってきたものがある。「サントリーのライム」である。

そう「ジンライム」を作るときの「ライム」である。

 自分が小さい(小学校低学年だったろうか?)時、父がよく「このライムでジンライム」を作り飲んでいたのだ

「ライム」には「アルコール分」は無いため物珍しいこのライムを「なめさせてもらった」のだ、父はこの時代にしては「ハイカラ」だった。

大晦日になると「あの頃には高価だったジョニーウオーカーを買ってきなさい」とか「オートチェンジャー(LP版なら

15枚、SP版なら20枚近くをセッティングでき、連続演奏だ出来る)のステレオ」などを購入し、「タンゴ(ラ、クンパラーシータ)」

を流し、母と踊っていたことを思い出す。(母はトムジョーンズのラブミートゥナイトが好きだった)そんな環境の中

、現在自分が鮮明に覚えているのは

「このサントリーライム」の香りと味だったのだ。

恐らく50年ぶり以上ぶりに「思い出しだした味」だった。どこにも売っていなかった「ライム」をアマゾンで見つけ

購入した。ジンは昨日「アパートの地下のショッピングセンター」で購入し

50年以上ぶりの「ジンライム」を飲んだ。・・・・・

「味覚と嗅覚」とは「50年以上を経ても記憶しているものである」 懐かしい「父の記憶がよみがえった」

まさか50年以上後、ベトナムハノイの地で「ジンライムを飲みながら父を思い出すことなど、知る由もなかった」

つくづく人生とは数奇なものである。

これがそのライムである。「ビンの形状は少々変わった気がするが?香りと味は、記憶通りだった」

50年以上後のベトナムハノイで「初老になった自分」がこうして「あの頃を想いジンライム」を飲むとは???

人生は「面白いものである」

日本から持参した「あり合わせのアテ」をさかなに「ジンライムを飲んでみた」

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ベトナムハノイの「ミッのいない週末」

2024-02-05 10:36:30 | ベトナム・ハノイ

 1月31日に帰国したが「相棒ミッ」には未だ会えないでいる。

理由は「元の飼い主である6歳友人の家族」は色々と多忙で、母上のお兄さんの家に預けられているのだ。

ここの家庭には「ミンちゃん」と言うミッの仲良しの「犬」が居るためであり、環境が整っているのだ。

しかし「現在お兄さんのお店はPHU TOのベッチー」と言うところにあり、ミッもそこに居るためだ。

「ブンカーのお店をやっていることから」時間を見つけてハノイに来なければならず、それが「本日になってしまった」

今日は「母上の妹さん」の誕生日のようで「先程誕生日パーティーに招待」された。どうやら「お兄さんたちも参加」するため

ようやく「ミッ」もハノイに「帰れるようなのだ」 日本滞在中も「思い出すと気になるので、極力思い出さないように

していた」帰国後も同じだったが、この週末はやっぱり「ミッの居ない週末」は「ヒマで空虚な週末だった」

ミッが居ないと「やること」(散歩や部屋の掃除や食事の準備など)がなく、怠惰なしゅうまつになってしまう。

 そこで一念発起し「少々寒かったが、泳ぎに行ってきた」プールの水は「思ったよりも冷たく」めげそうになったが

少し泳ぐと「むしろ適温に感じた」 ベトナム人にとっては「寒いらしく」自分が泳いでいた90分の間

誰も泳ぐことは無く「貸し切り状態だった」快適な「水泳」だった。いつものルーティーンの40往復をこなし

部屋に帰った。しかしそれからはやることなく「水泳の疲れもあり」YOUTUBEを見ながらうとうとした。

やっぱり「ミッの居ない週末」はつまらない。

日曜日のお昼時、日本ならたくさんの人が居そうな「ジムのプールだが?」

泳いでいるのは「自分一人だった」 ついでに言うと「監視員も居なかった???」

もし何かあったらどうするのだろうか? ベトナムの安全意識の欠如は「少々重症である」

(自分は元「日本関十字の救助員」だったので強くそう思う。いつ何時事故は起こるかもしれない。

一人も監視員の居ないプールなど日本には絶対存在しない。事故の起きる前に何とかしたほうが良い)

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ベトナムハノイの「忘年会」で思う事。

2024-02-05 09:50:39 | ベトナム・ハノイ

 2月7日(水)からカレンダー上は「テト休み」に入るベトナム。

昨日「初めて昼間(昼食を兼ねた)の忘年会を行った」

「コロナ禍~円安~日本の自動車産業の低迷」以来「在宅方策」をとった我が会社は

それなりに遠方からの通勤者もいるため「今回は昼間の忘年会になった」

年中ヒマな自分にとっては「特段問題はない」 社員がバイクでアパートに迎えに来てくれて

会場に向かった。もうハノイは「テト前の華やかな状態だった」道端の「テトの花(桃の枝、小さなミカンの木、等々」

「テト用品の屋台」がたくさん並び、いつもの年末の風景だ。

 そして宴会会場に着き、宴会が始まった。「すでに人数は25名足らずになった社員」で忘年会に出席するのは

聞くところによれば18名との事。全員出席したが、なぜか「椅子も料理も足らないようだ」

改めて見ると、「会社は女性が70%」しかも「この不況下残ったのは古株の優秀な社員たちだった」そして彼女らは

既に結婚し、多くがお子さんを授かっている。この子供たちで一番上は10歳になったという。そして気づけば

彼女らに多くは「子供を同行し、会社の忘年会は、さながら幼稚園と化していた」ベトナムの忘年会や社員旅行は

「気づくと、子供や旦那さんや奥さん、そして

時々は親戚や友達まで飛び入り参加していることが少なくない」 昨日の忘年会は「社員の子供たちがたくさん参加し」

気づけば「人数分の席や料理では全く足りず、テーブルを追加し、料理も追加したらしい」

まあ、楽しければそれでよい。ひとしきり飲み、食べ「改めて現在の会社状況を見れば」

*会社の主力である「女性陣の主力」はほとんどが「子持ち」になり、こうした「忘年会にもお子さんを同行する会社になった」

会場を走り回る子供たちを見ながら「会社がそれなりの間存続できたことが感慨深かった」

12年前、52歳で単身ハノイに来て、会社を作り、現在に至るが? ・・・自分が今、こんな状況に居ることが

「何か夢のようである」 心地よい感覚で「食べ飲み」楽しい忘年会だった。

ここまで来るのに「いろんなことがあった」が、未だ会社が存続できていることに「社員に感謝した一日であった」

さてテトまで「あと数日」・・・年末のあわただしさが続く。 

忘年会途中社員のお子さんたちが入交り、年代は違うが「仲良く遊んでいた」

わが社の「優秀な女性技術者たち」である。まぎれもなく「すでに日本の同種の技術者を凌駕する技術を

習得している」いずれは「ベトナムのモータリゼーションに貢献する人材たちだと信じている」

頼もしい「女性の立派な技術者たち」である。

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