★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

コネなし、金なし、能力なし。50を過ぎて、単身ハノイで会社を作り10年目。毎日「こんなふうに」すごしています。

ベトナムハノイの「良かったねBONちゃん」

2024-09-27 15:03:56 | ベトナム・ハノイ

 現在、自分が「一緒に暮らしている相棒ミッ」(ポメプー犬)は「6歳友人宅から預かっている犬だ」

その家では「ミッと同じくらいの猫(名前はBONちゃん)」を飼っているが、実は今年の初め

「6歳友人の母上の実家」(PHU TO省)に家族そろって里帰りしていた時に「BONちゃん」が行方不明になってしまった。

2か月たち、あきらめかけていた時にこのBONちゃんが突然「舞い戻ってきた」しかし「大きなけがをしており」

その状態は「足に大きなけが(骨が見えるほど)」をはじめ、体全体がけがだらけだった。・・・

「生きられるかどうか?」の瀬戸際だったが、「ハノイに連れ帰り、行きつけの動物病院」に助けを求めた。

「生きられるかどうか?わからないがとにかく救命措置が取られ」もちろん入院になった。

入院は一か月以上に渡り、「入院費も人間のそれと同等かそれ以上かかっていた」 しかし先月、無事に退院になったのだ。

もともと「先にBONちゃんがこの家の住人」となり、「ミッちゃん」はその後に「6歳友人の母上」が

「ミッちゃんが生まれてすぐに母親が交通事故で亡くなってしまった境遇」と

「かわいさに負けて連れてきてしまった犬なのだ」しかし「この家族は猫も居て、その上、母上は仕事、同居の妹さんも

来月に結婚を控え、とても「ミッちゃん」を「しつけたり、世話をできる状態ではなかった」仕方なく、時には「バスルームに

入れっぱなしになったり」ミッちゃんにとっても「良い環境ではなかった」それでも「猫のBONちゃんとポメプー犬ミッ」は

小さいころから「一緒で、犬と猫ではあったが、両方子供同士、じゃれあい、とても良い仲間だった」

その後、「ミッちゃん」は自分が預かり、そして「BONちゃんは行方不明・・・そして大けが・・・長期入院」

やっと退院し、昨日、「本当に久しぶりにBON ちゃんとミッちゃんが再会を果たした」

 2匹とも最初は「不思議な感じだったが?」 すぐに「昔の関係に気づき」久しぶりに「じゃれあい、楽しそうだった」

食事も済、私が「ミッちゃん」を連れて帰りそうになると・・・「なんと言うことだろう?以前は帰るときもリアクション」もなっ方BON

チャンが「後を追ってくる出なないか?」・・・「もっと遊ぼう?とでも言いたげに、ミッちゃんの後を何度も追ってきた」

「ミッちゃんも、それに気づいたようで、盛んに抱きかかえているのを振りほどき、BON ちゃんの元に行こうとしていた」

「再開した2匹、犬と猫であるのだが、その友情は【離れていたことで】一層強くなっていたようだった!」

その様子を「6歳友人家族、も自分も驚くとともに何とも温かい気持ちになり、見守っていた」

それでも「6歳友人は学校の英語の宿題中」、その後は早寝しないと「明日の通学に差し支えることも有り」

「ミッちゃんをなだめなだめ、帰宅した」

「犬と猫でも人間と同じ親を無くしたり、事故に遭ったり、いろんなことが起こる。」それでも

「2匹ともやはり小さなときの環境や、優しくされた感情は忘れないものだと感じた」

・・・「昨晩寝るときに」6歳友人の母上から「週末にミッちゃんを連れて、BONちゃんに会いに来てください」と

ラインが入っていた」・・・きっと「ミッちゃんも同じ気持ちで会いたいに違いない」

さて「週末、また犬と猫の楽しくほほえましい場面が見れrのかもしれない」

今日もいつもと同じく「自分と出勤して、ソファーの上で腹だし寝ているミッ」を見ながら

そんなことを考えた。

仲良くじゃれあう姿は見ていて「ほほえましい限りである」

決して双方「本気で怒ることなく」適度な距離間で遊び「楽しそうだった」

BONちゃんもミッもちょうど同じくらいのサイズで「遊ぶバランスも良い感じだ」

そんなことはつゆ知らず、「相棒ミッ」は「仕事の邪魔もせず」

自分の席の後ろにある「専用ソファー」で「惰眠をむさぼりつつ」目を向けると

こうして「様子をうかがっている」

ハノイに「一人きりで13年在住」今はこうして「相棒ミツ」と暮らしている。

「たかが犬なのだが?」もう「無くてはならないパートナーである」

(手もかかるが、それ以上に癒しを与えてくれる相棒である)

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ベトナムハノイの「古本市」

2024-09-27 12:25:54 | ベトナム・ハノイ

 自分の住んでいる「アパート」では時々「アパート前のスペースで「古本市」が開かれる。

簡易テントを並べ、その下で「たくさんの古本」(中には売れ残った新しそうな本もある)

が売られる。 ベトナム人は「概して読書好きだと思う」 町にも「古本街」があり

たくさんの古本が売られている。自分にとっては「ベトナム語オンリー」の品ぞろえなので

縁遠いが? 一度だけ「かの6歳友人のために」絵本らしきものを買ったことがある。

昨日「相棒ミツ」の散歩に出かけた際に「少し見てみた」・・・「ドラえもんやクレヨンしんちゃん」

など、ベトナムでの人気の漫画本は「結構売られていた」(もちろん、ベトナム語版)

「いくらくらいなんだろう?」と思い値札を探すが「ないようだ?」

売り場の所々が「襟分けされて、そこに看板に値段が書いてあった」

・・・?よく見ると、「なんと売値は、肉と同じ KG当たりの値段設定だった」

エリア分けされており「例えば、1kgあたり50,000VND」のように表示されていた。

今まで「古本屋も含め、ベトナム本屋には時々行くが、さすがに【重量での単価決めされた売り場】は初めてだった。

まだまだベトナムハノイ、いろんなことがありそうだ。

こうしてアパートの前で「時々古本市が開かれる」結構な賑わいである。

売値は「重量だった!」

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ベトナムハノイの「いよいよ秋」

2024-09-26 09:52:19 | ベトナム・ハノイ

 台風が過ぎ、長く雨模様だったハノイもこの3日は「良い天気が続いている」

ようやく日本でいう「秋晴れ」になった・

とはいっても最高温度は32℃から34℃、日本で言えば真夏日

しかし最低は22℃から24℃程度になってきた。

最近のハノイは「そよ風もふき」一年で一番良い季節になりつつある。

日本からの「観光であれば」この10月から3月ごろまでが一番良いと思う。

「ハノイはホーチミンのある南部とは異なり」緩やかだが「春夏秋冬」、四季がある。

従って「12月から1月にかけては最低気温が10℃以下になることも有る」

ベトナムはいつも暑いと思っていると「寒い思いをすることになる」11月になると

「街では20℃以上あっても、ダウンを着てバイクに乗る姿もちらほら見るようになる」

さすがに「群馬の一番北の市で育った自分」はそこまでではないが?

今より「寒かった子供時代は、60cmほど積もった雪をかき分けて通学したことを思い出す」

歳もとり、10年以上もハノイに暮らすと、体もそれに慣れてしまう。

冬に群馬に帰ろうものなら「寒さが一層身に染みる」ことになる。

年を取り感じたのは「やはり温かい土地の方が暮らすのは楽」と言うことだ。

夏の暑さはきついが? しかし近年、日本の暑さは尋常ではなく、むしろハノイの方が過ごしやすいくらいである。

今後、どうなってしまうのやら?・・・

ベトナムハノイも「一年で一番良い季節になろうとしている」

「観光に来るなら、来月からがベストシーズン」・・・いつもの通り「誰もいないオフィスに相棒ミッと出勤」し

窓を開けた時、「さわやかな涼風が吹いて」・・・そんなことを考えた。

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ベトナムハノイの「信じられない都市部の地価」

2024-09-24 17:29:36 | ベトナム・ハノイ

 ずいぶん前の事「ハノイのホータイに面した民家を事務所として紹介されたことがある」

そのころで$3000だった、もちろん借りれるはずもなくその後「いろんなことがあり」わが事務所は

都合5回の引っ越しを行うことになる。大体のパターンは「それなりに利益を出し、人数が増えると大きな事務所へ」

そして「いろんな理由で利益が出なくなると小さな事務所へ」・・・と言うわけで現在の事務所は「小さな事務所」である。

家賃も7万円から80万円までいろんな事務所に入った。現在は$1100である。しかしそんな事務所も

「在宅勤務を80%にして、もう一つの会社を同じ場所に貸している」「普段は閑散としている」

すべては円安が原因でこの状況になっている。

物価から見て「ハノイの不動産は高い」 昨日「ホーチミンのブイビエン通りの最高地価」についてのYOUTUBEを見て驚いた。

1㎡ ≒2200万円 1坪≒7000万円 だそうだ??? ハノイも「ホータイ湖畔の一等地は同程度」と言われている。

日本の「銀座の一等地」のような地価なのである。 どう見ても「異常な価格だ」

そのため「そこに入っている賃貸の価格も異常な価格になっているそうだ」 ホーチミンのマクドナルドが閉店したのも

それが原因ではないか?と言われている。 ベトナムの都市部の「土地や建物、賃貸の価格」は

ベトナムの「GDPや給与と比較して、異常に高いと感じる」

 浮き沈みのあった弊社も「現在の場所に落ち着き、人数も以前の半分・・・」 傍から見たら「しょぼい事務所」である。

これが「現在のわが社の今の実力なのだろう」。器や環境でなく「社員の待遇改善と会社の真の実力を上げることで」

きっと「良い会社になるのだろう」・・・・自分とはまるで関係ない「YOUTUBE]を見ながら「そんなことを考えた」

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ベトナムハノイの「幼なじみの中村君」

2024-09-20 16:06:57 | ベトナム・ハノイ

 昨日「ある用事で、幼なじみの中村君」にラインで連絡した。

中村君とは「小学校時代の友達」 彼の家業は「お米屋さん」だった。

 実は中学も高校も同じ学校だったが、小学校以降は「あまり交流は無かった」

 それが自分がベトナムに来てから・・・50年以上の時を経て、(「中村君イメージ通りの堅い雰囲気から」

「地元の市役所勤務、相当の上役になっていた」、)地元のN市から「ベトナム在住の自分に話が聞きたい」とオファーを受け

市役所に赴いたところ、「小学校の同級生中村君」そして、まさか彼が「固い役所に勤めるとは思っていなかった高校の同級生U君」

が出迎えてくれたのだった。 同級生で地元に残った人たちは「こうして堅い公務員に落ち着き、年次的にも

それなりの「役職になっていた」

その後、「中村君から」

久しぶりに彼から「ベトナムに出張する・・・」と連絡を受け、折角なので

ハノイからホーチミンまで会いに行ってきた。そんな形で付き合いが続いていた。

 そんな彼は知らない間に「中学校の同級生」と結婚し、家業だった「お米屋さん」は「ご両親の健康問題もあり、廃業していた」・・・

それからは「また長い時が過ぎていた」

 今回連絡したのは「ベトナムで行おうとしているあるプロジェクトに「県の支援とかが得られないかどうか?」の相談だった。

「いつもながらそれなりの人物とのリレーション」を約束してくれた。 すでに「市の役職も定年し、その後の雇用延長も辞し」

今はご夫婦で「家業のお米屋の後を改装し、喫茶店を開業するとの事」 

忙しい中、「自分の僭越なお願いを引き受けて頂いた」・・・ありがたい事である。

 思い出されるのは「小学校の時、中村君の家に遊びに行き、夕方おなかが空いた頃、中村君のお母さんが

中村君の家の前の「ラーメン屋に連れて行ってくれて、ラーメンを食べさせてくれたことである」

あの時代「そんなことはすごく珍しかった」・・・家に帰って母に話すと「恐縮して、中村君の家に電話をして

お礼を言っていたことを思い出す」・・・中村君の両親も自分の両親ももういない。

 時は流れ「中村君は【堅い市役所勤務を勤め上げ、これから喫茶店をオープンするという」

自分は「遠いベトナムハノイで、犬と暮らしながら未だに自分で始めた仕事をしている」・・・

人生とはつくづく「分からないものである」・・・

ベトナムハノイで、降り始めた「夕立」を見ながら「そんなことを考えた」

 

 

 

 

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