★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

個人で起業して「早14年目」普通にベトナムで「相棒ミッ(ポメプー犬)」と円安に苦しみながら、それでも何とか暮らしてます。

ベトナムハノイの「街路樹も負ける空気汚染」

2025-02-20 13:23:59 | ベトナム・ハノイ

 先日の発表で「とうとう世界で一番空気が汚いランキングでハノイは不名誉な1位になってしまった」

本日も「霧雨でもあるにかかわらず」 空はかすみ、朝起きてカーテンを開けた時の印象は

「汚染された空気が町全体をどんよりと包み込んでいる」印象である。

案の定「習慣になっているAir Visual で数位をチェックすると【158】(敏感な人の健康に良くない)だった。

(霧雨なので少しはましな数値だがいつもは200に近く時には超えるような数値【汚さ】なのだ。日本お数値は自分住んでいる町は【12】)

それでもハノイは「街路樹は多い」 大きな主要道路には「必ず街路樹」があり、裏の道にも「多くの街路樹」がある。

今のオフィスがある「主要道路から入った細い道にも街路樹がある」、そして先程「毎年数回の恒例行事」である

「街路樹の枝の選定を政府関連の役所から委託された業者」が行っていた。さすがに「街路樹の多いハノイ」

しかも「暑く、成長の早いハノイの街路樹の剪定作業は大変である」 昔は延びるに任せていたようだが?

さすがに「首都の景観維持」も有り、ここのところ「この街路樹の剪定作業」も恒例行事になっている。

(この作業も、裏の道に両側に駐車している違法駐車が邪魔になっている。むしろこのほうが大問題であると思うのだが?)

これだけ多い「街路樹」でも「ハノイの空気の汚さは浄化できないほどなのである」

*ベトナム政府は「本当になんとかしないと?」後々大きな代償を払うことになると思う。

(日本でいう四日市ぜんそくなどと同じ状況が既にハノイでも子供を中心に出ていると聞いている?)

オフィス前の街路樹の剪定作業、これだけ多い街路樹も「ハノイの空気汚染には「勝てない」

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ベトナムハノイの「食べない相棒ミッ」

2025-02-20 12:39:31 | ベトナム・ハノイ

 自分の記憶がある限り、子供のころから今まで10匹に満たないが「犬を飼った」

初めて飼った「スピッツのチャコ」「一番長く飼ったシェパードのケリー」・・・

独立してからは「雑種の【フー】、ダックスフンドとシーズーハーフの【リコ】、そして一番印象深い【ムック】

現在日本に居る【フー太郎】・・・そしてベトナムで「一緒に暮らしている【ミッ】」

それぞれ個性は有ったが? みんなよく食べた。「餌をやれば、よほどでない限り残したことはない」

一番「食欲旺盛だったのは【リコ】」果物のモモを丸呑みし種がつかえ「手術した」、床に置いてあった「酒粕」を全部食べて

「3日間千鳥足だった」、テーブルに例えば「カツ丼を置いて、お箸を台所に取りに行った間に、カツ丼を平らげてしまう」

「たくさんの伝説」を持っている。ここまでではないにしろ犬は「みんなよく食べた」・・・・

 しかし「現在のパートナー、トイプードルとポメラニアンのハーフであるミッは、・・・食べないのである」

「ドックフードも滅多にに食べない」「犬の好きなチュールなどもダメ」「犬のおやつ系もダメ」・・・

結局「毎日食べさせるのに、鶏肉各種(手羽、胸、ハツ、軟骨 等)を調理して食べさせている。これも常時は食べず

ほおっておくと「仕方なくドッグフード」を気まぐれで食べたりする。本当に「心配になるくらい食べないのである」

しかし「あまり体重は変わらない」それでも「犬の食事のために調理する時間はけっこうな時間なのだ」

 星技な事に元の飼い主の「7歳友人宅に遊びに行くと」家で食べない「野菜や果物」も食べるのである。

三つ子の魂100までと言われるように「生まれて食べた食事は7歳友人宅」の物なので、それを覚えているのかもしれない。

 確かに「我が家よりもきちんとした人間用の料理を作っているので、もちろん味の点でも優れているのだろう?

しかし、それ差し引いても「ミッは食べないのである」・・彼は「小さいころ血便が出て、感染症と言うことで3回入院している」

獣医師の話では「もともと胃腸が弱い」ようだ。少し成長して「食べっぷりも変わるかと思ったのだが?」

相変わらずの「食に細い」・・・「食べさせるのも一苦労なのだ」・・・こんな犬は珍しい。

唯一の救いは「元気な事である」

それでも「かけがえのない相棒なので、日々色んな工夫をして何とか食べてもらえるべく努力している」

彼の朝食は家で「起きてすぐに準備する」が「たいがいは食べない」従って

出社時に「持参して会社で与える」しかし食べない。ここ最近は「この写真」にあるように

「チュンビンロン(アヒルの羽化しかけた卵)」ならば「好んで食べていたのだが?」最近は

少ししか食べなくなった。全く難しい「相棒犬」である。

最近は「チュンビンロン」も食べなくなった。こうして会社前の「チャーダー」で

自分は「寒いこの頃熱いお茶を飲みながら」ミッには「チュンビンロン」を与えるのだが?

・・・食べない。この店の2人の「おばちゃん」もミッを「よくかわいがり」売り物の

「肉や魚」時には「お菓子」まで「あてえてくれるのだが?」・・・

それも食べない。

 

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ベトナムハノイの「自分で選んだ個人起業の大変さ」

2025-02-20 10:19:30 | ベトナム・ハノイ

 遡ること「16,7年前」人生で大きな決断をしようとしていた。

大卒で「その事世界一と言われた【自動車用プレス金型メーカ】」に就職した。

勤続23年、幸い「この会社で立ち上げた3Dデータ活用」が評価され、「メインシステムで使っていたCAD/CAMメーカ」

の社長から「オファーを頂く」 迷った挙句「部下を4名連れてこの会社に移った」(45歳だった)

(元居た会社は親族経営の悪行がたたり、現在はタイの会社になっている)

しかし、自分を「引っ張ってくれた社長は関連会社の副社長として栄転」し、後任は「後にパワハラで首になるダメな社長」だった。

(自分がベトナムと縁を得たのもこの社長と行うはずだった海外BPO拠点の構想が元だったのだ)

もともと製造業出身の自分は「世界的に知名度のあったITメーカのCAD/CAM部門だったこの会社のスタイル」とは

大きく異なっていたからこそ「引っ張られたのだが?」その後任社長は「私たちを認めようとはせず」結局は

転職後7年でこの会社を去ることになった。

 そしてここからが「ベトナム起業のいばらの道へ入り込むことになる」

大体、ベトナムで起業する日本人は「飲食関係」「サービス業(お土産物屋)」など、工場などの起業は「日本の工場」

が「海外進出」と言う形での進出がほとんどで、個人で「CAD/CAMデータを作る会社のベトナム進出」などほとんどなかった。

(現在でもある業種に特化したこの種の会社は自分の知る限り1社もない。関連の金型メーカも数多くベトナムに出てきたが

現在は少ししか残っていない。100社出た日本企業で5年後に残れるのは5%と言う統計は間違ってはいないのだろう?)

 「業界で大手企業に長く居ると、その看板のおかげで客先や取引先の人がちやほやすることに慣れてしまう」

こういう関係は「その会社を退職したら最後」翌日から何の「感心も持たれなくなることを分かっていない」

自分も「分かっていたつもりがったが、例えば銀行や仕事を出してくれるだろうと思っていた企業からの

つれない返事は思っていた以上の冷たさだった」加えて「たかが個人で貯めたお金を使っての起業である」起業資金や運営資金など

誰も「援助などしてくれない」 今考えるとそれなりの会社で「部長待遇でいたのに」「よくこんな決断をしたものだ?」

と「怖くなる」(今だから言えることだが?) ベトナムに当初は何のリレーションも無く起業した、案の定「人生そんなに甘くない」

会社は「うまくいかず、すぐに苦境に陥る」・・・「そこで今までのプライドや見えなどすべて捨てて」従業員3人の会社をはじめに

「営業の旅に日本に幾度となく出かけた」「ベトナムでこの種の業務を行うメリット」を説明し「ようやく会社を維持していけるだけの

顧客を獲得できた」・・・と思ったのもつかの間「信用していたパートナーに裏切られ」「協力関係になった企業の社長には

騙され、お金を巻き上げられ」加えて「コロナ禍」そして「致命的な円安の波が会社を襲った」

(今思うのは、人生には絶対付き合ってはいけないタイプの人間がいるということである。これらの人の会社一時ははうまくいくが

その常軌を逸したやり方から徐々に人が離れる、これらの人とは絶対に付き合ってはならないと学んだ)

 一時期は「1年仕事が無くても会社を維持できる内部留保」を確保していたが「コロナ禍~円安が3年以上続いた」事で

これも全部「吐き出してしまった」・・・「仕事が取れなかった1回目の危機でそれまでサラリーマン時代に蓄えていた

株や貯金はすべて吐き出した」そしてその後、仕事を取って頑張って貯めた内部留保は「コロナ禍と円安と言う2回目の危機」ですべて吐き出し

てしまった。「他のベトナムにある日本企業のように日本に親(親会社)を持たない自分の会社は、すべて自分の力で

耐えて、乗り越えるしかなかったのである。・・・では2回目の危機後なぜ今未だ「会社を残していられたか?」

(未だ残れるかどうかはわからないが?)

「分析」「素早い対応」「社員の協力」だった。

「分析」*冷静に「この為替相場で、会社を維持するには?」プライドや見栄などすべて捨てて「対策を考えた」

(もちろん大きな代償を払った、一番大きかったのは育成途上の人材を多く手放さなければならなかったことである)

「素早い対応」*それを「間髪おかずに実行」(考えている暇はない、今動かないと傷口はどんどん大きくなる)

「社員の協力」*後は「こんな状況でも離れて行かなかった会社当初からのメンバー」の頑張り によって「未だ会社が残っている」

(会社は女性が8割、起業当時からのメンバーの女性は既に2,3人の子供がおり、待遇よりも「慣れたスキルで在宅で自由度をもって

業務するスタイルに適合してくれた) 

 本日「他のベトナム関連ブログ」を見た。その中で「毎日同じ生活で、周りの環境は会社が準備した高級アパート、そこでは

レクサスやローイスロイスや・・・「運転手付きの車で出勤」し・・・などなど???

 やはり「以前ブログで記したように、駐在員は良い暮らし」なのである。(自分も2社目に辞した会社のベトナム子会社の駐在員、

もちろんそのころの自分役職より下だが、$3000以上のアパートに住み運転手付きの車(家族世の車も有り)・・・

なのである。・・・正直「これだけ見るとうらやましい限りである」しかし彼らも日本に帰るか?会社と言う看板が亡くなった後は

何も残らないのである。再雇用か?年金に頼らなくてはならない生活が待っている。

 自分の立ち位置は・・・「自分で選んだ海外起業の道である」もう戻るところもない、ここで頑張るしかないのだ。

これもまた「自分で選んだ人生」なのだ。企業に残るのも人生、起業するも人生、それぞれにメリットもデメリットもあるのだろう?

今考える「自分」のメリットは、「起業してからの自分の人生の責任は他の人に転嫁できない100%自分の責任である、つまり

自分の頑張りや努力次第(もちろん運も有るが?)、でどうにでもなることである。」

そして今、年金をもらう歳になって思う。幸い自分の会社、「定年もない」「ベトナムの若い世代と共に仕事ができる」

「14年かけ、日本と同等かそれ以上の人材を育てられた人材と仕事ができる」「幸い自分が家族を養い、年金に頼らなくても前任会社の給与

よりも多くの報酬は確保できている」「日本でサラリーマンとして経験できることと異なる経験はできた」(サラリーマンも都合30年

経験したが?)ベトナムと言う「外国で起業し、10年企業を存続させて、その報酬で海外と日本の家族と自分を養うこともできた」

経営者としてのプレッシャーはあるが、人間関係の窮屈さや「上司へのこびへつらいは無い」「社員は全て自分の子供以上に年の離れた

若者である」・・・・「ちょっと変わった、自分らしい人生だったのか?」と思うこの頃である。

 今日、たまたま「ベトナム駐在員の少し自慢の入ったブログを見る機会があり、ふと自分の「普通でない半生を振り返る機会が出来た」

他から見たら「無茶な、普通でない、危ない・・・」人生だったのかもしれない。 それもまた「自分らしさだと思う」

「ベトナム語しか聞こえない社内で、ここはベトナムハノイ」・・・外を見れば「まぎれもなくハノイ」

日本人のだれもいないオフィスで相棒ミッと共に「今日もこうして過ごしている」

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ベトナムハノイの「昼食事情の変化」

2025-02-19 15:04:24 | ベトナム・ハノイ

 自分がベトナムに住み始めた2011年ごろの「昼食事情」と言えば

社員は「多くが弁当持参」独身者で自宅からの通勤でない男子と自分は「外食」が主な方法だった。

経済的な理由も有り「女子社員や自宅からの通勤者」は「お金のかからない弁当が多かった」

時は流れ・・・その事情も「大きく変わってきた」 一番大きな理由は「GRABなどのサービスの開始である」

それまで「昼食のデリバリー」など全く行われていなかったのに、これらのサービスが開始してからの

ベトナム昼食事情は「劇的に変わった」 今や「昼食時のデリバリーは、普通の状況になっている」

便利にはなったが?・・・ベトナムに来た頃には「昼食になると、社員と連れ立ってコムビンザンと言う

ベトナム庶民の定食屋さん」に毎日行ったものだった。価格は20,000VND(≒120円)も出せば「普通の食事が出来た」

あれから10年以上が経った。現在の昼食事情は「あの頃とは大きく変わった」

今は「社員のほとんどが既婚者」独身の社員は4名だけ、全部女性のため「弁当持参」「妻帯者はもちろん多くが

愛妻弁当」である。自分のような「一人暮らし」はわが社では「一人だけ」一緒に「食事に出かける社員もいなくなった」

従って「自分の昼食はほぼ毎日デリバリー」に頼っている。確かに「GRABアプリから食事を選び」好きなものを注文する。

支払いは「クレジットカード決済なので現金のやり取りは一切ない」食べたいものはほとんど注文できる環境にある。

「ベトナム食だけでなく、日本食、韓国料理、中華料理、ピザ などなど」何でも注文できる。 しかし「料金は確実に上がった」

「贅沢ではなく普通のものを食べても1色平均日本円で400円~600円ほどはかかる」・・・この値段が安いのかどうかはわからないが?

個人GDPが都市部以外は未だ$5000に行かないベトナムにとっては「安くはないだろうと思う」しかし、同じオフィスビルや近隣を見ても

多くの人が「デリバリーを使っている」 ・・・あの頃から見ると「大きく事情が変わったようだ」

ベトナムはつい最近経済成長率を8.00%に上方修正した。そんな「経済成長がこのような昼食事情」をさせているのだろう?

それでも「ベトナム中小企業」である当社の社員は「未だに弁当持参で頑張っている」やはりベトナムでも「大企業と中小企業」

の賃金格差は開くばかりである。・・・「円安の影響をもろに受けたベトナム中小企業である自分会社の状況を憂いながら」

本日の昼食「バインミーとフルーツジュース」で80,000VND(≒480円)を食べながら「そんなことを考えた」

 

 

 

 

 

 

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ベトナムハノイの「鍋大好きベトナム人」

2025-02-18 16:20:19 | ベトナム・ハノイ

 ベトナム人は「無類の鍋好き」であることに「疑いはない」

ベトナムに住んで14年目、幾度となく「ベトナム人と食事やパーティーを共にしたが」

四季に限らず「食事の最後はいつも鍋」と言ってよいくらい「鍋好きなのだ!!!」

外気温37℃の季節でも「鍋を食べる」、パーティーで「結構たらふく食べた」と思っても「最後には鍋が出てくる」

だから「町中の飲食店を見ても」…「LAU」という文字が並んでいる(LAU:鍋)「鳥鍋、カエル鍋、海鮮鍋・・・・」

季節的に行ったら「日本人にとっては鍋は冬の食べ物」と言う印象が強いが、ベトナムでは「季節に関係なく鍋を食する」

 最近、ベトナム人と一緒に外食したのを思い出しても「全部鍋だった」

*バレンタインデーの食事会:中華だったが「最後は鳥鍋」

*7歳友人宅の夕食お呼ばれ:「肉、海鮮 鍋」

*新年会タイ料理:タイ料理だったが「最後は鍋」

*7歳友人宅の夕食お呼ばれ:おかゆ鍋

*忘年会:これまたタイ料理:「タイ鍋」

*7歳友人宅の夕食お呼ばれ:「肉、海鮮 鍋」

・そして「7歳友人家族と自分が誘い日本食レストランに行った時も、結局はベトナム人リクエストで【すき焼き鍋】を頼んだ」

こんな感じだ。ベトナムで食べる鍋の特徴は「入れる具の多さ」(肉、魚、海鮮、野菜、内臓系、芋、ニンジンの塊、梅干しなどなど)

実に多種多様な肉海鮮野菜・・・たちを「鍋に入れる」のだ。

全てが「美味しいと思う」しかし自分にとっては「これらの多種多様な具でとったスープで食べる」〆の「ラーメン」

が「最高においしい!!!」 それはそうである、これほどの「具でとった出汁など普通のラーメンでは考えられない」

それほど贅沢な「出汁」の出たスープなのである。ラーメンの麺は「ベトナムで有名な鍋用のインスタント麺」がある。

付属のスープは使わず、面だけを使い「最後の締めを食する」・・・「これがおいしい」

(ちなみにこのラーメンは、インスタントラーメンとしてはほとんど売れない、しかし鍋の締めとしてのラーメンとなると

十中八九の人がこの麺を選ぶという、珍しいインスタントラーメンなのだ、ベトナムのインスタントラーメン売り場で

包装紙が「わら半紙のような不透明な紙の袋に赤文字で小さく名前が書かれているのが有ったら、それが鍋用として

絶大なる人気のラーメンである」)

ベトナムの鍋の〆では「ご飯は使わない」多くは「ブン(発酵した白いそうめんのような麺)」が多く、次が「インスタントラーメンだ」

しかし自分は「断然インスタントラーメン派」である。(一度ベトナムの鍋を食べた後半、白御飯と生卵を注文し

鍋に入れたら、店員や周りの人々から珍しがられた。)

7歳友人宅では「鍋にすると自分を呼んでくれる」そして必ず〆は「インスタントラーメンを準備してくれている」ありがたい事である。

今日ハノイは「息が白いほど寒い」こんな日は「温かい鍋に熱燗でも・・・」と行きたいところだ。

昨年末の忘年会「中華レストランの鍋」である。(ここはちょっと高級)

豆乳と辛めのだしの2色鍋

ベトナムでは「タイ料理であろうがラオス料理であろうが」締めは鍋である。

「暑くても寒くても」鍋である。

上記で記した「ラーメンの画像が手に入った」ので加えておく。

このラーメンは「ラーメン単体として食べることはほぼない」

しかし「鍋の〆のラーメンとしては絶大なる人気を誇っている」

どこのレストランに行っても90%以上の確立で「鍋の〆のラーメンはこれである」

 

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