お昼は1時がちょうど良い

在宅療養生活で見たこと、思ったこと、を伝えます。

回顧録 27

2015年12月13日 | 回顧録
私の1ヶ月間に亘る緊急静養は結果的には「焼け石に水」でしたので、復帰後に会社側と相談のうえ職場の配置転換をして症状の緩和を図る事になりました。


元々社内一厳しい上司の部署で、その厳しさを批判する人も少なからずいました。「あそこ(元の配属場所)から移れて良かったね」という声をかけられた(数人から)事を覚えています。なんでも、移動したのは私が7人目? だそうです。


その後、新しい部署での仕事により気持ちは幾分落ち着いてきて「やれやれ此処ならいいかな」という感じで仕事に打ち込んでいきました。


一方、妻の病状は少しずつではありましたが悪化していきました。私の職場に於ける問題点の改善が見られていたのとは対照的でしたので、総合すると私自身の心の状態は今ひとつパッとしませんでした。


暫くして年も改まり、ある日疲れて仕事から帰宅した時の知らせは、夕方近くに妻が緊急入院したとの事で私の心はまたもや下降線を辿る事になりました。すぐ病院に駆けつけ容態を確認したら、あまり芳しくない感じだったと記憶しています。


当初は多人数部屋だったのが、日を追って次第に少人数の部屋に移動となり、次は個室になり、更にその後はナースセンター近くの個室に移動となったのです。


ある人はこの時点で気付かれる事でしょう。そうです。確実に死期が迫っていたのです。もう回復が見込めない状態であり、ガンはほぼ全身に転移し末期状態になっていたのです。主治医に呼ばれた私は今後の治療方針と予想される結果について聞かされました。


数日後いよいよ病院に泊まり込みの体制になり身近な親族が交代で泊まり込み開始です。


その数日後は週末で土曜日だったので私と義兄の家族が泊まり込みをして交代で仮眠していたのですが、日付が変わって夜中の3時頃に看護婦さんに起こされました。


遂にその時が来たのです。


私が病室に駆けつけた時には既に息絶えており、ベッドの周囲にある計測器の電源も切られていたと思います。看護婦さんのちょっとした隙間時間に絶命したようで、息を引き取る際の看取りは出来ませんでした。


手を触ってみるとまだ少し暖かくて、でも、鼻腔・耳孔には詰め物が‥


自宅にあった、その春に中学に進学する子供の入学式に着る予定だったスーツとコサージュは使わず終いとなりました。


そして40歳の生涯を閉じたのです。

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