小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

スマホ決済とフィンテック

2019年08月10日 | 社会戯評

スマホ決済とフィンテック:

 若い頃から、ITの進化と共に、仕事上でも、私的な生活面でも、ネットの活用を余儀なくされてきたものである。但し、パソコン上では、ネット活用はしていたものの、スマホでの実施は、とりわけ、QRコード決済や、お財布携帯利用というものには、どうも、保守的・消極的で、二の足を踏んでいる。何でも、最近では、セブンのキャッシュレス決済アプリで、社長が、二重認証の意味を、そもそも知らずに、記者会見したとかで、結局、中止の憂き目に遭うなど、まだまだ、そのセキュリティーに対する不安が払拭し切れていない。実際、メガバンクの動きを待ってからでないと、どうも年寄りは、心配で仕方ない。一方、中国では、都市部だけでは無くて、農村部でのスマホ決済が急速に普及、現在進行中で、換言すれば、AIを活用した新手のネット融資システムが、拡がり始めていると、、、、、。私の若い頃は、資金を融資してもらうのも、全て、家・建物・土地を担保にしない限り、そんなに、易々とは、銀行は、融資を実行してくれないもので、雨が降るときにも、晴れた日でも、傘は貸してくれないモノであった。それにしても、フィンテックの進行とともに、メガバンクも、対応を誤れば、手数料収入だけでの収益維持は、間違いなく、収益維持が難しくなりつつ有り、どのような方向性が打ち出されるのであろうか?

それにしても、スマホ・ネット融資などが、ますます、潜在的な眼に見えない形での家庭・個人債務の拡大を逆に促進することになれば、、、、、、、そういう危惧も、光と闇ではないが、無いことも無いであろう。当面は、Wait & See なのであろうか?それとも、ポイントも活用できるキャッシュレス化の波に乗り、更に、ネット融資アプリも早速、使ってみた方が良いのか?融資もポイント制度活用時代なのか?<使い勝手と便利さとの狭間>で、当分、悩むところである。


遅ればせながら、Kindle 電子書籍 デビューです!

2019年07月25日 | 社会戯評

遅ればせながら、Kindle 電子書籍 デビューです!:

 以前、友人から、海外旅行などへ出かけるときには、電子書籍を何冊か購入して、端末に入れて持って行けば、飛行機の中で、読書可能であると、薦められていたが、身勝手な解釈で、特定の限定された端末でなければダウンロードできないと、思い込んでいて、これまで、利用していなかった。ところが、Amazonで書籍を購入しようとしたら、送付時期が、結構先の予定が表示されていて、諦めかけていたところ、そのすぐそばに、Kindle版であれば、50円安価で、しかも、即ダウンロード可能、おまけに、見本もメールで確認員可能であると、表記されているので、よくよく読んでみると、携帯端末やi-Padでも、ダウンロードが可能であることが判明したので、早速試してみることにした。

成る程、決済も、之まで通りの登録通りで、特別に、問題があるわけでもない。今まででは、地方の書店にも、なるべくおカネを落としてやりたいと、取り寄せを依頼していたモノであるが、毎回、2週間程のリード・タイムを要して、気短な年寄りは、瞬間湯沸かし器の如く、諦めてしまっていたものである。残念ながら、GAFAに、又してもおカネが落ちてしまったが、出不精の年寄りには、何より、知的好奇心をすぐさま、満足させて貰える訳で、有り難いものである。尤も、その反面、又、地方小都市の書店が将来、廃業に追い込まれる可能性が大きくなることは、大変心苦しいものがあるが、、、、、、、、。

取り継ぎ書店業務や、個別配送業務、物流業務を、一挙に解消してしまうITの威力は、如何ほどのものなのであろうか?まざまざと、その威力を改めて、見せつけられたようで、恐ろしくなるが、これも時代の流れなのであろうか?それにしても、何人の人間が、これらの業務に関わり、如何ほどのコストが、1冊50円の差で、本当に、解決されるのであろうか?何とも、労働の価値とは、GAFAにとっては、そんなモノなのであろうか?何とも、複雑な気分になってしまう。確かに、どこへでも持ち歩けるし、文字の拡大や背景のコントラストも自由に調整可能だし、終了時点での再開も、設定次第で出来るし、年寄りにとっては、有り難い話であるものの、、、、、。やや、ビミョーな感覚である。

 


芸能帝国における個人と組織

2019年07月23日 | 映画・テレビ批評

芸能帝国における個人と組織:

 ジャニー喜多川というカリスマの死の以前から、時間を逆回しにしてみると、色々なことが、成る程であるなという事象が垣間見られるのは、興味深い。偉業は、偉業として、それなりに、評価すべきであるとしても、<ある種の忖度>による、或いは、それに近い、眼に見えない形での<圧力や、パワハラ>としか謂いようのないもので、動かしていたという事実は、重く受け止めるべきものがあろう。<カリスマが創った組織とその作品としての個人という構図>、もう既に、何らかの形で、ほころびが生じているのかも入れない。その意味で、自分が、自分を育ててくれた<組織と、個人の能力との葛藤、対立>とは、今日のサラリーマン世界にも、共通する何かがあるような気がしてならない。必ずしも、ミュージシャンとお笑い芸人や落語家とをごちゃ混ぜに論じるつもりはないが、確かに、近代資本主義の進展と共に、所謂、芸能界という<旧来の人買い家業>から、少しでも、合理的なだと一見できるような、(本質的には、何も変わっていないが)疑似契約に、衣替えしても、その内実は、全く変わっていない事になるのかもしれない。<企業30年説>に従えば、吉本興業もジャニーズ事務所にしても、新しい方向性への模索が、水面下で、胎動しているのかもしれない。どんなに、否定しようが、法律的に、問題がなくても、企業体としての道義的、倫理的ガイドラインからは、如何なものであろうかと謂うことになりかねない。<歌舞伎モノ>とさげすまされても、伝統と歴史と時間を経ることで、歌舞伎も落語にしても、伝統芸能と認知されて、権威付けされて、今日に至るものの、エンターテイメント界では、どんなに、頑張っても、お笑いの世界は、<の延長線上>でしかないのだろうか?<個人倫理のコンプライアンス観と組織の在り方との葛藤>は、結局、記者会見強行による、ある種の暴露合戦に終始することになるのであろうか?<謝罪会見>というものも、見かけ上での<お涙ちょうだい式>の如何にも、日本的なやり方で、難を乗り越える式の<儀式のようなもの>になってしまうのであろうか?

そもそも、パワハラというモノは、明らかに、権力を有するものとそうでないものという圧倒的なパワーの違いを前提にしている訳で、やっている方(加害者意識)などは、被害者ほどのものではないものであろう。その意味では、この力の差を補うモノとして、弁護士の個人的な依頼と謂うことも、十分ありうるモノである。内部告発にしても、その得るべきモノと失うモノとは、明らかに、異なる。良心の呵責とか、過ちの悔悟とか、更生への、自己弁明への機会を与える事は、必要であろうし、SNSも今日発展している以上、メディアの報道の仕方にも、配慮が欠けているだけでなくて、SNSでの情報発信も必要であろう。今日、それは、もはや、抑えきれないであろう状況である。

企業組織の危機管理とか、法務部門担当(インハウス・ロイヤー)とか、組織からの圧力とか、従業員教育の在り方、雇用契約の問題、感情論的な誠意の存在問題という様々な課題があるようにも思える。それにしても、テープ録音の問題も、Q&Aの内容確認問題も、政権へのすり寄りによる公共的な営業利権の獲得とか、根本的な給料の低さを棚上げして、一方的に自分の報酬を半額にカットするという提案など、悉く、わかりにくい、一見して、世間を敵に回さない戦略の選択の裏には、一体どのような意図が垣間見られるのであろうか?野党の国会論戦さながら、実に質の低いマスメディアからの質問には、少々、ウンザリさせられてしまうのは、残念なところである。相変わらず、<日本的なお涙ちょうだい式の痛み分け>というところで、問題の本質が、見えてこないし、解決手順すら、見えてこないのは、極めて残念な事である。尤も、この会見に関わらず、所謂、芸能帝国という疑似近代的な組織は、ほころびから、分裂・離散・崩壊へと向かい、実力のある、才能のあるモノのみが、独立、生き残り、或いは、逆に、組織に残留する道を選択しつつ、過去の島田伸助の問題を抱えながら、反社会勢力との付き合いを依然として、踏み絵のように、コンプライアンスという呪縛の下で、強いられてゆくのであろう。家庭内反面教師で有り、ハンシャ的家庭内存在であるお父さんには、あまり、潔さを感じられず、そうかと言って、問題の本質を剔抉させるほどの迫力ある記者会見には映らなかったことは、遺憾である。野党共闘も不発に終わり、まるで、ナチス張りに間隙を縫うように現れた、或いは、消化不良の野党共闘が吸い上げられなかったエネルギーをかっさらっていった山本太郎ほどの、パーフォーマンスもなく、<経営者としての矜持>も、微塵も感じられないのは、残念な事である。社長ではなく、やはり、御簾の奥に鎮座する会長とか、松本人志やさんまが、或いは、<芸人は猿回し論>のたけしを、社外重役くらいにでもして、オブザーバーで、この次は、公開生放送で、言いたい放題の現任当事者と会社側と第三者辛口オブザーバーのバトルロイヤルを期待したいモノである。視聴率は、グッとあがるのではないだろうか?それにしても、大阪万博や税金を投入するプロジェクトもさることながら、雇用契約やギャラの問題、利益分配比率の配分問題、更には、事務所の移籍や、株主としてのテレビ局との関係、芸能界という業界を含めて、改革の先頭に立つ、6000人もの芸人を束ねる経営者としては、元敏腕マネージャーであったとしても、如何なものだろうか?日本企業のこれまでの<企業という擬制家族論>に依存してきた、<曖昧さ>が、今日、あぶり出されてきつつある。もっとも、<今の日本の本質>を参院選挙結果と同様に、様々な課題が、垣間見られたようで、興味津々である。大衆の欲求不満を根本的に、吸収するような動きは、果たして、でてくるのであろうか?それとも、その前に、帝国の崩壊は、静かに現在進行形なのでろうか?


理不尽としか言い様もないものと付き合う(闘う?):

2019年07月21日 | 社会戯評

理不尽としか言い様もないものと付き合う(闘う?):

 

子どもの頃、大映映画だっただろうか?<大魔神>という時代劇映画があり、余りに不正義が、横行していると、それを見かねて、或いは、人身御供に応じる形で、阿修羅と化した大魔神が、不正義を一網打尽に退治して、虚空の彼方に消え去るというような荒唐無稽な筋書きに、拍手喝采を送ったことを思い起こす。この場合、不正義とは、あるときには、悪徳商人と結託した地元領主の地方小役人であったり、純粋無垢な娘役や父の敵を探して旅する兄妹の設定など、様々である。それにしても、現代では、運転免許を返納しようと考えていた高齢者ドライバーによる暴走事故による幼い愛児や愛する妻を、突然、失ったり、或いは、何の落ち度もない、何の接点も、恨みを買うような関係性のない、全く、赤の他人により、幼い、命が、理由もなく、絶たれたり、未来への希望を期待されていた人たちが、引きこもりなのか、精神疾患なのか、不安、孤独と絶望と欲求不満か、何か、全く、その動機と行為を引き起こした理由が不明な、<理不尽としか言い様もない事件>、<道理にそぐわない事件>が、又、繰り返し惹起された。

一体全体、どう考えたら良いのであろうか?理不尽としか言い様もないものは、常に、自分の隣に、いつでも、お待ちかねなのであろうか?宗教界、キリスト教でも、既成仏教界、新興宗教界からも、一向に、どのように、解釈すべきかと言うことに関するコメントが、高僧からも、また、年末に、漢字一字で、世相を表すつもりなのであろうか、コメントが、一切、聞こえてこない。これらは、所謂、<自然災害や、天変地異とも異なる>。どんなに、清廉潔白でも、前世に良いことや功徳を積んでいても、況んやお布施すらも、含めて、、、、、何の担保にもならず、せいぜいが、精神分析医師からのコメントを貰うくらいの、後付け解説コメントだけなのか?<義に準じた人の血は、碧い>と謂われているが、血に色があるかどうかは、分からぬが、<これらの人々の死に意義があるのか>?それとも、意義があるかどうかは、分からぬが、価値があるのか?無価値なのか?それとも、<価値のあるなしという議論自体>が、ナンセンスなのか?<不条理であること>、<理不尽であること>、<身勝手であること>、<道理にそぐわないこと>とは、一体、何ぞや?何やら、禅問答のようなものになってきた。

それにしても、勧善懲悪的な明快なハッピー・エンドが断固、保証されているというわけには、どうやら、世の中、そうはゆかないことだけは、確かなようである。どのように理解したら良いのであろうか?眠れない悩ましい夜が続きそうである。

 


アンダークラスへの転落不安

2019年07月19日 | 社会戯評

=アンダークラスへの転落不安:

学者というモノは、過去の緻密な分析を行えても、その過去から、未来を予測するような洞察を、提示できる人間に、巡り会えず、これまでも、何人かのメデアで、華々しく持ち上げられたものの、いつの間にやら、消えていったことを、思い起こす。それにしても、就職氷河期以来の第一次フリーター達が、まもなく、60歳を迎える時期になる今日、これまでの<中間層という概念>が、確かに、年金2000万円問題等により、改めて、階級社会という懐かしい概念やアンダークラスという概念に、眼を向け始めるきっかけが訪れつつあるという現実には、驚かされる。そうした不安にも関わらず、何故、若者は、安定志向に向かい、怒れる元若者の年寄りが、デモに参加するのであろうか?そして、政治、とりわけ、野党というモノは、与党のリベラルも含めて、こうした流れに抗する<アンチテーゼを打ちだせないのであろうか>?昔ならといったら、笑われてしまうが、振り子が、どちらかに揺れると、所謂、保守層からでも、リベラルという、或いは、新保守主義という改革の芽が、伸びてきて、バランスが、保たれるにも関わらず、トランプやミニ・トランプではないが、一向に、そうした、傾向が、日本のみならず、全世界的な傾向で、進行中である。雇用・移民・失業・社会保障・貧困格差・テロ・健康不安・GAFA一極支配、等、どれをとっても、明日への不安、未来への確信が、持てない、<依然として不確実性の時代>なのであろう。非正規雇用という形態や、竹中や小泉が推し進めたグローバル化に乗り遅れる式な国際競争力維持への恫喝も、今になってしまえば、ある種の懐かしさも感じられるのは、皮肉なことである。決められない政治の図式から、一強多弱の<何でも決められてしまう安定志向への恫喝の図式>と、どこが、一体全体、違うのであろうか?個人の自助努力による能力のアップやアンダークラスへの転落不安や可能性を、<全面的な自己責任論>に、果たして、委ねることは、正しいことなのであろうか?最低限度のミニマム・セイフティー・ネットの構築や、社会保障政策、弱者救済、利益再分配の仕組み作りがなければ、いつまでたっても、相変わらず、絶望感や諦め意識の解消には、いたらないであろうし、秋葉原での過去の無差別殺傷事件ではないが、紙一重で、同じ環境にも関わらず、自制して、踏みとどまったという、似たような環境にいた元同僚のコメントではないが、そういう個人倫理や意識のありようで、問題解決して宜しいモノなのであろうか?アントレプレナーは、GAFAではないが、恒に、先進的なビジネス・モデルを構築して、リブレではないが、暗号技術などの最先端技術革新の先を行き、ヒトは、後追いを強いられ、学者は、或いは、政治家は、未来への処方を提示できずに、置き去りを強いられているのが、現状である。社会の分断とか、中間層の没落、とりわけ、健康不安・役職定年制による年収減収不安などによる、誰でもが、<陥りやすい平等なリスクの社会>には、民主主義とは、資本主義とは、一体、何なのか?或いは、<人間の平等>とは、何なのかを、改めて、金持ちも、貧乏人も、階級を超えて、考えざるを得ない状況が、すぐそばまで、来ていることは、間違いなさそうである。それとも、こうした現代社会の兆候を、何らかの形で、排外主義や、一国優先主義や、愛国主義などという、<疑似的な自己正当化手段>で、乗り切ろうとしてゆくのであろうか?或いは、荒っぽい、<自己責任論で一刀両断>して良いものなのであろうか?学者も、況んや、政治家も、与党も、含めて、とりわけ、野党も、宗教界も含めて、未来への処方箋を出し得ていないようである。

さて、一時、雨も止んだようだから、期日前投票へでも、散歩がてら、足を運ぶことにするかな!?


若者は、本当に7割も政権支持しているのか?何故?

2019年07月10日 | 社会戯評

=若者は、本当に7割も政権支持しているのか?何故?:

50年前の怒れる元若者には、どうしたモノか、なかなか、理解出来ない。尤も、怒れる後期高齢者は、今も、怒っているが、、、、、、。もともと、怒れる若者と政権を支える高齢者という旧来の図式は、今や、通用しなくなりつつあるのだろうか?幸福度とか、非正規社員、実質賃金の低下、グローバル化とデジタル化、などと、微妙に、関連している結果なのであるか?今や、若者の7割が、そして、高齢者の約半分が政権を支持していることは、最近の香港や、アメリカの傾向とは、極だった対比を見せているのは、何故なのであろうか?

50年前の怒れる元若者には、自己否定をしても、その結果、引きこもりや、ドロップアウトを目指したり、ヒッピー的な生活をしても、今で言えば、非正規社員でのアルバイトに明け暮れても、未来に、絶望することもなかったし、結婚も就職も、何とかなるさとばかり、書を捨てて街に出たモノであるが、、、、、、。今なら、スマホを捨てて、世界に出て行くモノであろうか?全く、脳天気だったのだろうか?考えてみれば、大きな組織から、ひとり、徒手空拳で独立しようと決断する時も、別に、未来への不安とか、老後の資金を2千万円貯蓄しようとかも、或いは、老後の不安すらも、何も考える事もなかったものである。社会補償制度のツケを回されるのであろう現代の若者が、成る程、真逆の発想をすることも、理解出来なくはない。確かに、実質賃金が上昇することもなく、ひたすら、企業利益が伸張する一方で、低下傾向にある法人税率と社会補償制度の相関関係を、ひもとけば、構造的であることも、容易に理解できよう、又、デジタル化への環境変化の中で、これまでのモノ生産から、所謂、有形資産から、国境を越えた情報やサービスによる収益構造、無形資産へのグローバルな移行ということも理解出来よう。弱者が限りなく弱者の道をたどり、勝者が、総取りするような、格差社会の現在進行中であることも、理解出来よう。それでも尚、一点理解が出来ない。格差があるから、仕方ないというこういう発想や、茹で蛙状態から、抜け出そうとしない、そういう発想と行動形式には、どうしても、理解出来ない。50年前の怒れる元若者は、今でも、現在進行形なのであろうか?


振付師 choreographerについて、考えてみた:小諸青雲館AIR(Artist-In-Residency)

2019年07月05日 | 社会戯評

振付師 choreographerについて、考えてみた:小諸青雲館AIR(Artist-In-Residency)

5月21日にこのブログで、<海外コンテンポラリー・パーフォーマーと議論する>という題名で、全くのズブズブの素人である、私が、議論を交わした内容をこのブログに、アップしたが、今月、スペイン人女性パーフォーマーであり振付師である、アンドレアが来日して、ジャズダンスや日舞のレッスンに参加する中で、彼女とも、この延長線上で、議論してみた。

尤も、議論と知っても、何も知識のない私では、議論にならないので、事前に、予備知識として、ネットで、調べてみることにした。何せ、50年も前の若者の私にとっては、パーフォームというよりも、頭の中は、舞踊という二文字の漢字表現で、様々なジャンルである、ブレイク・ダンスや、ヒップホップなど、更には、ファッション・ダンスという概念とは、無縁である。そんな門外漢の老いぼれには、唯一、尺度となるのは、お粗末な話であるが、海外での評価が高い、パーフォーマーとその振付師をまずは、検索するところから始めてみることにした。余りに多様なジャンルに関しては、後日、論じたみることにしたい。

それにしても、小学校でのカリキュラムに指定されるわけである。ヒップ・ホップが?!何故だ?何故、ヒップホップなのか?せいぜいが、サムが提唱するような、年寄り向けの老人体操としてのヒップホップか、ストリート・タイプくらいしか、知識がない私には、全くの青天の霹靂である。私の子どもの頃に、科目に取り入れられていたら、間違いなく、リズム音痴の私は、1の評価は、免れないことでしょう。

ローザンヌ国際バレー・コンテストや有名な国際的なピアノやヴァイオリン演奏コンクールでの日本人優勝者のニュースを聞いて初めて、納得する程度のレベルである。従って、その衝撃の大きさと驚きの程度は、筆舌に尽くせないほどのモノである。

成る程、世界的には、数多くの大会World of Dance, Dance Asia, etc)やテレビ番組などがあることに驚かされる。しかも、舞台演出というモノは、音楽という音だけではなくて、照明という光と、しかも、恐らくパソコンと連動していて、花火の打ち上げと同じように、今や、音と光に反応して、自動的に、それらが、無限に変化出来るように、1秒単位で、セットされているようである。化粧 メイクと衣装、顔の表情、身体の線、手足、指先の繊細な表現、とりわけ、まるで、密教の秘伝の印を結ぶかのような仕草とか、指先だけでまるでダンスを踊るかのような手法とか、これらに、加えて、日本人が最も得意とする集団的なシンクロナイズする動き、バブリーダンスくらいしか、YouTubeでみたことのない私には、振り付けの醍醐味が容易に、言葉を超えて理解出来る。成る程、Express yourselfというタイトルも頷けるものがある。インド映画で観られるような集団的な踊りと歌などは、どのような影響をしているのであろうか?興味深いところである。更には、踊りに合わせて、即興で、著名なチェロ演奏家のヨーヨーマーが、そのイメージを、音で表現するというコラボもあることにも、驚いてしまう。

言葉を超えた感性による自己表現とは、一体どのような方向性に、向かうのであろうか?言葉、言語とは何で有り、表現とは何で有り、言葉での表現に限界があるのであろうか?パーフォマンスという表現手段は、どのようなモノであり、何を突き破ろうとしているのか、昔の山海塾などの前衛舞踏くらいしか、知識のない私には、スペイン人若手女性パーフォーマー・コレオグラファーとの議論は、果てしなく、続く事になりました。

アンドレアに、送ったそれぞれリストアップしたURLのうち、私が、個人的に興味深いなと思ったり、公演を観に行きたいなと思ったグループを二つだけ、下記しておきますので、ご覧下さい。

先般のアルゼンチン・タンゴの生演奏を聴いた後で、又、更に、自己表現とは何かを考えさせられてしまいました。

 Fabulous Sisters: World of Dance 2018

https://www.youtube.com/watch?v=LGRoXI4No8M&list=RDMS5p9XaBl40&index=4

東京ゲゲゲイ:https://www.tokyogegegay.com/

 


香港逃亡条例撤廃デモに思う:

2019年07月04日 | 社会戯評

香港逃亡条例撤廃デモに思う:

 

もう、中国本土にも、香港にも、旅行やビジネスで脚を踏み入れることもないであろうし、北京ダックを食べるために、本場のレストランに、ゆくこともあるまい。いくらでの天安門やウィグル族の話題をブログやSNSに投稿しても、中国政府公認の検索に引っかかろうが、もはや、私には関係はなかろう。悲しいことに、テレビの映像を見ても、インタビューされている人々の表情は、マスクをしたり、顔を見られることを一様に恐れていて、明らかに、天安門事件30周年を過度に、意識していたとしても、異常な状況であろう。

明らかに、それは、一連の50年は保証されているとされた中国とイギリス政府間での<一国二制度>にしても、或いは、<書店経営者の本土への拉致>や、<近い将来予想される台湾統一>への予行演習であることは、間違い布石であろうことは、容易に、想像されよう。

天安門事件の時に、鄧小平が、2-300人の死が(実際には、死傷者の数は、10数倍であろうかとも言われているが、、、、)これから、20年の安定をもたらすであろうという、こういう歴史観が、今も、権力者の中には、とりわけ、習近平らの中に、DNAとして、継承されていることは、疑いのない事実であろう。それにしても、<雨傘運動>や、<民主派牧師の裁判運動>をみるにつけ、言論の自由へのすさまじい国家権力の締め付けである。とりわけ、<高校生や若者の危機感>には、SNS上で表現されているように、日本人の若者とのそれの差が、甚だしいモノがあろう。ものを自由に言えなくなる、表現する権利を不当に奪われると言うこと、その危険性を、肌身に浸みて、感じる事、それは、どういう感慨なのであろうか?一時期、<ゆで蛙状態>と表現された状態と、今の日本の状況は、どれほどなものなのであろうか?ささいなことで、言いがかりをつけられて、不当に拘束されたり、逮捕されたら、たまらないが、必ずしも、絶対に、観光旅行中にないとも、限らないのが、残念ながら、現実である。このままでは、必ず、先鋭化した一部の過激な分子が、必ず、議会の占拠とか、道路の封鎖という方向性へ向かうことは必至で、その先に待ち受けているのは、第二の天安門であり、多くの若者が、命を落とす事態になり得るであろう事は、容易に、想像されよう。一体、日本で、この元若者である老いぼれに何が出来るのであろうか?新聞広告に一面、出されたアピールを読んだ瞬間、或いは、女性リーダーのテレビに向かって発せられた切実は、ほとんどゆで蛙状態の日本人に、そして、一種の恫喝とも思える又、<決められない政治に戻るのですか?それとも、しっかりとした安定を!>という偽装にほとんど近い甘いささやきに日本の若者は、騙されてしまうのであろうか?

 


金融庁審議会の市場ワーキンググループの報告書とは、:

2019年06月18日 | 社会戯評

金融庁審議会の市場ワーキンググループの報告書とは、:

 

受け取る、受け取らないとか、なかったことにするとか、様々な議論がある金融庁ワーキンググループの例の報告書が、HPに正式にアップされているので、多忙な人たちに替わって、URLを検索・引用してみました。参考までに、皆様、金融庁のHP上にアップされた例の報告書読んでみましょう。5分では流石に読めそうもなさそうだが、、、、、。

https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603/01.pdf?fbclid=IwAR2lS60yfKO8iqqpZSChUU1g6jebbxPrdN0SmBwLVMT64TCfv7XwP9dnbAg

 

#金融審議会 
#市場ワーキング・グループ報告書
#高齢社会における資産形成・管理

 


死の軽重という誘惑

2019年06月09日 | 社会戯評

人の死の重さとか、その価値を敢えてつけようとする、禁断の議論の誘惑に、つい駆られてしまいかねない、誠に、理不尽な、不条理な事件である。近所と諍いを起こしていたとか、プライバシーを尊重しているのかどうか分からぬが、容疑者死亡というわずか、2-3行の行間で、哀れにも、小さな子どもや、前途有望である外交官があっけなく、命を奪われてしまったことに、誠に、唖然とせざるを得ない。集団登校の是非やら、犯罪心理学者の分析を後付けされても、この安全神話が横たわる列島に、激震が走り去った。数多くの交通事故死というものも、この事件の前では、全く、跡形もなく、もろくも、その衝撃度からして、崩れ去り、嘗ての秋葉原無差別殺傷事件を想起して、慄然とし、改めて、この世の無常を痛感せざるを得ない。被害児童の通学するカソリック系学園関係者の毅然とした記者会見の態度には、少なからず、教育者としての矜持が感じられたことは、少なからず、多少の救いを感じられたモノである。

それにしても、事件への今後の対策とか、原因究明とか、そんなことは、誠に、後回しでも宜しいし、全く、関係のない他社を巻き込んだ形の無理心中まがいの一種の自殺劇は、まるで、新宿都バス・ガソリン炎上事件をも、想起させるようで、実に痛ましい。識者の中には、一報を聞いて、覚醒剤や精神疾患を患った人間の犯行ではないかという見立てもあったが、全く、その筋の延長線上ではなく、冷静に、柳刃包丁を複数準備したうえ、当日朝に、平然として、隣人に挨拶を交わして出かけたとも伝えられているようでもある。こうなると、もう、ほとんど、無理心中に近い形での自殺なのであろうか? 人は、生まれながらにして、幸福に暮らすことを与えられていると同時に、一方で又、理不尽に、命を奪われてしまう危険性も、孕んでいることが、改めて、再認識される。そういう負の可能性を有するものなのであろう。わずか10数秒間での凶行に、偶然、遅れて、或いは、早めに、それこそ、後30数秒でも、時間的に、違えていたら、、、、、、、、、と思うと、実に、それはそれで、又、むなしさが増してきてしまう。それが、人生というものなのであろうか?そして、人生とは、そういうモノであると思わざるをえないものなのであろうか?果たして、それで、納得されるものなのであろうか?民事損害賠償請求が出来ない場合には、国家的に、救済援助してくれるような制度は、あるのであろうか?合掌する手も、思わず、その理不尽さともっていきようのない怒りと諦めとで、震えてしまう。

 何故、宗教界のリーダー達は、沈黙して、やまないのであろうか?面と向かって、人の死には、価値の軽重も大小も一切なく、諸行無常なのだとはっきりと断言して、散々に、ネトウから、大炎上することが、必要ではないだろうか?テレビ画面の向こう側で、何やら得体の知れぬ闇が、にやにやと笑っているように思えるのは、私だけであろうか?年の終わりに、漢字一文字で、その年の世相を書いて演じる、高僧は、何を思っているのであろうか?聞こえてこないですね、、、、、、、。今こそ、宗教界の自称リーダー達は、発言すべき時でしょう。

 


海外コンテポラリー・パーフォーマーと議論する:小諸青雲館AIR

2019年05月21日 | 社会戯評

海外コンテポラリー・パーフォーマーと議論する:小諸青雲館AIR

 

小諸の青雲館アート・イン・レジデンス(AIR)に滞在して、地元のジャズダンス・スクールや日本舞踊の伝統流派やニューウェーブ系の日本舞踊流派などとのセッションや発表会への参加コラボを通じて、<表現者としての在り方>や、<コンテンポラリー・パーフォーマンスとは何か>、そして、昨年・今年の<地元住民関係者との交流とは、どのようにしていったものか>について、理屈っぽい古稀を過ぎた老人との議論が、始まった。

 <表現者としてのパーフォーマー>と、<オーディエンスとしての受け手である、観客>とは、<事前の説明がなくて、どのように、コミュニケーションをとるのか?>この質問の発端は、彼ら二名が、デュオの形で、日本舞踊の家元から、黒田節を教わり、これを演舞するという演目で、オーディエンスは、皆、この黒田節や、或いは、白虎隊に関しては、一定の理解を、その歴史。文化的な背景を理解しているという前提であるとはいうものの、コンテンポラリー・パーフォーマンスは、一体、事前に、どのような内容のモノなのかは、説明の必要がないのかというところから、出てきた。つまり、互いの何の<共通認識>が、なくして、果たして、<相互のコミュニケーション>、或いは、<眼に見えない化学反応が生じるのだろうか>という疑問!!である。

 たまたま、ジュースを飲みながら話をしていたので、これは、ジュースですよと説明した上で、パーフォーマンスをすれば、ビールではないことは、間違いなく伝わるだろうが、もし、誤解されるようであれば、それは、下手な演者であろう。しかし、そこには、全く、<教科書通り>で、決して、<想像する力が、オーディエンスの方には、生まれてこない>。<模範解答を演者から、示したり、提示するモノではないのだ>と、、、、、。むしろ、○○のようなもの、というような漠然とした何ものかを、パーフォーマンスで提示し、<想像力をかき立てるモノ>であって、決して、古典的なクラシカルな伝統芸能文化という<教科書ではない>と、、、、。

 では、<どこまでが、マッチングするというのか?>、相互にふれあうことになるのか?オーディエンスのレベルが、まちまちである以上、そのどこへ、演者は、訴えかけるのであろうか?古典というものであれば、例えば、黒田節なら、かくあるべしと言う理想的な、教科書的なもの、白虎隊であれば、白虎隊というものが、現としてある訳なのであろうか?能楽・歌舞伎・浄瑠璃・クラシックバレーも含めて、<演者の表現力とは、どのように反映されるのであろうか?>私には、この点が、コンテポラリー・ダンスという、謂わば、勝手に、如何様にも、解釈、新たな解釈を加えて、変容しても、許されるモノなのであろうか?

 昨年来日したときに、ドイツからのコンテンポラリー・パーフォーマンスは、Everybody Knows というヒット曲に併せて、割り箸をその象徴とするような演舞で、エコの精神やゴミのリサイクル、プラスチックゴミの問題提起を演じたものの、そのとき、事前解説として、そのような趣旨説明をおこなったものの、果たして、<その事前説明は、必要であったのであろうか?>事前説明というモノは、教科書的なモノの提示であって、決して、オーディエンスの想像力を刺激するモノではなかったのかもしれないという反省!

 岡本太郎は、芸術は、爆発だ!といったモノであるが、化学的反応と大爆発とは、一体、<どのような条件下があれば、成立する>モノなのであろうか?それとも、木っ端微塵に雲散霧消してしまうのであろうか?<目に見えない演者とオーディエンスとの交流なのか>、ふれあいなのか、将又、大爆発なのか?それが、一種の<感動という結果につながるモノ>なのであろうか?

 画家が年齢と共に、<作風が変化>してゆくように、コンテンポラリー・パーフォーマーも、同様に、<どのように、変化・変質してゆくのか>?何が変わり、何が変わらないのか?<伝統的な型>などは、この変質しない中核のようなモノなのであろうか?

ガイジンというコトだけで、日本舞踊もうまく踊れますね!ということは、褒め言葉であっても、<仮に、面をつけて、ガイジンという露出を隠して、演じたならば>、どのように、日本人のオーディエンスは、受け取るのであろうか? 仮面劇、仮面舞踏というものも、今後のワークショップには、試してみても面白いかもしれない、次回への改善が、必要であろう。

<気配>というモノを消すことは、パーフォーマンス、踊りの中で、可能なのであろうか?<動と静>のぶつかり合いや、或いは、<動と動>、或いは、<静と静>の中での、能楽などの、日本舞踊でも、ジャズダンスでも、音がなければ、果たして、どのような<静の世界>で、表現が可能なのであろうか?踊り手の側で、<ガイジンという気配・存在を消して>、それでも、古典的な日本舞踊の踊りの世界では、<表現は、可能なのであろうか>?ジャズダンスが、動とすれば、日本舞踊は、静の世界なのか?踊りを演じる前にも、コンテンポラリーダンスも、ジャズダンスも、団体で、一緒に、気分を高揚させるために、エイエイオー的なシュプレヒコールで、気合いを入れるのに対して、日本舞踊や能の舞では、事前に、<沈思黙考・瞑想>が、或いは、<静的な精神統一>が、不可欠なのであろうか?

全く歌詞の分からない、演歌の歌謡曲を、メロディーだけで、解釈して、振り付け表現して貰ったり、同じ曲を、別々に、日本人、ガイジンのパーフォーマーで演じ分けて貰ったり、<違いとは何か>を認識して貰ったり、<多様性とは何か>を感じたりも、面白いかもしれない。

まだまだ、次から次へと、疑問が生じてきて、もっとも、自分の英語能力の低さから、こうした微妙な言語表現が、伴わなかったせいなのか、眠気のせいなのか、分からないが、この次に、議論は、継続することと相成りました。それまでに、もう少し、関係者にも、質問して、勉強しておきましょう。お楽しみに、、、、、続く、、、、、to be continued,,,,,,,,,,,とします。

 


時代が変わる節目:天皇という存在と総理大臣

2019年05月02日 | 社会戯評

時代が変わる節目:天皇という存在と総理大臣

 

どこもかしこも、一応総改元祝い、右へ並への番組一色である。何故、こうも、まるで、帯状疱疹のウィルスが突然、組成してきたようなはしかのような異様なフィーバーぶりなのであろうか? 成る程、戦後の混乱期に、マッカーサーが、朝鮮戦争を境に、政治的な国民の統合としての象徴天皇制を、政治的に、なぜ利用しようとしたのかが、うっすらと理解出来るような気がする。零和の里などと喧伝された、太宰府天満宮ですら、わずか1日の入場者数が、3年分にも、達するとは、何とも、驚くべき、予期せぬ効果ではなかろうか?平成30年間の特集を振り返ってみても、日本の本当の意味での<時代の変革>という観点からのテレビ特集はなかったような気がしてならない。それ程、時代の変遷というエポックメイキング的の出来事は、まるで、太平洋戦争の開戦日にも、観られなかったような異常な高揚感に満ちているといっても過言ではない。

 象徴天皇としての時々の言葉やその行動の裏には、自らの誕生日に、東京裁判での戦犯への絞首刑の執行日が、モノ語るように、まさに、昭和天皇の犯した罪とその贖罪への、或いは、平和に対する、災害も含めた被災者、戦災者へのいたわりという意識が、国民に寄り添わなければならないという、まさに、<国民統合の象徴>という役割を果たしてきたのかもしれない。これに対して、<国民の代表>としての、総理大臣たる、安倍晋三は、憲法改正や、忖度・偽装・改竄などで、<建前論に近づこうとする天皇の言葉と行動>とは裏腹に、お題目の如き国民を疑似代表とする<ホンネの使い分け>を、行うという対照を映し出している。とりわけ、沖縄への住民へ降りそうと言うことは、タダの一度として、今でもないのは、どうしたモノであろうか?

 戦争がない時代とか、災害がない時代とか、世界中の人たちが平和と安寧の中で、幸福に暮らせる時代とか、そんなことは、誰しもが、実現されないと分かってはいても、分かっているが故に、そう願わざるを得ない現実が、一方では、存在する。凜とした佇まいとか、安心感を与える存在というような、まるで、模範的な修身道徳教育の理想から抜け出てきたようなそんな象徴的な人物像が、醸し出されているようでもあるコトが、この境目の日にも、感じられるは何故だろうか?それは、上皇にしても、新天皇にしても、自分の責任では決してなく、むしろ、それは、その国民統合の象徴という霧のような曖昧なモノを、利用せんとするものの存在を忘れてはならない。太平洋戦争の開戦日に、その日記に、皮肉な感想を記した、永井荷風ではないが、私たちも、時代が変わる節目とは、一体、何なのか、将来から過去の一時を眺めることしか、出来ないのであろうか?それとも、その通過時点で、はっきりと、分かるものなのであろうか?この日に生まれたということも、出産したことも、この日に死んだことも、この日に、結婚届けを提出したことも、どれだけの節目の価値が、どれほど、日常の連続性の中で、いかほどの価値があることなのであろうか?

 時代に即した皇室の在り方とか、象徴天皇としての在り方とは、一体、どんなモノなのであろうか?少なくとも、上皇となった平成天皇が、戦後、小泉信三やヴァイニング夫人に師事したコトを考えれば、留学経験という自分の頭でグローバルな思考と多様性の中で、考えることを学ぶことが出来た新天皇は、国民の間接的な代表たる総理大臣とは、異なる、日本人、或いは、日本としての理想的な在り方を、その言葉と行動とで、日本国民、或いは、全世界の人々にも、直接的に、グローバルに、訴えかけていける可能性があろう。それは、新天皇のみならず、新皇后にも、元女性外交官としての貴重なキャリアを生かした、重要な新天皇へのサポーターとしての役割と重責が課せられることでもあろう。何の象徴なのかを、問い直すときに、どこかの国の皇室みたいに、自由恋愛の末に、スキャンダラスまみれな元女優達とは異なり、凜とした、世界に堂々と胸を張って誇るべき日本の文化、伝統、歴史を、主権者たる国民次第で、如何ようにも、良い意味にも、悪い意味にも、時代は変節してしまう可能性があることを、改めて、確認されることになろう。渋谷のスクランブル交差点の大画面に群がる人の波と数寄屋橋交差点で、号外の配布に群がり狂喜乱舞する人たちは、このとき、何を思い、そして、30年後に、あの出来事を、何と思うのであろうか?

 


第55回小諸春の芸能祭りを愉しむ

2019年04月26日 | イベント 祭 催し

=第55回小諸春の芸能祭りを愉しむ:

 

アートインレジデンス運動で、いつもコラボして戴いているジャズダンス・スクールや日本舞踊の家元のグルーなどが、参加するというので、恩返しではないが、応援にゆくと同時に、パーフォーマンスを愉しむことにした。伝統的な日本舞踊も、謡曲なども、面白いが、やはり、演歌歌謡曲や聞き慣れたヒット曲に、併せた新舞踊やダンス・パーフォーマンスも、なかなか、魅力的であると感じられる。とりわけ、誰が振り付けしているのか、分からないが、知的所有権と言えるのかどうか、素人考えでは、何とも言えないが、振り付けで、全く、その曲のイメージが異なるから、興味深い。確かに、作詞に合わせた振り付けというモノ、例えば、これだけでも、十分、<振り付け大会>という一つのジャンルが、成立しそうである。逆に、作詞の意味が理解出来ない、外国人に、曲のイメージだけで、振り付けを創作して貰うことも、とても、面白いのではないだろうか?曲と作詞のマッチングで、表現する歌手とは異なり、言葉を理解できない分、曲のイメージを膨らませて、一方的に、勝手に、イメージを破壊する手法というモノも、なかなか、興味深いものがある。パーフォーマンスとは、1 or 2 FCL of Precision (8), we will have to charge the special price of JPY575 per 40L bag作詞言葉の意味合いが、理解出来なくても、曲のイメージを感性や個性をを通じて、表現するのも、如何なものであろうか?そんなパーフォーマーが、袴をはいたり、和服を着て、踊るのも、そのギャップを、別の意味で愉しめるのではないだろうかと、ふと、勝手に、想像したりもする。髪型や衣装や小道具なども、含めたトータルなパーフォーマンスというモノは、必ずしも、古典的な伝統芸能の神髄を、守り抜くということも大切なことではあるものの、破壊し、全く新しいモノに、変身させてしまう一種の化身的なムーブメントのような動きが、内在発露しても良さそうである。どう逆立ちしても、今や、踊ったりすることは、無理ある以上、観るだけでも、愉しみたいモノである。例えば、別々の曲ではなくて、逆に、同じ京であっても、全く異なるダンス・パーフォーマンスが、あっても良いのではないだろうか?何はともあれ、そんな理屈とは、別に、耳から、音と音楽を愉しみ、眼で、その光と表現の動きを追ってみると、カラオケとは又、別の愉しみが、生まれてくるモノである。あっという間の3時間である。アートインレジデンスの運動にも、何か、良い影響を及ぼしそうなそんなヒントがありそうな気がしてならない。昨年滞在したドイツ人パーフォーマーが、これから、約一ヶ月滞在するが、一度、議論してみたいと思います。又、障害のあるお子さんも参加しているのですが、もう一人、今回は、参加してくれて、一生懸命、その子達は、自分なりに、ダンス・パーフォーマンスをグループの一員として、演じていたことは、もはや、この運動は、単なる発表の機会提供ではなくして、もっと大きな意義を有する運動であるのかもしれません。お母さんが、その子の成長をとても喜んでいるのが、印象的でした。身体で、パーフォーマンスを演じると言うことは、単に、身体の一部のパーツを動かすだけではなくて、その子の気持ちの表現も含めた心の成長を身体が不自由であっても、十分、出来ると言うことを物語っているのかもしれません。アート・イン・レジデンスで、今回は、小諸に来れなかった車椅子ダンサーにも、こうした機会に、ジョイントして貰っても良いかもしれません。

千ヶ滝小唄ー正調版 軽井沢の名曲を繋ぐ会:Sengataki Kouta:

https://www.facebook.com/…/pcb.230192042…/2301920030047171/…

エンディング DIAMOND 小諸芸能協会:Ending No.1

https://www.facebook.com/…/pcb.230192042…/2301920070047167/…

エンディング 学園天国 こもろ芸能協会:Ending No.2

https://www.facebook.com/…/pcb.230192042…/2301920213380486/…

For 2019 SEIUNKAN Art-In-Residence (SAIR) , will collaborate with Takemoto Toryu, TSUCHIYA Jazz Dance School Members, Suzuki Kazui Dance School Members to support their activities.

Takemoto Toryu:
https://www.facebook.com/search/top/…

Tsuchiya Yoshimi Jazz Dance School:
https://www.facebook.com/…/%E5%9C%9F%E5%B1…/keywords_search…

Suzuki Kazui Dance School: & Dance Tips:
https://www.facebook.com/kazui.suzuki.12

 


ピエール瀧と薬物取り締まり:

2019年03月17日 | 社会戯評

映画、<ALWAYS3丁目の夕日 ‘64>を観るというブログを2012年02月03日に投稿した中で、<氷屋のおやじ役で出演していたピエール瀧>のことを、ちょこっと触れてみたが、その頃は、まだ彼が、音楽的な才能にも溢れるミュージシャンであることは、知らなかった。それにしても、その後の映画・テレビ界での活躍を考えると、今回のコカインの使用は、誠に残念の極みである。しかも、その出演した作品全てを、お蔵入りにしたり、出演シーンを削除したり、差し替えたりと、何とも、<作品と事件とを切り離す>ことなく、<ひとくくりに、全否定してしまう傾向>には、少々、ガッカリさせられてしまう。マスコミ、週刊誌も、こぞって、そういう方向性で、興味本位で、論じられ、扇動されている。覚醒剤や麻薬にしても、使用者は、<病気の患者>と称されても、必ずしも、<法律的な被告人や犯罪者>として、扱われるべきものでなく、寧ろ、<病人、乃至は、中毒患者>として、位置づけられてしかるべきであり、反社会的な勢力の一員たる<売人やカルテルの構成員>とは、別に、論じられるべきものではなかろうか?<法を犯したことは事実ではある>が、昔は、とりわけ、戦後の闇市・焼け跡の混乱時代には、ある種の不法薬物や吸引行為も、犯罪とは、見なされなかった時代もあったことは、事実であろう。たばこの科学的な病害が、今日、明らかにされつつある如く、時代の解釈により、その法的な取り扱いも、異なってくるような気がしてならない。

<如何に、患者を救済すべきか、立ち直らせるべきか、という観点>こそが、法律的な訴追とは別に、社会的には、必要で有り、そういう発想、患者を社会復帰させるという観点こそが確かになければ、ならないのである。さもなくば、いつまでたっても、下らぬ週刊誌的なネタ探しと、永遠に続く、負のスパイラル以外の何ものでないし、人間というのは、限りなく、そうした下らぬ詮索に終始し、決して、満足することはないであろう。

作品に、表された才能を、正当に評し、客観的に、万人による評価が、唯一、絶対的な評価とすべきで有り、犯罪者であるが故に、不当な評価を受ける権利は決してなかろう。又、決して、そういう評価を許容するような社会であってはならないし、決して、そういう社会的な風潮を許してはならない。社会復帰が可能になるような患者のケアーは、社会の中で、どうあるべきなのであろうか?コカイン患者という十字架を背負ったピエール瀧が、いつの日か、銀幕に、或いは、テレビに復帰できる日を待ちたいモノである。そして、そのとき、日本の社会の民度と成熟度は、どうなっているのか、楽しみである。果たして、そういう日は来るのであろうか?そして、それを迎えるに当たって、我々は、どういうことを行えば良いのでありましょうか?さもなくば、一緒になって、苦労して、作品を作り上げた共演者やスタッフの人たちは、報われることはないであろう。

 


与えられる側から与える側へ:人生での出会い

2019年03月15日 | 社会戯評

下記のFB上での発言を、シェアーさせて貰いました。(赤い太字は、ブログ筆者修正)

(QUOTE)

<117期メンバー 上田高校を卒業しました。>
3年生広報のSです。この度、私たち上田高校カンボジア井戸プロジェクトの3年生は上田高校を卒業しました。井戸プロが始まって約2年、これまで数え切れないほどたくさんの方々に応援をしていただきました。関わってくださった全ての皆さん、本当にありがとうございました。
振り返るとこの2年間はあっという間に過ぎてしまいました。2017年の4月、フィリピンスタディツアーから帰ってきたメンバーを中心に、世界の貧困問題に対して117期生独自のアプローチが出来ないかと考えた結果、このカンボジア井戸プロジェクトが発足しました。正直に言うと、発足当初は井戸プロの成功に対して懐疑的な人が非常に多かったと思います。というのも、バザーで本当に10万円が集められるのか、実際にカンボジアに行ってしっかりとした井戸が建設できるのか、という思いを皆が抱いていたからです。実のところ私たちメンバーも同じ思いを持っていたときがありました。
しかし、私たちの活動を止める理由は一つもありませんでした。たくさんの壁が私たちの前に立ちはだかりましたが、「少しでも安全な水を必要としている人の力になりたい。」という私たちの強い思いが揺らぐことはなかったからです。また有志だけでなく117期全員がこの思いを共有し団結したからこそ、その後の道が開けたと思っています。
私たちは初めてのバザーで地域、全校の皆さんの協力を得て10万円の収益を達成し、その後は現地渡航に向けての準備を始めました。この段階においても様々な問題が発生しました。しかしその度に顧問のT先生と共に私たちメンバー自身の思いを発信することで最終的には全ての周りの人が快く私たちを送り出してくれることになりました。
そしてカンボジアでの6日間。私たちはここに書き表せないほどたくさんのことを経験しました。悩み苦しむことの方が多かったかもしれません。帰国後、私たちは自身の経験や井戸掘りの重要性を伝えるため数え切れないほどたくさんのプレゼンテーションを行なってきました。そして2年目のプロジェクトの実施も決まり、第二回バザーでは20万円の収益を達成、今月の1,2年生のカンボジア渡航・井戸掘りへと繋がりました。私たちの活動報告にはたくさんの方が関心を持ってくださり、県外にも協力の輪が広がっていきました。
このプロジェクトを通したくさんの人々と出会いお世話になりました。今でもカンボジアで出会った子ども達のことを思い出さない日はありません。そして渡航前の期間においてはたくさんの方に支援をしていただきました。これまで私たちは何かを「与えてもらう」側だったと思います。しかし高校を卒業した今、今度は私たちが何かを「与える」側にならなければなりません。まだまだ未熟な私たちではありますが井戸プロで得た経験を生かし更に成長し、お世話になった方々に恩返しが出来るよう努力して参ります。
私たちにとってはこれで一旦「上田高校生」としての井戸プロは終わりになります。しかし私たちは自分たちが立ち上げたこの井戸プロを「ライフワーク」であると考えています。実は既に新たな私たち117期井戸プロの発信活動や渡航計画が少しずつではありますが進行中です。まずは今月の1,2年生の渡航が成功することを応援して、そしてこれからも井戸プロがずっと上田高校の文化として残っていくように私たちの最善を尽くしたいと思います。
最後になりましたが改めてこれまでのご支援・ご指導、本当にありがとうございました。そしてどんな時も私たちを信じてくれた一番の理解者である顧問のT先生、本当にありがとうございました。
そして今月23日からは1.2年生がカンボジアに渡航します。これからも井戸プロジェクトへの応援をよろしくお願いします。(UNQUOTE)

 

若い頃の<人との出会い>は、自分の人生を振り返っても、<良き師と良き友人>との出会いは、半世紀を経た今日でも、年に一度は、必ず、続けられており、仕事の上でも、公私ともに、その生活の上でも、大変意義深いものがあります。<50年前の若者>にとっては、これから、次代を担うべき有為の若者達が、自主的な活動と共に、或いは、T先生のような人たちの指導や外部の水知らずな関係者とも交流を重ねながら、<カンボジア井戸掘りプロジェクト>や、<シリア難民写真展>のような学内外・国内外活動を、<企画・組織化・実行・フィードバック>してゆくことは、PDCAサイクルではありませんが、将来の彼らにとっては、大変、自信にもつながり、将来の人生観や生き方にとって、意義深いモノであろうことは、疑いのない事実であろうと文章を読んでいて、感慨深いものがありました。札幌農業学校のクラーク博士ではありませんが、<Boys Be Ambitious (like my old gentleman) ! > ほんのわずかな時間でも、この年寄りのように、、、、のごとく、そんな出会いが、その若い人たちの人生を左右するものなのかもしれません。私の小学校の恩師(女教師で、国語専攻、書道・日舞・フォークダンス・卓球趣味)は93歳になり、私たち70歳になりたての生徒達よりも、誰よりも、知力・体力、健康で、はつらつとしています。<継続は、力なり>ではありませんが、是非共、継続できる限り、このプロジェクトを、継続指導していただきたいと思います、微力ながら、多少の散財のお手伝いは、年寄りの社会貢献、社会への恩返しと思って、協力したいと思います。又、東京でのフォローやケアーなども、<フーテンの寅さん>ではありませんが、人生の良き、<反面教師として>、人脈の紹介や相談に乗ったり、悩みを聞いたりしてお付き合いして貰いたいと考えております。多少、若い人には迷惑かもしれませんが、全く、利害を有することのない、爺さんの方が、両親や兄弟達とは異なる観点からの客観的な助言が、出来るかもしれません。何せ、先生と違って、私の友人達は、自分も含めて、<反面教師>ですから、、、、、、、。

又、お目にかかれる日を愉しみにしております。ご活躍をお祈りしております。