小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「小諸市太陽光発電事業の適正な実施に関するガイドライン(案)」等 パブリックコメント(意見公募手続)

2019年03月14日 | 社会戯評

http://www.city.komoro.lg.jp/doc/2018032000118/

 

若い頃ならいざ知らず、もう歩行障害者になってしまうと、若い人に負けじとばかり、ペンを、剣の如く、振るう以外に、手はないのだろうか?パブリック・コメントは、昔なら、そんな、<官製談合出来レース>と叫びながら、無視するのが関の山であろうが、締め切り期日が3月18日(月)正午までと迫り、又、ガイドラインの策定も3月末日という限られた時間の中で、一体、どんな意見が提出されるのであろうか?

何はともあれ、ガイドライン策定と、実施要項の方向性は、宜しいことであろうが、肝心な<監督性の欠落>と<工事業者の善意を前提>とする消極性、或いは、<住民の自主的な参加の観点>が、盛られていないことは残念なことである。

一体、無投票で当選した市会議員や県会議員は、今後、どう動くのであろうか?そして、肝心要の<次世代の若者達・現役世代>は、どんな意見表明をするのであろうか?

1.<50KW未満、1 ha 未満>も対象に含めるべきである

2.<住民参加型の環境アセスメント評価委員会>の創設すべきである

3.<空中眺望権を含む景観規制>を盛り込むべきである

4.<建設抑制区域の設定>を追記すべきである

5.<情報公開・説明責任・住民参加型・市当局経費負担削減>を具体的に制度化すべきである

6.<廃棄物処理供託金制度>の設置を提案します

7.<苦情処理・監視体制>の創出が不可欠である。

その他

「小諸市太陽光発電事業の適正な実施に関するガイドライン(案)」等

パブリックコメント(意見公募手続)記入用紙

(ガイドラインの前提条件):

  1. 憲法25条で保証された権利を守るために、下記観点から、<住民参加型>・<行政負担軽減型>・<情報公開と透明性開示>・<検証可能を保障する仕組み>・<説明責任>・<空中景観権を含む環境景観保全>・<生態系・危険危惧種の動物昆虫植物保護>・<30年後の廃棄物処理>・<生活環境>・<地質地形>・<水象検証>・<電磁波による健康・通信障害>等を基調した内容のガイドラインでなければならない。
  2. 発電施設の規模:50KW未満、乃至は、1 ha 未満の面積を対象に含むべきである。
  3. 平成27年制定の長野県環境評価条例に準じた小諸市独自の<環境アセスメント評価委員会>を、<地域住民有志・その指名する第3者土木などの専門家・農業委員・市当局、他>で構成し、検討する。事業者記入欄・市確認欄に加えて、<環境アセスメント評価委員会>の記入欄を追加する
  4. ガイドラインは、<事前申請・手続き中>・<工事中>・<供用時>・<供用後>それぞれ各段階で、評価実施れなければならない。
  5. 札幌市や茅野市や山形市、富士見市、山梨県等の条例規制の如く、<地域別:山岳地域・里山地域・里地地域・居住系市街地・農地系市街地> 別の<緑化率・植栽率の算定>など、細かな対応が必要である。
  6. 小諸市は、観光都市を目指す以上、<観光地周辺、歴史旧跡巡りやフットパス・トレールコースや別荘地、療養施設、ワイン栽培指定特区地域などに隣接する地域>では、環境・景観保全が必要不可欠であり、禁止すべきである。<抑制区域>として、原則、許可しない地域とする。

地域を象徴する優れた景観として、良好な状態が保たれている

豊かな自然環境が保たれ、学術上必要な自然環境を有している

歴史的又は郷土的な特色を有している

  1. 強い電磁波による健康被害や通信障害に関する基準値>を、チェックリストに挿入すべきである。
  2. 30年後の廃棄物処理への責任を明確>にすべく、<一定額の供託金>或いは<事実に反する虚偽申告のペナルティ罰金>を、小諸市特別会計に納入する制度の導入が必要である。
  3. 全ての工事申請書は、住民に対して、<小諸市HP上で、情報公開・透明性開示>を原則とし、<情報へのアクセス件を確保>これを徹底する。
  4. 電力会社への送電事前契約や、経産省への事業申請認可は、小諸市の事前、及び正式承認を経てからの後に、行われるべきモノであり、必ずしも、許可の前提にはならず、むしろ<小諸市当該ガイドラインの法的拘束力が優先される
  5. 事業者と地域住民との合意形成:従前の行政区の区長単独による工事の承認ではなく、<環境アセスメント評価委員会>を、<地域住民・農業委員・第三者有識者他で構成>た上で、説明会を経た上で、地権者も含めて、実施されなければならない。又、この組織を<住民・業者間のクレーム仲裁組織>と位置づける。
  6. 不在地権者や地主による土地賃貸借契約活用や、相続放棄や耕作放棄地での工事申請を防止するために、<土地登記簿での全部証明添付>で、<5年に遡って、不在地権者は、これを認めない旨を、追加>すべきである。
  7. 以下、個別各論に関して、意見を下記します。

 

各 論:

地域住民との協調性に最大限配慮した計画書

1, 出力50KW未満、乃至 1ha 未満の面積を対象とすべき

2, 地域住民参加型の<環境評価アセスメント委員会>の承認を追加すべき

3, <議事録の提出の義務>を加えること

4, <締結した協定書内容の情報公開>が不可欠である。小諸市HP上などで

<環境と調和困難な時に設備の設置を避けるべき地域>

5, 土砂災害危険区域 6,砂防指定区域 7,急斜崩落危険地域 8,保安林区域 9,農業振興農用地域10,第1種農地・放牧地 11,自然公園法特別地域 各項目: 略す。

環境評価アセスメント委員会への農業委員・森林組合・水利組合等の参加>を付加すべき。又、<トレイル・フットパス他、観光ルート隣接、別荘地隣接、ワイン栽培特区>、<空中眺望・景観権利の保護>、<ため池水面利用の禁止>、<危険危惧種の動植物・昆虫類の保護地区周辺での設置の禁止>半径何キロとか、<抑制地域>として、規定する。

法令に関わる協議・届け出

12;小諸市景観計画に基づく、浅間山への眺望(視点場)だけでなく、広く、<小諸百景を含む、観光地史跡、或いは、別荘地・保養所、ワイン栽培指定特区、トレイル・フットパス他の隣接区域>を、<抑制地域>として、追加・含めるべきである。

13,森林法:<伐採の制限と緑化保全・植栽義務の具体的な数量規定>の追記

14, 農地法 農地転用15 農業振興地域 : 農振除外など、環境評価アセスメント委員会への農業委員、森林組合、漁業組合、小諸市農林課、或いは、ため池水利権利者をも含めるべき、

16,自然公園法:略す

17,騒音規制法18 .振動規制法:騒音・振動のみならず、<強い電磁波による健康被害・通信障害の基準値を設定>すべき

19,文化保護法:略す

20:河川法:これに加えて、<ため池の水面利用の禁止>を追加すべき

22, 23, 略す

24,市景観条例:<空中眺望権を含めた景観の再定義が、必要!で、とりわけ、観光地や里山原風景の保全、保護が、不可欠である。

 <住民からの苦情申請窓口の設置>:申請書の内容に、違反する行為が行われたときに、地域住民から、クレーム申請窓口に、訴えて解決する権利を行使できる、<仲裁組織の必要性>

 <その他記載事項>:主として、工事計画段階を想定しているが、<工事中・設置後も含めるべき>又、実施されなかった場合の<苦情申請・仲裁組織設定がない>ので、創出すべきである。

25,フェンス・安全設備、26,道路の見通し悪化、: 略す

27,切土・盛土の適切な設計:<地震災害に伴う液状化などの強度問題証明書追加

28,擁壁の安定計算など:具体的な計算式の提示

29.管理事業者の看板設置:<業者側での苦情処理窓口部署の連絡先の明記>

30,敷地内の良好な樹木:具体的に、<地区別の植樹率・緑化率・栽植立を算定表示義務付け

31.小諸市景観条例:12項に準じた規定を追記すべき <景観形成チェックシートにおいて、<①位置、②規模、③外観、④色彩、⑤眺望景観の保全、⑥その他、>について具体的な配慮又は工夫の内容の提示を求める。

 ・⑤眺望景観の保全においては、眺望の主対象としての山岳(下図)、視点としての道路を 具体的に指定しており、視点から主対象の上端を結ぶ面(眺望面)を超えないこと、視点から直接的に見えないことなどを、地域に応じて求める。

32,目立たないフェンスの色、緑化と景観保全:小諸市独自の地域特性に応じた数値設定

緑化率=緑化面積÷敷地 面積又は開発面積等× 100(%)

緑地率=緑地面積÷敷地 面積又は開発面積等× 100(%)

樹林地率=樹林地面積÷ 敷地面積又は開発面積 等×100(%)

保全樹林地率=保全樹林地面積÷敷地面積又は 開発面積等×100(%)

33.モジュールの周囲と調和した色彩・反射光:略す

34.諸設備の色合い:略す

35.雨水排水処理:<どういう気象条件を想定すべきか>、大型台風などを想定したものか、など、具体的な条件の明示が必要、<時間降雨量何ミリ>とか、具体的に

36.モジュール反射光対策:危険危惧種の動植物昆虫への影響はないか?

37.各種公害(粉塵・振動・騒音・水質汚濁):<具体的な数値の設定が不可欠、工事計画段階だけでなくて、設置後の強い<電磁波などによる健康被害・電波通信障害も含めること。

38,土砂・廃棄物の流出防止策:計画だけでなく、<工事中・設置後の点検検証対策>こそが、より重要である。

39.一般車両・歩行者への安全配慮:略す

40.工事中の事業者への連絡先看板表示:29項目に準ずる

41.除草清掃などの環境保全計画:実施されなかった場合の<苦情申請・仲裁組織がない>ので、創出すべきで、環境アセスメント評価委員会を仲裁組織とする。

42.定期的な維持管理を実施する安全計画:

43.事業終了後の取り扱いがわかる環境計画:抽象的な表現で、30年後の廃棄処理などを想定しているのであれば、<一定金額の処理保証金としての供託金の拠出>を、小諸市特別会計へ、差し入れるべきである。

<届け出書類>

44.環境条例に基づく普通開発規制築内行為届:略す

45.設備認定の写し:略す

46.位置図:略す

47.平面図:略す

48.縦断面・横断面:略す

49:公図写し:略す

50:地域住民との説明経緯書:エビデンスとして、関係者押印の議事録の提出

51:協定書・地域住民との明文化した書類:署名捺印の協定書と小諸市HPへの公開

52:現況写真:略す

53:設備説明書:略す

54:雨水排水計算書・試験結果、処理施設津面:35の具合的な数値に基づく実験結果と環境アクセス評価委員会での審査承認条件とする

55:環境保全計画:設置後の実施措置も含む条件で

 

以上


四と4の違いに考える:

2019年03月14日 | 社会戯評

満70歳を過ぎると昔の美濃部亮吉東京都知事のお陰だろうか、地域のバスが、1000円支払うと乗り放題の無料特典を享受できることがわかっているので、早速、その特典を使用しないのも、勿体ないので、ということで、早速、介護保険証明書と運転免許証を持参して、所定の手続きをとったところ、早速その場で、無料パスが、発行された。早速使用しないのは、勿体ないので、雨の日などは、大変便利に使用し始めたところである。そんな折りに、近所の停留所の時刻表を、ネットで調べておこうと思い、バス会社のHPから、停留所別の時刻表をチェックし始めた。まずは、地図上で、停留所名を検索すると、行き先別に3つ程あることがわかる。駅に向かうそのうちの一つを確定し、駅に向かうバスの時刻表をへっくしようと、その出発場所である停留所名を入れ、次に、到着地点の駅名を入れても、どういうわけか、<エラー>表示が、何度も表示される。

そこで、お客様サポートに電話入れて、この障害を相談すると、一緒に、画面上で、同じ検索を同時にやって貰った。すると、私が何度やっても、<エラー>が表示されるのに対して。オペレーターは、一発で、検索される。数分間、問答を繰り返していると、相手から、入力でなくて、停留所の候補をスクロールして、選択入力する方法を提案され、実施してみると、見事に、問題なく、一発検索された!何でも、<停留所名を正確に>インプットしなければ、コンピューターAIは、対応しないそうで、私のPCは、ATOKを入れているので、4丁目と、英数字で、学習しており、四丁目という漢数字では、自動的に、弾くらしいことが、オペレーターとの会話の中で、明らかになりました。要するに、停留所名は、漢数字での表記で有り、洋数字の表記ではなかった事に起因する事がわかりました。

 この事実を、会社側に、メールで報告すると、大いに、喜ばれ、つまり、検索が初めになされなければ、その後に、決して進むことなく、その場で、その段階で、ギブアップしてしまうわけで、素晴らしいソフトでも、全く、活用されることがないので、HP上に、注意書きをHPに記載するように、要請しました。システムの会社でも、この障害を確認されたようです。

 成る程、AIというものは、実にやっかいなもので、洋数字と漢数字が違っても、認識せず、これを認識させるようにシステムを再構築更新しないと機能しないわけで有り、単に、数字が違うと言うだけのことではなさそうである。プログラミングの言語とは、そういうことなのであろうか?自動運転などに活用されている、<画像処理認識>にしても、これが、<危険かどうか>を、瞬時に、判断しなければならないとなると、事は、もはや、もっと、クリティカルである。そうなると、<機械PCの認識>とは、どういうことなのであろうか?四と4の違いくらいなら。まだ可愛いが、それで、自動運転では、停車しなかったり、通り過ぎたりされたら、どうしたものだろうか?<人間の認識>と<機械PC/AIの認識>とを、どのように、近づけられるのか?これから、益々、大きな問題になりそうだが、走りながら、考えていかないといけないのかもしれないほど、既に、AIは、我々の生活の中に根付いていて、外す訳にはゆかないものである事は間違いない。


50年前の元若者に何が出来るか?:太陽光発電工事の構造的問題を考えるに当たって、

2019年03月02日 | 社会戯評

=50年前の元若者に何が出来るか?:太陽光発電工事の構造的問題を考えるに当たって、

 

基本的には。現在進行中のこの問題は、単なる景観自然破壊とか、生活環境権侵害への抗議という側面だけではなく、もっと、本来は、巨視的には、国家的な構造的な政策、再生自然エネルギー政策と原子力発電政策の矛盾解明であり、或いは、微視的には、地方都市に於ける、森林税の導入によっても、食い止められない松食い虫による里山荒廃や林業の崩壊という問題や、土地未相続と登記放置や、空き家の増加などや、耕作放棄地の増加と、海外工場への移転に伴う地方税収の減収や、若年労働人口の減少による限界集落の課題や様々な地方創生の矛盾が、太陽光発電工事という形で、すべての矛盾が、そこにリンク集約されて、それらが、如実に現れてきている。謂わば、構造的複合的な問題が結実しているものであろう。

更に言えば、最近のあらゆる事象に共通するところである、昨今の風潮である、<不作為>、<忖度>、<未必の故意>、<組織的な隠蔽>、<個人の責任感の欠如>、<モラルの劣化>、<法制度的な欠陥>、<実務運用上のさじ加減>等など、その意味で、<大胆な様々な仮説と、それらの個別的な精査・検証>を、嘗ての<角栄金脈>ではないが、<構造的なアプローチを前提>とした考察が、必要不可欠であろうと思われる。今となっては、第一線の最前線で活躍した友人達も、既に、退役し、マッカーサーではないが、ただ消え去るのみ。であるが、若い人たちに、期待しつつ、そういう<アプローチ視点の必要性>を、理解してもらいたいものである。10代後半で経験した様々な社会運動の中で、何故、あんな年寄り達が、国家権力に抗して、子や孫の世代のために、老いぼれた身体を張ってでも、抵抗したのかと、思い起こすときに、自分が、同じような世代になって初めて、改めて、<老いぼれが何故>を、恥ずかしながら、実感する次第である。その意味でも、恥ずかしい人生の終焉を迎えたくないものである。(苦笑)

これから、一歩一歩、その長い道のりを通して、解明してゆくことで、様々な<光と影をあぶり出し>ながら、条件闘争とは異なる、<根源的なファンダメンタルな問題点へのアプローチ>を、反対運動といううねりを形成しつつ、剔抉してゆきたいモノである。

老いぼれに何が出来るのだろうか?<余りにも重い言葉という鋭い武器>、果たして、<ペンは剣よりも強し>なのか、それとも、単なるたわごと、戯れ言、で終わってしまうのか?ひとえに、それは、主体としての自分と、このメッセージを受け取る側との戦いでもあるし、それが、拡がるのか、萎んでしまうのか、いずれにせよ、恐らく、こちら側の主体は、ひたすら、老いぼれの誇りを忘れることなく、毅然として、命ある限り、ペンを剣の如く振るうまでのことであろうか?

<次世代に向けてのメッセージ>というと、何か、遺言のようにも思われるかもしれないが、寧ろ、先人が、それこそ、私が20歳前に、この目で接した<老人達の思い>を、改めて、別の形ではあるものの、受け継ぐ形で、言霊を発してゆきたいモノである。自分には、何が出来、何が、出来ないのか、と自らに問うとき、それは、<まず、できることから始める>ことが肝要で、身近なことで出来ることから始めるので、結構ではないでしょうか。

既に逝きし先人達の思いを改めて、自分自身に照らし合わせて、共有するとき、初めて、どこから、行動を起こせるのか、何をなすべきかを問い直し、意識のある限り、生きる限り、自分で出来る範囲のことを、その場その場、その役割に応じて、行なっていかない限り、<知らぬ間に茹で蛙状態>になり、気がつけば、周りを強い電磁波が発生するパネルだらけに、取り囲まれるという、酷い鎖国状態と同じになりかねません。この発想は、別荘地内の管理優先という、愚かな<時代錯誤的な管理運営会社方針>による、触らぬ神に祟りなしとする姿勢にも、通じるものです。

今日、犬の散歩をしていても、地下鉄に乗っていても、<Wi-Fi無線ルーターを携帯>していれば、どこでも、世界中あらゆる情報に接することが可能ですし、このメッセージも、ひょっとすると、コーヒーを愉しむカフェテラスで、スマホを観ながら、読まれているかもしれません。ことほど左様に、一方的ではなくして、あらゆる意見の異なる人も含めて、互いに、<インターアクティブに>、談論風発、意見をぶつけあって初めて、物事が、初めて、動き初め、<山が揺れて、次第に、動き始める>ものであると、<50年前の元若者>は信じてやみません。

ゲームに夢中になったり、パチンコ・スロットに、御先祖様が苦労して開墾したという歴史的な価値ある田畑を、濡れ手の粟の如く手にした札束を、惜しげもなく、時間を浪費しながら、<アパシーと無気力>の中、<茹で蛙>同然の施行停止状態で、これまで培ってきた人生のノウハウが、果たして、次世代に、きちんと、受け継がれるのであろうか?<50年前の元若者>は、社会への恩返しとは言わないものの、少なくとも、無償で、請われれば、ノウハウを提供・教示し、次世代の若者に、還元したいと思います。仮に、そういう活動が、<一種の社会貢献活動>と呼べるのであれば、この小さな動きも、決して、無駄なことではないであろうし、<一寸の虫にも、五分の魂が宿っている>という証拠にもなるやもしれませんね。そんな軽い気持ちで、個々人の持ち場持ち場に応じて、或いは、身の丈に応じて、足し算ではなしに、掛け算に、なるように、更には、二乗三乗になるように、双方向で、インターアクティブに、出来るところから、動いてみて、情報発信御願い致します。

 

 

 


<若い人の声が聞こえてこないのは、何故だ?!>:太陽光発電工事反対に思う

2019年02月19日 | 社会戯評

<若い人の声が聞こえてこないのは、何故だ?!>:

もう、何年も、国が瓦解し、溶けてしまうのではないかという危惧を、歳を重ねるにつれて、感慨ひとしおである。学生の頃、徹夜して、友人の下宿で、喧々諤々、天下国家を論じたというのに、今や、安保法制反対運動以来、若い人からの声が、聞こえてこない。代わりに、聞こえてくるのは、悲惨極まりない親からの虐待死亡事件や耳と目を疑うようなバイテロとかいう、考えられないような風潮で、民事訴訟損害賠償請求金額を、バカ親は、本人に替わって、支払うのであろうか?まぁ、そんなことはどうでもよろしいが、一体、<若い人の声は、どこへ、消えてしまったのであろうか?>、これほど、SNSが、喧伝されているにも関わらず、就活や婚活や日々の生業に明け暮れしていて、それどころではないのであろうか?まるで、言葉を失ったかのような息苦しい状況の中で、不作為や、未必の故意、無責任、無自覚、不条理、諦め、傍観、まるで、一昔前、例えられたような<茹で蛙>状態が、現在進行中で、このままでは、昭和恐慌頃の<テロルの正当性>も、決して、否定しきれない状況ではなかろうか?言霊をないがしろにする者は、結局、行為そのものをも、軽んじることになり、論理のすり替えや、真っ向議論を回避する手法で、アカウンタビリティーも、一切無視する人間は、結局のところ、墓穴を掘るのであろうが、それでも、今日、ほっかぶりと人の噂も、75日を過ぎれば、退職金もたんまり、そういうことなのであろうか?

人の年齢は、何で、推し量るのであろうか?最近、橋本治や堺屋太一などの訃報に接するたびに、考えさせられてしまう。体の芯底から、沸々と溢れ出んばかりのエネルギーと煮えたぎるようなギラギラした情熱を滾らせる若者を、どこにいるのであろうか、齢を重ねても、生き生きと最後の瞬間まで、生き抜いてきた故人に、どうしたら、そんな風になれるのであろうかと思い描く日々である。

人生など、若い時には、自分の思い描くようなことを思いっきり、やっても良いではないか?一回きりの人生、失敗しても、今の日本では、天安門事件時の戦車の砲身の前に、立ちふさがった若者や、その砲身を背けた解放人民軍の若い兵士にしても、どちらも、今、どうしているのかと思い巡らす時、対極的に、ハロィーンの渋谷の街頭で暴れた若い人は、一体、どれ程の違いがあるのかと思ってしまう。

そんな最中、たまたま、イトーピア小諸管理に隣接する区域で、太陽光発電の工事による自然破壊と里山原風景が破壊される危惧があり、更には、小諸市当局が、生活環境課を窓口として、環境条例のガイド・ラインの運用強化ではなくて、真逆の方向である、緩和策を検討しているという方に接し、昔の若者である年寄りが、声を発した次第である。

下記、8ページに亘る長文ですが、ご一読の上、その地区地区で、コラボしつつ、声をあげてください。

(引用):

 

<私達は、小諸市大久保のイトーピア別荘地の住民です>。近隣の小諸市御牧ヶ原台地で、現在進行中である、太陽光発電パネル工事による<里山原風景と自然・生活・環境の破壊>に対して、小諸市当局は、生活環境課をはじめとして、環境条例の規制を強めることなく、むしろ、逆方向の緩和策へと、舵を切ろうとしています。個人の自主的な責任ある確固たる意思と行動の下に、地域を超えて、一人一人が、この問題の本質を理解するとともに、その意思と行動で、コラボ、相互支援できる体制を整えるべく、下記するアピール文を、SNSを通じて、皆様に告知公開することとし、その第一歩を記すことと致します。

小諸イトーピア別荘地周辺間際の太陽光発電所設置に反対します。

 皆様による、その#シェアー #拡散 #リツイートをお願い申し上げます。尚、個人の意見を最大限度に尊重をするものの、最低限の社会的な通念に基づきつつ、且つ、非民主主義的なモラルを逸脱するような言辞は、自ずと抑制されて然るべしとするガイドラインを設けることとしています。これまでの運動とは異なる新しいモーブメントを展開できるように、高校生・若者から、お年寄りまで、或いは、日々の生活に追われている壮年の皆様も含めて、芸術・音楽・アート・農業・林業・公務員・市議会議員・主婦業・観光業・ワイン栽培業など、様々な分野で、ご活躍している方々が、自らの声を大にして、<双方向で、インターアクティブに、地域、年齢、時空を超えて、情報発信、相互交流できるように>、運動を進めてゆきたいと考えております。どしどし、リンクが、拡大指定ゆくこと、又は、その手助けをしていただける方々の支援を期待してやみません。

添付ファイルは、8ページに亘るものですが、まずは、お読みください。今後、適宜、意見表明を様々な形で、行ってゆきますので、ご支援お願いいたします。

 

 

住民への配慮を欠いた小諸市の太陽光発電所設置のガイドライン(小諸市長の2018年12月4日の市議会答弁を批判する!)

            

 

1.    太陽光発電所設置は、はたして、原発に代わるクリーンなエネルギーだ

ろうか?

 

東日本大震災による福島第一原発事故以降、国策として原発に代わる環境にやさしい再生可能なエネルギーの導入の一つとして、太陽光発電が重要視されている。しかし、国策として自然エネルギーの活用の一つとしての太陽光発電所設置は、家庭用の太陽光発電所設置以外は、自然環境や住居・生活環境、耕作環境にマッチしていません。長野県小諸市の太陽光発電所設備設置のガイドラインによると、小諸市は住民の意思を無視して、この国策に沿った太陽光発電所設置を推進をしている。

ところが、太陽光発電所が設置された周辺では森林は伐採され、水の流れが変わり、ソーラーパネルの下にシートを敷き詰めるか、あるいは、シートを敷かずに除草剤を撒いて雑草が繁茂しない処置が施される。シートを敷く場合は、雨水などの処理は浄化槽を通して処理し、土壌の保水能力が低下するとともに、乾燥化が起こる。一方、シートを敷かない場合は、除草剤を撒くことによって、土壌は除草剤で汚染される。いずれにしても、土壌の乾燥化や除草剤による汚水により、大地から再び緑を取り戻すことは難しいことになる。特に数年前から農地法の規制を緩めた結果、耕作地は耕作以外の利用が可能になり、休耕地に太陽光パネルを設置した場合には、再び耕作地には適さない。耕作に適した地力の回復には長時間かかることであろう。さらに、ソーラーパネルは、埃などで汚れると発電力量が下がるため、定期的に洗浄剤を撒いて洗浄しなくてはならない。休耕地や民有地、土地改良区についても太陽光発電所を設置した場合も、上記で述べた様に大地は汚染される。

さらに、太陽光発電所が住宅地周辺に設置された場合、まず、緑は失われ、景観が変貌する。ソーラーパネルからの反射光は、まぶしいだけではなく、私達が住んでいる里山の風景を失わせるものでしかない。ソーラーパネルの設置によって、周辺の気温は少し上がりますが、ソーラーパネルの洗浄剤散布は、住居・生活環境・耕作環境に悪い影響を与えるものである。

また、太陽光発電所設置に伴って、水の流れが変化し、さらに汚水が地下に浸透することによって、田や畑に影響を及ぼすことになる。つまり、太陽光発電所の設置は、自然環境を破壊し、住居・生活環境を害い、耕作環境には好ましいものではない。家庭住宅用の太陽光発電は、2009年11月から固定価格買取り制度(FIT)は開始されたが、今年で10年目を迎える所では、2019年11月でFITは終了する。約53万件、約200万Kwの太陽光発電所に対するFITは終了すると言われている。

2年前から九州電力では、太陽光発電による電力量が日によって増大した時に、この太陽光発電所からの発電力を使用せず、9回も止めたことがあります。稼働中の原発を急に止めて、また復旧させることが困難であるという理由によるものですが、九州地方における地震災害・火山災害などを考慮すると、原発稼働は避けるべきではないかと思う。

FIT終了後、年を経てソーラーパネルの廃棄処分の時期に至ったとき、事業者は実際に廃棄処分をするであろうか。小諸生活環境課の課長Y氏は、廃棄処分費用は、FITで対応すると述べているが、現在、メガソーラーに匹敵するパネルを廃棄できる業者は存在しない。さらに、ソーラーパネルの廃棄処分には莫大な費用がかかることが指摘されている。廃棄処分前に、事業者は太陽光発電の権利を他者に譲渡するか、雲隠れするのではないかと懸念されている。他市の事例を参考にすると、事業者が太陽光発電所の設置をして、稼働した段階から得られる利益の一部を、市側はパネルの廃棄処分に充てる費用として、市に収めさせる動きがあります

太陽光発電所が廃棄されないまま放置された場合、ソーラーパネルに使われているシリコンをはじめとする数種類から十数種類の重金属類が大地を汚すことでしょう。

 

2.    FITについての様々問題点が現われている。

 

 朝日新聞(2019年1月26日朝刊)によると、太陽光発電のFIT認定を受けた事業者が、太陽光発電所の設置をしないで、FIT認定の権利を売買したり、無秩序な自然破壊や住民とのトラブルを招いたりするなどの問題が、全国的に続出し、国や自治体がどうやら規制に乗り出そうとしている。例えば買取り固定価格を下げることや、太陽光発電より風力発電に比重を置く政策をとることなどが報じられている。また、新聞報道などで、電力会社がFITで支払った費用は、各家庭の電力料金に上乗せされていて、その総額は約2兆円~3兆円とも言われてきたので、政府も検討せざるを得ない現状になってきている。

 

3.    森林を失うと里山は滅びる。

 

昔から、森林を失ったことによって文明が滅びた事例が沢山あります。

古代のギルガメシュ物語もその一つで、ギルガメシュ王が友人のエンキムドゥと共に森の神フンババの退治に出かける物語である。このフンババは、そびえ立つレバノン杉の森をまもり、人間の欲望から森が破壊されることから守ってきた。ギルガメシュ王はこの美しい森を伐採し、ウルクの町を立派にして、幸福になることを目指した。そのためにフンババは退治され、レバノン杉の森は消滅した。

実際、古代では、レバノン杉は真直ぐに成長するため、船を造るのに最適なのでレバノンの杉を使って船を作り、地中海の諸国との通商で栄えた国が、レバノン杉を伐採し過ぎた為に森を失い、文明が滅んだことを物語っています。東京新宿区にある新宿御苑には、まっすぐに成長した立派なレバノン杉を観ることができる。中国ではシルクロードで栄えた楼蘭もオアシスが枯れて砂漠の中に埋もれてしまいました。最近では、中国の黄土高原の森林が少なくなり、

河川や空気は汚れ、PM2.5が付着した黄砂が日本まで到達してきています。

 一方、日本の江戸時代、信州飯山地方の鍋倉山周辺のブナ林を役人たちが伐採しようと来た時に、農民たちが「どうぞ、ブナ林を伐採してください。伐採すると田んぼに水が入らなくなり、納める年貢の石高が減ることになりますが、それでよろしければどうぞ」と言ったところ、役人たちはすごすごと引き返えしたそうです。農民たちは、森から出る水量と田んぼから採れるコメの石高の量が密接な関係していることについて、経験を通した知恵を持っていたのです。現在、信州トレイル(斑尾山~天水山までの80kmの登山コース)には、見事なブナ林が残っていてハイキングを楽しませ、また、里山は失われずに農業や地元住民の生活環境を守ってくれています。

 

4.    小諸イトーピア別荘地周辺間際の太陽光発電所設置に反対する。

 

私達は、小諸市大久保のイトーピア別荘地の住民です。

この別荘地は1008区画あり、その中で334軒の別荘が建っています。約半年前から、この別荘地周辺間際に、事業者から大規模な太陽光発電所設置について、3ヶ所[エコ革(パネル11300枚、1.65MW),藤巻建設(パネル8160枚、1.7MW),野村屋(パネル1000枚、400KW)]の申請が出されている。他に畑の間際は別荘地の隣接地ですが、小規模のソーラーパネル110枚の太陽光発電所設置の申請が事業者から出されていることを含めると、合計4ヶ所の申請が出されている。昨年の12月の時点で、小諸市に対して、事業者からメガソーラー以下の太陽光発電所の申請が33ヵ所、メガソーラーに匹敵するものが6ヵ所、事業者から申請されています。太陽光発電による1Kwh当たりの買取り価格が減少してきた現状では、事業者による駆け込み申請が、時間が経つにしたがって増えつつあると考えます。

何故、このように太陽光発電所の設置が長野県中部に集中しているのかという理由は、沖縄や九州地方は、日照時間が長い反面、気温が高いためソーラーパネルから得られる発電力量が落ちることと、東北地方以北は冬に雪の影響で十分な発電力量が得られないからです。

太陽光発電所設置については、イトーピア別荘地内では家庭用のソーラーパネルの設置は認められていますが、事業者による太陽光発電所の設置については、イトーピア別荘地の管理規則によって別荘地内での設置は認めていません。

しかし、イトーピア別荘地の住民が土地を手放して、その土地を事業者が買い取って強引に太陽光発電所の設置に着手した時、イトーピア管理規則は法的な規制ではないので、太陽光発電所の建設は、止めることは不可能です。

小諸市大久保の小屋場に、既に設置され太陽光発電所は3ヶ所あります。一つは藤巻建設のソーラーパネル4104枚(1000kw)のもの、残り2つは、事業者が同名(N氏)の方で、両方とも49.5kwの太陽光発電所です。藤巻建設の太陽光発電所は、小諸市大久保の諏訪山区からホタルの里に通じる道の急斜面に設置され、ソーラーパネルの下は土面で、パネルを支える支柱の土台にはコンクリートで固定されてなくて、土面に直接埋め込まれています。小諸市の太陽光発電所設置に関するガイドラインでは急斜面の設置は認められないとしているが、現実はガイドラインに違反する設置がなされています。この道をカーラジオをつけたままで通ると、パワーコンデショナーから出る電波でラジオが聞こえなくなり、散歩がてらにこの道を通ると、ブーンという騒音が聞こえます。大型の台風や豪雨が襲った場合、このソーラーパネルが崩壊するのではないかという危惧を抱いている人は一人や二人ではありません。この藤巻建設の太陽光発電所の道一つ下の崖下の畑では、農作物に異変(水やけで野沢菜やセンブリが十分育たなくなったこと。註:水やけとは、水が畑に入りすぎて農作物が十分育たないこと。)が起きています。この異変が、藤巻建設の太陽光発電所設置に伴って、ソーラーパネルの下の浄化槽の建設によって地下水の流れが変化し、畑に水や汚水が入りすぎたのではないかという因果関係を検証しているところです。また、藤巻建設の太陽光発電所内に造られた調整池から豪雨などに伴って時々水があふれて道路側に流れ出すことがあります。

また、藤巻建設の太陽光発電所の北側にある2つの発電所は、いずれも同じ事業者N氏所有の発電所で、事業所は「かねろくパワー合同会社(東京港区)」と「ふたつぎソーラー大久保第六発電所(長野県松本市)」よるもので、2つとも49.5kwの発電力量のものですが、小諸市の太陽光発電所設置に関するガイドラインでは、ソーラーパネルが500m²以上、50kw以上の場合から、小諸市の審査対象になることを考えると、同じ事業者が同じ場所で49.5kw×2の発電所の建設は、審査対象を避けるために、2つの発電所に分けて50kw以上にならない様に申請を取り付けたことが伺えます。過去に、事業者によっては、複数以上の事業所を所有している人もいて、小諸市の太陽光発電設置に関するガイドラインの対象からのがれる為に、事業所ごとに発電力量を50Kw未満に分けて申請すれば、いくつでも太陽光発電所の設置が認められることになります。現在では、同じ事業者が二つ以上の太陽光発電所を造った場合、それらの発電力量が合算すると50Kw以上の太陽光発電所設置については、小諸市の審査の対象になります。

この事業者が同じの2つの発電所のうち北側の方は、発電所と道との間に隔てるフェンス(擁壁)の上部は固定されてなくて、手で押すと曲がるような細い針金でできた金網で、東西方向に列毎に造られたソーラーパネルとソーラーパネルとの間に、約1mの幅の小道があります。子供たちがこの中に入ったりした場合は、感電死するのではないかと危惧して、小諸市の生活環境課に連絡したのですが、いっこうに改善されていません。以前には、この太陽光発電所に小規模の火災が発生しました。消防車がやっと通れる狭い農道をゆっくりと通って行きましたが、太陽光発電所の火災は、普通の消火作業ように水をかけることはできません。水の放射に伴って、電気が通電することがあり、消防士や付近にいる人に危険が伴うからです。

また、小諸大久保小屋場周辺には、以前はオオタカやノスリが巣をつくり生息していたのですが、今はその姿を観ることはできません。また、野ウサギやキツネ、カモシカの姿はここ数年見られなくなりました。また、場所によっては、レンゲツツジが繁茂しているところがあります。小諸市のガイドラインでは、太陽光発電所が占める面積が100ha以上でなければ、環境評価を実施しないとの報告を聞いたことがあります。100ha未満でも、動植物が生息しているのかどうか検証すべきだと考えます。

小諸市の太陽光発電所をいくつか観て気が付いたことは、ガイドラインによると、ソーラーパネルからの反射光や景観を損なわない様に、また、気温の上昇を抑えるために、太陽光発電所の周辺に樹木を植えることを義務付けられていますが、ほとんどの太陽光発電所の周りには、樹木を植えているところはありません。なぜ、太陽光発電所の周辺に樹木を植えるという規制を、事業者たちは無視するのかという根拠は、樹木を太陽光発電所の周りに植えると、樹木によって日照時間が減少することと、落葉がパネル上に落とさせないためであろうということが考えられます。また、ガイドラインによると浅間山の景観を損なわない様にという規定がありますが、小諸高校付近のみどり区周辺では、サンラインから目に入る太陽光発電所が建設され、浅間山系の景観を損なっています。

上田市、佐久市、軽井沢市の太陽光発電に関するガイドラインを参考にすると、公共施設や別荘地には特別な配慮をしなくてはならない規定がありますが、中には条例を作って自然環境や住居・生活環境を守る保障をしている市もあります。小諸市は、一般的な環境条例はありますが、太陽光発電所設置に関するガイドライン以外、太陽光発電に関する条例はありません。特に、太陽光発電設置に関して、上記の三市のガイドラインの中にはレッドエリアやイエローエリアを設けて規制している市もあります。小諸高校のすぐ脇にはメガソーラーが建設されていますが、上記の三市の中ではレッドエリアを設けて高校などの公共施設周辺での太陽光発電所の建設は禁止しているところもあります。学びの場で、窓を開けたらメガに匹敵するソーラーパネルが目に飛び込んでくる光景は、高校生たちに故郷の印象を害うものではないでしょうか。小諸市の杜撰さはどこから来るのでしょうか。

長野農業大学付近のビューラインの少し南側に富士見ヶ池があり、そこから秩父の山や富士山を観ることができます。この池の名称は、その地点から風景に因んだことだと思えます。その南に大きな貯水池があり、その間際にカフェ&ワインのお店が最近できました。そのオーナーの方から、この高台の下の崖側に大規模な太陽光発電所の申請がなされていると知り、急遽、店の前の小さなブドウ栽培用の畑を買うことができたという話を聞きました。オーナーの方は、360°の展望を見ながら、コーヒーとワインを楽しんでもらおうと店を出したのですが、太陽光発電所ができると景観が損なわれると嘆いていました。一人のカメラマンが、ここから見る景観が最後になるのではないかということで、景色をカメラに収めていたことが印象に残りました。

 

5.なぜ、小諸市長は、イトーピア別荘地の住民の意思を蔑ろにするのか。

 

今年(2018年)の11月初めから11月15日まで、イトーピア別荘地の住民に対して太陽光発電に関して、設置に賛成か、あるいは、反対かのアンケートを取りました。その結果、90%が反対でしたが、小諸市長はアンケートの結果を無視するとの書類を送ってきました。

12月4日、小諸市議会で野党の方が、「なぜ、小諸市では他市のように太陽光発電所設置に関するガイドラインにもと付いて、住居・生活環境、自然環境を守る条例を作らないのか」と質問したところ、小諸市長は、「小諸市が条例を作り、事業者の太陽光発電所の設置を却下した場合、事業者から訴訟に持ち込まれ、小諸市側が敗訴になった場合、損害賠償を支払わなければならないからだ。(註:このような訴訟をスラップ訴訟と言う。)」という答弁をしました。小諸市議会だより(177号)によると、野党の方が「ガイドラインを見直しして新たな指導要領で対応するとの方針で区との協定を義務付けるとあるが、仮に協定が締結できなかった場合、(太陽光発電所の)建設を中止できるのか」という質問に対して、環境水道部長は、「行政指導でお願いするしかなく、計画を止めることはできない」と答弁され、また、「ソーラーパネルの維持管理や廃棄時の規定についても強制力が持てるのか」と言う野党からの質問に対して、環境水道部長は、「法律の縛りが無い中では、当事者同士の信義に基付いて実行、担保されることになろう」という答弁がなされた。この部長の答弁は、太陽光発電所建設の問題を他人事のように思っているのであろう。この小諸市議会だよりの中で、小諸市長の答弁(「事業者への営業の自由への配慮、訴訟リスクなどの課題があるので検討していく。」)が簡単に載っています。事業者への営業の自由への配慮を一方的に認めているが、小諸市の市民の住居・生活環境、自然環境を守る自由は無視されている。

この小諸市長の答弁に対して、長野県 環境部 環境エネルギー課に問い合わせたところ、この課の課長:M氏から、今までに自治体が事業者から訴えられて、敗訴になり、損害賠償を請求された事例がないことを次のように述べられました。M氏の発言:「お問い合わせいただきました『長野県の自治体で、太陽光発電所の事業者による訴訟で、自治体側が敗訴になった事例』は、承知しておりません。なお、他県の事例になりますが、筑波山の景観保護エリア内への太陽光発電所の事業者による建設計画をめぐり、県の不許可処分を取り消し、設置許可を義務付ける水戸地方裁判所の判決の新聞報道(茨城新聞)がありますので、参考までに紹介させていただきます」とのことでした。現在、茨城県が控訴して訴訟は継続中とのことでした。

筑波山は古代万葉の頃からの由緒ある場所であり、太陽光発電所の建設は地方文化を破壊するものであろうと思える。  

小諸市長は、昨年(2018年)の12月4日の小諸市議会の審議で、事実に反する嘘・偽りの答弁をしたのです。なぜ、小諸市長は嘘・偽りの答弁をしたのかという理由を明らかにすべきだと考えます。

小諸市の生活環境課のY氏からは、事業者からのスラップ訴訟をリスクがあると見做して、事業者からの太陽光発電の申請を受け付けることと、小諸市民で太陽光発電所設置の要望があることをもう一つの理由としていますが、この理由も確たる根拠が薄いように思います。その理由は、長野農業大学の東側にできたメガソーラーの事業者は、九州の福岡ホールディングスで、小諸市の事業者ではありません。また、小諸市の小屋場に建設された2つの太陽光発電所の事業者のN氏の事業所や藤巻建設の事業所も小諸市の市民の所有ではありません。小諸市の生活環境課の回答もそのまま鵜呑みにはできません。生活環境課が、小諸市に建設された太陽光発電所の事業者のうち、何パーセントが小諸市在住なのか、明らかにする必要があると考えます。なお、小諸市の生活環境課に、自治体の中で、事業者によるスラップ訴訟で敗訴になった事例があるのかどうか尋ねた時、生活環境課のY氏からは、「そのような事例を掌握していません」という回答でした。生活環境課が自治体側の敗訴の事例を掌握していない現状の中で、小諸市長の答弁は、事実に元付かない発言は、小諸市民を欺くことの何物でもない。そして今なお、小諸市長以下の主だった環境水道部長や市議会議員の中には、事実に基付かない考えを小諸市民にアッピールしていることは、市議会そのものの運営の在り方が問われるものと思われる。 

なぜ、小諸市議会は、事業者の営業の自由のみを認め、住民側の意思を無視して自然環境の破壊に手を貸すのであろうか。住民の生活環境や自然環境、耕作環境を守る保障をせず、太陽光発電所設備設置に関する条例を作ろうとしないのか、その理由を検証する必要があると考えます。

 

5.    小諸市の休耕地・民有地・森林などの土地の利用は、自然環境・生活環

境・耕作環境を守ることを保障する中で、多角的な視点をもって企画することを要請する。

 

小諸市は環境条例の見直しのプロジェクトを始めたようですが、小手先の

太陽光発電に関するガイドラインや一般的な環境条例のちょっとした見直しの修正で終わらせるのではないかと危惧します。小諸市は太陽光発電所設置に関する条例を作って、自然環境・住居生活環境・耕作環境を守る保障をすべきではないか。さらに、休耕地等の土地の利用の仕方は、太陽光発電所建設に限定せずに、自然環境や住居・生活環境、耕作環境を破壊しないやり方で、資金援助も考慮に入れて、多角的な視点をもって推進すべきであることを提案する。

 

                                (以上)

 

 

下記サイトも併せて、ご参照ください:

http://stop-suwashishigamegasolar.com


フェイクさぼてんも悪くない!?

2018年12月23日 | 自然・植物・昆虫

=フェイクさぼてんも悪くない!?

 最近では、フェイク・ニュースや、詐欺メールにも注意しなければならないので、大変な毎日である。愛犬が5年前に亡くなってしまったので、腰を悪くしてからは、一緒によく散歩した川沿いの散歩道も、一人では何とも虚しく、そうかといって、昔のように、女房殿の買い物に、マーケット・リサーチと称して、濡れ落ち葉の如く、ついて行くわけにもゆかず、スーパーや本屋の中で、ウロウロ、歩数を気にしながら、軽い歩行運動をすることになる。ある日、最近、話題になっている著名な高級家具店に対抗するカタカナ3文字の量販家具チェーンを散歩していたら、果肉植物が、なかなか、シックな形の花瓶の中に、植えられていたのを発見して、値札を観たら、ワン・コインだったので、これは、お値打ちで、安いと思い、衝動的に、購入して、それ以来、霧吹きで、さぼてんに水やりをしたり、息子夫婦に、これは、優れものだと、購入を勧めたり、時々、陽に当てたりと、結構気に入っていたものである。それでも、日がたつにつれ、そんなさぼてんのことも忘れてしまい、たまたま、駅のショッピングセンター内のおしゃれな洋風雑貨屋で、クリスマス用品の近くに、似たようなさぼてんが、似たようなガラス瓶の中に、植えられているのが、眼に入ってきた。何気なしに、いくら位するのかと手に取ってみて、眺めていたら、ふと、ラベルの表示に、眼が止まった。白内障気味の目を凝らしてみると、そこには、フェイクさぼてんとの表示があった。そして、容器の素材は、ガラスではなくて、割れにくいプラスチックであると、記載されていた。恐る恐る、さぼてんと土と思われる素材に、手で触ってみると、成る程、よく出来ているモノである!ということは、我が家にある似た代物も、ひょっとして、フェイクさぼてん、フェイク土で出来た、プラスチックのガラス瓶とおぼしき容器も、そういうことなのであろうかと、帰宅後、確認してみたら、結局、フェイクさぼてんという結果であった。そういえば、霧吹きをかけても、なかなか、成長もしなければ、枯れもしないし、土の色も、乾かないし、いやはや、恐れ入りました。多分、購入時に、ラベル表示をよく見ないで、はさみで切って捨ててしまったようである。

それにしても、よく出来ているモノである。知的財産権を侵害する違法偽高級ブランド・バッグや腕時計ならいざ知らず、フェイクさぼてん、観葉植物でよかった。ワン・コインで、こんな楽しみと癒やしの感覚を味わえれば、元は取れたかな?和紙の切り花もなかなかの出来映えだが、このフェイクさぼてんは、たいしたものである。お薦めですね!


一物三価・四価の時代の不思議:

2018年12月14日 | 社会戯評

一物三価・四価の時代の不思議:

 

統制経済というものでは、一物一価が、当たり前と思うかもしれないが、今日、<人の上に人を創らず>という子どもの頃から、学校で教えられたことが、老人になって、どこか、空疎に、最近聞こえ始めてきたのは、どういうわけであろうか?それもそのはず、ネット送金などのITアプリを使用したも者には、慣れ親しんできているものの、どうも、LINE Pay とか、PayPay とか、携帯スマホ決済アプリ等には、どうも、いまいち、抵抗を禁じ得ず、早く、銀行も、こうした安価なサービスを、始めて貰いたいモノであると、鶴首していたら、LINEとMIZUHOが、新たな振り込みサービスを開始するとか、風聞していたところ、PayPayが、コンビニやタクシーでの決済を利用すると、消費増税を上回る割引がなされるそうで、<ホンマかいな?>と耳を疑いたくなる程、サービスが拡大中の勢いであるそうだ。どんな仕組みで、そうなるのかは、説明がされていないが、、、、、、。こうなると、タクシーを利用するのも、ウーバーではないが、相乗りでもしたら、Aさんは、現金、Bさんは、カード、Cさんはスマホ・アプリ、Dさんは、PayPayとなると、一体どの値段が、正しい価格なのであろうか?それとも、表示価格なるものは、これから先は、暫定的な表示価格で、決済時に、何%か、決済手段毎に異なる値引き率で、或いは、貯蓄残額の多寡に応じて、引き落とされるという、誠に奇妙な<不平等な決済>が、常態化することになるのであろうか?即ち、現金正価なるものは、これからは、夢幻の価格表示であって、ITディバイスを有効活用できるもののみが、<最大優遇率>を享受できることになるのであろうか?換言すれば、これからは、一物三価・四価が、当たり前になる、そういう<自己責任・不当な平等時代>が、私のような、(PCのネット送金は良いが)ATM操作不慣れな弱者(?)にも、容赦なく、押し寄せてくるのであろうか?コンビニで、携帯のチャリーンという音が鳴るたびに、ナナコ・カードへの入金が憚られるのは、どうしたモノであろうか?ソフトバンクの大規模通信障害で、スマホアプリ決済が、滞ったように、ファーウェイ携帯でも、同じことが起こったのであろうか、それとも、タクシー内で、現金持ち合わせがないと言ったら、どうなるのであろうか、無賃乗車になるのか?<一物三価・四価の時代>にこれから、どうして、生き残っていったら良いのであろうか、誰か、教えて貰いたいモノである(苦笑)。

 


大杉 漣、映画、<教誨師>を観る:

2018年10月16日 | 映画・テレビ批評

大杉 漣、<教誨師>を観る:

 

2018年02月21日に急逝してしまった、<300の顔を持つ男>と異名をとる、大杉漣、イグゼクティブ・ディレクターにして、且つ最期となってしまった主演作品である。ネタばれになるので、映画の内容は、予告編などで、参照してもらえれば幸いなので、ここでは、映画の評論にとどめることにする。限られた時間、残された時間の中で、生きている6人の死刑囚の経緯・馴れそめが、後半に懸けて、徐々に、観客にも、理解されてくると同時に、教誨師という経歴に何故になったのか、どういうきっかけでなったのかという、対峙する側の個人的な履歴も、この映画の中での大きなテーマであろう。求道者にして、罪人を悔い改めさせ、善人にみちびく、魂の安寧に至らしむる役割とは、キリスト教に限らず、ここで登場する宗教という役割自身、そして、何より、刑法・死刑制度、裁判制度、それ自身の在り方、又、栽培員裁判や陪審員制度とは、被害者と加害者、或いは、それら各家族や友人を含めた関係者との相互関係性、道徳的な罪と罰、国家権力による無慈悲な合法的な死の執行、究極的な物理的な生命の抹殺、等などとは、すべて、正しいことなのか、それとも、単なる自己満足・偽善的なことなのか、又、その本質を知ろうと追求することこそが、果たして、本当の意味で、真実とは、何で、正しいことなのか、それとも、自己満足であって、何故理解し、知ろうとするのか、?

一体、本質とはどういうことなのであろうか、裁く人間と裁かれる人間との間には、何があり、何故、死刑囚は、何のために、生き続けるのか、我々は、何故、残されても、生き続けるのか、理解者として教誨師の行う、<対話>とは、一体、何のために、それは、本当に、心と心、魂と魂が、激しく、ぶつかり合い、言葉と言葉が、火花を散らしながら、何か、互いに、融合でもするのであろうか?一見、懺悔と基督教徒への入信への牧師としての手助けも、後日、<罪が、誰によって、本当に裁かれるのであろうか?>というグラビア写真に拙い覚えたての平仮名でメモ書きに残されたホームレスの老人死刑囚の一文には、余りにも重いものがあろう。生きるためには、平気で、無意識のうちに、或いは、意識的にも、教誨師にも、平気で事実を捏造したり、嘘をつき、利用する死刑囚のしたたかさ、生きるためのギブ&テイクにも似た生きるために手段を選ばない取引のようなやり方など、相模原障害者殺人事件を模したようなエゴイスティックな狂信的な若い死刑囚との議論にも、一瞬、たじろがざるを得なくなる教誨師に、その死刑執行直前に、ふらつきながら、抱きついた瞬間に、<耳打ちで、口にした一言は、一体、何だったのであろうか?>この自分が犯した犯罪を理路整然と主張し続けた若者に、最期の瞬間直前に、<教誨師に、何をつぶやいた>のであろうか?私には、大変、興味深く、気になるところである。

今から、50年ほど前の大島渚監督の<絞死刑>や数年前の是枝裕和監督の<3度目の殺人>など、併せて、再度じっくり、観てみたいモノである。本当ならば、大杉漣に、イグゼクティブ・ディレクターとしての感想やら、コメントが、貰いたいところだし、第二作・第三作も、期待したいところであるが、誠に、本人も無念な想いであろうことは、容易に想像できる。各俳優の評価も、余りよく知らないので、コメントは、差し控えることにしますが、70年代に、若くして、藤十郎や寺山修司に、学び、その後、劇団で、<沈黙劇>を学び、80年代の下積の食えない役者時代には、ピンク映画やVシネマで、食いつなぐ中で、あの独特な癖のある、嫌らしいカメレオン的な役柄を、<300の顔を持つ男>として、雌伏して、ようやく、90年代に、<遅咲き俳優>として、HANABIやソナチネで、北野武監督に、しかも、その見いだされ方というのも、際だって、偶然の出来事で、役者人生とは、誠に、奇妙なものである。最期の息を引き取るときも一緒であった田口トモロヲも、含めて、こうした役者達が、一瞬の閃光とともに、光を放ちながら、消えてゆくのは、おおいに、残念で仕方ないし、映画の手法や、ディテイルには、若干満足いかないものがあるものの、その大命題である、各種のアングルから、とりわけ、教誨師という観点からのアングルは、評価されて宜しいのではないだろうか、又、長編歴史小説など多数作品を残している吉村昭の短編、原作<休暇>(中公新書の蛍に所蔵)も、読んでみることにしよう。

志半ばで急逝した大杉漣の御霊よ、安らかに!と祈ってやまない。

 


西島三重子を聴く:

2018年10月11日 | 社会戯評

西島三重子を聴く:

 

調子に乗って、一寸、夏の草刈り機をやり過ぎたのか、もう一ヶ月も前に、腰椎にヘルニアの未だかつて経験したことのない激痛が走り、急遽、東京の家に、女房殿の運転で、連れ戻されて以来、これまでの活動が、無期停止状態になってしまった。ドクターによれば、3-4ヶ月は、裁定でも、手術を回避して、自然治癒を目指すのであれば、しっかりと、トレーについて、運動と軽度の筋トレをしないと、脊柱管狭窄症に加えて、車椅子生活を余儀なくされるとまで、脅されてしまい、自宅療養中に、仕方なしに、YouTubeで、動画や、音楽鑑賞となってしまった。それでも、良い根性をしているせいか、音楽を聴きながら、(当分、映画は、外出できるまで、お座り、お預け状態ですが、)何か文章でも書いていたいと思い、懐メロを聴いていたところ、西島三重子というシンガー・ソングライターの<池上線>や<千登勢橋>などの歌を何度となく、聴くことになった。野口五郎の<私鉄沿線>程の大悲とではないが、よく似た情景の描写と叙情曲である、ほとんどが、その昔の恋愛の想い出の回想が主題である。人は、時として、想い出の中に、生きることはないかもしれないが、想い出をかみしめる時があっても良さそうである。戻れない場所、戻れない時間、戻れない想い出と、そして、今の自分と、それにしても、情景というものは、歌詞のなかで、巧みに、メロディー・ライトともに、まるで、その情景が、タイム・スリップしてくるように、描かれているモノである。歌というものは、そういう情景そのものを、あたかも、その場所にいるかのような錯覚に、陥れる作用があるようである。竹内まりあの<駅>を、中森明菜が、情感を込めて歌い上げた<情景>は、別にしても、西島三重子の歌い上げる空間と時間は、思わず、50年も前の<時間と場所>に、舞い戻ってしまうかのような力が確かにそこにはあるようである。決して、超一流の歌手ではないかもしれないが、それにしても、歌というものは、時間を超越して、誰か一人でも、感動してくれるのであれば、それは、きっと歌手冥利に尽きるものなのかもしれない。<池上線ふたたび>などという新たな曲を、リリースする必要は全くないのでないのだろうか?一芸芸人ではないが、ひたすら、50年でも、60年でも、死ぬまでも、歌い続けて、やり続けていても、良いのではないだろうか?作曲家を目指したようであるが、<池上線>の作詞家、佐藤順英のエピソードも、余談としては、なかなか、<神田川>の作詞家、喜多條忠のエピソードと並んで、興味深いものがある。日吉ミミや小柳ルミ子への曲もよかったですね。

 

西島三重子songs:

https://www.youtube.com/watch?v=cZT7IlhE-zA&index=3&list=PLuvYRKGxs2x21I3YAXs27u-jnYhflI7dJ

 


インド映画を2作続けて、愉しむ!

2018年08月18日 | 映画・テレビ批評

インド映画を2作続けて、愉しむ!

子どもの頃に、同時代をガンジーやネールといった、インドの偉人達と共有したという刷り込みは、とても、大きい。インディラという戦後、何もなかった動物園に、寄贈されたインド象も、子どもの頃には、何度となく、遠足で観に行ったモノである。インド映画というものに、始めて触れたのは、もう何十年も前の海外出張中に、ホテルで、日本語放送が、移らないかと、チャンネルをむやみやたらに、回していたら、歌と踊りの何とも、華々しい、まるで、キンキラキンの宝塚歌劇団のように、これでもか、これでもかのように、主役格の男女とともに、大勢の踊り子・歌い手達が、次から次へと、出てきて、これが、終わりまで、続いていたことに、驚きを禁じ得なかったことを何でも、想い出す。

 それにしても、最近では、絶叫型映画上映とか、視聴者参加型コスチューム付きの上映とか、様々な形態の上映が、行われているようであるが、再来年に100年を迎える上田映劇では、流石に、そんな類いの観客が、観られなかったのは、当然と言えば、当然であるが、内心、残念だったといえば、嘘になろうか?

 何はともあれ、連日展開する、朝ドラの脚本家による、一方的な15分間での見せ場作りに為のあらゆる仕組みと、独裁者並みのストーリーの劇的な展開とは異なり、或いは、難解なミステリー・ドラマのような、気の抜けないようなワン・シーンを見落とすまいとするあの緊張感とは別に、実に、このバーフバリ <伝説誕生>と<王の凱旋>という連作は、単純明快、難しいことを考えない、すべて、これまでのそんな複雑な脚本家の意図を、ほったらかしにしておいて良い程、すっきりとしている。三世代に亘る壮大な叙事詩のごとき筋書きの展開とSFXを駆使した画面、歌あり、踊りあり、ファンタジーあり、余りに壮大なスケールに、ロード・オブ・ザ・リングの大作を思い起こさせるような戦闘シーンやら、更には、現代的な、セクハラや、大国による小国への威圧とか、考えようによっては、現代的な問題がちりばめられていて、不条理とか、カースト身分制度・奴隷制とか、差別とか、貧富の格差とかも、一挙に、氷解させてしまわんばかりの、王の強さ、正しいものは正しいという単純明快さ、ヒーロー性、陰謀は、必ず、失敗に帰する、悪は、成敗されるという帰結、裏切りや謀略により、死しても、その後も、再び、血縁とともに、正義は、復活するという、まるで、今の世の中の現実とは、全く、真逆な明快な主張である。

 この映画を見終わると、一体、今の世の中は、どうなっているのであろうかと、とりわけ、今の日本は、繰り返される、公文書の彩残、国家公務員による政権への忖度と不作為、嘘の上塗りでも、説明責任を果たさない為政者、言論の弾圧と人権の蹂躙を、強国の大義名分のもとで、継続し続ける、大国など、考えさせられる。尤も、ここから、安易な単純なヒーローの出現期待などを危惧する必要性も毛頭ないであろう、そんな難しい話は、忘れて、一時を、思い切り、主人公とともに、愉しむ方が宜しかもしれない、昔は、フランス映画や、イタリア映画なども、面白かったが、これからは、ハリウッド大作ではなくて、インドやイラン映画・台湾映画なども、ひとつのジャンルとして、上映して貰いたいモノである。次回作も楽しみである。難しいことは、忘れることにした!

 


難民になる可能性を考える:

2018年08月17日 | 社会戯評

=難民になる可能性を考える:

上田高等学校有志の方々を支援する活動の中で、改めて、<難民になる>とは、どういうことであり、又、その可能性は、どのくらいのものなのかを、考えることにしてみた。一般的には、政治的な難民が、一番、考えられることになるが、どうやら、必ずしも、そうとは限らない現実があるようである。確かに、戦争・紛争という究極の人権抑圧の手段を強いられる状況は、現在の様々な地域紛争、非正規軍戦争型の具体例を観ていても、十分理解されうるが、それに至らずとも、様々な難民になる形態の可能性が十分に、ありそうである。そのひとつが、東日本大震災のみならず、地震、火事、水害、などの各種災害によるものは、何も、基本的な人権の抑圧などでもなくて、簡単に、<幸せな日常生活も安寧が破壊されてしまう>ものなのであろう。そう考えてみると、難民とは、必ずしも、政治的な、遠いどこかの国の出来事でもなくて、広義の意味からすれば、<日常生活の突然の破壊:日常性から、非日常へと強いられる環境の変化>というクライテリアからすれば、いつ何時、自分の身にも、及ばないとは限らないリスクを孕んでいることにもなるのかもしれない、それは、不条理な事故によるものも含めれば、ありとあらゆる場所と機会に、難民と同じ境遇になる可能性が、日常生活にも、潜んでいるものなのかもしれない。更には、突然の会社の倒産による失職・レイオフ、自身の、或いは、連れ合い、家族、子どもなどの病気・健康のリスク、最近では更に、結婚しない兄弟姉妹リスク、考えてみれば、ありとあらゆるところに、<難民に等しい環境下に置かれうるリスク>が、確かに、潜んでいるように想われてならない。

命ある限り、戦争下であろうとなかろうと、食べること、排泄すること、眠ること、生きることは、どんな状況下でも、同じことがいえる訳で、破壊されてしまったコンクリートのがれきの中でも、死臭漂う廃墟の中でも、自分の幸せだった頃のリビング・ルームの無残にも破壊し尽くされてしまったむき出しのソファーにも、そこには、厳然として、<今の生活。生きなければならないという現実>が、存在する。或いは、故郷や祖国を捨てざるを得ない状況もあるのは確かである。一体どれほどの、自分では、気がつかない、難民になるというリスクが、日常生活に、潜んでいるのであろうか?一連の上田映劇での上映を観ながら、<ラッカは静かに虐殺されている>や、<ラジオ・コバニ>、或いは、<原田 要。平和への祈り>を、観終わった後から、問い直し、想う日々である。


映画、<ラジオ・コバニ>を観る」

2018年08月17日 | 映画・テレビ批評

=映画、<ラジオ・コバニ>を観る」

 自分の描いていた未来への理想図が、突然のISによる侵攻により、一転したとき、女子学生の彼女は、<ラジオ・コバニ>というミニコミ・メディアを駆使して、情報発信を試みた。そして、その問いかける口調は、<未来の自分の子供達>に、真実を伝えたい、残したいという思いだったのであろうか?親しかった幼なじみの友人のむごたらしい処刑への思い、或いは、クルド女性部隊の軍人達の戦い、そして、何よりも、捕虜として、インタビューを受けることになった、IS戦士の、<家族に会いたい、自分の安全を知らせて貰いたい!>と懇願する、或いは、無知と貧困から、ISに協力せざるを得なかった言う後悔ともつかぬ、告白など、更には、ブルドーザーによる、空爆で死亡したと想われる、敵味方の区別もつかぬような苦悶に満ち満ちた詩風が漂う、ブルドーザーによる死体処理現場、臀部と想われる太ももの一部や頭部と想われる一部や苦悶に満ちた骸骨顔の表情や、戦争の残酷さが、真正面から、画像の中に、描き出される。それにしても、平和というものは、あっけなく、いとも簡単に、日常生活が壊され、破壊し尽くされてしまうモノである。復興を遂げようとする過程や、最期には、主人公が、結婚式に向かうシーンで、人々の祝福を受けながら、<新しい未来に向かって出かける>シーンで、終わっているが、日常生活とは、かように、食べて、恋愛談義をして、日々過ごしながら、IS戦士も、恐らく同様に、敵味方を隔てることなく、時間が過ぎ去っていったのであろうことを、改めて見せつけている。この主人公は、その後、一体、どのような暮らしを、日常生活を取り戻していったのであろうか?そして、捕虜となったIS戦士は、更には、あのクルド女性部隊の指揮官達は、、、、、、、。日常の平和と安寧に、感謝するとともに、その脆さ・はかなさ・不確かさにも、常に、同時に、気配りしていないと、容易に、気づかぬうちに、破壊されてしまい、非日常へと落とし込められてしまうものである。

 


映画、<原田 要、平和への祈り:元零戦パイロットの100年>を観る:

2018年07月30日 | 映画・テレビ批評

=映画、<原田 要、平和への祈り:元零戦パイロットの100年>を観る:

県立上田高等学校のO君から、紹介された、上田の上田映劇のパスポートを購入したところ、スタンプラリーならぬ、映画の消しゴム・スタンプを、押して貰え、これがなかなか、趣のある出来映えで、自分も、数年に一度の消しゴム版画家(?)だから、共感してしまう。台風襲来の予想にも、関わらず、午前中の上映には、数十名の観客が、上映時間前から、着席していて、少々、驚いた。
 人の人生における死に際とは、何か、見えざる何者かの御手か、それとも、ある判断でもあるのかと、そんな感慨を、見終わって思わざるを得ない。年若くして、むなしく、人生を終わる者もあれば、偶然、どう考えても、不条理というか、理解に苦しむようなそうした死の存在も、実際垣間見られるのも、事実である。それに比べれば、99歳の、まさに、100歳を目前とした、しかも、米国のともにミッドウェーで戦った米国の退役軍人達の訪問当日に、奇しくも、息を引き取るとは、、、、、、、。或いは、壮絶なガダルカナル戦でも、不時着するも、生還して、内地に、帰還したり、セイロン島でも、行方不明の中を、母に似た夕空雲に、導かれて、生還したりと、数え上げれば、そうしたエピソードが、尽きないことに、驚きを禁じ得ない、太平洋戦争の開戦の時に、結婚して、更には、身重の妻を残して、戦争に、出向いてゆくと言うこと自体が、今の若い人には、想像もつかない、考えられないような状況である。戦争とは、いかなる理由があるにせよ、とりわけ、原田が、危機感を持ったのは、湾岸戦争当時のあのCNNテレビに映し出されたテレビの画像をみて、若者達が、<まるで、花火を観ているようだ>という、コメントだという。確かに、3.10の東京大空襲も、雨あられに降り注ぐ焼夷弾の恐怖も、アニメ映画の世界でしか、観たこともなく、体験、実感は、戦後生まれの我々世代でも、亡くなった親たちの世代からの伝聞にしか過ぎない。
 いかなる戦争も、その人間性、基本的な人権そのものの全面的な否定の上に成り立ち、勝者も敗者も、そこにはないと、殺さなければ、殺されてしまうという、過酷な現実があるばかりである。私には、父方の叔父が、マキン・タラワ海戦で、海軍佐世保陸戦隊の一員で、未だに、Missing in Action状態で、お墓には、遺骨はない、又、母方の叔父も、フィリピンで指揮の途中で、太もも貫通銃創で、昇降が、捕虜になることを恥じて、自決している。これとは違って、父は、騎馬隊で、ずっと勝ち戦で、中国から、ベトナム、シンガポール、最後は、インドネシアのボルネオで、終戦、途中、痔の手術で、ガダルカナルへの派遣に、奇しくも、漏れたと後年、語っていたのを思い出す。父は、生前、二度ほど、タラワ島を、夫婦で、記念碑追悼に、訪れているが、私も、一度は、行ってみたいと思うが、身体との相談である。
 戦後の公職追放、軍人への評価の逆転、幼稚園の経営に至るまでの経緯は、何とも、散々、終戦直前までも満蒙開拓団へ、若者を送り出したものの、戦後は、一転して、民主主義者に転校してしまった教師達や、朝鮮戦争以後、再び、公職へ復帰することになる旧軍人など、人生の在り方は、実に様々であるが、自ら、希望の○をつけて、一歩踏み出して、命を投げ出すことを選択した人に対して、断固として、確固たる信念から、拒否した人間がいたことを、何か、一筋の光明を見いだしたような気がしてならない。
 きっと、原田要という人は、何か、そうしたミッションでも背負わされて、生まれてきて、そして、100歳を前に、白寿を全うしたのではないだろうか?
私たちは、初期の段階では、零戦が優位だったのに、米軍による不時着機への徹底的な部品の分解と弱点の解析と、改造により、徐々に、総力戦で逆転され、敗戦へと追い込まれた事実を、後年、知ることになるが、それでも、そうした一コマ、一コマの中にも、個々人の人生に於ける生死の分かれ目があったことを忘れない。死者への鎮魂と戦後の託児所から始まった幼稚園教育、命の大切さを子供達に教えた戦後の後半生も、常に、死者達と向かい合いながら、その言わんとするところを、代弁していたように思われる。終戦を前に、ジェット機の試作機用のパイロットの要請という皮肉な結末は、誠に、象徴的であるし、亡くなった日に、米国退役軍人が、会いに来たというのも、決して、偶然の出来事ではないように感じる。きっと、この人は、最期の最期まで、自分の体験を後世に伝えるべく、生き証人として、命を長らえるべく、多くの死者達に、使命を託された一人なのかもしれない。そして、後世の託された私たちは、それをしっかりと、胸に刻みながら、心して、生きてゆかなければならないのかもしれない。
8月3日(金)まで、上田映劇にて、上映中、
http://sensou.suzaka.jp/

 


ハザード・マップの持つ危うさ:

2018年07月15日 | 社会戯評

=ハザード・マップの持つ危うさ:

 

50年来の古い友人が住む住所が、テレビで、報道されていたので、ビックリして、メッセージを送信したところ、三日三晩、激しい雨に、晒されて、危うく、被災するところだったと連絡があった。その後のニュースでは、各地域とも、未曾有の大水害に見舞われているのは、周知のごとくである。それにしても、近所の友人宅に、電話留守録で、救助を懇願している音声には、流石に、災害弱者のむなしさと無力感を禁じ得ない。

それにしても、ハザード・マップで、被害想定されていたとか、もっと、情報提供や避難勧告の早期の指示をしていたらとか、毎年毎年、同じ反省と教訓が、繰り返されるのはどうしたものか?大体、行政というものは、いつも、箱物建設ではないが、ハードを作ることが、自己目的的に、なし崩し的に、目的化され、決して、それに伴う十分なソフトの提供は、セットとして、行われることはないし、そんな総合的な専門家は、各地方自治体には、ましてや、小さな村や限界集落には、いないし、そんなところでは、SNSによる情報チェックや収集から、救助要請の情報発信などは、ましてや、できるはずもない、せいぜいが、防災無線の放送が聞こえたとか、聞こえなかったとかというレベルではなかろうか?

寝たきり老人や老齢災害弱者は、別にしても、そもそも、ハザードマップなどを後生大事に、眺めたり、それは、水害に限らず、地震災害や火事の延焼地図も含めて、それらに頼っていたら、それこそ、命がいくつあっても、足りないし、自分の命は、決して、守れることはないであろう。

それこそ、古文書や、昔の言い伝えも含めて、自分の住むところの周辺の過去の災害を自らが、学び、どのように備えたら良いかを、普段から、考えておかないと、自分の命は、自分で、守る意識がない限り、難しいのかもしれない。尤も、水害には、二階に寝ていた方が良いかもしれぬが、火事の時には、どうしたらよいのであろうか?土砂崩れには、どのように、対処したら良いのだろうか?<ここら辺は、災害が少なかったからねぇ>というのは、もはや、今日的な天候の急変や線上降水帯の雨雲の流れは、事前に、スマホで観ていても、全く、予測がつかないモノである。<友人の被害は、明日は、我が身になる>のかもしれない。約4年前も、似たような被害に遭った友人は、当時、1週間、ボランティアで、復旧に、参加したが、今回は、もう、腰も悪くなり、そんな厳しい土方仕事は、到底無理で、せいぜいが、夜警見回りボランティアくらいかなと、自嘲気味に言っていた。いよいよ、こちらも、災害弱者予備軍に近づきつつあるのであろうか?どうしたものか、深刻に、考え直さないといけないかもしれない。まずは、お見舞いに、保存可能な飲料水でも、送るとするかな、

 


一発屋芸人列伝評後書きのPS:

2018年07月15日 | 社会戯評

一発屋芸人列伝評後書きのPS:

 

 

新聞を読んでいたら、なかなか、面白い記事があった。

一世を風靡した茶の間の英雄達も、テレビ画面から一旦は消えた負け組と嘲られがちであるが、一度は、瞬間的であれ、その頂点を極めたのであるから、その芸(?)といえるかどうかは、わからないが、必ずしも、単純に、負け組とかと、断定できないものであろう。

しぶとく、別のジャンルで、過去のブランドの栄光を利用して、隙間産業で、したたかに、生き延びているのも、事実であろう。流行語や、社会現象になるべくしてなるその芸(?)とは、一体何なのであろうか?頂点を一度は極めたのであるから、再び、<頂点を求めることなく、むしろ、敢えて、頂点を目指さない生き方>であるという。短時間で、謂わば、時間を凝縮したような、視覚的な、或いは、話芸ではなくて、パーフォーマンスで、笑わせるという、あたかも、生産性を最大限化させる方向性に、いつの間にか、視聴者のニーズ(?)が、変わってきてしまったのであろうか?商品が、大量生産されるにつれて、当然、流通量が増えれば、増えるほど、飽きられるスピードも、増してきて、ライフ・サイクルも、短くなってしまう訳である。そうすれば、当然、バージョン・アップや、付加価値をつけてゆかなければ、永続性は、維持されなくなり、失速してしまうことは、必然である。

 天国も地獄も、両方とも、観た一発芸人達にとって、長い人生は、まだ終了したわけではなくて、人生には、仮に、その成功度合いを高度としてみた時に、そんな高低差が、あるのも事実なのであろう、そして、そのどん底から、再び、死んだふりをしながら、したたかに、負けたふりをしながら、低空飛行でも、再びの頂点を望むことなく、人生を生き抜くことは、何か、もう、人生哲学のその向こう側に、あるような時空を超えたものを目指しているかのようである。それにしても、働き方改革ではないが、ライフ・バランスとか、オン・オフの切り替えとか、議論されているが、いつの間にか、お笑いの業界では、圧倒的な生産性の局限化の結果としての一発屋という芸(?)を、不可避的に、生み出してきたのだろうか?お笑いには、記憶に残る生き方があっても良いのかもしれないが、その人間の人生には、人々の記憶に残る芸人の人生というものは、許されるのであろうか?

 


映画、<ラッカは静かに虐殺されている>を観る:

2018年07月04日 | 映画・テレビ批評

映画、<ラッカは静かに虐殺されている>を観る:

 

<子ども食堂in小諸>の学習支援に、関わっている長野県立上田高等学校の有志と、知り合いになり、そのOne Eye Projectによる学園祭での<シリア難民写真展>と上田映劇での関連する映画の上映を、支援するなかで、上記のRaqqa is Being Slaughtered Silently (略して、RBSS)を、再来年、創館100年を迎える上田映劇で、観ることにした。

シリアの内戦報道やISとの掃討作戦の中で、ある程度の都市名は、記憶していても、その都市が、本来どんな特徴のある都市だったかは、映画を観るまでは、正直言って、余り知識はない。しかしながら、主人公達である<市民記者達>にとっては、そこは、紛れもなく、現実の生活の場所であり、家族、親兄弟・友人達が、実際に、生き抜いている故郷であり、Homelandな訳である。にもかかわらず、<スマホMedia War> 或いは、<SNS War>と称する戦争の中で、マスメディアとは隔絶した、置き去りにされた、<市民記者と称する戦士>の戦いは、想像を絶する、命を懸けた戦いの90分間のドキュメンタリーである。親兄弟を逮捕・処刑され、更に、そのシーンを動画で公開することで、或いは、国外に逃れて活動する支援者をも、公然と暗殺する手法に、対抗する唯一の手段として、ぼかしや最新の暗号化までも、駆使して、国内組と海外組とが、携帯電話やPCを駆使して、FBや、Twitter などで、<情報発信>することで、<メディア戦争>を戦い抜いてきた訳であるが、未だ、<現在進行形>であることの一種の<危うさ>が、そこにはまだ残っている。又、安全であると、或いは、支援してくれると思っていたドイツなどの欧州自身でも、ISのテロや、移民排斥・排外主義の運動に、さらされているという現実がある。

 今から、約7年前の6月26日に、この<小諸布引便り>のブログの中で、約50年前の学生時代に観た、フランスの<影の軍隊>という反ナチのレジスタンス運動を主題にした実際にあった実話を元にした映画の評論を記したが、これらの主人公達は、全員、結局、ナチスにより、抹殺されてしまったが、唯一、今回のそれは、未だに、生き残りつつ、<現在進行中・生存中>であることに、少しでも、<救い>が、あるように、思われる。

 50年前の我々、元若者が、連帯した、(と思っていたのかもしれないが、、、、実際、それが、正しかったのかどうか、ベトナム戦争が、終結したことが、果たして、その後の世界秩序へ、今日、どうなっていたのかは、判断が難しいが、、、、、)、その30年も前にも、戦争が終結したが、その後も、血なまぐさい、東欧での動乱や、ベトナム戦争、パレスチナ動乱、コソボ民族浄化紛争、イラン・イラク戦争、天安門事件、ありとあらゆるところで、毎日毎日、血なまぐさい、<圧政からの解放と自由を求めた戦い>が、繰り広げられている。

 一体、<このニュータイプの運動>とは、何なのであろうか?50年前のメディア報道を意識した運動も、その在り方の端緒を見せつけられたが、これからの運動は、もっと、もっと、進化した形での<ハイブリッドな運動>になるのであろうか?そして、その中で、自分は、どのように、関わっていったら良いのであろうか?50年前の元若者から、今の若者への、問いかけと同時に、それは、そっくりそのまま、我が身にも、問いかけられることは、50年前も、現在も、変わらぬ課題なのかもしれない。そして、又、それは、将来に亘っても、そうなるのかもしれない。一体、何ができるのであろうか?

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