小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

2016年02月12日 | 映画・テレビ批評

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

映画というものは、見終わった後で、何か、悪いものを食べてしまった様な後味が感じを抱くのも、又、ホッと胸をなで下ろすのも、監督の胸先三寸なのであろうか?その意味では、この重苦しいテーマに富む映画のエンディングと、生き詰まるラスト10分間の展開には、ある種の監督へ感謝の意味を伝えなければならないかも知れない。カンヌ映画祭のパルムドール最高賞受賞作品であるのも、成る程、納得される。四半世紀にも及ぶ長いスリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎との内戦によって生じた主人公達・難民が、偽装家族になりすまして、フランスへと渡るが、異国の地で、文化も、宗教も、言葉も、異なる環境下で、互いの絆と愛を深めながらも、現地の麻薬組織の売人チンピラ・グループの抗争に巻き込まれる中で、やむなく、過去に、決別した暴力から、逃れられなくなるという、まるで、昔の任侠路線の映画さながらの内容であるものの、そこには、今日的な重い問いかけとしての、『政治難民』、『異文化・共生』、『宗教の違い』、『学校での虐め』、『家族とは』、『identity』、『二重の差別』、『貧困とは』、そして、人間は、そんな中で、果たして、どのように、生きていくべきなのか?そして、どんな限られた選択肢が、残されているのか?それとも、残されていなかったら、どんな選択肢を選ばなければならないのであろうか?パスポート入手のための偽装家族という形から、本当の真の家族・夫婦・親子へと時間的な経過と共に、露わになって行くフランス郊外の老朽化した団地に巣くう犯罪者集団の抗争を通じて、しかも、そのフランス人チンピラの世界でも、同じくよそ者としての二重の差別と貧困の関係が、描かれてもいる。それは、紛れもなく、表の一見、平和そうな、幸福そうに見えるシャバの世界も、又、裏で、生き抜いている難民達の世界も、同じように、どこか、『暴力』という力による世界の均衡が、微妙に、何かのきっかけひとつで、崩壊してしまうきわどいガラス細工のような壊れやすい世界なのかも知れない。古アパートの管理人という職業も、家政婦という職業も又、生き抜くためには、殺されるよりはマシという限られた選択肢の一つであることを、私達は、頭で、理解出来ても、本当に、理解出来るのであろうか?カメラワークの中で、逆光線を活用したようなシーンが、幾つか、みられるし、又、元ゲリラ兵士であったディーパンの心の奥底に潜むであろうドロドロした鬱積したマグマのような怨念が、崇高なインド象の映像と共に、ジャングルの密林の中から、垣間見られるのは、何かを象徴しているようでもある。それでも、エンディングが、結局、妻の姪がすむイギリスへ渡れたと云う事、そして、二人の子供とおぼしき赤ん坊をあやすシーンには、やはり、胸をなで下ろせたことは、地中海で、難破して溺死したり、チンピラの抗争で、流れ弾に当たって、非業の死を遂げるエンディングよりは、マシなのかもしれない。或る日、突然、管理人に、難民がなったら、我々は、どんな対応をするのであろうか?彼らのidentityや尊厳を、しっかりと、日本人は、人間として、リスペクト出来るであろうか?考えさせられる映画である。

 


BS英雄達の選択、『藤田嗣治の戦争画、アッツ島玉砕』:

2015年12月21日 | 映画・テレビ批評

BS英雄達の選択、『藤田嗣治の戦争画、アッツ島玉砕』:

先月の国立近代美術館での戦争画展や、映画、FOUJITAをみた上での番組の視聴である。その時、果たして、貴方が、画家であったら、筆を執ったであろうか、それとも、筆を折ったのであろうか?如何にして、画家は、戦争に向き合い、そして、その表現をその戦争中、絵の世界で、追求したのであろうか?美術的な細かな解説が時間の関係で、詳しく、無かったから、秋田での大作に、民衆の逞しさを感じた藤田は、想像の上で、これを描き、聖戦美術展で、当時の戦意高揚に、結局、反戦の意識が心の底に、有りながら、手を貸してしまったとか、父が、軍医監の関係で、森鴎外などの個人的な影響も有り、当時のまだテレビが発達していなかった時代でのビジュアルな宣伝を絵画というツールの中で、軍に、結果として、利用されて、その結果、日本人としての疎外感を、逆に、絵画の集大成として、戦争画として、結実させ、戦後も、見事なまでに、口をつぐんだまま、失意の内に、日本美術画壇の戦争責任を一身に、引き受ける形で、祖国を離れ、カトリックに、改宗して、自らとおぼしきおかっぱ頭の人物を、ひっそりと、描いた礼拝堂に、葬られることになる訳であるが、この辺りの切り口というものは、確かに、史実は、そういうことなのであろうが、どうも、藤田嗣治の心の奥底を、果たして、剔抉し得ていたのであろうか?渡仏前での日本画壇での劣等生扱いが、ものの見事なまでに、渡仏後、東洋の日本画の毒と君手法を基にした白色肌の魔術師として、世界的な画家として、脚光を浴び、逆転したにも拘わらず、戦争時での帰国には、虚しい、何を描いたら良いのか分からぬような『空虚感』が、漂うのは、彼の非日本人としての、純日本人への回帰、或いは、一体感への欲求・希求という心情と、必ずしも、不可分では無く、だからこそ、みたことのない、想像上でのアッツ島玉砕へという形で、芸術的な欲求が、結実してしまったのかも知れない。もっとも、番組では、その後の戦争画としては、最期の作品になる『サイパン島同胞忠節を全うす』での評価は、結局、語られることが無かった。謂わば、歴史の中の、一瞬間を切り取ることで、ある種の結論を導き出すような手法で、もう少し、スパンを長めに、観ながら、議論すべきであったよう気もしないではないが、限られた番組の時間内では、望む方が無理からぬ事かも知れない。それにしても、脳科学者、歴史家、文学者、学者というものは、それぞれ、各様でいて、貴方が、画家であったら、どうしただろうかという質問には、結構、重たいものを感じざるを得ない。単純に、反戦画とか、宗教画とか、或いは、戦意高揚に利用された単なる戦争画とか、語れない何ものかが、あるのも事実で、仮に、この戦争にでも勝利していたら、この絵は、一体、どんな評価を受けたのであろうかと想像するだけでも、考え込んでしまう。そして、語られなかった、紫色した、小さな花は、どんな意味を持って、画家は、密かに、描き加えたのであろうか?そして、その聖戦美術館で、この絵を見た日本人は、どんな感慨を抱いたのであろうか?又、平山周吉のコメントも気になる。

 


BS『戦争とプロパガンダ:米国戦争戦略』を観る:

2015年12月13日 | 映画・テレビ批評

BS『戦争とプロパガンダ:米国戦争戦略』を観る:

父方の祖母は、生前、父の兄が、戦地から送附してきた手紙を、形見として、大事に、保管しているのを、葬式の後、遺品を整理していて、見つけだした。それを伯父の写真とともにスキャンして、CD-Rにデジタル化して、今でも、保存している。この父の兄は、何でも、佐世保第7特別陸戦隊として、海軍の軍艦で、ギルバート諸島、タラワ環礁の島の最前線警備に派遣され(4600名の兵隊の一員で、アメリカ流に謂えば、海兵隊員のようなものであったであろう事は、想像に難くない)1943年11月に、所謂、『玉砕死』されたと謂われている。但し、この時点では、未だ、玉砕死という言葉は、使用されていなかった訳で、そのように謂われているというのは、遺骨もないし、ましてや、いつ、どのように、戦死したかも、一切、不詳で、英語で言われる、Missing in Action作戦遂行中行方不明というものである。もっとも、それが、遺族には、 祖母に、いつ頃、伝えられ、父が、いつ頃、知ったのかも、今になっては、もっと、詳しく、尋ねておけば良かったとも、思われるが、今となっては、知る術もない。このタラワの闘いは、米国史上で、初めて、従軍カメラマンが、その水陸両用車による初めての海岸上陸から、艦砲射撃・空爆・上陸戦闘・制圧までを、すべて、実写フィルムで、海兵隊員と共に、撮影されたものであると、確かに、カラーで、生々しく、撮影されているが、どうやら、この撮影の目的は、撮影することが、目的では無くて、ノーマン・ハッチという当時のカメラマンによれば、双方、3日間に亘る戦闘の中で、7800人もの死亡が確認されていて、余りに、凄惨すぎて、密かに、ホワイト・ハウスでの試写では、アメリカ兵の死体もすべて、写っていて、余りに、血なまぐさく、刺激が強く、残酷すぎて、逆に、戦意高揚では無くて、むしろ、悪影響を及ぼし、『厭戦気分』を起こしかねないと政治的な判断が下された結果、日本側の激しい抵抗と共に、アメリカ兵の勇敢な戦いぶりと、犠牲を怖れぬ行動を強調するように、意図的に、編集されて、『米国債戦争ボンドの購入キャンペーン』のために、当時、財務省を中心として、情報操作されたそうである。何でも、国家予算の6倍にも匹敵する規模の790億ドルという膨大な戦費の調達が、必要不可欠であった当時には、こうした背景があったそうである。これに対して、この時点では、未だ、米国民のなかでは、60%以上が、太平洋での戦争には、それ程、深刻に考えていなかったのが、実情であったらしい。これまでは、ドラマ仕立ての映画が、作られていたものが、この『タラワの闘い』から、実写フィルムで、Marine at Tarawa という20分の実写フィルムの内、前半は、上陸に苦戦する様を描き、このフィルムは、何と、驚くべき事に、アカデミー賞も受賞して、全米の映画館、及び、学校などで、上映されて、Tarawa There と言う形で、ジェームス・キンブル博士の研究によれば、積極的に、『米国戦時国債の購入キャンペーン』に利用され、その結果、1日半で、予算は、達成されてしまう熱狂であったそうである。しかしながら、当時の政治情勢は、未だ、ナチスドイツの全体主義的なプロパガンダに対して、国として、世論を扇動して、戦争に駆り立てるような行為自体が、そもそも、圧倒的に、米国政府内部でも、指示されていたわけではないらしく、一種の謂わば、恐る恐るという具合であったのであろうか?それが、しかしながら、どのように、戦争の進行と状況の変化の下で、変容をしていったのかが、ここでの主題である。まだ、当時は、Home Front 銃後の闘い、Let’s All Back Attack 援護射撃しよう等という形での強いられたような形では無くて、工場労働者や、家庭での女子の労働力としての協力などの、謂わば、『自発的、自主的な』協力の喚起が、中心であったのも事実であろう。

一方、この頃には、日本では、1943年、学徒出陣や、戦陣訓では無いが、兵力の不足を、学生・少年・女子などへも拡げることで、『軍民一体化』と言う形で、後の『サイパン島玉砕』の悲劇へと繋がっていってしまうし、『カミカゼ特攻』、『切り込み玉砕』、と言う形で、最後には、『沖縄戦・本土決戦』へと突き進んで行ってしまったのは、構成の歴史の語るところである。

当時、皮肉にも、米国では、Operation Phase 1. Saipan というような米兵教育映画が、既に作られていている一方で、タイム誌の記者による、『8000万人の自殺願望』というようなセンセーショナルな日本人の実像とは異なるような狂信的なイメージ宣伝や誹謗中傷記事が、流布されたのも事実であると、ジョン・ダワーは、分析もしている。Fury in the Pacific 太平洋の怒りなどで、確認出来る。この流れの中で、タラワから、サイパン、或いは、ペリリュー島、硫黄島へ、そして、沖縄、原爆投下へと、続いて行くのであると、

あの有名な『硫黄島の戦い』での合衆国の星条旗を掲げる有名な写真と、彫刻が、如何にして、生まれたのかも、実に興味深いものがある。

1944年6月になると、ノルマンディー上陸作戦が行われ、米国民は、これにより、戦争は、程なく、終結するであろうという、やや、楽観的なムードが、漂い始めると、米国の映像戦略も、これに応じる形で、It Can’t Last 長くは続かないという映像で、今度は、海軍相であるフォレスタル長官自らが、硫黄島の作戦に直接現地で参加する形で、100人もの従軍カメラマンで、モーゲンソウ長官の映像戦略の基づき、検閲の強化と米兵の英雄的な行為を示す『戦意高揚』を目的とした映像の作成に着手する。4万人の圧倒的な勢力で、対する日本守備隊2万人との攻防を実写撮影するものの、Mt. Suribachiすり鉢山の山頂に翻る小さな合衆国国旗では、目立つことなく、国民へのアピール力が少ないことから、再度、改めて、6人の海兵隊員が、巨大な国旗を翻そうとしている、『未だ、戦争は、終了すること無く、現在進行形で、進行中である』と言うことを認識させるように、敢えて、撮影し直したそうである。しかも、その5人の内、既に、3人は、後日、戦死し、一番左の先住民後を引く隊員は、その後、戦時国債購買キャンペーンのために、本土に呼び戻されるも、アルコール中毒の後、若くして、死亡してしまったと伝えられている。国旗が、今まさに、立てられんとしている様と、顔を見せずに、必死に、立ててようとしている勇敢な愛国的な海兵隊員に、自らの姿をダブらせながら、『未だ、終了しない戦争に協力、自らも積極的に参加する』と言う世論へ、導かれて勢いづいて行くことになる。この映画の結果、戦時国債の購買も、263億ドルという日本の戦費の半分を、わずか、1ヶ月半で、達成してしまう効果をもたらすことになる。しかしながら、それは、地下壕での徹底抗戦した日本軍により、最悪の2万人以上の死傷者という現実は、『不都合な真実』として、決して、表には、出なかったのであり、これは、戦後、撮影したカメラマンですら、知らなかった、『戦時検閲』の結果であった。皮肉にも、この星条旗が、すり鉢山山頂に掲げられた1ヶ月後で、6人の内、3人が戦死し、日米双方、5万人以上の死傷者という、悲劇の中、250人の隊員の内で、わずかに、27人のみしか、帰還できなかったという残酷な現実があった。その影で、彼らは、そして、今日でも、そうなのかも知れないが、『国にすべてを捧げる英雄』という理想的な形で、『戦時国債キャンペーン』に、利用されていたわけである。

この地下壕での闘いへの米軍の対応には、計算し尽くされた武器、火炎放射器という新兵器も、活用されていたことは、決して、一連の戦争映像戦略とも、無縁では決してない。むしろ、巧妙に、世論の動向と戦争遂行へ向けての計算が、為されていた。とりわけ、『害虫駆除』と称せられた火炎放射器の使用は、沖縄戦でも、如何なく、軍・民を問わずに、容赦なく、過酷にも使用されることになる。

更に、いよいよ、硫黄島の攻略以降に、実施されるようになる『本土爆撃』に対するイデオロギー的な裏付けが、徐々に、やがて、必要になってくる。My Japan とか、 B29 Onto Tokyo等の映像には、『国民へ、戦争への罪悪感を抱かせない心理的な操作』、或いは、『更なる攻撃の必要性への理解』が、仕組まれていた。例えば、中小企業での兵器部品の生産なども、日本では、民間人家庭内でも、兵器が生産されていて、日本軍の軍需工業を支えている故に、これを爆撃、破壊しなければ、我がアメリカ兵が、危険に曝されるという類の、『民間人への無差別攻撃の正当性』、或いは、自国の軍需産業へのリップ・サービスへと、繋がる、成る程、これは、まるで、日本軍による、『ゲリラが、一般市民に紛れている』という考え方にも、その対局で、皮肉にも、繋がっているのかも知れない。

既に、この時点では、1945年3月には、沖縄への攻撃が開始され、軍需工場のみならず、各大都市への本格的な本土空襲も頻繁に行われ、日本国内には、『特攻思想』と、『本土決戦』という究極の思想的な結末が、待ち受けていることになる。これに対して、米国の戦争映像戦略も、いよいよ、『Killed the Japs』という『憎悪』を丸出しにしたものや、や『Know your Enemy, Japan 敵を知れ』という形で、米国、連合国側の『Justice』を、全面に、打ち出し始める。最終的には、この流れの中で、東京大空襲等の民間人への無差別爆撃と広島・長崎への原爆の投下へと結実して行くことになる。更に、この流れの基に、レーダー、原子爆弾、秘密兵器の開発の為の費用の捻出としての開発費の捻出のために、つまりは、巨額な米国の戦費2690億ドルの60%程度が、所謂、戦時国債を国民一人一人が、購入するという愛国的なキャンペーンの結果、賄われたことも、事実である。

如何にして、米国は、国民を戦争へと、自発的に駆り立て、自主的に、物心両面とも、協力してくれるようになったのか、そして、『不都合な真実の隠蔽と検閲』が、どのようにして、巧妙に、実施されていったのか?それは、奇しくも、伯父が玉砕したギルバート諸島のタラワ環礁の闘いで、現場で、初めて、実写撮影したノーマン・ハッチが、それから、2年後の長崎の原爆投下後に、初めて、現場を撮影したときに、抱いた『不都合な事実』への感慨である。決して、このフィルムは、戦後、公開されることが決して無かったわけであるし、その後の東西冷戦下、米ソによる核開発の中で、色褪せていってしまった訳であるのは、御存知の如きである。

我々は、一体、今日、このドキュメンタリーから、何を学ぶ出来なのであろうか?今日、イスラム教への不当な言われなき偏見と差別がある以上、かつて、米国が、日本人に対して行ったような映像的な戦略は、同じように、無人機が映し出すISに対する空爆の有様や、爆撃機の航空母艦からの発進やミサイルの発射を観るときに、どのように、過去を考えたら良いのであろうか?如何に、狂信的なファシズムが、民衆からの支持と支えがない限り、勃興し得ないのと同じくらいに、自由と民主主義を高らかに歌いあげた米国側にも、同じような戦意高揚と排外主義のうねりがあったことを考えると、改めて、戦争というものは、一度、歩み始めると、終わりが見えないこと、それは、既に、戦後のベトナム戦争時でのソンミ村虐殺事件でも、ナパーム弾や枯れ葉剤散布でも、或いは、イラク戦争でも、又、現在進行中の『対テロ戦争』という大義名分の『聖戦』、(もっとも、ISも、ジハードと称しているが、)自体も、同じで有り、危うく見えてくる。それにしても、今は亡き祖母や父が、もし、このカラー・フィルムMarine at Tarawaを観ていたら、どう思ったであろうか?それとも、観たくないとでも、応えたであろうか?日・米双方の現役生存兵は、同じように、『生き地獄』であったと、応えている。死んでいった者も、地獄、生き残った者も、これ又、地獄で、戦争というものは、余りに、無慈悲であること、この上ないものである。

 


講談、「難波戦記」を観る:

2015年12月03日 | 映画・テレビ批評

講談、「難波戦記」を観る:

旭堂南湖による、講談、「難波戦記」であるが、生の講談ではなくて、映画スクリーンでの観賞である。伝説の戦国武将、真田幸村、紅蓮の猛将の大坂の陣を舞台とする江戸時代より語り継がれてきた禁断の物語の口伝である。つまりは、江戸時代に、禁止されてしまった豊臣の歴史、或いは、家康にまつわる「不都合な歴史」の塗り替えに抗して、脈々と講談や口伝という形で、或いは、童歌として、歌い継がれた演題である。それにしても、古典落語にしても、講談にしても、よくもまぁ、こんなに、長いストーリーを、見事に、長い時間を掛けて、語れるものであることに、驚いてしまう。講談独特の「修羅場読み」という手法で、語られる言葉を聴いていると、もっとも、今回は、聴くと云うよりも、同時に、その仕草を観ることにもなるのであるが、観ながら、聴きながら、頭の中で、その情景を想像することは、おおいに、脳内、とりわけ、右脳を刺激することは間違いないところである。耳から入る言葉というものは、お経もそうかも知れないが、漢字を一度、頭の中で、作成しないと、なかなか、意味が、補足できないのが、現実である。頭の中に、拡がる、その色彩と、音と、臭いまでもが、「現実的な空間」として、頭の中の「仮想空間」に、拡がって行くものである。それにしても、釈台と呼ばれる高座におかれた机の前に座り、「張り扇」で、パンパン、パパンと、調子をとりながら、釈台を叩いて、語って行く仕草は、噺を聞かせると言うよりは、これでもか、これでもかと、聴き手に対して、語られる歴史上の人物が、まさに、眼の前に、迫ってくるような勢いがある。時代劇のヒーローというものは、そんな講談の世界から、まだ、メディア、エンタテイメントが、発達していなかった時代に、眼と耳から入ってくる講談は、落語と並んで、それなりの地歩を築いていたのであろうか?今日、映像は、視覚的な想像力を掻き立てるというよりは、むしろ、人間が有する想像力を削ぐくらいに、思われているが、当時は、逆に、耳から入ってくる講談の語り口は、確かに、想像を掻き立てたのかも知れない。ザンザザ、ザンザザ、チャッポン、チャッポン、コツン、コツンと、跫音だったり、竹筒に入った水の揺れる音だったり、或いは、槍を突きながら歩く様を、想像することは、決して、無駄なことではなさそうである。しかも、それが、色彩やら、動作を想像させるまでの表現力に満ちたものとなろうとは、驚きである。歴史に、もしもは、許されないものの、講談などは、むしろ、庶民の願望や虚しい期待が、裏返った形で、反映されたものなのかも知れない。だからこそ、逆説的に、庶民の心の底に、潜む判官贔屓や、弱いものへの荷担という形で、或いは、反権力という消極的な形での別の歴史を作り出してしまうものかも知れない。そう考えると、この講談の結末も、実に、面白い展開で有り、史実とは、異なるものに、興味を引かれる。今度は、これをきっかけにして、生の講談も聴いてみたいものである。

 


映画、「FOUJITA」を観る:

2015年11月16日 | 映画・テレビ批評

映画、「FOUJITA」を観る:

そろそろ、山荘も、冬支度と休眠のために、準備をしなければならない時期が近づいてきた。その間、一寸、老眼で眼が衰えてきたけれども、頑張って、本でも、読むことにしようと、辺見庸著「1★9★3★7」、山本義隆著「私の1960年」、ハンナアーレント「活動的生」を、併読し始めながら、予定されていたこの映画を鑑賞することにした。元々、映画というものは、原作を初めに読んでから、映画を観るか、それとも、逆に、映画を観てから、原作を読むか、要するに、言語的な表現手法と、映像的な表現手法のどちらとも、愉しみたいという門外漢の欲張りな私にとっては、どちらでも良くて、実際、出たとこ勝負の場当たり的な対応以外の何ものでもない。今回は、映画に、興味を有したひとつの理由に、併読し始めた本にも、共通することかも知れないが、「戦争責任の課題」、とりわけ、当時の「画家に於ける戦争責任と芸術的な表現活動の関係性」を軸にして、観賞してみたいと思った次第である。藤田嗣治の絵画は、上田市立美術館で、観賞した箱根ポーラ・コレクションの作品の中に、実は、所謂、一連の問題作となる「戦争画」が、全く、含まれていなかったので、これだけを観るために、東京の国立近代美術館に、出掛けて、じっくりと、「戦争画」を眺めてきたことで、今回の、作品が、「近代文明の歪み」と「二つの大戦と二つの祖国の間を生き抜いた画家」の想いが、如何にして、日仏相互に、描き出せるのかという事に、焦点を当てて、観賞したかったものである。その意味では、既に、予備知識としては、充分すぎるくらいの準備が出来ていたつもりであったが、この作品を観ているうちに、それが、まだまだ、不十分であったことに気づかされる。冒頭の猫がゆっくりと、屋根を歩くさまも、考えようによっては、「猫」の作品を彷彿とさせるし、様々な画材や人物による絵の製作場面も、成る程、あの絵は、ひょっとして、こんな風に描かれたのかと想像されるシーンの連続である。最初と最期の日本人妻は別にしても、5度に亘るその結婚でのフランス人妻の描き方にも、それぞれの情感が、異なることが、理解されるし、幅広い交友関係の中でも、モジリアーニやゴーギャン、ピカソなど、場面場面で、或いは、高村光太郎のパリ滞在エピソード挿入も、戦中・戦後の戦争責任とも、微妙に、暗示されていて、面白いモノがある。別に、シッカロールを駆使して古来の日本画の技法を、乳白色の肌色の魔術師として、如何に、パリ画壇で、受け容れられたのかなどと云う美術史的な問題は、ここでは、私にとっては、どうでも宜しい。むしろ、何故、ナチス・ドイツのパリ進攻を嫌って(?)日本へと戻ることになったのか、或いは、同盟国の一員である日本人として、充分、現地に居残ることも考えられたにも拘わらず、何故、戦中の日本へ戻り、しかも、戦後、画壇の「戦争責任」を一身に受け止めて、国籍を捨て、祖国を後にして、再び、フランスへ戻り、やがて、カソリックに改宗して、レオナール・フジタとして、遠い異国の地で、墓地を創り、そこに、宗教画を描くことになったのか、それは、この映画の後半で、前半での明るい色調溢れる繁栄とデカダンスに溢れる当時のフランスの画面とは、対照的に、徐々に、墨絵風のモノトーンに蔽われた時代の風景と共に、描かれ、いよいよ、あの「戦争画」へと、導かれることになる。私は、勝手に、自分の時系列の中で、「アッツ島玉砕」の絵(1943年)と、「サイパン島同胞臣節を全うす」の絵(1945年)は、同時期だと誤解していて、しかも、聖戦戦争画展というものが、既に、1940年以前から、開催されていて、官製展覧会に較べると、圧倒的な入場者数で優っていたという事実、とりわけ、この展示会の中で、藤田は、自らは、記述しているように、年老いた老婆とおぼしき、恐らく、玉砕した遺族であろうと思われる老母が、絵に向かって、手を合わせて、祈るように、涙を流しながら、見入っていた様を観て、自分の作品が、本当に、人の心を動かす力になっていると確信したそうである。(画面上では、遺された遺児達が立ち尽くしたり、気を失って倒れる形で描かれているが)、要するに、画家は、戦意の高揚とか、聖戦完遂のプロバガンダに利用されたのでは、決してなく、飽くまでも、この作品は、鎮魂と平和希求のための画家の表現結果であったのかも知れない。それは、この絵に描かれた人達の中に、藤田として生きなければならなかったFOUJITAの「真の暗号符号」が、密かに、塗り込められていることが、自然に理解出来るし、この二つの圧倒的な大きな絵を前にすると、間違いなく、圧倒されてしまう何もかが息づいている。そんな呼吸をすること忘れさせてしまうような画家の息遣いが、感じられてならない。間違いなく、藤田は、二つの大戦の狭間で、数多くのむごたらしい死体を眺めたであろうし、否応なしに、そうした情景に、画家として、目を背けるわけにはゆかなかったのであろうことは、戦後、一言も、エクスキュースすることなく、画壇の戦争責任を一身に受け止めて、故国を捨てる結果になることを思うと、画壇だけではなくて、当時の文壇の文学者・哲学者・評論家などは、一体、どんな責任をとりながら、戦後を生きたのであろうかとも思う。戦後70年を経た今日ですら、同じ問題が、現在進行中なのかも知れない。エンディング・ロールの中で、ナントの自分の墓地に自らが描きだした宗教画は、確かに、磔にされたキリストの絵だけでも、20数年に亘って、見続けてきたこの画家が、渾身の想いを込めて、描いたことが、その映像美の中からも想像されよう。もっとも、右端後方片隅に、小さく、ひっそりと、おかっぱ頭の藤田とおぼしき顔が、描かれているのは、気が付かなかった。まるで、オダギリ・ジョーは、FOUJITA同様に、小田切として、藤田を演じきったのであろうか、それとも、藤田は、戦争中の日本滞在中には、FOUJITAを、どのように、消し去って、演じていたのであろうか?そして、今日、テロに見舞われたパリを見たとしたら、どのような感慨で想い、当時の外国出身の友人画家達と付き合っていたのであろうか?寡作の小栗康平監督による10年ぶりの作品であるらしいが、美術も、映像美も、なかなか、美しいではないか、小さな映画館であるものの、初回午前中の上映にしては、ほぼ、満席に近い状態であるとは、驚いてしまう。流石、都心の映画館である。さて、今度は、もう一度、国立近代美術館で開催中の藤田嗣治展示会を改めて、じっくりと、観ることにしよう。


BSフォークを聴く:

2015年11月01日 | 映画・テレビ批評

BSフォークを聴く:

フォーク歌手というものの登場は、それまでのプロの演歌歌手や叩き上げの作曲家・作詞家の牙城を一夜にして、素人に等しい歌手が、ボブ・ディランやジョーン・バエズの反戦歌手の哲学に影響されて、奪い去ってしまった感じが今でも、拭い切れない。言い換えれば、歌のうまさ、声の良さとか、テクニックとかではなくて、歌手の有する「世界観・哲学観」に、感動しさえすれば、それらは、少々、音程が狂っていても、声が裏返っていたり、かすれていたりしても、全く、問題ではなく、逆に、それらが、一種の差別化にも相俟って、既存の商品価値とは別の次元での異質な価値を高めることになっていたのかも知れない。それは、既存のエスタブリッシュメントに対する時には、反抗にも映るし、その容姿の決して、美しいとは云えないものでも、その恰好が、ブサイクでも、只、ギターを抱えて、つま弾くだけで、その「独自の歌の世界観」へと、引き込まれてしまうのである。その意味で、出演した往年のフォーク歌手、とりわけ、「あがた森魚」などは、同い年のせいだろうか、40数余年の時間の経過は、その歌い手である歌手のみならず、聴く側の我々、聴衆側にも、等しく、差別することなく、髪を薄くさせ、そして、少々、ふくよかさを増したような感じがしなくもない。しかしながら、ひとたび、その「怨夜曲」(1972年)や「赤色エレジー」を、歌い出すや否や、その瞬間から、瞬く間に、不思議な異次元の空間へとまるで、ワープしたみたいな感覚に、落とし込められてしまう。今日、一体、あの幸子と一郎は、どうなってしまったのであろうか?あの「幸子の幸」は、何処へ、云ってしまったのであろうか?二人は、今、どうしているのであろうかと、現在の年老いた自分に置き換えて、想像してしまう。少し前の1969年頃の浅川マキの「かもめ」や「夜が明けたら」も、寺山修司の作詞の影響からか、やはり、はっきりとした「世界観」が、表現されていて、亡くなってしまったことが、おおいに、悼まれる。りりィの「私は泣いています」(1974年)ベッドの上で、などは、ほとんど、ハスキーと云うよりも、まるで、酒の飲み過ぎ(?)で、声がかすれていてしまったようでいて、おおいに、宜しいではないか!それにしても、1968年の岡林信康の「山谷ブルース」とか、歌は、時代を反映するとか、云われているが、ほとんど、あがた森魚のメロディーも、世界観も含めて、辛うじて、化石同然で、生き延びているようであるが、どっこい、改めて、当時のフォークの曲を聴いてみると、何か、強い、心の底で、共感するものが、沸々と沸いてくるのは、何とも、不思議である。今の若い人には、どんな風な歌に、聞こえるのであろうか?一度、尋ねてみたいような気がする。

 


映画、「ポプラの秋」を観る:

2015年10月15日 | 映画・テレビ批評

映画、「ポプラの秋」を観る:

一日で、映画を2本観るというのは、学生時代の銀座、並木座で、昭和残侠伝シリーズや新宿の「影の軍隊」、「鷲は舞い降りた」の2本立て映画以来、久しぶり、ほぼ半世紀ぶりであろう。これも、中堀正夫カメラ監督によるものである。そもそも、映画というものは、原作を読んでから、映画を観ると、その違いが判ってしまい、ガッカリしたり、逆に、又、その想像力溢れる映像描写に、感動したりと、なかなか、複雑な思いがするもので、どちらが良いかは、ケース・バイ・ケースで、微妙なものである。もっとも、最近では、新聞ですら、老眼鏡が必要となるくらいで、文庫本などは、ましてや、眼が疲れてしまい、おまけに、歳とともに、集中力が落ちてきて、全く、昔の読書量がすっかり、落ちてしまったものである。誠に、情けない次第である。今回は、映画を見終わってから、湯本香樹実の原作を、後から、読み直してみることにでもしようかな?映画の各シーンは、何かのテレビで俳優が言っていたように、必ずしも、原作の展開通りに、初めから、忠実に撮影されるモノではなくて、季節を跨いだり、或いは、何年にも亘って、展開する時には、時として、後からのシーンが、初めに撮影されたりするらしい。どうやら、この映画でも、主題となるものは、最期の最期になって、大人になった少女の母親が、以前に亡き夫に書いた手紙を、元の住人から、おばあさんの葬式の後で、手渡されて読むシーンで、初めて、観る側は、知らされることになり、すべての方程式が、あらゆるこれまでの数々の場面の背景に潜む、それまで、胸につかえていたような違和感や疑問点が、まるで、スッーと、一挙に「氷解」する様な感じがしてならない。それは、「自死」という形で逝ってしまった本人だけの問題ではなく、むしろ、遺された家族、とりわけ、この映画では、幼い小学生の女の子や母親へ、どのような影響を及ぼすことになるのかを暗示しているのかも知れない。死んでしまった人へ、手紙を届けるという不可思議なポプラ荘というアパートの大屋のおばあさんや住人との心の暖かい何気ない日々の交流や、外部世界へと徐々に開かれてゆく幼い少女の心の移ろいが、様々な風景描写や、さりげない情景描写の中に、非常に、慎重に、しかも、繊細に、丁寧に、象徴的に、映像的に、描かれている事が、映画を見終わってから、理解される。少女の顔にさりげなく舞い落ちる一枚の枯れ葉は、回想を象徴するだけでなくて、ひょっとしたら、交通事故死したと信じさせられていた父が、まるで、一枚の枯れ葉と共に、舞い降りてきて、その少女が、やがて、大人になり、流産のために、恋人とも別れてしまい、生きることに価値を失ってしまい、睡眠薬自殺まで、考えた主人公が、最期には、「生きる」ことを、大屋のお祖母さんという心を開いた人の死をきっかけに、決断することを、暗に、示唆しているかの如くである。高い大きなポプラの樹の葉の「落ち葉」というものは、焼き芋のシーンにも、象徴されるように、誠に、何気ないものであるが、この映画には、象徴的に、重要な場面のようにも、思われてならない。口うるさく、落ち葉を掃き集めるようにいつも云っていたおばあさん、そして、一緒に、その落ち葉で焚いた焼き芋を食べることは、きっと、人間の死を想い出し、落ち葉を掃く度に、落ち葉焚きで焼き芋を食べる度に、亡き人を思い出す象徴なのかも知れない。そういえば亡き母親も、一日に何回も、晩秋から初冬に掛けては、よく自宅前の落ち葉を掃いていたものであることを思わず、想い出す。それにしても、冒頭でのボゥッとしていた母親や、就寝後にも、何度も起きて忘れ物はないかとランドセルを点検したりする少女の日常の動作にも、実は、母親の精神バランスを崩していたこと、或いは、多感な幼い少女の父を突然失った事から来る心の喪失感、そして、必死に働く母への気遣い、安心感への危惧とかによる精神的な強迫観念の表れが表現されていることを、最期に、成る程と、理解される展開になる。もう一つ、象徴的なシーンとして、アパートの住人の運転手の子供が、ひょっとしたら、住むことになるかも知れないと期待していたにも拘わらず、結局、実現せずに、その時に、渡した小さな飛騨一之宮のお守りを、後年、山登りのリュックに、今でも、しっかりと、付けていることを、その父親から見せられた今の大人になって撮られた写真の中に、見いだすことで、再び、その眼には見えない幼い頃の子供心の絆のようなものを、確信して、睡眠薬の袋を屑籠に捨てて、「生きて行く」ことを決断する。それにしても、映像製作とは、四季それぞれのシーンを待たなければならないし、又、早朝や深夜や、自然のその姿が、ベストに、表現される時間に、こちら側を合わせなければならず、誠に、大変な事である。落ち葉焚きで焼き芋をするときは、アルミ・フォイルに包む前に、濡れ新聞紙で、包むとよい、と改めて、中村珠緒に教えられました。それにしても、本田望結という子役は、眼の運びといい、表現力も、大人の俳優顔負けの演技力で、主人公の多感な少女を演じるには、ピッタリの役どころであったのかも知れない。これから、どのように、成長して、大人になる前の少女役を、どんな演技で見せてくれるのかが愉しみである。良い作品を案内して貰って、実に、感謝、有難い話である。原作と読み直して、再び、映画の構成を辿ることにしよう。

 


映画、「Nourin Ten 稲塚権次郎物語」を観る:

2015年10月14日 | 映画・テレビ批評

映画、「Nourin Ten 稲塚権次郎物語」を観る:

何でも、銀座のすばる座で、公開されている仲代達矢主演の映画の案内が、小学校の同級生から、メールで案内があったので、これを見に出掛けることにした。案内によれば、夫君の中堀正夫氏がこの映画を映像監督として、監修関わったので、観て貰いたいと云うものであった。とにかく、映画は、その邦画・洋画を問わず、良い作品を観るのは、元来、好きであるし、又、いつでも、何処でも、シニア割引が効くので、有難く、見に行くものである。もう、仲代達矢の演技する映画も、そんなに、数多く観られるものではないかも知れないので、貴重な映画になるかも知れない。カメラ・ワークに関しては、写真も映画の撮影も門外漢だから、技術的には、良く評価は分からないものの、少なくとも、映像的に、美しいかどうかくらいは、素人の目にも、判ろう。確かに、映画の中には、日本の美しい田んぼや畑の、しかも、四季折々の、或いは、朝晩の景観が、鮮やかに、映画の一シーンとして、取り込まれている。それは時として、真冬の深い雪の中での辛い別れであったり、桜が咲き乱れる春のシーンだったり、秋の稲穂や麦が、黄金色に、染まる風景だったり、初夏の一面、青々とした田園風景でもある。それは、「日本の原風景」でもあるのかも知れないし、稲塚権次郎自身が、抱いていた「強い信念の持続性」の象徴であったのかも知れない。コシヒカリという稲の品種の名前くらいは、皆、日本人は、知っていても、それが、元々、陸羽132号や農林一号や、それ以前の品種改良によって、生み出されたこと、或いは、一つの品種改良にも、5年や10年という歳月が必要であること、更には、映画の中で、知ることになるであろう事実、即ち、年に一度しか開花しない時期に、しかも、開花しているその僅か、1-2時間にしか、受粉作業を、何百、何千という交配種の試作を完了させ、それを種籾から苗に、育て上げ、その後、収穫量のデータをとりながら、更には、気の遠くなるようなデータの精査と整理を行いながら、新品種の実証試験後に、初めて、認定され、世に、送り出すというプロセスが、必要であることが知れよう。昭和初期の恐慌と東北飢饉から、米の新種改良とともに、後に、戦後の食糧難を解決することになる、稲の農林1号の新品種達成に、稲塚権次郎という人物は、おおいに、貢献した。今日のコシヒカリなどの美味しいお米は、それらの延長線上にあることを忘れてはならない。それにも拘わらず、その後の戦争国策の延長線上に、今度は、稲から、「小麦」の品種改良・増産を、新たな課題として、課せられることになる。そして、背丈の低い、倒れにくい小麦の新品種改良を、農林10号という形で、最終的に、結実させるも、戦争という国策による人事異動に伴い、困難な中国北京での海外展開・研究の新たな使命を背負わされることになり、これが、戦後3年間に亘る過酷な中国残留という肉体的・精神的な苦痛と試練を、その妻にも、与えることになる。まるで、それは、満蒙開拓団のような試練と云っても、云えなくはないであろうか?稲垣権次郎という人物は、本当に、ある種の「強い使命感と持続性」を生涯に亘って、持ち続けていたことは、この映画からも判るし、最期のシーンで、亡き両親や妻に対して、お詫びをするところにも、この人物の本当に、私心のない、一国家公務員としての矜恃を観るようである。それは、実は、その心が、そっくりそのまま、稲や小麦の穂の実りとして、或いは、その延長線上の「人々の幸せ」を、あの美しい原風景として、撮らせ、描かせたのかも知れない。私には、そんな風に、思えてならない。それにしても、昔、といっても、私の両親達が生まれる少し前の時代には、お金がなくても、村の当主が、私財を援助しても、優秀な若者に教育を施し、世のため、人々のために、働くというそんな使命感が、援助する側にも、又、受ける側にも、そうした眼には見えない暗黙の互いに共通する「矜恃」のようなものを、感じざるを得ない。やがて、それは、戦後、占領軍によって、持ち出された農林10号が、アメリカから、メキシコへ、渡り、ボーローグ博士が、その収量を従来の2-3倍へも拡大させ、「緑の革命」というその人類への貢献により、ノーベル平和賞を受賞する事になるとは、、、、、、、。同じ、大正年間に、岩手県盛岡の農業学校出身の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」と謳った宮沢賢治は、その陸羽132号の普及を指導したのも、決して、新品種普及というニーズばかりでなく、むしろ、稲塚権次郎の共に、共有する、「人々の幸せの実現」という大いなる「使命感・矜恃」が、底流には、流れているのではないかとも、思われてならない。美しい風景の映像美には、実は、そんなメッセージ性が、込められているのではないかとも、映画を見終わって初めて、気が付くのは、私一人だけではなかろう。ノーベル賞を受賞しなくても、日本人にも、こんな素晴らしい人物が、いたことを忘れて、パン、うどん、パスタやご飯を食べている自分が、誠に、情けなく思ってしまう。成る程、農林10号ではなくて、「Nourin Ten」 だった理由が、納得される。そして、業績というものは、一個人に委ねられるのではなくて、それは、連綿として、後の人に、継承され、その「信念を持続する精神」は、何らかの形で、永遠に、受け継がれて行くということが、改めて、再認識される。穀物でも果物でも、新しい品種が、市場に出るまでには、こうしたたゆまぬ努力と苦労が、人知れず、行われてきた結果で、まさに、今も、こうしている間にも、現在進行形であることに、我々は、気づき、感謝しなければいけないのかも知れないし、そういう精神を継承しうる「人創り」をしてゆかなければならないのかもしれない。美しい原風景とは、そういうことなのであるのかもしれない。晩年、美しい畑やたんぼ道を、自動小型バイクで、精力的に、走り回っていたという稲塚権次郎先生の姿は、今日、その住民達の眼の中に、しっかりと焼き付いていて、その精神も、未来の大人達にも、継承されていることであろう。映像は、そんなことを物語りたかったのかもしれない。

 


小椋佳を聴く:

2015年09月30日 | 映画・テレビ批評

小椋佳を聴く:

まだ、井上陽水が、記憶が定かではないが、確か、アンドレカンドレとかいうふざけた名前(?)で、唄っていた頃に、何とも、不細工な顔つきの場違いなおっさんとおぼしきシンガー・ソングライターとか称する銀行マンの肩書きを有するという歌手が、確か、さらば青春、とか、潮騒の詩を、唄っていたのが、初めてその歌手を知るきっかけであった。歌手というものは、その後に、大成してゆく過程をみると、やはり、初期段階の頃の方が、何とも、松任谷由実ではなくて、やはり、荒井由実のほうが、個人的には、面白かったという具合に、小椋佳にも、そんなことが、云えなくもないかも知れない。まるで、それは、今時のアイドルを初期段階から、探し当てて、育て、見守るような一種のそんな感覚に近いような気もしないではないが、、、、、。小椋佳は、歌手と云うよりも、シンガー・ソングライターだから、作曲も悪くはないが、作詞家としての詩のほうが、編曲や、他の作曲家が作曲した彼の詞のほうが、より、生かされているようにも思える。更に云えば、自分以外の歌手に、唄って貰ったほうが、より、彼の曲の世界観というものが、拡がるようにも感じられる。それは、布施明でも、堀内孝雄でも、井上陽水でも、況んや、美空ひばりをやであるのかも知れない。彼の詩は、何か、子供の頃のぼやけた原風景、とりわけ、少女や少年、幼子や、友達の朧気ながら、ハッキリとは、視えてこないような何ものかが、そこには、存在するような気がしてならない。日常のありふれた生活の一コマを切り取り、その心情に潜む底の底を、形而上化してしまうような手法なのであろうか?、「真っ直ぐに張った糸が、あの日、僕は好きだった、」等、そして、言葉を徹底的に、選び、推敲し、楽譜が読めないからなのであろうか、自ら唄ったテープで、楽譜にして貰うという作業を通じて、彼は、その詩の感性を逆に研ぎ澄ましてきたのかも知れない。それにしても、多忙である厳しい労働環境である銀行に勤めながら、銀行マンとしても、又、シンガー・ソングライターとしても、成功する秘訣は、右脳・左脳、どんなバランスが必要だったのであろうか?そもそも、ビジネスマンとして、父として、夫として、更には、作曲・作詞家として、歌手として、ひとりで、何役もこなすという、エネルギーの源泉とは、一体、何処から、どのように、培われるのであろうか?しかも、それを何十年にも亘って継続・維持・持続し続ける秘訣とは、何なのであろうか?ミュージシャンや芸術家のエネルギーとは、何とも、凄まじいものがあるような気がしてならない。そういう観点から、初期作品と、中・後期作品とを聞き比べてみると、面白いかも知れない。それにしても、星勝や小野崎孝輔とのチーム・プレーは、90曲にも及ぶ歌の数々は、素晴らしいものがある。自分の曲を、船村徹ではないが、やはり、作った本人が一番良く理解しているのであるという自負心から、自ら、歌えると云うことは、これ程、素晴らしいモノはないのではないだろうか?今風の何を言っているのか、唄っているのか、判らない意味不明な歌に較べて、小椋佳の歌は、歌詞が耳から、入って来やすいものの、その意味を理解するのには、何度も聞くという作業を繰り返し行わなければならないのは、実に聴く側にとっては、詩を作った側とこちら側の聴き手との間で、まるで、格闘技のようで、実に、興味深いではないか!詩情溢れる、青春の光と影のような世界を、季節の移ろいの中で聴くと云うことは、年寄りにとっては、愉しいことである。

 


一寸、気になるCM:虫コナーズ篇

2015年05月12日 | 映画・テレビ批評
一寸、気になるCM:虫コナーズ篇
そろそろ、初夏を迎える季節となると、小さな羽虫や小バエ、うるさい蚊などが生えてくる。玄関の扉にも、そろそろ、ネットも取り付けなければなりません。そんな時に、ふとテレビを観ていたら、例によって、殺虫剤のCMに混じって、虫がこないという例のベランダや玄関口に吊すタイプのCMがオンエアーされ始めました。あれれ!確か、この種の商品は、「蚊などには、効果がない」と、消費者庁から、是正勧告が出されたはずなのに、何の反省も、或いは、改善のコメントもなく、性懲りもなく、正々堂々と、主婦が躍っているでは無いか?誠に、見事に、消費者である主婦層が、「躍らされている」ではないか?一体、企業倫理とか、スポンサーに依存しているTV局側にも、どんな「倫理性」が、あるのであろうか?或いは、ほんのひとかけらすらも、そこにはないのだろうか?東南アジアのホテルなどでは、揮発性の植物性オイルを虫除けとして、廊下や部屋に使用していることを想い出して、こうした吊すタイプや、オイル系の虫除けを購入したものの、充分に期待するほどの効果も観られないのが、これまでの実情だった。ペット用も、屋外で試したが、結局は、蚊取り線香が、一番効いたような気がしないでもない。いずれにせよ、何の反省も告知もなく、性懲りもなく、CMを打つとは、消費者は、決して、消費者庁の勧告を忘れていないぞと、声を大にして、叫びたいところである。怖いスポンサーには、所詮、テレビは、鈴をつけられないと云うことの裏返しかも知れない。



一寸気になるCM:ライフ・プランナーとは?

2015年04月20日 | 映画・テレビ批評
一寸気になるCM:ライフ・プランナーとは?
北野たけしによるソニー生命のCMである。本当に自分自身のライフプランを託せる程、親身になって作ってくれるのか?と逆説的に、云っているのであるが、考えてみれば、ファイナンシャル・プランナーであれば、ある程度は、理解出来るものの、自分の人生設計を、他人に委ねるというのも、確かに、考えものである。もっとも、生命保険という範疇ではもはやなくして、こうなると、今日、云われるところの資産運用とか、相続対策用の保険での節税とか、こうなると、確かに、人生設計とも絡んでくるから、他人任せには出来ず、結局、ある種の専門家のお知恵拝借となるのであろうか?もっとも、それが、本当に、日とのためを思ってやってくれているのか<それとも、やはり、利潤追求も当然、付随してくるわけであるから、何とも、複雑な思いである。いかにも、タケシを起用して、毒舌を掃かせるのも、或いは、有吉を使って、アフラックが、ブラック・スワンに、毒舌を掃かせるのも、どちらの生命保険会社も、どうやら、毒舌芸人がお好きなようなのであろうか?それとも、保険という商品そのものが有する魔力のようなものが実は、底にあるから、逆説的なCMを打つのか?一体、どちらなのかと考えさせられてしまう。

一寸気になるCM:

2015年04月01日 | 映画・テレビ批評
一寸気になるCM:
コピーライトというものは、何気なしに、耳で、聞き流しても、何処かで、心の中で、呟くというか、考え直しを起こさせてしまうようなものも、なかなか、興味深い。最近、コーヒーのエメマンと、ゆうちょ銀行のCMが、心の奥底に響いてくるのは、不思議な感覚である。「世界は、誰かの仕事から出来ている」と、南米のコーヒー畑の労働者が、(何故、日本人が演じなければいけないのであろうか?)コーヒー豆を一粒一粒、収穫する場面から、コーヒー飲料が、こうして、地球の裏側で丁寧に、支えられているというメッセージである。確かに、我々の「食」というものは、ことほど左様に、海外の低賃金と労働集約型の作業に、依拠していることは異論のないところである。それは、距離・時間・エネルギー換算にしても、どのくらい離れているところから来るのかとか、加工労働時間がどれくらい費やされているのか、もはや、これらを履がせぬほど、こうしたビジネス・モデルは、このコーヒー飲料を見るまでもなく、「世界は、確かに、誰かの仕事で、支えられている」ものなのであろう。これを忘れずに、我々は、心しなければならないのかも知れない。
「そのお金はあなたと並んで生きてゆきます」というゆうちょ銀行のCMは、新成人の4月の新しい社会への旅立ちに伴って、銀行口座のお金も、これから、一緒に、君と並んで、生きてゆくのか、それとも、お金を活かしながら、共に、成長して行くのか?どちらなのであろうか?ナレーションだけでは、分からない。自らで想像してみよう。知らぬ間に、お金は、自らの手から、砂がこぼれ落ちるように、あっという間に、消え失せてしまうものであることも、我々は、その経験からして知っている。又、お金のために、働くのか、それとも、働いた成果が、お金なのか、死ぬまで、その解答が、分からぬままに、生きて行くことになるかも知れないし、逆に、お金の呪縛に翻弄されてしまうようなことも、様々な人生をみていると、それも又、現実であることも熟知している。このふたつのCMには、どちらにも、マネーと仕事という得体の知れないものと、付き合って行かなければ、生きて行けないことを教えてくれるキャッチ・コピーなのかも知れない。

一寸気になるCM:

2015年03月18日 | 映画・テレビ批評
一寸気になるCM:
久しぶりの一寸気になるCMのコメントである。家庭教師のトライのCMに、恐らく、「アルプス少女ハイジ」のチャラクターが、登場する下りがあるのですが、ふと、アニメのキャラクターには、特定の人物イメージが、存在するのか、しないのかと、考えさせられてしまう。確か、以前には、映画の一シーンを勝手に(?)切り取り、その登場人物に、勝手に日本語で吹き替えてCMに使用するという手法が行われているのを見かけたが、こちらは、俳優の肖像権と云うか、固有のイメージが、損なわれないのかと心配してしまう。同様に、アニメにも、同じ事が云えなくはないのではないだろうかと考えさせられる。アルプス少女ハイジのお爺さんが、果たしてラップをするのかどうかは分からぬが、チャラクター自身のイメージへの侵害はないのであろうか?そんなことを一々気にして、CMを見る必要も無いのかも知れぬが、年寄りには、一寸気になるCMである。ゴジラのシェーにも、昔は、驚かされたが、、、、、、。まぁ、そんなに目くじら立てる必要はないか?

映画、「悼む人」を観る:

2015年02月26日 | 映画・テレビ批評
映画、「悼む人」を観る:
歳とともに、眼が衰えてくると、昔のように、原作である本を読んでから、映画を、再び、愉しむということも、今や、億劫になり、順序が、逆になってしまった。文章言葉での表現と、映像によるビジュアルな表現とでは、そこには、何らかの違いがあるわけで、それが、どのように、又、監督や脚本家や役者によって、解釈されて、表現されるのかを愉しむのも、一理あろうか?原作、直木賞受賞作である天童荒太によるもので、死者を「悼む」ということは、一体、どういうことなのであろうか?その意思に反して、死んでゆくことは、病死であれ、不慮の事故死であれ、云われなき理不尽な不条理な殺され方でも、何であれ、どんな形の死でも、どのように、「悼み」、「悼まれる」のであろうか?その理由も、何故、死んだのか、或いは、殺されたのかは、関係無く、死者の生きた証、如何に愛されたかが、誰かを愛し、誰かに、愛されたのか、を問うものである。等しく、そこには、「悪人尚もて、往生す」ではないが、やや、精神を病んだ主人公の青年が、全国を放浪しながら、「死者との対話」を通じて、或いは、その放浪旅行の中で、再び、自分自身を見つめ直してゆく過程を描いているのだろうか?最終的には、自身の母が、癌に冒されて、亡くなることと、(貫地谷しほり演じる)妹が恋人との間に出来た赤ん坊をシングルマザーとして、産むという決断をすることで、新たな命と引き替えに、ひとつの命が、終わってゆく様を象徴的に、描いているのか?その旅行の過程で、夫が、自ら自殺できないが故に、その妻を使って、刺殺してしまう石田ゆり子が演じる女の存在は、主人公の神聖さから、一挙に、イメージが、覆ってしまうようで、原作に、そういう表現がされているのであろうか?果たして、原作を読んでいないので、良く理解出来ないのも事実である。主人公の青年は、死者との対話の中で、むしろ、自分自身との内省的な対話をするという形に、変容してゆき、結局、この石田が演じる女との関係性の中で、自分を取り戻し、今まさに、死の床にある(大竹しのぶ演じる)母の待つ家に帰ることを決意する訳である。8月6日の原爆投下の当日、今治で、空襲により亡くなった兄を忘れられずに、コミュニケーション能力に、支障をきたしてしまった父の役を演じた平田満も、なかなか、良い演技であろう。女医役の戸田恵子も、面白い、又、一寸、危ない、雑誌記者を演じた椎名桔平も、アウトレージでみせた顔とは又、別の顔で、その母や、父との関係性を、上手に、想像させていて、宜しいではないか?それにしても、石田ゆり子は、それ程までに、濡れ場を演じなければならなかったのか、堤幸彦監督(映画、明日の記憶など)に尋ねてみなければよく、分からない。高良健吾という俳優は、若い乍ら、数少ない動的でない演技が出来る役者であることが、これからも、理解されよう。様々な愛の形としての命というものが、ここには、ちりばめられている。「愛する人を殺した女」、「母を棄てた父を憎む男」、「愛が歪んだ形となってしまった男」、「新しい愛の結晶としての命を拒否された女」、「静かに、死の床で息子を見守る母」、「どんなことをして、人々に感謝されてきたのか?」、「どんな風に、愛され、又、愛してきたのか?」、この映画を観ていると、普通であること、当たり前なことの方が、何か、異常な事ではないかとも、考えさせられてしまう。人間が関係する祥月命日は、随分とあるものであるが、その故人を「悼む」方法も、よくよく、考えなければならないかも知れない。なかなか、重い映画である。逆に、原作を読んでみることにするか?それにしても、毎日、毎日、事故死やリンチ殺人や虐めによる死亡とか、これでもかこれでもかと、全く、考えさせられる。

映画、「緋牡丹博徒」と「死んで貰います」に思う:

2015年02月21日 | 映画・テレビ批評
映画、「緋牡丹博徒」と「死んで貰います」に思う:
「単騎、千里を走る」の健さんは、もう、若い頃の怒りに満ちあふれたぎらぎらした目つきではなかったが、この任侠路線華々しい頃の作品では、ありったけ、「危ない目つき」である。これに対して、緋牡丹お竜こと、藤純子は、この頃、これ程、キリッとした線の細いながら、鋼のようなしなやかさを有した凜々しい役柄を演じていて、実に、面白い。「死んで貰います」では、一転して、芸者役で、出演していて、そのギャップと云ったら、これも又、奥ゆかしくて、一途な秘めた心を有した女らしいのが、実に宜しいではないか?我々の世代は、既に、池辺良の若い頃の文芸作品や好青年役ものは、残念乍ら、時代が違ったから、観たことはない。映画というものは、所詮、同時代性というものが、結構、前提に、評価し合うものなのかも知れない。言い換えれば、時代を遡ったり、下ったりして、観ても、なかなか、その映画が出来た頃の「時代性」を理解出来ないものかも知れない。啖呵を切る場面での監督の撮影手法も、今や、芸術的な価値があるように、同じリメイクで、同じ手法で、仮に、今、作られたとしても、「同時代性」は、もはや、感じられることはないであろう。俳優というものも、その映画のその瞬間、瞬間で、輝いていて、その輝きは、その目つき、その仕草、その演技、どれひとつをとっても、「その時の一回性」なのかも知れない。そこに、観られるのは、いつも、永遠に変わらぬ俳優が、存在するだけで、その時の、自分は、決して、その中に存在しているわけではない。せいぜいが、その時に観た当時の「過去の自分の存在」であって、同時性の中で、残念乍ら、その存在を感じられる訳ではない。改めて、自分の顔を鏡で見ると、そこには、目の垂れてしまった、今の自分しかなく、相手の俳優は、永遠に、眼光鋭く、凜々しく、鋼のようにしなやかな立ち居振る舞いする姿が、銀幕の向こうに対峙しているわけである。俳優というものは、永遠に、その中で、輝いているかも知れないが、観るこちら側は、残念乍ら、一人だけ、時間の経過をいやという程、教えられることになるのかも知れない。だからこそ、俳優は、死しても尚、銀幕の彼方で、永遠の命を保ち続けて、燦然と輝き続けるのかもしれない。確かに、藤純子は、改名しようが、結婚しようが、歳をとろうが、緋牡丹お竜で、高倉健も、池辺良も、変わらないのかも知れない。そんな感慨を持ちながら、映画を観てしまった。それにしても、今云われるところの大御所達が、端役で出演しているのを観るのも、実に、面白いことである。又、10年後に、見た時には、どんな感慨を抱くであろうか?1960年代後半も、1970年代初めも、その時には、随分と、遠い昔の映画になっていることであろう。それにしても、藤純子の引退後に、そのイメージを継承させようとして、せいぜいが、梶芽衣子くらいしか、世に送り出せなかったことは、余りにも有名なことである。そして、又、高倉健も池辺良も、そういうことなのかも知れない。更には、当時の女優陣は、佐久間良子も三田佳子も、生まれた時代が、悪かったのであろうか?