goo blog サービス終了のお知らせ 

小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

黄色い景色から、茶色になりつつある:

2014年11月14日 | 自然・植物・昆虫
黄色い景色から、茶色になりつつある:
東側の窓は、ついこの間まで、真っ赤に染まったモミジの紅葉のお陰で、(流石に、カーペットを敷いているから、量との旅館のように、ピカピカな床が赤く映えることはないが、)それでも、窓が明るくなった感じがしたものの、もう、すっかりと、落葉して、枝が丸出しになり、その趣きも、一変してしまった。これに代わって、今度は、南側の窓が、取って代わり、黄色に変色したどんぐりの樹の葉や、緑色の木の葉が、見事なグラデーションを彩っている。日一日一日と、そのグラデーションも、微妙に、変わって行き、今や、茶色になりつつある。まもなく、この調子だと、冬の訪れも早まるのかも知れない。空からは、ハラハラと、落ち葉が、舞い落ちてきて、道端に、それらが、積み上がっている。いよいよ、落ち葉掃きのシーズン到来である。昔は、子供達が、小さい頃には、一緒にこれらの落ち葉を掻き集めて、サツマイモを焼いて、焼き芋を愉しんだものであるが、、、、、。確かに、こちらの落ち葉は、半端な量ではない!冬の陽の光が、家の奥までも、入ってくるようになってきた。真っ青な空には、遠く、透けてしまった枝越しに、鳶が気持ちよさそうに、丸く円を描きながら舞っている。いよいよ、冬の到来間近かかな?

あっという間に、モミジの紅葉が終わってしまった!:

2014年11月07日 | 自然・植物・昆虫
あっという間に、モミジの紅葉が終わってしまった!:
3-4日の間、一寸、所用のために、東京へ戻っていたところ、帰ってきたら、既に、玄関脇のモミジの紅葉は、見事に終わっていて、すっかり、枯れ葉が、タイルの上に、階段のそこここに、丸まって、風に吹かれて、丸まっていた。それにしても、樹木というものは、面白いものである。同じ種類の樹でも、植えられている場所が違っていたり、恐らく、太陽の光の当たり具合でも違うのであろうか、それとも、根の張り方が違うのであろうか、微妙に、紅葉の時期が異なるし、あるものは、オレンジ色のまま、赤くならずに、散ってしまうし、又、あるものは、既に、紅葉が散り始めているのに、まだ、真っ赤に色づいたまま、頑張っている。いやはや、人生模様と云おうか、樹木模様様々である。緑の葉から、黄色になり、やがて、オレンジ色になり、最期に、深紅の紅色に染まって、まるで、真っ赤に、染まった絨毯のようになってから、見事に、散り果てる様こそが、モミジの一年のお終いに当たるのに、そうはゆかずに、深紅に染まることなく、散り始めてしまうものもある。見事な散り際は、「散華」と言う他ない。もっとも、華では無く、葉っぱであるから、落葉なのであるが、漢字とは別に、「散る華」と言っても、云いすぎではないであろう。京都の高雄や桜の吉野山を訪れたことはないが、きっと、モミジの紅葉を愛でるのも、晩秋に掛けての私の一つの愉しみであることに変わりはない。来年も又、綺麗なモミジ紅葉が愉しみである。今度は、どんぐりの樹木が、緑の葉から、黄色に色づき始めた。やがて、これもあっという間に、茶色に変色して、落葉して、いよいよ、冬支度の始まりである。

窓外の景色と色合い:

2014年10月23日 | 自然・植物・昆虫
窓外の景色と色合い:
ガラス越しに眺める景色も、何とはなしに、気が付けば、緑色から、黄色や赤に変色し始めた葉の移ろいに、驚かされる。司馬遼太郎だっただろうか、庭というものは、いや、庭の景観というものは、何世代にも亘って初めて、作られるもので、一朝一夕に、出来るのではない、、、、、、と云っていた言葉を想い起こすが、確かに、著名な著述家が、長逗留しながら仕事をするような有名な旅館の庭でもない限り、なかなか、普通のサラリーマンが、自分の家の庭を、キャンバスを染めるようには、思い通りにゆかぬものである。冬から、春にかけて、或いは、初夏に掛けて、草花が、芽吹いてくる頃も、なかなか、趣きがあって、宜しいようであるが、私は、何と言っても、緑の木々が、とりわけ、楓やモミジの葉達が、紅葉し始める頃から、晩秋に掛けてのやや肌寒くなり、霧がかかる季節が、とりわけ、好きである。里山の景色は、全く、春の生命の息吹を感じたり、夏の如何にも、躍動している頃とは、違って、人生の黄昏時を、まるで、自分の人生の瞬間になぞらえるようでいて、その色合いの変化を愉しめて宜しいではないだろうか。それは、日一日と、微妙に、移ろいゆく季節を、色彩というキャンバスで、景色を眺めることで感じられると言うことでもある。やはり、針葉樹だけではなくて、広葉樹も、とりわけ、黄色や赤に、変色する樹木や、草花も、必要になろう。或いは、無駄であるような蔓なども、この季節には、とても、綺麗な赤や黄色に、夕陽や朝日を浴びて、ひときわ輝きをますものである。山モミジは、どんどん、育ってゆくものの、楓やケヤキや辛夷は、種から、播いたせいだろうか、まだまだ、小さくて、おまけに、今年春の大雪で、成長したと思った枝が、途中から、何とも空しく、折れてしまったのは、残念なことである。これも、自然の摂理だから、致し方の無いことであるが、何とか、黄色に紅葉する葉を早く、みたいものである。以前ならば、この季節には、白樺の葉が、見事に、黄色く染まり始め、赤いモミジの紅葉との競演が、愉しめたものであるが、カミキリ虫に、まるで散弾銃の爪痕のように、ボロボロに、打ち抜かれて、見事に、枯れ果ててしまった。小雨に烟る赤や黄色の紅葉は、この季節ならではの趣きであろう。ガラス越しに見える景色も、後ひと月もすれば、一面、茶色一色になってしまうかも知れない。それでも今は、同じモミジでも、個性豊かに、それぞれ、彩りが異なり、ある木は、まだ、緑色だし、又、歩きは、上の方から、黄色に、更には、赤く枝毎に、木々毎に、その色合いと紅葉のスピードが、異なるのは、実に、人それぞれの人生模様とは良く言ったもので、そのグラデーションと共に、趣きがあって宜しい。

それにしても、冷えてきました!:

2014年10月19日 | 自然・植物・昆虫
それにしても、冷えてきました!:
去年の今頃は、台風の後に、停電が生じて、大変なことになっていたが、今年は、台風一過、ひどく、冷えてきた。窓越しの外の風景も、緑色に染まっていた木々の葉も、今や、桜の葉は、赤く、或いは、茶褐色だったり、黄色に変わっている。既に、葉を散らした桜の樹もあるくらいである。一寸遠くの方には、白樺の樹が、白い幹を浮き立たせて、見事に、樹木全体を黄色に、スペード状に、佇立している。風が、そよぐ度に、樹木全体が、ゆっくりと左右に、サラサラと音でも奏でるかのように、揺らしている。もう、ドングリの実は、すっかり、台風のせいだろうか、実を落としてしまっている。もはや、屋根に、ポロポロと実が落ちてくる音も、聞かれない。一部の葉は、もうすでに、茶色に変色してしまった。松の葉も、一部は、茶色に変わり、パラパラと針のような葉を落とし始めている。唐松も、これからは、変色の準備段階になるのであろう。遠い遙か高い山並みは、既に、唐松が、紅葉し始めているのであろうか、黄土色に変わり始めている。麓のケヤキは、見事に、陽の当たる所は、赤や黄色や黄土色に、紅葉し始めている。今年は、少々、色づきが早いのではないだろうか?樹木に遅れまいとして、小さな草花や、萩の葉や、すすきも、すっかり、秋の支度である。何とも、版画のデッサン素材には、全く、事欠かない様相である。すすきと月、ドングリと枯れ葉、遠い山並みと唐松の樹々、等、一寸、デッサンでもしてみるか?今年は、冬が長そうな予感がする。


石榴の実がなり始めてきた:

2014年09月29日 | 自然・植物・昆虫
石榴の実がなり始めてきた:
一体、何年かぶりであろうか?いつの頃だったか、想い出せない。今年は、女房殿が、強剪定で、去年切った枝先に、幾つかオレンジ色の花が咲き、順調にゆけば、実になると愉しみにしていたが、すべて、花が実をつけるという訳にはゆかず、幾つかの花は、強い雨風に打たれて、花自体が、萎れて落ちてしまったが、、、、、、、、。何気なしに、窓のガラス越しに、目をやると、何やら、透明な玉ねぎのような実が、枝先に、たわわに二個ほど実っているではないか?順調にゆけば、晩秋には、真っ赤に色づき、ルビー色の実が自然にはじけてこよう。何年か前には、とても、綺麗な色合いの石榴が、熟していて、その実を食したところ、とても、美味しかったことを、なつかしく想い出す。肥料もやらず、良く結実するものである。もう幹の太さも知らぬ間に、10cm程度になっている。きっと、実付きをよくするには、毎年、きちんと、枝先を切ってやる作業が必要なのかもしれない。徐々に、透明な、まるで玉ねぎのような実が、秋の日差しを浴びながら、赤く染まってゆくことであろう。それにしても、こんなに、玉ねぎのようだったとは、知らなかった。窓ガラスを開けると、何処からか、金木犀の花の甘い香りが、ほのかに、漂ってくる。もう秋も、だんだん、深まってくるのであろうか?ずっと、これまで、愉しませてくれていたピンク色の八重の木槿の花も、そろそろ、店じまいの感が漂い始めている今日この頃である。もう、蝉の声は、いつの間にか、気が付けば、聞こえなくなってしまった。

今年初めて、ひぐらしの声を聴く:

2014年07月14日 | 自然・植物・昆虫
今年初めて、ひぐらしの声を聴く:
梅雨空と台風の影響の中でも、ニイニイゼミは、春蝉に負けじとばかり、今日も頑張って鳴いている。そんな中で、夕暮れ時に、かすかに、遠くの森の方から、今年初めて、ヒグラシのカナカナカナーという鳴き声を聞いた。今年も、いよいよ、初夏から、本格的な夏の到来なのであろうか?もっとも、梅雨明け宣言は、まだ、先のことのようでもありそうであるが、、、、、。もっとも、気象庁の予想というものは、当てにならないので、基本的に、自然の移ろいの中で、とりわけ、昆虫や植物の生長をひとつのバロメーターとして活用した方が生活をする上では、必要なのかも知れないと、生活の知恵として、感じる。何でもかんでも、データから、科学的に解析しても、残念乍ら、反比例するかのように、自己判断能力が衰えるだけなのかも知れない。確かに、未来分析とは、独自に、仮説を立て、それを検証して行くと言う能力、そして、飽くまで、ビッグ・データというものは、その検証作業を行う際の補完材料であること、結果であって仮説を読み解く補完ではあっても、本質そのものではないこと、むしろ、仮説を如何に独自の手法で、組み立てられる能力を培うことが出来るのか、どうすれば、その仮説を打ち立て、どのように検証するかが、今日のマーケティングの手法にも通じるのかも知れない。気象庁も、アメダスだけの分析ではなくて、昆虫や植物の動態観察も、総合的に、入れてみたら、どんなものであろうか?もっとも、それでは、土石流災害は、防ぐことは出来ないかも知れないが、、、、、、、。ひぐらしはそんな中でも、日増しに、数を増して、競うように、きっと、鳴き始めるのであろう。

ニイニイゼミの声を聴く:

2014年07月03日 | 自然・植物・昆虫
ニイニイゼミの声を聴く:
いつ頃のことだったのか、想い出せない。5月頃だろうか?毎年、5月の連休が終わる頃には、春ゼミが、例によって、陽が当たり始めるとグェッ、グェッ、ギーギーとうるさく、鳴き始めるが、春ゼミの天下も、そろそろ、初夏を迎える頃になると、その座をニイニイ蝉に譲り渡すことになるのであろう。梅雨空が続く中で、久しぶりの快晴の天気である。新装なったベランダの木陰の下での読書も、爽やかな風に打たれていると、何やら、夢見心地に誘われて、午睡をしているのか、読書をしているのか、どちらなのか、よく分からなくなってしまう。結局、眠くなれば、午睡に誘われ、ふと、うたた寝から覚醒すれば、再び、読書に戻るという実に、いい加減な過ごし方である。松食い虫にやられて、結局、切り倒さなければならなくなった松の巨木の後は、ぽっかりと、大きな空間が空いて、その隙間に、初夏の太陽が容赦なく降り注ぐことになった。山桜の樹でも植えることにするか?何もしなければ、ドングリの木が、生い茂りたい放題になることは必至であろう。モミジの若葉が、実に綺麗である。下から眺めていると、枝先の若葉が、陽に当たるとオレンジ色に変わり、枝全体も緑の葉が、様々なグラデーションに変化することに気付かされる。松の新緑の枝も、下から眺めていると、青空に一層映えて美しいものである。谷風を受けて、心地よい風と共に、その枝に、吊されたハワイか何処かで旅行土産に買ってきた貝殻細工の風鈴が、チャリン、チャリンと擦れ合う音が聞こえてくる。遠くの方から、枯れ松を伐採しているのであろうか、ウーウーと苦しそうな低い唸りをあげて、チェーンソーの音が響いてくる。再び、春ゼミとニイニイ蝉が、鳴きだし始めた。もう随分と緑が濃くなってきた。初夏から、本格的な夏へ、もうすぐ、梅雨も明けることになるのであろうか?うたた寝の中で、聴く蝉の声は、なかなか、情緒があって宜しいですね。


赤松の立ち枯れと偽アカシヤの怪しい花の美しさ:

2014年06月05日 | 自然・植物・昆虫
赤松の立ち枯れと偽アカシヤの怪しい花の美しさ:
敷地内の赤松が、太い松も含めて、3本も、同時に、松食い虫の被害にあって、完全に枯れてしまった。しかも、3本共に、クレーン車でなければ、伐採できない微妙な場所である。何とも手痛い出費である。市の松食い虫立ち枯れ伐採助成金を自分で申請して、少しでも税金による補助金で、補填しないと、年金生活者にとっては、堪らない出費である。それにしても、車で、ドライブしていると、緑色の山が、今や、赤茶けてしまい、全山、緑が喪失しつつあるようである。僅かに、まだら色に、山桜の開花の季節は、まだよいものの、それが終わって、新緑になるや、今度は、そこここで、白い淡い花模様が、咲き乱れる。何とも、怪しい美しい花である。例の外来危険危惧種である「偽アカシヤの並木道」である。確かに、養蜂家にとっては、偽アカシヤの花は、蜂蜜を採取するのに、便利かも知れないが、大体、外来危険危惧種という物は、どういうわけか、花が、怪しいくらいに、美しい、中には、それと知らずに、草花や種をご丁寧に、持ち帰っては、知らずに、庭先へ、播いてしまうご老人がいるくらいである。後から、ニュースや新聞で、じつは、それらが、外国から入ってきた外来危険危惧種で、焼却処分が指導されていることを知らされるのが落ちである。それにしても、凄まじいほどの生命力、繁殖力で、今や、街道という街道、全山、放っておこうものならば、偽アカシヤだらけとなり、しかも、巨木化とも相俟って、他の種類の木々を見事に、あっという間に、駆逐して、絶滅・消滅させてしまう、湖のブラック・バスのような存在である。友人の奥様に、3-4年ほど前に、教えられて以来、徹底的に、小さいひこばえのうちから、伐採・駆逐しているが、皮肉にも、お隣さんの敷地に今度は、越境、存命することになってしまった。それにしても、街道に咲き誇る怪しげな美しい白い花を観るにつけ、一体、この先、何処まで、人の手が届かないとなると、繁殖することになるのであろうかと考えると、自然界の生態系とは、実に厄介であることが、容易に、理解されよう。今や、景観も変貌しつつあるのは、至極、残念なことである。クリーム色の花殻が、今度は、道路の両側に、一面、雪のように、積もり始めている。

新緑が、眩しく、美しい!:

2014年05月28日 | 自然・植物・昆虫
新緑が、眩しく、美しい!:
冬は、辺りの景色自体が、茶色の落葉樹におおわれてしまうせいか、山並みも、どういう訳か、茶色一色になってしまい、心模様すらも、何とはなしに、暗くなってしまうものである。せいぜいが、雪でも降って、それが、一面、真っ白な銀世界に、変貌する程度であろうか?それに比べると、春先は、日に日に、まず草が、萌えだして、その後、草花が、咲き誇り出す。そうすると、今度は、徐々に、木々も芽吹き始め、やがて、一面が、柔らかい緑色に、包まれることになる。碓井峠も、この時期は、いつものバイパスではなくて、山道をくねくねとゆっくり登ってゆくと、その間の新緑を愉しむことが出来、幸いに恵まれようものならば、山桜や八重桜の花も、愉しめることがあろうか。秋の紅葉は、実に、鮮やかで、綺麗である。しかしながら、緑色をしたこの季節の柔らかな緑の葉も、又、とても、綺麗で宜しいではないか?何とはなしに、モミジに、人生を重ね合わせてしまいそうである。萌え出ずるような新緑の緑色と晩秋の紅葉に彩られる真っ赤な、或いは、まだら模様のその葉の彩りに、まるで、自分自身の人生を重ね合わせてしまうようである。昔の人は、どう思ったのであろうか?同じ、樹を見て、同じ葉っぱを眺めては、どんなことを、どんな思いを抱いたのであろうか?子規はその闘病生活のとこの中から、狭い庭から文学の世界を俯瞰できたように、人は、いつでも、その景色の中から、何かを見いだすものなのであろうか?ふと、モミジの柔らかなこの時期特有の新緑を眺め愉しみながら、そんなことを思う。晩秋の紅葉とは全く異なる、又、真夏のモミジの葉とも、異なる何とも言えぬ「柔らかな緑の色合い」を、暫くは、愉しみたいものである。

和久井ガーデンの非日常性を愉しむ:

2014年05月25日 | 自然・植物・昆虫
和久井ガーデンの非日常性を愉しむ:
庭というものは、観て愉しむ分には、なかなか、面白いが、自分でそれをマネージしようとするとなると大変なものである。従って、自分の家では、身体がやや不自由になってきたせいもあって、なかなか、捗らない。そんな中、糠地の和久井ガーデンで、新たに、庭を一望できるデッキを新しく、構築し、週末の金・土・日に、珈琲と奥様による手作りクッキーでオープン・カフェを催しているというので、その糠地からの景色と新緑に映える庭園と畑を眺めるために、否、この一寸した「非日常的な空間」を味わうために、出掛けることにした。とにかく、天気が良くて、遙かかなたには、富士山までもが、遠望できるという檜のデッキで、その庭園を眺めること、又、入り口の右奥には、ハンモックが、空中で愉しめるように、或いは、一時の午睡を愉しめるように、一寸したデッキに、ござを敷いて、日よけには、簾とつる性植物を匍わせることで、夏の熱い日差しを遮るように、そして、風がスゥーと吹き抜けるように、三角形の屋根のように、シェードが、形作られている。デッキの隙間にも、工夫が凝らされていて、鉄線の格子に、香りの強いバラが、蔓を伸ばして、花が咲くように、工夫されている。しかも、デッキの支柱越しに、一寸したテーブルが、備え付けられていて、外の景色を珈琲を飲みながら、見下ろすことも可能である。何とも、目で楽しめ、来年には、バラの花の気品高い香りも鼻から、愉しめるかも知れない。これまでは、傾斜面だけだったのが、その空間に、デッキを作ることで、空間に、身を乗り出すようにして、景色が見られるようになり、更に、樹の枝が、まさに、身近に迫ってくることにより、より、木の肌を身近に感じられるようになっている。もう、これは、ほとんど、ツリー・ハウスに近いような感覚であると言っても過言ではないだろう。新緑と云っても、どうやら、木々の種類によって、その日差しを遮る程度も異なり、従って、陽の光の射し具合も、微妙に、その影ですら、違うとのことである。成る程、桜の樹と辛夷の葉では、微妙に、違うことを実感する。中空に張り出したデッキの一番良いところは、自分自身が、空中に身を乗り出したような錯覚に陥り、更に、空間という非日常を緑の葉や木肌を直に感じることで、まるで、「樹海の中に、浮遊」しているようなそんな「非日常性」を愉しめることが、実に、宜しいではないか。屋内に、展開される小道具や、キッチン家具も、すべて、この為に、あるような感じがする。テーブルクロスも、さることながら、それを敷き置く天然の石も又、風情がある。そのテーブルは、睡蓮の鉢を丸ごと利用していて、これも又、宜しいではないか?まるで、空間というものが、壁も、机の上も、椅子や手作りの座布団ですら、すべて、このためにあるように思われる。屋外のガーデンというものも、その小径も、すべて、蜜蜂の巣箱も、木に備え付けられた鳥の巣箱も、すべて、こうした空間の中で、皆一様に、自然の風景の中に、溶け込んでいるような気がしてならない。空を眺めること、遠い景色を眺めること、木々の木の葉を愉しむこと、風を感じること、光を浴びること、陽の光を遮って木漏れ日を愉しむこと、しかも、それを空中に身を乗り出すような感じで、愉しめることは、本当に、もはや、都会の生活では、非日常的なものなのかも知れないが、ここ、和久井ガーデンでは、実は、そうではないのであること、日常生活の中で、取り戻せることを、改めて、考えされられるし、そうした空間こそが、人間には、本来、日常生活の中で必要なのであることを自然に、気付かされよう。是非、週末は、糠地の見晴らし館の近くの和久井ガーデンを訪れることをお勧めします。「日常の中にある非日常」を体感してもらいたいものである。糠地の天池の近くで、標識も分かりやすくて、標高850m程の景色も併せて堪能出来ますよ!

再び、雄の雉とリスに出会った:

2014年05月18日 | 自然・植物・昆虫
再び、雄の雉とリスに出会った:
先月、近くの果樹園の前を車で通り過ぎようとしたときに、右側の溜め池のやぶの中から、ヒョコ、ヒョコと雄の雉が目の前を横切っていったが、今日も同じ場所で、偶然、又、出くわした。恐らく、同じ雉だろうか?個体識別には、自信は無いが、、、、、、。その後、自宅のベランダに据え付けられている野鳥の餌台に、何気なしに、目をやっていると、何やら、逆光線の中で、餌台にうごめく陰があるではないか、よく目を凝らしてみると、どうやら、野鳥にしては、動きが違う、気付かれぬように、慎重に、よく見える場所に、移動してみると、面と向かって、一瞬ガラス戸越しに目が合った。間違いなく、リスである。驚いたのか、素早く、松の木の枝の方へ、するするっと身軽に登ってゆく、そして、様子をじっと、再確認してから、再び、するするっと枝伝いに、餌台へと舞い戻ってきた。再び、餌台にある向日葵の種を器用に、前歯と小さな前脚で、殻を割りながら、美味しそうに食べている。前回出会ったときは、もう、3-4年程も前になるだろうか?カラス等の被害に遭わずに、生き延びてきたのであろうか?それにしても、まっ逆さまに器用に枝から枝へと下りたり、登ったり、飛び移ったりと大したものである。今度は、ベランダの上を飛び回って、餌の向日葵の種を探している。鎌倉では、リスの被害に手を焼いているそうであるが、この里山では、自由に、山の木の実を食して、結構である。写真と動画に撮ったが、逆光で、リスであることがよく分からないのは、実に、残念である。

いよいよ、今年最後のお花見か?:

2014年05月11日 | 自然・植物・昆虫
いよいよ、今年最後のお花見か?:
今年も何度か、色々な所で、お花見をしてきたが、いよいよ、今年もGW明け頃には、終盤が、とりわけ、山桜の後は、最後の八重桜の花見で、終了である。高遠城趾の桜を、一度は、観たいと思うが、余りの交通渋滞や人混みでは、なかなか、二の足を踏んでしまうものである。それよりも、地場の誰も観ようとしない桜並木や、人知れず密かに咲き誇る山桜を観賞する方が、ずっと、何か、マイ桜のようで、情緒があって良さそうではないか?今年も、いよいよ、最後の花見で、といっても、花の下で、飲めや歌えの宴席ではない。ただ、見上げて、その花の美しさを味わうだけのことである。もう、この最後の時期になると、レンギョウや、山吹などの花達も咲き誇り、あるものは、既に盛りを過ぎていたり、花を落とそうかとするころであるものの、まだ、その黄色の色合いと緑の葉と、そして、桜の淡いピンクの花と、山桜の花びらが、風に舞いながら、ハラハラと落ちて行く様は、毎年、それを愉しみに観ているとは云いながらも、実に、春の情緒を表すようでいて、素敵な光景である。長いどんよりとした冬の情景から、やっと、暖かな冬を迎える北国の春という情景が、まさに、現れる一時である。又、1年後も同じように、愉しみたいものである。愛犬の盛り土の上にも、やがて、八重桜の花房が、落ちてこようか、、、、、、、。

三度目の花見か?:

2014年04月15日 | 自然・植物・昆虫
三度目の花見か?:
いよいよ、信州の里にも、桜前線がやってきようである。未だ、標高900m程度の里山では、やっと、草が緑色になり始めた頃で、流石に、桜は、未だ、開花しそうだとは言いがたい。今年は、もう2週間程度が必要であろうか?もっとも、里山を下りてくると、そこには、桜が、既に、盛りであったり、淡いピンクの蕾から、桃色に、色を濃くし始めてきたようである。桜の花は、何度、観賞しても、飽きることはない。これで、今年は、3度目であろうか?後、もう一回ほどは、うまくすれば、観賞できるであろうか?思えば、もうすぐ、今年も、3分の1が、過ぎ去ってしまうことになる。そうこうしているうちに、あっという間に、葉桜から、今度は、ドンドン、緑が濃くなって、新緑の季節へと、やがて、春ゼミが鳴きだし、初夏になるのであろう。ガーデニングの鉢にも、購入してきたビオラやピンク色のカーネーションや芝桜を植え込んで、ひとときの初春の輝きを愉しみたいものである。まだ、朝晩は、流石に寒くて、一寸、ストーブを焚かないといけないが、それも、間もなく、お別れを迎えることになろう。そろそろ、木々の新芽も、芽吹きのタイミングを見計らっているようである。去年のように、20日過ぎに、雪や遅霜の被害がないことを祈りたいものである。


オスの雉にばったり!:

2014年04月13日 | 自然・植物・昆虫
オスの雉にばったり!:
何とも、可笑しな駆け方である。声を聴くことはあっても、小走りに走るところを見かけたのは、初めてである。りんご果樹園畑に、最近では、鹿よけに、電気防護策が設置されたが、その道路の反対側から、我が車の目の前を、ヨッコラショとばかりに、2足歩行で、右から左に、道路を横切り、りんご果樹園の奧へとオスの雉が消えていった。剥製の雉と確かにその姿はそっくりである。車の前を横切るとき、スピードを落としたためだろうか、瞬間、急ぎ足の雉と目が合ったような気がするのは、何かの錯覚だったのであろうか?多少、相手も、慌てた様子が、見てとれたが、余り、自分の羽で、飛ぶと云うことはなかった。羽には、余り、自信がないのであろうか?低空しか、飛べない様な感じなのか?帰りには、今度は、別の場所で、草むらから、甲高い声で、ケェン、ケェーンという鳴き声を聞いた。いやはや、雉で良かった。鹿や猪、将亦、熊ではたまったモノでない。



今年二度目の花見か?:

2014年04月07日 | 自然・植物・昆虫
今年二度目の花見か?:
西から、東へと、そして、北へと桜前線を追って、向かえば、桜が、何度も愉しめることになるが、多少逆向きに、行っても、愉しめよう。三月のお彼岸に、墓参りに行けなかったので、暖かくなってから、静岡・磐田にある天竜川沿いの父方のお墓にゆくことにした。いつも、ついでと行っては何だが、静岡の弟の所に立ち寄ることにしている。何でも、南海トラフの津波が問題で、海から、この菩提寺は、1キロしか、離れていないし、又、天竜川の土手の下にあるから、住職の話では、何でも、地価が、下がりっぱなしで、若い人達は、街を後にすることしきりだそうである。お墓の方も、檀家が、徐々に人口減もあったり、世代交代で、管理費の維持も、なかなか、大変であると住職は、嘆いていた。墓の管理も、寺の経営も、難しい時代になってきているようである。成る程、散骨やら、樹木墓地が、主流になる日も、そんな遠くない日が、来ることになるのであろうか?母方の一族も、父方の一族も、皆、もう、地元には、誰も住んでおらず、せいぜいが、私の代までが、幼少時期での祖母の実家などでの夏休みを覚えている最期の世代になるのであろう。それでも、自分の代か、せいぜいが、子度達の代までで、お墓の維持費は、支払うことが可能であろうが、永代供養などの措置で、所詮は、葬式・戒名・納骨という三点セットでに基づく、法事供養や墓地の管理料などによる収入は、間違いなく、先細りになるのであろう。途中の東名高速・富士川SAと由比PAでの富士山と桜の取り合わせは、この季節ならではの景色である。アルバムに入れておくことにしよう。姪の二歳になる女の子は、二年になれば、随分と、成長するものである。年寄りの二年と子供の二年は、随分と違うものであることを、改めて、実感することになった。又、会える日を愉しみにして、よい子に、育って下さいねと、、、、、。だるまさんの絵本を見ながら、達磨さんが、ニコッと、云いながら、屈託無く笑っていた。