小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ケーナを作ってみる:

2013年06月16日 | 伝統工芸・展示会
ケーナを作ってみる:
何でも、ケーナに見せられてから42年もの歳月が流れてしまったという。しかも、縁あって、望月の長者原に電気も水道もない所から小屋を整備し始めて、現在は、豊かな暮らしを営んでいるそうである。そういう東出五國先生に、指導されて、竹に穴をあけてもらい、ケーナなる笛を手作りした上に、自分で、吹いてみる。そして、その上、自らが率いるグルーポ、シンコバイス(五国のスペイン語から)なるラテン・ミュージックのグループによるフォルクローレの演奏曲目も、珈琲を飲みながら、間近で、聴くというワークショップである。更に、この先生は、ただただ、好きで、4万人以上の人の似顔絵を、長年に亘って、描き続けて、家には、4千本にも及ぶ自ら製作したケーナ笛のコレクションと共に、絵画帳が、山のように、保管されているそうである。その量にも、圧倒されるが、その似顔絵の作品も、この展覧会で、陽の目を見ることになったらしい。「好きこそ、ものの上手なれ」とは、よく言ったものである。似顔絵、ケーナ、フォルクローレ、年齢というものを感じさせない、アートとは、本当に、「心の持ちよう」なのかも知れない。奥方が、マネージャーならぬサポートに、陰から廻りながら、夫唱婦随(?)で、だからこそ、長い間、こうして、やってこれたのかも知れない。それにしても、尺八ではないが、竹の笛というのは、横笛でも、縦笛でも、なかなか、趣の深い音色である。もっとも、ケーナのそれは、低音から、高音まで、如何にもラテン的なある意味、楽天的でありながら、しかし、時に、もの悲しく、寂しい、時に、太鼓やギターとのハーモニーの中で、リズミカルに、軽快に、心軽くなるような響きである。全く、楽器音痴の門外漢の私には、そんな音色に、思えてならない。そして、「山羊の爪」で出来た手でリズムをシャンシャンととる楽器や、さやエンドウ豆のお化けのような乾燥した、中で、種がシャリシャリと音を出す楽器や、様々な付随楽器(名前を伺ったが、覚えられない)が登場して、「コンドルが飛んで行く」等、ラテン・ミュージックのレパートリーを観客と一緒に、手拍子と共に、一緒に時間を忘れて、愉しめたことは、実に、老若男女を問わず、愉快なことである。最後に、先生から、ケーナ笛の吹き方、とりわけ、音の出し方をご教授戴いたが、なかなか、これが、楽器音痴の私としては、辛いものがあり、帰宅してから、自己レッスンの後、やっと、音が出るようになった。楽器が弾けるようになれば、さぞかし、愉しいことであろう。毎朝、レッスンに励むとするか?茶房、「読書の森」で、20日迄、「笛吹きおじさんのどうらく展」の名で開催中で、出来るだけご本人がいらっしゃるそうです。勿論、希望する方は、似顔絵を描いてもらえるそうです。




竹のキャンドルをDIYしてみる:(完成・点灯編)

2013年06月07日 | 伝統工芸・展示会
竹のキャンドルをDIYしてみる:(完成・点灯編)
一応、準備が終了したので、早速、試験的に、ろうそく、と言っても、高さ2センチ程度の円柱型のミニ・キャンドルであるが、点火してみて、その光と陰のコントラスト、竹の色合いと光の赤いというか、その穴から、こぼれ出てくる、やや、橙色の光の反射を、チェックすることにした。すると、底部の所を持ち上げてみると、光が、透けて見え、期待していた以上に、結構、面白そうなので、底に近い場所に、ドリルで穴をあけたらどんな感じになるだろうかと思い、実際に、何箇所か、最初は、正面に、そして、徐々に、裏にも、側面にもと、穴をあけてみた。さてさて、どんな具合になったのか、楽しみである。部屋の明かりを消して、実験するとのと、戸外の暗闇の中では、又、雰囲気が違うかもしれないが、まずは、室内の明かりを消して、実験してみることにした。写真は、どうも、うまく、雰囲気が出ていないが、実際には、ずっと、幻想的である。これを玄関先やアプローチなどに、置いてみたら、足許は、結構、明るくなり、普段の趣とは、少々、違ったものになるかも知れない。試してみるとしようか!



茶房 読書の森、GIGA展by真下道明 を観る:

2013年03月28日 | 伝統工芸・展示会
茶房 読書の森、GIGA展by真下道明 を観る:
なかなか、絵を鑑賞する際には、作者と、直接話が出来ないものであるが、今回は、たまたま、現地にいたこともあって、作者との食事会に、参加するという稀な経験をさせて貰った。作者の説明のパンフレットによれば、「イマジネーションの世界を視覚可能にすることは絵画表現の一つの目的です。GIGAとは、私の中のイメージを出来るだけ忠実に映し出そうと試みた絵画です。それは、ある種の戯画です。」とある。アーティストとは、絵画でも、音楽でも、ダンサーでも、どうやら、身体の中に内在するところのやむにやまれない表現の思いというか、何か、一種、突き動かされるような爆発する力のような物を様々なジャンルで、表現しようとするものであるのかも知れないと思う。この高崎在住の作者の場合、現実とは別の観てみたい、或いは、眺めてみたい世界でそういう世界を絵画で、表現すると言うことであるらしい。一種のシュール・リアリズムの画風であるものの、作者の言によれば、何も、宗教的な、或いは、哲学的なモノではなくて、きらきらと輝くような幻想的な世界を出現させることであると、だから、それは、ある種の「戯画」なのであると、やや控えめに、説明されている。一体何処に、そんなモチベーションが、アーティストというのは、そんなに長い間、持続可能なのであろうかと驚かされる。しかも、写真で見ると、小さな物も、実際には、大変大きな作品で、それらを何ヶ月も掛けて、アトリエで、描くそうである。何故、自分は、絵を描けないかを考えてみるに、どうしても、心の目で、そのイメージを紙の上に、手を使って描くことが出来ないからで、せいぜいが、それは、まずデジカメで撮影し、プリントされた写真を、忠実に写実で、画き写す模写程度である。だから、これでは、「絵ではない」のである。作者の言では、まだまだ、これから、絵を書きたいという尽きぬ泉のような思いが、わき上がってくるそうなので、今後の作品に期待したところであるし、楽しみである。高崎市役所の21階にも大作が、飾られるそうである。3月31日迄、茶房、読書の森で、開かれているので、一種、異次元の世界を、非日常の世界に足を踏み込むのも、宜しいのではないでしょうか?



森と湖の国、フィンランド・デザイン展を歩く:

2013年01月20日 | 伝統工芸・展示会
森と湖の国、フィンランド・デザイン展を歩く:
アートディレクター・太田英茂の仕事展を、長野の信濃美術館で、観る予定をしていたのにも関わらず、リハビリやらで、残念乍ら、見逃してしまった。能力とは別に、仮に、もう一度、職業を選べるのであれば、工業デザイナーや建築デザイナーなどは、興味深い職業であると、常々思っている。しかしながら、これを生業にして、30年も、40年も、クライアントに恵まれて、仕事をし続けるには、やはり、並々ならぬ才能と、泉の如く迸る尽きぬアイディアがなければ、なかなか、その業界で、成功も覚束ないであろう。フィンランドという国は、実際に、行ったことも、仕事の接点があった訳でもないが、この展示に著されている「生活の中の美」というものは、何か、日本人の伝統的なごく自然な生活美とも、相通ずるモノがあるように感じられてならない。日本人は、どちらかと言えば、土の焼き物である陶器の方に、ガラスよりも、興味が赴きがちではあるが、西洋的な場合には、成る程、ガラスなのかとも思い知らされる。そう言えば、子供の頃に、灰皿とか、花瓶とかも、この展示の中でみられたような「似たもの」が、我が家にもあったような記憶がある。生活美と云っても、せいぜいが、今日では、箸置きや、ランチョン・マットとか、ワイン・グラスか、ウィスキー・グラスか、或いは、我が家の場合には、日本酒の冷や酒用のグラスか、せいぜい、シャンパン・グラス(いや、スパークリング・ワイン・グラス止まり)くらいだろうか?流石に、この展示の中に、散見されたような素晴らしいピッチャーや、ボウル、タンブラー、ウォッカ・グラス、クリスタル・グラス、泡ガラス製の花瓶、雷鳥やオーロラのようなオブジェ、何とも表現出来ぬデザインのランプ等、尽きぬ人間のデザインに対する考え方が、改めて、観てとれて、驚かされる。もっとも、下司の勘ぐりで、「きっと、洗う時には、手が震えて仕方ないよね!」と山の神に、皮肉っぽく、目配せしてしまったが、、、、、、。それにしても、照明デザイナーが、きっと、この展示の裏では、上から、下から、斜めからと、色とりどりの陰翳と光と陰の交差とコンビネーションを、極限まで、構想させていたのではないかと思われる。自宅では、そこまでは、電気代の節約の大義名分もあり、壁の飾り棚についている照明も、消されてしまっているが、今日ぐらいは、点灯してあげることにしようか?グラスの光り輝き具合とは、やはり、効果的な照明がされなければ、うまく、その輝かしい個性を愉しめないのかも知れない。それにしても、レース・グラスという微細なレースのようなヒビが入った繊細な、今にも、触れると割れそうなグラスは、芸術的以外の何ものでもないとため息が出てしまう。デザイン性が、高いだけでなく、実用的で、しかも、収納性に富む機能性も、同時に、持ち合わせていることは、フィンランドという国の特徴を、想い起こさせるに充分たるモノがあろう。今晩は、以前、知らずに、購入した中国製の江戸切り子グラスで、(本物の江戸切り子ではなくて、中国製である)ビールでも、仕方なく、飲むとしようか?いやいや、やはり、この感動を味わうためには、クリスタル・ガラスのショット・グラスで、大吟醸でしょうか?くれぐれも、洗うときには、手が滑らないことを願いつつ、、、、、、この生活美の感動を忘れぬように、、、、、と。
サントリー美術館HP:
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2012_06/display.html


丸山晩霞展を覗く:日本水彩画会創設100周年記念

2012年09月21日 | 伝統工芸・展示会
丸山晩霞展を覗く:日本水彩画会創設100周年記念
昨夜半からの雨もすっかり上がり、雲一つ無い、青空で、浅間山も、よく見える東御市である。旧祢津村の出身で、吉田博との出会いをきっかけに、水彩画に、邁進し、日本水彩画会を創設することになった丸山晩夏の作品を、県内外から借り受けて、掛け軸なども含めて、130余点を、一挙に、公開・展示するもので、なかなか、見応えがある。確かに、水彩画と油絵は、水と油の様なものであるが、子供の頃から絵を描き始めるときは、まずは、水彩画から、始めるものである。「石楠花」や、海外での作品のような色使いのはっきりしたモノも良いが、やはり、水墨画のような、一寸、曖昧な微妙な色使いや、山並みの幾重にも重なる様、或いは、霞や、雲や、霧のかかる信州の山岳・風景画や、「白馬神苑」や「秋草」の描写や、鄙びた農家の家や、風景画が、何とも謂われぬ色使いと趣きを醸し出していて、秀逸である。油絵とは、確かに、異なる技法が、「水彩画」にはあるように思えてならない。再評価のきっかけになることを願ってやまない。10月28日まで、東御市の丸山晩霞記念館にて、



草間彌生、「永遠の永遠の永遠」展を体験す

2012年08月29日 | 伝統工芸・展示会
草間彌生、「永遠の永遠の永遠」展を体験す
長野県は、文化については、極めて、積極的な県であるが、とりわけ、松本市は、際だって、音楽・芸術・文化活動に、力を入れているように感じられる。やっと、車で、山の神が、小諸に迎えに来てくれたので、この機会を利用して、見逃していた草間彌生の「永遠の永遠の永遠」展を、「体験し」に松本市美術館へ行って来た。幼少の頃から、統合失調症によるのか、幻聴や幻覚から、逃れるために、素描や絵を描いたりし、とりわけ、自殺の恐怖から自身を守るために、水玉(ドット)を埋め尽くすようになったそうである。それは、幼少時に描かれた母の絵にも、既に、表出されているそうである。生と死を見つめる対局に、永遠を凝視し、「わが永遠の魂」、「信濃の灯」、「チューリップに愛をこめて、永遠に祈る」、等、万華鏡、シャンデリア、ミラーや、光、暗闇、水、閉ざされた空間、ランプ、等を駆使して、変幻自在に、空間を、上に、下に、右に、左に、斜めに、縦横に、無限に、拡がりを作ってみせる。その手法は、場所や、部屋や空間全体を作品として体験させるという不思議な体験、作品の中に、自らの全身全霊を囲ませるという未体験ゾーンのインスタレーション・アート(Installation Art)という手法である。自らを、ピカソやA・ウォルフォードをも超える天才と位置づけるなど、ランド・アートや環境アート、60年代の反戦・平和活動のパフォーマンス・アートにも、その創作意欲は、止まることはない。それにしても、83才にもなるこの小説家でもあり、稀代の芸術家でもある年老いた女性クリエーターのどこに、そんな創作エネルギーと想像力が、潜んでいるのだろうか?長い間、日本を離れ、芸術の可能性を海外に、求めたのは、一体、どのような理由だったのであろうか?作品を眺めていると、何とはなしに、理解出来るようになる。日本という既成の枠には、確かに、はまらないことは、間違いない。ビデオの中に映る草間の創作現場での、四辺からそれぞれ、ぐるりと廻って描き出し、色つけをしては、又再び、塗り替えし、何度となく、上塗り替えしては、最終的に、見るべき上下・左右の方向を決定し、題名を決定してゆく。モノクロの「愛はとこしえ」シリーズや、逆に、極彩色の「わが永遠の魂」シリーズの題名とそこに描かれたデザインは、何度、見較べながら眺めても、なかなか、理解するのは、難しいモノがある。こんな大きなシルクスクリーンやキャンバスに、一体、どのくらいの時間と膨大なエネルギーを費やして、肉体的にも、精神的にも、その持続力を維持して、描けるのであろうか?いきなり、驚かされる玄関受付に展示されている巨大なバルーン・アートの作品や、中庭の大きな南瓜のオブジェ、といい、松本駅からの循環バスの水玉ペインティング、自動販売機、美術館の建物それ自体までも水玉模様に染めてしまうその芸術的な魔術には、度肝を抜かれるとしか言いようがない。この展示は、アートとは、客観的に、観るのではなくて、その身を置いている空間までも一つの作品と化してしまうことを、初めて「体験」する貴重な未体験ゾーンであるように思える。それにしても、これらの作品を展示する人達は、さぞかし、大変だったのではないだろうか、、、、、、、、、と思った。是非、観るのではなくて、「体験」して貰いたいものである。11月4日まで、松本美術館にて、、、、、、、、開催中である。




茶房 読書の森、アンデスのおもちゃ箱展を覗く

2012年06月08日 | 伝統工芸・展示会
重い病に罹っているにも関わらず、作者は、明るいタッチと、フォークローの感覚を醸し出しながら、描いたり、作ったりした作品である。最初は、何かと思ったが、恐らく、トイレット・ペーパーの芯であろうかとおもわれる画材にも、絵を描いて、さりげなく、テーブルの上に、作品が、並べられていた。昔、メキシコや、遠く、チリの南の端の南極にまで、近い所まで、出張で行き、マリアッチの軽快な音楽やギターの弾き語りとともに、唄い、飲み、食べ、人生を、アスタ・マニャーナと楽観的に、エンジョイしていく、アンデスの人達の人生観も、今となっては、この作品を通して、懐かしく、感じられる。文字の筆記体までも、又、何とはなしに、暖かい感じがする。週末には、田植えと重なってしまうので、音楽が、一緒に、愉しめないのが、残念であるが、そんな愉しそうな音楽までも、聞こえてきそうなそんな作品展である。



ホノルル美術館所蔵「北斎展」後期を覗く

2012年06月07日 | 伝統工芸・展示会
例によって、足許が、不如意なので、所用のついでに、ぐるりと見てきた。これまで、北斎の原画を観るのは初めてである。何とも、カラフルで、構図が、斬新で、これが、本当に、天保年間に、描かれたものなのであろうかと、眼を疑うし、遠く、欧州の印象派の画家達に、影響を及ぼした構図であることに、ひとしきり、驚きの感慨を持つ。若冲にしても、北斎にしても、これだけの素晴らしい技法を当時の日本人が、持っていたという事実だけでも、多いに、誇りを持って良い。むろん、作品の大半が、海外に、流出(?)したとしても、逆に、作品の評価が高まり、芸術を愛する外国人の手で、保護されたと思えば、別に、そう目くじらを立てることもなかろう。富嶽三十六景、東海道五十三次、諸国名橋奇覧、百人一首、詩歌写真鏡、諸国瀧廻り、琉球八景、錦絵、浮絵、北斎漫画、幾ら数多くの転居をしたとしても、見ることのない風景を、実際に、その想像力で、実際に、観た人間が描いた以上の出来映えで、描くことは、容易なことではなかろう。今なら、私のような素人でも、デジカメに、その風景写真を切り取り、修正加工して、これを水彩画や、スケッチに、描くことも、決して難しいことではないが、、、、、、。次に、ハワイに、行くときには、是非、現地で、ゆっくりと、鑑賞してみたいものである。そう言えば、小布施にも、北斎にまつわる天井画が、あったことを思い出した。妖怪画なども手掛けたこの画家は、なかなか、人物像と人生も、ユニークであるが、この展示からは、ひかりの部分だけで、陰の部分は、むろん、観られないが、、、、、。茶室の展示も悪くない。前期の展示も、観ておけば良かったと、今では、後悔している。



サントリー美術館「毛利家の至宝」展を覗く

2012年05月13日 | 伝統工芸・展示会
六本木の旧防衛庁跡地に、建設された東京ミッドタウンの中に、移転したサントリー美術館で、開催されている「毛利家の至宝」展を覗いてみることにした。この土地は、長州藩の毛利家麻布下屋敷のあった場所でもあり、まんざら、毛利家に、縁が無いわけでは無い。元々、毛利博物館に所蔵されている所蔵品を、東京で、公開すると謂うことで、毛利家という大名文化の精粋に触れられるというものである。戦後まだ、間もない頃、小林秀雄は、わざわざ、東京から、夜行列車を乗り継いで、山口県防府にある毛利博物館に、所蔵されている雪舟の「山水長巻」を見に行き、大いなる感動とともに、そこに立ち尽くしたと記している。その16メートルにも及ぶ大作の国宝、四季山水図の水墨画や、毛利家門外不出の所蔵品の数々を、その戦国武将の甲冑・自画像・刀剣、その典籍・絵画、婚礼調度品と雛飾り、ゆかりの生活道具類(小面・着物・茶の道具、等)2フロアーに分かれて、129点が、陳列・解説されている。教科書にも出てくる毛利元就の自画像、直垂、刀剣類、軍配、軍扇、三子教訓状、等…、雪舟の水墨画もさることながら、明を離れるときに、雪舟を送別する「雪舟送別詩」も、なかなか、宜しい。貴族が、文学や雅の伝統を、創出したとすれば、それらを、武家が、その後、作品として継承・保護し、豪商が、更に、文化として、拡めるという歴史が、この展示会にも、看て取れる。山水画の模写も、古今和歌集の巻八や、那智の滝の西行物語絵巻も、元就詠草連歌や隆元による「枇杷に鷹図」の絵画も、自らが、文化の担い手、庇護者として、君臨し、歴史の中で、連綿として、継承してくればこそ、こうして、今日、我々の眼にも、触れさせて貰っているものである。その「美意識」は、悉く、細かな品にも、次郎左衛門雛飾りや有職雛人形や、香合わせ、碁盤等の日常の生活用品・道具や、戦さの鎧、刀剣、印籠の装飾の細々としたところまで、随所に、眼を凝らせば、当時の人々のこうした日常の何気ない「美意識」が、改めて、感じ取られる。自分は、茶道を嗜まないが、茶道に関する道具類、茶釜、茶せん、井戸茶碗、高麗茶碗、食籠、軸盆、等、竹製に朱塗りの漆の硯箱も、実に、そのデザインと装飾の美しさには、感動する。又、面や着物類も、暗い室内に、照明によって、浮き立ち、思わず、足を止めてしまう。名前自体が、織り方やデザインの解説表記になっていることを改めて、再認識する。重要文化財の「紅萌忽地山道菊桐文様片身替唐織」等、一文字一文字、読みながら、作品のデザインと色柄、織り柄を、見較べながら、鑑賞すると、又、更に、愉しいのではないだろうか?成程、実に、うまく、名前をつけたものである。最期に、麻布邸からの当時の遠望図を眺めながら、今日の景色を想像すると、庭園の一部の緑の芝生も、何とはなしに、感慨深いものがある。それにしても、東京山の手の田舎っぺ夫婦には、久しぶりの都会の東京ミッド・タウンの雰囲気は、一寸、眩しすぎたようである。昼食に食べた名古屋コーチンの親子丼が、美味しかったのだが、、、、、、。5月27日まで、開催だそうである。



田嶋 健、「井月をめぐる旅」のイラスト展を覗く

2012年05月01日 | 伝統工芸・展示会
茶房、「読書の森」の案内(~5月27日)があったので、改めて、信濃毎日新聞に、不定期で連載されていた相子智恵氏による「井月をめぐる旅」(幕末から、明治初頭に掛けて、信州の北に一茶あり、南に、井月あり、と謳われた、いのうえ せいげつ、伊那谷を30年間に亘って、放浪して、一宿一飯のお礼に、俳句を置いて行く、ほかいびと、(寿・祝人)の系譜であり、近年、その業績が、再考評価されてきて、岩波文庫から、その句集の出版がされることが決定している)のエッセーをおもいだした。確かに、そのエッセイに、奇妙な挿絵が、描かれていたので、記憶の片隅には、残っていたが、作者が、どんな人物なのかは、余り気には止めていなかった。そのイラストレーターの作品展を、一寸、覗いてみた。何とも、なかなか、難しい表現力である。江戸情緒というか、そんな風に感じられるものに、現代風なイラストのセンスが、融合したような何とも著しようが無い風情が漂うようである。つげ義春氏が、その漫画の題材にしていたとは、知らなかった。映画、ほかいびとも、残園ながら、鑑賞機会を見逃してしまった。今度は、じっくり、句集を読んでから、再度、相子氏のエッセイと田嶋氏のイラストを、改めて、読み直してみようかと思う次第である。
イラストは、こんな感じです:

http://www.tis-home.com/ken-tajima/works/10





犬塚 勉展を観る:純粋なる静寂

2012年04月30日 | 伝統工芸・展示会
画家の作風というものは、作品を観ながら。その変化を追ってみることは、なかなか、興味深いものである。38歳の若さで、谷川岳で、遭難死した夭折の画家は、「私は、自然になりたい」と言ったそうである。「ひぐらしの鳴く」と題する作品を観ていると、一瞬、1974年に日本経済新聞の後援で、開催されたアメリカのアンドリュー・ワイエス展を、想い起こさざるを得ない。今、再び、この時の絵画集を見直してみると、そこには、同じナチュラリティーとリアリズム、写実主義でも、そこにはない風景を描いたと思えるアメリカン写実主義と、逆に、そこに現存するある風景を通じて、光と陰の陰影を、葉の一枚、一枚や緑の草や、枯れ草の一本、一本まで、更には、梢を渡る風や、土や草の薫りまでも、感じさせる高みへと、精神性を、高めた画家の軌跡が辿れる。それは、スペインで学んだ作風から、徐々に、仏教的な東洋的な精神主義の画風へ、そして、多摩での生活、山岳登山を通じて、その延長線上のリアリティー追求へ、繊細な人形作家の細かな筆を使用した細密な写実主義へと、更には、その「密度」へ、又、更に、「色彩」へと、そして、モチーフも、自然の風景から、局部的に切り取られた「切り株」や、「ブナ」の樹木へ、究極の「写真のような絵」では、決してないところの「自然」の人間を寄せ付けないような「岩」、「渓谷の岩石」へと、遺作となった「暗き深き渓谷の入り口」と題する絵には、緑の木々をわざわざ、黒い灰色の基調に、画き換えて、大きな岩を前面に、流れ落ちる水しぶきを中心の後ろに、描いている。もう、そこには、「ひぐらしの鳴く」のような画風とは、全く異なる精神的な哲学的な境地に、到達しているように感じられる。この先には、どんな崇みに、到達して、何を描いていたのであろうか?大いに、興味があるところであるが、、、、、。生きていたら、同じような年齢に近いので、初老では、どんな作風に、変化していったのであろうか、「出口のその先」に、彼の作品があったら、どんなものか、観てみたいものであるが、、、、、、、。東御市八重原、梅野記念絵画館で、6月3日まで、芸術むら公園の湖畔の桜並木が、満開で、とても、綺麗で、浅間の眺めも良かった。景色を眺めながら、「私は自然になりたい」と言う画家の言葉を、改めて、思わざるを得ない。耳濯ぐでは無いが、何か、眼が、心が、洗われるような絵画展である。





ボストン美術館、日本美術至宝特別展を覗く

2012年04月06日 | 伝統工芸・展示会
美術館での鑑賞は、事前に、新聞論評などで、話題になっている目玉の作品を鑑賞することも、一つの愉しみではあるが、その予想に反して、それ以上に、予想だにしていなかった作品に、出会うことも、又、愉しみである。そうした感動は、何か、自分だけの発見をしたかのような錯覚に陥り、これまた、愉しいものである。長谷川等伯、尾形光琳、曽我簫白等の屏風図は、言わずもがな、又、海を渡った二大絵巻(吉備大臣入唐絵巻と平治物語絵巻)も、さることながら、伊藤若冲や、奈良・平安・鎌倉時代の仏像、曼荼羅図など、中世水墨画や初期狩野派による蒔絵、近世絵画、刀剣、染織まで、どれ一つをとっても、日本の秘宝コレクションといっても、差し支えあるまい。個人的には、こうした著名な作品よりも、むしろ、アメリカを魅了した小袖や能衣装の10領は、初公開で、なかなか、興味深いものがある。着物の染織は、成る程、後ろから、或いは、前からと、両方から、鑑賞して初めて、その染織の技巧・技術、デザイン性、色調、作者の創作意図とストーリー性とかが、初めて、理解されるものであることを、再認識した。それと同時に、これを召したであろうその人の人生、人となり、又、その情景、等が、想像されて、とても、愉しいものである。もっとも、それを手放さざるを得なくなった時の思いを、想像すると、何とはなしに、切なくなるのは、仕方ないことであろうが、、、、、。トレーサビリティーではないが、どのような理由で、誰の手を経て、海を渡ったのかが分かれば、更に、興味深いことであろうか?美術的な価値とは、事情はともかくも、現存すること、それ自体が、やはり、それなりの価値が、あるのであろうから、、、、、皮肉なものである。フェノロサは、さておき、ウィリアム・ビゲローは、天台宗の月心という法号まで、取得した日本美術の理解者だったからこそ、遠く、ヒンドゥー教の影響を醸した仏画や、曼荼羅絵図が、今日、こうして、奈良や平安時代から、タイム・スリップして、我々の眼前に、見られるのは、ほとんど、奇跡としか言いようがない。観覧者、個々人の作品に対する好みはあるであろうが、遠い昔の原作者の思いに、直接、思いを馳せること、心の眼で、時空を超えて、直接対話することが、出来ることは、美術鑑賞の大いなる愉しみであることは、疑いもない事実である、上野公園の桜も、満開に、近づきつつあるようだ。そして、スカイ・ツリー・タワーも、顔を覗かせていた。様々な手法で、「日本の美」を、堪能できる美術展覧会である。



第12回、野蔓工芸作家の作品展を覗く

2012年03月23日 | 伝統工芸・展示会
たまたま、車を運転しているときに、FM東御の放送の中で、野蔓の作品展を、東御市のサンテラス・ホールで、25日迄、開催されていることを知ったので、覗いてみた。残念ながら、作品は、写真撮影が許可されていないので、入り口外の作品だけを撮らせて貰った。白い壁に、どの作品も大変映えていて、とても、趣き深い味わいがある。自然の中の野蔓、松笠、或いは、ハスの実、綿花の枝、枯れ枝、等、これらを篭にしたり、ランプ・シェードに見立てたり、ついたて、スクリーンに仕立てたり、帽子に編んだりと、壁の装飾に、花瓶にと、様々なデザインで、意匠を凝らして、自然との調和が、うまく、素材の特徴とともに、生かされている。大きな作品から、小さな作品まで、布とのコラボや、花とのコラボも、なかなか、味わい深いものがある。生活空間の中に、こうした「小さな自然」を取り入れることは、日本人は、とても、得意である。単なる伝統工芸の域から、芸術的な美的感覚を、自然の身近な素材を生かして、作品化することは、素晴らしいことである。自然にある太い蔓も、細い蔓も、成る程、その特徴を、改めて、生かされていることを思うと、もう、これは、芸術の極みと言っても過言ではないのではなかろうか?編み方の基礎を勉強してみたくなった。是非、皆様にも、ご覧戴きたいものである。生涯学習としても、魅力ある。

つる工芸 信州里山ギャラリーHP:
http://masako.web-tomi.net/wp/



北国街道 小諸宿の吊し雛、お人形さんめぐり 

2012年03月03日 | 伝統工芸・展示会
冬場での開催なので、これまでは、なかなか、見に行かれなかったが、大変、情緒があって、よろしい。娘が小さい頃は、お雛様を飾って、お祝いしたものだが、今や、納戸の肥やしになってしまった。「雛の吊し飾り」のいわれは、パンフレットによれば、江戸時代から、桃の節句に、ひな壇の両脇に、端布で作ったぬいぐるみを吊す風習が、中山道から北国街道を通じて、小諸宿へ、人と馬の背を通して、運ばれてきたらしい。普段見ることの出来ない江戸時代からの享保雛や、家々の旧い雛人形を、店先に、一斉に飾って、見物人に、眺めて貰うという一種の町おこしのイベントでもあるが、歴史を学ぶだけではなくて、昔の人が、「吊し雛」に託した思いに、想いを馳せるのも又、一興である。ほんまち町屋館の2階で説明に当たってくれた方によれば、何でも、昔は、「人生50年」で、女性は、一歩へりくだって、「49個の吊し雛」を、決められた順番で、飾り付けたらしい。子供の成長を願う親の深い愛情が吊し雛の縮緬の端布にも、よく表れていて、郷土の文化財としての価値も十分愉しめる。桃には、邪気を払い、延命長寿を期し、多産の象徴とされ、俵ねずみは、金運、亀は、長寿、柿は、滋養、医者いらず、羽子板は、厄をはね除け、雀は、食に恵まれ、達磨は、福を呼び、竹は、生命力に富み、巾着は、お金に苦労せず、フクロウは、不苦労、犬は、安産、猿は、厄が去る、等、三角、蛤、人参、座布団、太鼓、梅、三番叟、松、唐辛子、大根、糸巻き、ほうずき、蝶、枕、金目鯛、草草履、うさぎ、鳩、それぞれの謂われがあるそうである。わら馬パレードも、3月3日に行われる予定である。一度は、是非、見られることをお薦めしたい。モビールもよいが、吊し雛も、作ってみたくなった。

小諸ほんまち町屋館HP: 3月4日まで、
http://www.machiyakan.com/



重森三玲「北斗七星の庭展」を覗く

2012年02月25日 | 伝統工芸・展示会
日本人は、庭が、好きである。とりわけ、枯山水は、白砂・白石と岩や、自然石を、生かして、宇宙を表現し、そこに、自らの禅の無の世界観や自然に対する哲学や、人生をも投影する。今では、小さな庭も、駐車スペースとしての車庫となり、掛け軸が掛かっていた床の間も、いつの間にか、増改築の中で、襖や天袋とともに、消滅してしまった。庭園も、服飾も、絵画も、書道も、音楽や舞踏ですら、すべて、美的なデザイン性に裏打ちされた表現の一種であると実感される。そこには、哲学的な思想と、深遠な構想とが、自然とともに、或いは、静かな沈黙とともに、一緒に、時間を共有しているように思えてならない。静かに、映像や写真を観ているだけでも、それが、身近に、感じられるのが、不思議である。実際に、これが、その場所に立って、岩肌や、水の流れや、苔を、そこにある空気と音と光と陰を間近に、感じ取れたら、どんなに、素晴らしい、感動的なことかと想像だにすることが、可能である。「石が、立っているのではなくて、作者が立っているのである。作者である場合は、その石を通して、何かを主張するのである。時には、沈黙の主張をしている場合もある。」と、、、、、。京都「東福寺の方丈庭園」の「北斗七星の庭」(禅寺で、東司と呼ばれるトイレに使用される礎石を北斗七星に見立てて表現した庭)や、「小市松の庭」(襖のデザインから、ヒントを得て作られた四角い石と苔の庭)などが、ミニチュアで、展示、再現されているが、十分、想像力を駆り立てられるに値する何物かがある。松尾大社「蓬莱の庭」、漢陽寺庭園、東福寺光明院の「波心の庭」:「雲無生嶺上 月有波心落」(雲なく月は嶺の上にあり、波の上に月が映り、とても心が落ち着く)ということを意味する、或いは、岸和田城の「八陣の庭」:諸葛孔明の八つの陣(地・鳥・風・虎・竜・天・蛇・雲)を自然石になぞらえて、天守閣から、眺望できるような庭など、岡山県の豪溪の水墨山水画の原風景を彷彿とさせるような庭作りの数々、、、、彫刻家のイサム・ノグチとの交友、勅使河原蒼風等との前衛生け花運動、茶室、茶道、陶器、書道、庭作りとは、誠に、総合的な芸術作品であることが、改めて、頷ける。神宮外苑前駅の近くのワタリウム美術館で開催中の造園家、庭園史研究家であり、又、前衛生け花運動も手掛けた重森三玲(シゲモリ ミレー:画家のミレーに因んで、自ら、後に、改名した)の庭園展は、素人の私でも、猫の額ほどのわずかな庭でも、改めて、宇宙観を表現してみたくなるそんな思いを興させる感動が、そこにはある。バック・グラウンド音楽は、細野晴臣が、担当していて、耳心地よい。但し、年寄りには、4階の椅子席で、映像を観ながら、しばし、一休みしてから、ゆっくりと、3階・2階へと、降りてきた方が、腰への負担は少ないので、ご注意を!

ワタリウム美術館HP:
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html