小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

新潮日本美術文庫 10 伊藤若冲 Ito Jakuchu

2012年02月21日 | 伝統工芸・展示会
新潮日本美術文庫 10 伊藤若冲 Ito Jakuchu
テレビのBS番組で、6時間に亘り、科学的に、解説されていたので、著名な絵画は、画面上で、拡大して、科学的に分析され、鑑賞することが叶ったが、その他の絵が、見たくて、図書館で、借りてみた。小林忠氏による解説である。
「濃彩による細密表現」:「動植綵絵」30幅のうち、「群鶏図」など
「水墨による略画表現=筋目描き」:「菊図」など
「枡目による色点表現=モザイク画法」:「鳥獣草花図屏風」
「石槢ふうの水墨表現=石槢絵」: 「石灯籠図屏風」
「木版画の新表現=拓版画及び着色版画」:「鸚鵡図」、「乗興舟」
こうしたユニークな奇技を駆使して、江戸時代に、享保の改革から、田沼意次の時代、天明の大飢饉を経て、1800年、85歳で没するまで、描き続けた。しかも、相国寺の禅僧、大典顕常の知己を得て、多数の作品を寄進したのも、元来青物問屋の主人でありながらも、敬虔な仏教徒とで、「草木国土悉皆成仏」のような一寸ユーモラスな「草木や植物、野菜も悉く、皆、成仏する」という釈迦涅槃図を、もじったような絵すら、深遠な「哲学的な思想性」を感じざるを得ない。それは、「写実・細密主義」という単純な枠組みにとどまらず、単に、鶏や鸚鵡や鷲や、魚や貝や、動物や糸瓜を描いただけではなくて、又、その技法が、如何に優れていたかだけではなく、その背後に存在する作者の普遍的な宇宙的な「描くこと」に対する「哲学」を感じざるを得ない。何とも、その問いかけには、すさまじいモノを、今日でも、その作品を通して感じざるを得ない。光と陰、陰と陽、黒と白、ネガとポジ、極彩色、見る人の陽の光や、陰や、部屋の陽の光の射し方にも、熟考に熟考を重ねて、描かれている手法、遠近法、絵の飾り方など、小さな紙の上の写真だけでは、その科学的な検証は、難しいであろう。ハイビジョン・カメラの番組の方が、確かに、今日、やっと評価が高まりつつある若冲の良さは、改めて、再認識されよう。言うまでもなく、有名な代表作である「動植綵絵」等も、良いが、一風趣を異にする晩年に描かれた7体の布袋を縦に並べて、描かれた「伏見人形図」は、何とも、ユーモラスであるが、なかなか、解釈の仕方が、難しいモノであり、同じく、最晩年に描かれた「岩頭猛鷲図」とは、全く、異なり、個人的には、大変興味深く感じられた。この本には、むろん、全ての作品が、表現出来る程のスペースも、大きさもないし、それを期待する方が無理ではあるが、テレビで取り上げられていた大典僧侶と淀川を下って、大坂に赴く拓版画の淀川両岸図巻、「乗興舟」の空の色を漆黒の墨で、顕した作品が、見れなかったのは、大変残念である。濃彩による細密表現や、ふぐの薄作りを思わせるような筋目画きの水墨画もさることながら、「版画」が、ネガ・フィルムのように、ことさらに、秀逸である。改めて、録画しおいたビデオを見直そうと思う。それにしても、戦後、数百万円で、幸か不幸か、プライス・コレクション等で、海外の目利きの美術愛好家らによって、散逸を免れ、生き残れたことは、日本人としては、口惜しいところであるが、何はともあれ、貴重な文化財が、どういう形であれ、今日までも、保存されてきたことは、喜ばしい限りである。



信州上田・真田まつりを見る=真田鉄砲隊、黒獅子舞演舞、他

2011年09月20日 | 伝統工芸・展示会
皮肉にも、徳川側についた真田信之が、松代へ、移封され、93歳まで、藩主として、生き延びたお陰で、真田一族の名前が、連綿として、受け継がれ、3代(幸隆・昌幸・幸村)の生き方が、400年余り経過した今でも、人々の記憶の中に、こうした祭りとして、残っていることが窺える。同じ関ヶ原でも、敗れた石田三成は、裏切りにあい、一族もろとも、歴史の闇の中に、葬り去られたが、佐和山では、その遺徳は、果たして、伝承されているのであろうか?幸村・信之の対照的な死にざま・生きざまに対して、三成の豊臣への忠義は、徳川の250年余に亘る治世の中で、葬り去られてしまったのか?日本人の歴史的な人物評価には、興味が尽きない。松本城を初めて、訪れたときに、「火縄銃」の伝播の歴史展が、開かれていたが、その当時の日本人職人の技術水準の高さ、各種銃、各地毎の製法技法の発展、火薬の開発、打ち方、使用戦術の多様化など、当時のテクノロジーの進歩とその伝播の早さには、舌を巻いたものである。今の世にも伝承されている鉄砲隊の演舞は、空砲とはいえ、その火薬の発射音だけでも、当時のよすがを、想像させるのに十分である。色々な生き方・死に方が、それぞれ、武者行列の中には、恐らく、悲喜こもごも込められていたのであろうかと、当時に、想いを馳せざるを得ない時間と空間であった。400年前の歴史の一瞬に、タイム・スリップ出来たことは、貴重な経験である。コスプレも歴女も、戦国おもてなしたいも、よしとしよう。天気に恵まれ、半年遅れでも、実行されたことは、何よりでした。



小諸、祇園祭り= 伝統・文化の継承

2011年07月10日 | 伝統工芸・展示会
健速神社の六角御輿の再建二百年祭だそうで、宮だし・石段下りのところを、覗いた。氏子を除いて、存外、若い人が、とりわけ、子供連れの人達が、多いのには、驚かされた。親子三代での見物も、多かった。鎌倉時代以前まで、遡る祇園信仰は、幾つかの神事に、代表される中で、子供を御輿に、乗せて、その健やかな成長を祈る伝統は、確かに、子供の頃からの伝統・文化に対する教育というよりも、生活の中に根ざした「体験・参加」を通して、生活の一部として、体内・血の中に、継承されていくのではないだろうか?次の100年に向かって、どのように、受け継がれていくのであろうか?御輿に投げられた賽銭を拾う子供達に、今から、60余り前の錦糸町で、兄弟で、撮って貰った法被姿の写真が、二重写しに、想い起こされる。


伝統工芸品に世界が透けて見える

2011年06月30日 | 伝統工芸・展示会
九州の八女市に、先週仕事で、行ってきた。お盆の仏壇の提灯立てや、インテリアとして使用されるサン・シェード、すだれの生産工程を工場見学をさせて貰ったが、そこに息づく「伝統工芸品の匠の技」が、今や、後継者に、継承されることなく、グローバル・コンペティションの中では、結局、工学的な数値規格・製造工程管理、ビジュアル・マニュアル化として、海外へ、技術移転せざるを得ないのが、どうやら、現実のようである。10数年前に、かく言う自分も、海老フライや天ぷらのタイ・ベトナムへの生産移転を生業にしてきた一人だが、技術の自国での継承とは、一体、どういうことなのであろうか?漆塗り、木の素材の乾燥度合いによって、木の反り具合が違ったり、ねじれが、程よく、1ミリ以下で、計算、調整されたり、絹も素材の繊細さも、ナノ・テクに生かされたりと、まるで、技術の宝庫のような気がした。ソフトウェアーを、結局は、継承するその人間の育成は、どうやったら、2代目・3代目と時代が変わっても、何世代にも亘って、競争力を維持させつつ、継承できるのであろうかと、考えさせられる。「日本のモノ作り」の原点を、それらの中に、同時に、世界が透けて見えた気がした。