小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

HD違法売買と個人情報漏洩におもう:

2019年12月27日 | 社会戯評

HD違法売買と個人情報漏洩におもう:

そもそも、名刺を交換した段階から、或いは、メール・アドレスを一度公開しただけでも、既にこの時点から、個人情報の漏洩が、スタートするといわれているが、それにしても、個人情報の保存されているHDを消去・廃棄する専門の会社の従業員が、小遣い銭稼ぎに、自分の事務所に、窃盗目的で侵入して、その盗んだHDをオークションに販売するとは、一体、管理そのものが、どうなっているのかと全く、首をひねりたくなってしまう。一体全体、どうなっているのであろうか?

 そんなものが、オークション自体に出品されることすら、私は、知らなかったので、全く、驚愕の一言である。購入した人間が善意の購入者だったから、まだしも、これが、反社会的な勢力だったら、どうなっているのかと思うだけでも、ゾクッとしまう。HDデータ消去を専門にしている会社自体の内部監査システムもさることながら、民間の業者で、何の資格も、肝心要のセキュリティ対策も法的にないとは、全く、お粗末な限りである。しかも、オークションにしても基本的に、そもそも、盗品かどうかを、全くスクリーニングすることなく、自由に売買出来ること自体も、オークション主催者という存在も、実に、不可思議な存在である。自分は、ヤフオクとか、オークション自体をこれまで活用してこなかったし、又、その仕組み自体を余り信用していないから、今流行のメルカリなどは、きっと盗品だらけなのかもしれない。いや、もう既に、どこかの反社会組織などは、きっと巧妙に、窃盗団とオークションサイトと資金洗浄を分業として、<一種のビジネスモデルを構築>して、海外窃盗団の組織的なグループ・ネットを構築して、巧みに、名簿業者なども含めて、ある種の詐欺名簿やそれこそ、私は1億円以上の現金や宝石を持っていますよなどと脳天気な人間の名簿も、情報管理しているのかもしれない。

 逆に、こういう状況が全く夢物語ではないとすると、コンビニで、1回500円くらいでも、支払ってPCのHDデータを強力な磁気で、瞬時に、自分の手で消去するというサービスも、成立するかもしれない。自らの安全と個人情報を自らの手で、如何にして守るのか?本当に困ったことである。外付けHDではなくて、サーバー上のクラウドに、MSNのOne Drive やGoogleのGoogle Drive等に、保管されている膨大な写真や文書データなどは、一体全体、個人情報が担保されているのであろうか?そういえば、利用する前に、細かな契約書を、読んだような、読んでいないような記憶が全く不確かな状態で、現在進行形で利用しているように、思えなくもない。尤も、保管されているデータも、何でも、突然気がつくと、<ゴミ箱に移管されていて、データが見当たらない>ことがあるようにも、風聞しているが、、、、本当に、大丈夫なのであろうか?

 昨今、GAFAではないが、FB等でも、広告や宣伝、或いは、お薦め商品も、膨大なデータを情報処理した上で、特定の個人向けに、ピン・ポイントで、あちら側から(?)、一体どこからなのであろうか(?)知らぬ間に、送られてくる。そもそも、御願いもしていないにも関わらず、<あちら側>から、常時、送られてくると謂う手法が、<常態化してきつつ>ある。もうこうなると、ステルス・マーケティングどころか、はっきりと、あちら側は、<ある種の目的意識と明確な意図>の下に、<情報操作と無意識化>を、狙っているのではないかとも、実感してしまう。さすがに、法的な規制を掛けて、個人情報の利用拒否とか、クッキーの規制とかを、選択制にすることを考えているようだが、本当に、そんな規制で、<自己防衛が担保できる>のであろうか?IT技術やAI技術は、遙かに、我々の想像を超えたスピードを以て、凌駕してしまうのではなかろうか?嘗て、スノーデンが、関わっていたように、どこかで、密かに、<情報管理と操作と漏洩>とが、一つのパッケージとなって、売買される危険性がないとも言えない。危険性ではなくして、そういう<事実が既に過去にあった>こと、又、依然として、<現在も進行中である>こと。

 既に、銀行は、フィンテックに押される形で、これまでの長い歴史の中で、蓄積されてきた個人の信用情報の売買、もちろん、個々人の許諾条件という括弧付きではあるものの、志向・趣味・年収・家族構成・資産内容、ありとあらゆる分野の情報も、これからは、銀行だけではなくて、全ての業種や分野を超越して、<膨大な個人情報の売買>が、可能になる時代が、既に、<本人だけが気がつかないだけ>で、密かに、現在進行形で、足許から、揺らぎ始めているのかもしれない。一歩外に出れば、スマホのGPSが、どこに、何時に出かけ、何を購入し、POSデータと共に、紐付けされて、瞬時に、購買理由と履歴が分析され、需要予測から、次回購入時予定日や、お薦め商品の案内が来る仕組みが、何も、歩いてお出かけするだけではなくて、鉄道でもバスでも自動車でも、あらゆる交通手段と紐付きで、きっと、密かに、この人物は、毎週金曜日の夜には、国会デモに参加しているとかも、<あちら側は、合点承知の助>なのかもしれない。マイ・ナンバーで、e-TAX申告をしている以上、もはや、GPS地図情報サービスの常時設定をOFFにしていても、それだけでは済まされない状況なのかもしれない。

 昔は、電話帳に、自分の自宅の電話番号を載せなければ、むやみやたらに、見知らぬ人間から、電話が掛かってこない旧きよき時代が、あったかもしれないが、今日、クーポンはいじめ、<お得な情報>という形で、ありとあらゆる形で、<あちら側から>有無を言わさずにやってくる時代である。確かに、忙しい時代である。そして、便利な反面、<危うい時代>でもある。今般。改めて、このニュース報道に接するに際して、全く、考えさせられた次第である。そう思いつつも、<無人島暮らし>を選択できるほどの勇気も、もはや、ないが、、、、、どうしたものであろうか?どのように、生き残り、どのようにして、もう少し、生きていかねばならないのであろうか?

 

 


Dr. Nakamura の突然の訃報

2019年12月16日 | 社会戯評

=Dr. Nakamura の突然の訃報:

自分が未だ子どもの頃には、マハトマ・ガンジーとか、密林の聖者と謂われたシュバイツァー博士とか、或いは、やはり、医師であったチェ・ゲバラとか、様々な同時代の同じ空気を自分も吸っていたであろう先人達が、人道主義者が、現に存在していた事を、ふと思い出した。国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子氏も、つい先頃、亡くなり、そして、突然、中村哲医師が、銃弾に斃れてしまったとの一方が、ネットに流れてきた。

それにしても医師として、人々の命を救おうとする中で、何故、土木作業を伴う、水利事業をアフガニスタンで、しかも、30余年という長きに亘り、取り組むことになったのか?

<不作為>とか、<忖度>という言葉の影で、<品格>とか、<矜持>とかいう言葉が、既に、忘れ去られようとする今の時代の中で、ハッキリと、自衛隊の海外派兵は、全く無意味で、むしろ、中村哲医師が目指すような運動への援助をヒト・モノ・カネの面で、積極的に行うことの方が、ずっと、効果的であるという趣旨の国会での発言にも、おおいに、考えさせられる。

医師として、命を助ける中で、幼い幼児の命も、老人の死も、結局は、死という事実の前では、命の長さに、価値があるのではなくて、弱い者から、犠牲になる事実は変わらず、むしろ、清らかな飲料水を提供することで、そこから、まずは、井戸を掘ることから始め、クナール川の急激な流れを自分の故郷の伝統的な山田堰などによる水の流れの変更と灌漑水利事業へと、更には、農地改革と農業による地域65万人にも及ぶ、砂漠の緑化事業へと、30有余年を掛けて、実現へ向かってゆくわけである。それにしても、医師による医療活動を通じる中で、何故、自らも、工事用重機を運転してまでも、日本人スタッフの殺害をも乗り越えて、、、、<危険な現場での活動>に拘ったのであろうか?

Sow the Flagを、インド洋での自衛隊による補給艦や、米軍のミサイルなどではなくて、全く、別の形で、日本人として、アンチテーゼを樹立したことは、不毛な政治家による対米追従路線とは別の道筋を示したように感じられる。国境なき医師団などとは異なる、<100人の医師の派遣よりも、1本の水路を!>というテーゼの確立と、その事業の実行という方向性、テロとの戦いは、貧困との闘いで、水の確保、治水事業、緑の大地と砂漠の克服、農業の振興を、現地の人への尊厳と敬意、家族の安全と、現地人材育成、専門知識の習得の機会と仕組み作りへの邁進、等などという別の異なる手法の確立。

どうもその辺を考える時、そのルーツには、ファミリー・ヒストリー(?)が、関係しているのかもしれない。中村の叔父は、火野葦平、芥川賞作家であり、その本名は、玉井勝則で、<麦と兵隊>や<花と龍>の著作を著し、同時に、今の北九州市の若松区で沖仲仕だった、玉井金五郎の長男であり、玉井組の2代目でもある。(そんな中で、余談だが、石原裕次郎が主演の映画、<花と龍>、母のまん役は、浅丘ルリ子だった。まぁ、それは、どうでも宜しいが、)火野葦平の妹の息子こそが、Dr. Nakamuraで、甥っ子に当たるわけである。祖父、玉井金五郎の顔写真は、そっくりの顔立ちであることにも改めて驚く。

<社会正義感>というものを初めて感じて成人してゆく課程には、何らかのこうした家族環境というか、ファミリーの血の中に、何らかの形で、色濃く影響されながら、引き継がれてゆくものなのであろうか?それとも、幼少期や少年期で、火野葦平の影響が何らかの形で、その後の医師としての、或いは、アフガンでの活動に、どのような影響があったのかは、今となっては、わからないが、、、、、、。<社会貢献>などという概念は、或いは、<貧しい人の為に尽くす>という概念は、ある種の教育で育てられるものなのであろうか?昔の武士の時代のように、武士道とか、忠義とかを、子どもの頃から、教え込まれてきたならいざしらず、73歳になっても、海外、しかも、命の危険を伴うアフガニスタンで、<人道支援事業>を30有余年も継続し続けるというその基になるものとは、何なのであろうか?そして、年齢的にも今や近くなりつつある現在、翻って自分の過去を振り返るときに、同じように、海外事業で、尤も、こちらは、自らの生業のために、やむなく、海外での事業展開に30数余年同じように関わってきたものの、私心というものと、公の心とも、呼べるものが、果たして、少しでも有り、そして、その<開発途上国への何らかの貢献>が、あったのであろうかと自問自答するとき、<技術の移転とヒト作り>くらいは、現地の幹部スタッフには、足跡の一つも残せたかなくらいの誇りは、心の片隅に、一種の結果としての拝金主義的な成功者を、その後に、残してしまったのではないかという罪悪感とともに、反面、持ち合わせているのが、正直なところであろうか?。<現地への利益の完全還元・寄与>という究極な崇高な高い意思は、どうしたら、培われるのであろうか?私のように、生業として、ビジネスとして、やむなく、洗濯せざるを得なかったものには、何とも、ずしりと重くのしかかってくるDr.Nakamuraの訃報でしかない。主亡き後、現地のスタッフ達は、どのように、今後、この事業を推敲継続し、次の30年後に、どのような国作りをするのであろうか?そして、この日本から、若い人達が、Dr.Nakamuraの遺志を継ぐ形で、輩出してくるのであろうか?

吊るし干し柿作りを愉しみながら、訃報に接するとき、非常に、複雑な思いと共に、今、何が、自分に出来るのであろうかと自問自答せざるを得ない。そろそろ、自分史とファミリー・ヒストリーでも整理し始める時期が、近づいてきたのであろうかとも思える。

合掌と共に、その遺志が、一人一人の各自の行動の中に、永遠に引き継がれることを祈りつつ、


英語 民間試験延期に考える:

2019年11月09日 | 社会戯評

英語 民間試験延期に考える:

 

どこかの国の文部科学省大臣が、身の丈に応じた試験対応を受験生に御願いしたいとかという発言をきっかけにしたせいなのか、どうかは、解らぬが、可哀想なのは、これまで実施想定を前提に、準備してきた受験生や関係者はたまったものではない。それにしても、英語という教科は、これまで、書くことや文法中心で、sを三人称単数の時には、つけなさいとか、耳からの発音や会話や、英語によるディベートなどは、確かに後回しになっていて、中学校から、大学卒業まで、10年ほどの長い間、学校教育を受けたところで、まともな英語での会話などは、到底達成できなかったということも確かに、事実であろう。

 自分自身の経験からしても、特別に、一部の親しい友人のように、高校時代からESSや英語検定資格試験などを受けていない限り、頭では解っていても、なかなか、会話が進まない歯がゆさは、社会に出てから、イヤという程、蹉跌を踏む思いで、そのギャップをおもい知らされると同時に、必死になって、そのハンディキャップを取り戻そうとばかりに、再勉強をしたモノである。所詮、受験勉強という前提であって、決して、英語という言語を使って、世界観を表現したり、哲学論、日本の文化を外国人達と語り合おうなどと言う<崇高な志>などは、なかったように思われる。尤も、今の時代のように。TOEICとか、TOEFLなどによる点数の評価が、課せられていたら、きっと、<受験勉強の一環>として、必死こいて、勉強しただろうが、そんなことよりも、激動の時代に生まれ、青春時代を過ごしてしまったことから、別の社会勉強の方にばかり、うつつを抜かしてしまい、<英語で国際感覚>を養うなどと言うことは、せいぜいが、小田実の<何でも観てやろう>を読んで、あのベ平連を作った男が、後日、フルブライト留学生だったことに、気がつく頃には、もはや、手遅れでありました。そんなこんなで、何も解らず仕舞いで、社会に放り出された挙げ句の果てに、悠々自適な本社総務部・人事部への志望とは裏腹に、海外営業部なる部署に、まっこと、英語も貿易も解らずじまいで、いきなり、天と地が逆転するような環境下に放り出されたことを今にして思うと、あぁ、もっと勉強しておけば良かったと後悔しても、全く、くその役にも立ちませんでした。

 有り難いことに、当時、会社では、社内英語試験にパスすると、A級が、月額5千円給与に加算されるという制度が、インセンティブで創設されていて、<ニンジンほしさ>に、高尚な志とは違って、<おカネ欲しさ>という極めて不純な動機のみで、一生懸命、ワンレッスン@5千円の外国人会話レッスン教室で、あっという間に、消えることになりました。今から考えると、オンライン・チャット会話とか、IT活用の英会話レッスンに比べると、随分、プリミティブな方策であったと愕然と致します。日々、<恥の掻き捨て>と<OJT>で、もともと、ツラの皮が厚かったのが幸いしてか、どうかは、解りませんが、課長に連れられ連れられしながら、様々な場面を踏みつつ、接待の酒で酩酊しながらも、帰宅後に、様々な<後付け復習>の成果でしょうか、入社後、5年もたてば、いっぱしの海外貿易マン風には、なり、30前後には、<食うための英語>というユダヤ人張りの人生訓を身につけるに至りました。まさか、後年、これらの延長線上で、独立事業を興し、海外貿易に、40年余携わり、<英語を武器に>生業になるとは、全く想像だにしていませんでした。

 引退後に、様々なボランティアに、携わる中で、外国人旅行者に接する度に、彼らが、<アニメや漫画、カラオケ、映画>等で、繰り返し、繰り返し、毎日、日本語の会話を学び、基礎的な知識を学んだ後で、文法などをきちんと、勉強し直して、徐々に、そのスキルを向上させてゆく課程を知るにつけ、一体、日本の英語教育は、どうなっているのかと、考え始めました。又、自分の会社で雇用した<帰国子女>の英語がうまい社員は、接待の時に、<寿司や醤油の歴史>をすしや天ぷらを食べているときに、説明してあげて下さいというと、それは出来ませんと、答えられ、唖然としましたが、その理由は、彼らは、そもそも、寿司や天ぷら、醤油の文化的な歴史を日本語で知らないという事で、英語で説明できないと言うことが、判明しました。

 何も、全員が、同時通訳者を目指すわけではない以上、中学生程度のボキャブラリーでも、十分、日常会話は愉しめるわけですし、何も、哲学論を闘わすわけではない以上、外国語教育というものは、何も、こうすれば、王道だというものはないのではなかろうかと、私は、感じます。とりわけ、仕事で、ベトナム語やタイ語や、スペイン語を現地で話さなければならないときに、私は、まず、わがままに、<私は○○したい>或いは、<○○下さい>という言葉を、真っ先に覚えることにしています。それは、<生きるために必要だから>です。そして、<ありがとう、感謝といりません!拒絶>です。この自分で作成した会話帳は、大いに役立ち、レストラン、タクシー、買い物で、大変役に立っています。

 文化論・歴史観・イデオロギー論などを論じる時には、やはり、しっかりとした<自国言語での確固たる論理>をしっかりと、有していないと、議論には、ならないでしょうね。これは、痛感しますし、それなりの英語スキルがある程度なければ、表現できませんね。これからの時代には、<読み・書き・聞く・述べる>これらを英語で、同時に、しかも、リアルタイムで、フェースタイムやビデオ・チャットで、相手の顔色を窺いながら、やっていかなければならない時代で、老い先短い私らと違い、これからの若い受験生達は、大変な時代であろうかと想像されます。小泉進次郎が、Sexy発言で、温室ガス削減をHowと外国記者から尋ねられて、言葉に詰まった如く、原稿を書いて、考察する時間的な猶予がない場面が、これからは、多くなり、真の実力が、或いは、当意即妙な柔軟な双方向での対応が、不可欠になる時代かもしれません。何も、<記述式の課題>は、英語だけでなく、国語や数学その他にも、波及していきそうであるし、そもそも、民間への丸投げの利権談合や<教育の機会均等問題>というものにも、飛び火しそうですが、、、、、。ここでは、問題が多すぎるので、後日取り上げましょう


台風19号に思う:

2019年10月18日 | 社会戯評

台風19号に思う:

 

これまで、広島に在住する長年の友人から、自宅用に排水ポンプを購入したという連絡をもらったり、<連続線上降水帯>による西日本豪雨災害の話を見聞きしたりして、ある程度は、<災害への危機感>も持ち、それなりの準備を物心両面から、していたつもりであったが、今回の台風19号(HAGABIS)の被害報道に接するにつけ、改めて今後への対策をきちんと樹てておきたいと思い始めました。たまたま、帰京していて、長野県の千曲川の氾濫や東御市の田中橋手前の崩落などを知るに至り、数年前の小諸での冬場での大雪や、3.11 東日本大震災時のことを想起させられました。考えてみれば、あれから、既に、万人に、平等に、時間も経過していて、今や、杖をついていないと歩行困難者になり、二階や、階段を上るのにも、手すりにつかまらないと、バランスが悪く、よいしょと掛け声をかけないと登れななくなってしまった現在では、謂わば、一種の<災害弱者>の一歩手前、否、既に、他人の手助けを煩わせないといけない、<災害弱者>そのものであるという、<自覚>が、必要なのかもしれません。3.11の頃のように、徒歩で、都心部から、3時間余り、一人で、歩いて自宅へ戻るなども、今では、恐らく、倍以上の時間がかかる矢もしれませんね。都バスの無料パスも、全く、役に立たないことは、きっと、間違いないでしょうね。

古文書や土地の言い伝えではないが、開発以前の地形・地質や<土壌や地層の成り立ち>なども、以前では、1m程の下水道だったところも、きれいに、土管の下に埋もれて、遊歩道化されていたり、子どもの頃に、遊んでいた窪地も、盛り土されて、きれいな造成地となり、瀟洒な住宅地化されていたり、単純に、<ハザード・マップ>だけでは、判断しきれない<隠された地形>が、そこここに、所謂、<開発という美名と快適・便利さ>の下に、<隠されている>のが、実体ではなかろうか?それは、液状化現象だけでなくとも、分かります。<安心・安全・快適・便利という神話>を、もう一度、疑ってみる必要があるのかもしれません。<自然災害だから、致し方ない>という、諦めは、如何にも、日本人が、持ち合わせている<独特な仏教的な諦観にも似た考え方>ではあるが、一方で、科学万能志向、堤防の景観悪化に、反対したから、洪水被害が起きたのであるという式の馬鹿げた考え方にも、困ったモノである。

詳細な検証を待たなければ、まだ、分からぬものの、都心部で、利根川が氾濫しなかったのも、或いは、都市部での中小河川が、大きな氾濫が、起きなかったのも、恐らく、<巨大な地下神殿式の地下遊水・貯水施設>が、効果を発揮したのではないだろうか、自宅の前で、数年前から実施されてきた<巨大な地下排水トンネル工事>も、間違いなく、その一環で行われてきた工事であろうことは疑いありません。むしろ、大型河川での堤防補強工事に対する、<安心神話への過信>、1985年以来、風水害があまり、来ていないという<準備不足や油断>というモノも、あったのやもしれません。この辺りは、被害住民の心理的な行動意識調査結果を待たないと分からないかもしれませんが、当時の長野県中野市をたまたま、車で車で通過して、土石流による甚大な被害の様を目の当たりにした覚えがありますが、あんなに巨大な石ころが、なんと簡単に、流れ落ちてくるモノであるかと感心したものです。それにしても、<堤防の決壊のメカニズム>というモノが、何通りもあることを初めて知りました。こういう情報も、専門家による、<知識・ノウハウの独占>ではなくて広く、子どもの頃から、学校教育の中でも、SNSでも、周知徹底してもらいたいモノです。早速、ネットで、検索してみました。

それにしても、<命と資産の自己防衛>は、如何にして、両立出来れば、それに越したことはないが、少なくとも、<命あっての物種>で、<命を最優先>するとしたら、3.11の教訓から学んだことは、あのときも、事前のNHKの<メガ・クェイク来襲>という番組放映から、地震により発生する<都市型火災・河川の氾濫の危険性>と、事前準備の警鐘を思い起こします。今回は、自分独自で、この時作成した<時の避難準備マニュアルの更新・アップデート>が、今後毎年予想されるであろう<スーパー台風>にも、必要でありましょう。

今回は、台風15号による千葉県での停電被害に対応すべく、車載用蓄電池を、アウトドアーに精通した友人(ワンちゃんがいるので、夏場のゴム・ボートも、付近の河川の氾濫に伴う避難時にも使えるとか、)に相談した上で、準備しましたが、不幸中の幸いで、使用に至らずに、済みました。それにしても、<事前準備>・<被害時での行動>・<被害後の対応>という、まさに、Before/Afterという一連のスムースな流れの<シミュレーション>を描いておいて、情報収集して、<自己防衛・共助>の準備をしておかなければなりません。真剣に、考えさせられました。

60年前の子どもの頃とは違って、ラジオで、情報を入手するだけでなくて、電気が不通にならない限り、ネットでも、テレビでも、様々な情報を入手できましたが、今回は、とりわけ、次のような情報が大変やくにたちましたね、<地域の雨雲レーダー>、<地域の河川水位グラフ>、<地域の河川水位ライブ・カメラ>(夜間は、見えづらいが)、<地域の降雨グラフ> 、<24時間増水推移グラフ>、<避難場所の情報>、<緊急避難勧告情報メール>(今回は、幸いにも、通知がありませんでした)、基本的に、私は、行政を頼りにせず、<独自情報収集と危機管理>で、事前に行動対応するのを、旨としています。<アルミのはしご>は、2階に、準備すべきだったですね。屋上につながる階段があるので、本来不要ですが、隣のうちに、移動する時には、役に立つかもしれませんね。(テレビを観ていて、そう思いました)

3.11震災後に、車載用に、<携帯用防寒アルミ・フォイル・ポンチョ>を準備していましたが、今回も使用せずに済みました。<ゴミ袋、大>は、二重にすると、水嚢(CTに入れて連結する水嚢)を作ったり、飲料水の貯水用(段ボールや大型リュックに入れる方式)にも便利とかで、事前に、多数準備しておいても、良いかもしれませんね。<エアー・マット>も、床に直接寝ずに済むので、便利かもしれません。(腰の悪い年寄りには、必須かもしれない。)それにしても、イタリアなどの災害被害テントに比べて、設備・食事等などは、ずいぶん見劣りするのは、何故でしょうかね?災害担当大臣他は、一日体験をしてみるべきでしょうね。

それにしても、救援が来るまでには、<飲料水・電源・缶詰>は、少なくとも、自己責任で、3日間分くらい最低でも、準備が必要でしょうね。3.11時の経験から、友人・知人・親族の連絡網は、電話連絡やショート・メール連絡等は、改選の混み具合のせいか、<地方の方が繋がりやすく>、伝言ゲームではありませんが、<Google Person Finder>等よりも、実戦効果有りかもしれません。又、<幾つかの多様なルートを使い分けること>が、非常災害時には不可欠かもしれません。色々と各種試してみて、勉強になりました。

フランス人アーティストとのミーティングが、たまたま、予定されていて、豊島区の東部避難所に、避難したいという要請があり、当日は、HP上で住所と連絡先、地図アプリで、連絡したり、避難所に電話して受け入れ要請したり、具体的に、どういう行動をとったら良いかも、併せて、勉強させて貰えました。海外で一晩でも避難するなんて、なかなか、レアーな一生に一度でも珍しい経験ですね。何でも、傘が、パーになってしまったとか?まぁ、床が堅くて、寝られなかったとか、翌朝5時過ぎには、無事、退去できたと連絡があったので、ホッと一安心しましたが、、、、、本当に何もなくて無事で良かった。

<防災・減災>、或いは、<危機管理体験>というものは、実際、ある程度、<実地体験>してみないことには、分からないことが多いけれど、そのときになって、遅かったと気がついても、そのときには、既に手遅れな訳であって、<普段からの想定準備・仮想体験>を心がけていなければならないことが再認識されました。<災害タイムライン>も、場所は関係なしに、頭の中で、<どう行動するかという想定>を、しっかりと、準備しておかなければなりませんね。

その意味からも、<事前準備・最中・事後の対応>など、<メジャー活用による被害状況のカメラの撮り方>、<罹災証明書の申請の仕方>、<家財保険・水害特約保険などの条件の再確認>、<公的支援申請方法>など、或いは、通勤通学に使用している<生活道路の通行止め情報入手方法>とか、広範囲に、様々なことに、思いを巡らせないといけなくなってきました。これまでの地震による津波や火災による被害を想定していた事に加えて、風水害・竜巻・突風も含めてとなると、これはこれで、なかなかなものになりそうです。

人工透析の友人は、自宅に帰れずに、病院で一泊したとか、自宅が停電になれば、どうするのかと思えば、<持病の投薬在庫>も、多少は、多めに、保有しておく必要があるかなど、次から次へと、大変なことです。河川氾濫の各種カテゴリーも、多様なようで、支流の<バック・ウォーター>やら、<内水氾濫>とか、これまでの<マンホール・下水の逆流>などという現象とは、別な事例も、堤防の氾濫メカニズムも、内側・外側・内部・深部とか、様々なメカニズムがあるようで、<坂東太郎の氾濫>を、様々な治水で、対策を講じた家康の江戸時代まで、遡って歴史を顧みると、(武田)信玄堰なども、改めて、先人達の犠牲と艱難辛苦を思わざるを得ません。地下室にある電気室の浸水で、断水・IHコンロも使えず、おまけに、50階から、階段を上がり下りでは、堪らないですね。

まだ、愛犬が元気だったときに、ゲリラ豪雨で、自宅近くの幹線道路のアンダー・パスや、橋が通行止めになった時には、自宅前の道も10cm程冠水して、隣のお宅の半地下式車庫は、水没して、汚水が流れ込み、被害が出て、我が家の車も坂の上付近に路上駐車を余儀なくされたこと、又、自宅に戻るときには、愛犬が犬かきで泳いでいたことを想い出しました。又、翌日には。水が引いた後で、噴霧された消毒液の匂いが、1週間ほど、消えなかったことを想い出しました。テレビを観ていたら、食器の消毒に、<ベンザルコニウム塩化剤希釈用>や、<次亜塩素酸ナトリウム溶液>などという、懐かしい、食品衛生に使用される薬剤の名前を目にしました。

それにしても、自分が、いつも見聞きしている親しい場所が、被害が出たり、知り合いが、被害に遭ったりすると、構えるモノですが、以前にもまして、真剣に、<命と資産管理>をどのように自己防衛するか、に関して、考えるときを迎えているような気がします。<Google Map>の<道路通行止め箇所地図情報>とか、<各種地図・交通情報アプリの各種新たな使い方>の<新たな使い方も、初めて知る>ことが、お陰様で出来ました。

確かに、災害報道も、これでもか、これでもかで、必要であろうが、<通勤通学道路の通行止め情報・混雑渋滞情報>の方が、次には、時間的な段階を経過する過程では、必要なのかもしれませんね。その意味では、<マニュアルも然り>で、それにしても、これまで、数多くの災害被害対策を経てきたにもかかわらず、何故、そうした総合的な<時系列対応型の防災マニュアル>が、ネット上に、公開されないのでしょうか?専門家は、一体、何をしているのでしょうか?

<松枯れによる倒木での電線切断>や土砂崩れによる停電では、ネットも含めて、石油ヒーターなども使用不能になり、冬期では命に関わる問題になりかねません。かなりの数の倒木被害や道路の寸断などによる迂回を余儀なくされているようですから、こういった対策や復旧も必要不可欠でしょうね。それにしても、命を失ったり、危険な目に遭われたりした皆様には、何と声をかけたら良いのでしょうか?農業被害も含めて、停電に伴う冷蔵庫の二次災害や、材料や機械器具などの被害も併せると、一体、どのくらいの被害額になることでしょうか?金額だけで済むのであれば、それはそれで、考えようによっては、解決可能かもしれませんが、人生の中で、或いは、個人個人の一生のライフ・ステージの中では、如何なものでしょうか?まだ若い内では、何とか、将来やり直しが利くかもしれませんが、引退してからやお年寄りには、到底耐えがたい物心両面でのダメージとなりかねません。おカネで取り返せないような貴重な家族との想い出など、濁流と共に、一瞬のうちに、悪夢の如く、ながされてしまったのでは、取り返しのしようがありません。

間違いなく、これからは、この種の災害が、もっと大きなモノがやってくるような気がします。<災害大国、ニッポン>は、どこへ、行くのでしょうか?又、その時に、自分自身の将来は?、或いは、家族の将来は?今回、又、全く、考えさせられてしまいました。


スマホ決済とフィンテック

2019年08月10日 | 社会戯評

スマホ決済とフィンテック:

 若い頃から、ITの進化と共に、仕事上でも、私的な生活面でも、ネットの活用を余儀なくされてきたものである。但し、パソコン上では、ネット活用はしていたものの、スマホでの実施は、とりわけ、QRコード決済や、お財布携帯利用というものには、どうも、保守的・消極的で、二の足を踏んでいる。何でも、最近では、セブンのキャッシュレス決済アプリで、社長が、二重認証の意味を、そもそも知らずに、記者会見したとかで、結局、中止の憂き目に遭うなど、まだまだ、そのセキュリティーに対する不安が払拭し切れていない。実際、メガバンクの動きを待ってからでないと、どうも年寄りは、心配で仕方ない。一方、中国では、都市部だけでは無くて、農村部でのスマホ決済が急速に普及、現在進行中で、換言すれば、AIを活用した新手のネット融資システムが、拡がり始めていると、、、、、。私の若い頃は、資金を融資してもらうのも、全て、家・建物・土地を担保にしない限り、そんなに、易々とは、銀行は、融資を実行してくれないもので、雨が降るときにも、晴れた日でも、傘は貸してくれないモノであった。それにしても、フィンテックの進行とともに、メガバンクも、対応を誤れば、手数料収入だけでの収益維持は、間違いなく、収益維持が難しくなりつつ有り、どのような方向性が打ち出されるのであろうか?

それにしても、スマホ・ネット融資などが、ますます、潜在的な眼に見えない形での家庭・個人債務の拡大を逆に促進することになれば、、、、、、、そういう危惧も、光と闇ではないが、無いことも無いであろう。当面は、Wait & See なのであろうか?それとも、ポイントも活用できるキャッシュレス化の波に乗り、更に、ネット融資アプリも早速、使ってみた方が良いのか?融資もポイント制度活用時代なのか?<使い勝手と便利さとの狭間>で、当分、悩むところである。


遅ればせながら、Kindle 電子書籍 デビューです!

2019年07月25日 | 社会戯評

遅ればせながら、Kindle 電子書籍 デビューです!:

 以前、友人から、海外旅行などへ出かけるときには、電子書籍を何冊か購入して、端末に入れて持って行けば、飛行機の中で、読書可能であると、薦められていたが、身勝手な解釈で、特定の限定された端末でなければダウンロードできないと、思い込んでいて、これまで、利用していなかった。ところが、Amazonで書籍を購入しようとしたら、送付時期が、結構先の予定が表示されていて、諦めかけていたところ、そのすぐそばに、Kindle版であれば、50円安価で、しかも、即ダウンロード可能、おまけに、見本もメールで確認員可能であると、表記されているので、よくよく読んでみると、携帯端末やi-Padでも、ダウンロードが可能であることが判明したので、早速試してみることにした。

成る程、決済も、之まで通りの登録通りで、特別に、問題があるわけでもない。今まででは、地方の書店にも、なるべくおカネを落としてやりたいと、取り寄せを依頼していたモノであるが、毎回、2週間程のリード・タイムを要して、気短な年寄りは、瞬間湯沸かし器の如く、諦めてしまっていたものである。残念ながら、GAFAに、又してもおカネが落ちてしまったが、出不精の年寄りには、何より、知的好奇心をすぐさま、満足させて貰える訳で、有り難いものである。尤も、その反面、又、地方小都市の書店が将来、廃業に追い込まれる可能性が大きくなることは、大変心苦しいものがあるが、、、、、、、、。

取り継ぎ書店業務や、個別配送業務、物流業務を、一挙に解消してしまうITの威力は、如何ほどのものなのであろうか?まざまざと、その威力を改めて、見せつけられたようで、恐ろしくなるが、これも時代の流れなのであろうか?それにしても、何人の人間が、これらの業務に関わり、如何ほどのコストが、1冊50円の差で、本当に、解決されるのであろうか?何とも、労働の価値とは、GAFAにとっては、そんなモノなのであろうか?何とも、複雑な気分になってしまう。確かに、どこへでも持ち歩けるし、文字の拡大や背景のコントラストも自由に調整可能だし、終了時点での再開も、設定次第で出来るし、年寄りにとっては、有り難い話であるものの、、、、、。やや、ビミョーな感覚である。

 


理不尽としか言い様もないものと付き合う(闘う?):

2019年07月21日 | 社会戯評

理不尽としか言い様もないものと付き合う(闘う?):

 

子どもの頃、大映映画だっただろうか?<大魔神>という時代劇映画があり、余りに不正義が、横行していると、それを見かねて、或いは、人身御供に応じる形で、阿修羅と化した大魔神が、不正義を一網打尽に退治して、虚空の彼方に消え去るというような荒唐無稽な筋書きに、拍手喝采を送ったことを思い起こす。この場合、不正義とは、あるときには、悪徳商人と結託した地元領主の地方小役人であったり、純粋無垢な娘役や父の敵を探して旅する兄妹の設定など、様々である。それにしても、現代では、運転免許を返納しようと考えていた高齢者ドライバーによる暴走事故による幼い愛児や愛する妻を、突然、失ったり、或いは、何の落ち度もない、何の接点も、恨みを買うような関係性のない、全く、赤の他人により、幼い、命が、理由もなく、絶たれたり、未来への希望を期待されていた人たちが、引きこもりなのか、精神疾患なのか、不安、孤独と絶望と欲求不満か、何か、全く、その動機と行為を引き起こした理由が不明な、<理不尽としか言い様もない事件>、<道理にそぐわない事件>が、又、繰り返し惹起された。

一体全体、どう考えたら良いのであろうか?理不尽としか言い様もないものは、常に、自分の隣に、いつでも、お待ちかねなのであろうか?宗教界、キリスト教でも、既成仏教界、新興宗教界からも、一向に、どのように、解釈すべきかと言うことに関するコメントが、高僧からも、また、年末に、漢字一字で、世相を表すつもりなのであろうか、コメントが、一切、聞こえてこない。これらは、所謂、<自然災害や、天変地異とも異なる>。どんなに、清廉潔白でも、前世に良いことや功徳を積んでいても、況んやお布施すらも、含めて、、、、、何の担保にもならず、せいぜいが、精神分析医師からのコメントを貰うくらいの、後付け解説コメントだけなのか?<義に準じた人の血は、碧い>と謂われているが、血に色があるかどうかは、分からぬが、<これらの人々の死に意義があるのか>?それとも、意義があるかどうかは、分からぬが、価値があるのか?無価値なのか?それとも、<価値のあるなしという議論自体>が、ナンセンスなのか?<不条理であること>、<理不尽であること>、<身勝手であること>、<道理にそぐわないこと>とは、一体、何ぞや?何やら、禅問答のようなものになってきた。

それにしても、勧善懲悪的な明快なハッピー・エンドが断固、保証されているというわけには、どうやら、世の中、そうはゆかないことだけは、確かなようである。どのように理解したら良いのであろうか?眠れない悩ましい夜が続きそうである。

 


アンダークラスへの転落不安

2019年07月19日 | 社会戯評

=アンダークラスへの転落不安:

学者というモノは、過去の緻密な分析を行えても、その過去から、未来を予測するような洞察を、提示できる人間に、巡り会えず、これまでも、何人かのメデアで、華々しく持ち上げられたものの、いつの間にやら、消えていったことを、思い起こす。それにしても、就職氷河期以来の第一次フリーター達が、まもなく、60歳を迎える時期になる今日、これまでの<中間層という概念>が、確かに、年金2000万円問題等により、改めて、階級社会という懐かしい概念やアンダークラスという概念に、眼を向け始めるきっかけが訪れつつあるという現実には、驚かされる。そうした不安にも関わらず、何故、若者は、安定志向に向かい、怒れる元若者の年寄りが、デモに参加するのであろうか?そして、政治、とりわけ、野党というモノは、与党のリベラルも含めて、こうした流れに抗する<アンチテーゼを打ちだせないのであろうか>?昔ならといったら、笑われてしまうが、振り子が、どちらかに揺れると、所謂、保守層からでも、リベラルという、或いは、新保守主義という改革の芽が、伸びてきて、バランスが、保たれるにも関わらず、トランプやミニ・トランプではないが、一向に、そうした、傾向が、日本のみならず、全世界的な傾向で、進行中である。雇用・移民・失業・社会保障・貧困格差・テロ・健康不安・GAFA一極支配、等、どれをとっても、明日への不安、未来への確信が、持てない、<依然として不確実性の時代>なのであろう。非正規雇用という形態や、竹中や小泉が推し進めたグローバル化に乗り遅れる式な国際競争力維持への恫喝も、今になってしまえば、ある種の懐かしさも感じられるのは、皮肉なことである。決められない政治の図式から、一強多弱の<何でも決められてしまう安定志向への恫喝の図式>と、どこが、一体全体、違うのであろうか?個人の自助努力による能力のアップやアンダークラスへの転落不安や可能性を、<全面的な自己責任論>に、果たして、委ねることは、正しいことなのであろうか?最低限度のミニマム・セイフティー・ネットの構築や、社会保障政策、弱者救済、利益再分配の仕組み作りがなければ、いつまでたっても、相変わらず、絶望感や諦め意識の解消には、いたらないであろうし、秋葉原での過去の無差別殺傷事件ではないが、紙一重で、同じ環境にも関わらず、自制して、踏みとどまったという、似たような環境にいた元同僚のコメントではないが、そういう個人倫理や意識のありようで、問題解決して宜しいモノなのであろうか?アントレプレナーは、GAFAではないが、恒に、先進的なビジネス・モデルを構築して、リブレではないが、暗号技術などの最先端技術革新の先を行き、ヒトは、後追いを強いられ、学者は、或いは、政治家は、未来への処方を提示できずに、置き去りを強いられているのが、現状である。社会の分断とか、中間層の没落、とりわけ、健康不安・役職定年制による年収減収不安などによる、誰でもが、<陥りやすい平等なリスクの社会>には、民主主義とは、資本主義とは、一体、何なのか?或いは、<人間の平等>とは、何なのかを、改めて、金持ちも、貧乏人も、階級を超えて、考えざるを得ない状況が、すぐそばまで、来ていることは、間違いなさそうである。それとも、こうした現代社会の兆候を、何らかの形で、排外主義や、一国優先主義や、愛国主義などという、<疑似的な自己正当化手段>で、乗り切ろうとしてゆくのであろうか?或いは、荒っぽい、<自己責任論で一刀両断>して良いものなのであろうか?学者も、況んや、政治家も、与党も、含めて、とりわけ、野党も、宗教界も含めて、未来への処方箋を出し得ていないようである。

さて、一時、雨も止んだようだから、期日前投票へでも、散歩がてら、足を運ぶことにするかな!?


若者は、本当に7割も政権支持しているのか?何故?

2019年07月10日 | 社会戯評

=若者は、本当に7割も政権支持しているのか?何故?:

50年前の怒れる元若者には、どうしたモノか、なかなか、理解出来ない。尤も、怒れる後期高齢者は、今も、怒っているが、、、、、、。もともと、怒れる若者と政権を支える高齢者という旧来の図式は、今や、通用しなくなりつつあるのだろうか?幸福度とか、非正規社員、実質賃金の低下、グローバル化とデジタル化、などと、微妙に、関連している結果なのであるか?今や、若者の7割が、そして、高齢者の約半分が政権を支持していることは、最近の香港や、アメリカの傾向とは、極だった対比を見せているのは、何故なのであろうか?

50年前の怒れる元若者には、自己否定をしても、その結果、引きこもりや、ドロップアウトを目指したり、ヒッピー的な生活をしても、今で言えば、非正規社員でのアルバイトに明け暮れても、未来に、絶望することもなかったし、結婚も就職も、何とかなるさとばかり、書を捨てて街に出たモノであるが、、、、、、。今なら、スマホを捨てて、世界に出て行くモノであろうか?全く、脳天気だったのだろうか?考えてみれば、大きな組織から、ひとり、徒手空拳で独立しようと決断する時も、別に、未来への不安とか、老後の資金を2千万円貯蓄しようとかも、或いは、老後の不安すらも、何も考える事もなかったものである。社会補償制度のツケを回されるのであろう現代の若者が、成る程、真逆の発想をすることも、理解出来なくはない。確かに、実質賃金が上昇することもなく、ひたすら、企業利益が伸張する一方で、低下傾向にある法人税率と社会補償制度の相関関係を、ひもとけば、構造的であることも、容易に理解できよう、又、デジタル化への環境変化の中で、これまでのモノ生産から、所謂、有形資産から、国境を越えた情報やサービスによる収益構造、無形資産へのグローバルな移行ということも理解出来よう。弱者が限りなく弱者の道をたどり、勝者が、総取りするような、格差社会の現在進行中であることも、理解出来よう。それでも尚、一点理解が出来ない。格差があるから、仕方ないというこういう発想や、茹で蛙状態から、抜け出そうとしない、そういう発想と行動形式には、どうしても、理解出来ない。50年前の怒れる元若者は、今でも、現在進行形なのであろうか?


振付師 choreographerについて、考えてみた:小諸青雲館AIR(Artist-In-Residency)

2019年07月05日 | 社会戯評

振付師 choreographerについて、考えてみた:小諸青雲館AIR(Artist-In-Residency)

5月21日にこのブログで、<海外コンテンポラリー・パーフォーマーと議論する>という題名で、全くのズブズブの素人である、私が、議論を交わした内容をこのブログに、アップしたが、今月、スペイン人女性パーフォーマーであり振付師である、アンドレアが来日して、ジャズダンスや日舞のレッスンに参加する中で、彼女とも、この延長線上で、議論してみた。

尤も、議論と知っても、何も知識のない私では、議論にならないので、事前に、予備知識として、ネットで、調べてみることにした。何せ、50年も前の若者の私にとっては、パーフォームというよりも、頭の中は、舞踊という二文字の漢字表現で、様々なジャンルである、ブレイク・ダンスや、ヒップホップなど、更には、ファッション・ダンスという概念とは、無縁である。そんな門外漢の老いぼれには、唯一、尺度となるのは、お粗末な話であるが、海外での評価が高い、パーフォーマーとその振付師をまずは、検索するところから始めてみることにした。余りに多様なジャンルに関しては、後日、論じたみることにしたい。

それにしても、小学校でのカリキュラムに指定されるわけである。ヒップ・ホップが?!何故だ?何故、ヒップホップなのか?せいぜいが、サムが提唱するような、年寄り向けの老人体操としてのヒップホップか、ストリート・タイプくらいしか、知識がない私には、全くの青天の霹靂である。私の子どもの頃に、科目に取り入れられていたら、間違いなく、リズム音痴の私は、1の評価は、免れないことでしょう。

ローザンヌ国際バレー・コンテストや有名な国際的なピアノやヴァイオリン演奏コンクールでの日本人優勝者のニュースを聞いて初めて、納得する程度のレベルである。従って、その衝撃の大きさと驚きの程度は、筆舌に尽くせないほどのモノである。

成る程、世界的には、数多くの大会World of Dance, Dance Asia, etc)やテレビ番組などがあることに驚かされる。しかも、舞台演出というモノは、音楽という音だけではなくて、照明という光と、しかも、恐らくパソコンと連動していて、花火の打ち上げと同じように、今や、音と光に反応して、自動的に、それらが、無限に変化出来るように、1秒単位で、セットされているようである。化粧 メイクと衣装、顔の表情、身体の線、手足、指先の繊細な表現、とりわけ、まるで、密教の秘伝の印を結ぶかのような仕草とか、指先だけでまるでダンスを踊るかのような手法とか、これらに、加えて、日本人が最も得意とする集団的なシンクロナイズする動き、バブリーダンスくらいしか、YouTubeでみたことのない私には、振り付けの醍醐味が容易に、言葉を超えて理解出来る。成る程、Express yourselfというタイトルも頷けるものがある。インド映画で観られるような集団的な踊りと歌などは、どのような影響をしているのであろうか?興味深いところである。更には、踊りに合わせて、即興で、著名なチェロ演奏家のヨーヨーマーが、そのイメージを、音で表現するというコラボもあることにも、驚いてしまう。

言葉を超えた感性による自己表現とは、一体どのような方向性に、向かうのであろうか?言葉、言語とは何で有り、表現とは何で有り、言葉での表現に限界があるのであろうか?パーフォマンスという表現手段は、どのようなモノであり、何を突き破ろうとしているのか、昔の山海塾などの前衛舞踏くらいしか、知識のない私には、スペイン人若手女性パーフォーマー・コレオグラファーとの議論は、果てしなく、続く事になりました。

アンドレアに、送ったそれぞれリストアップしたURLのうち、私が、個人的に興味深いなと思ったり、公演を観に行きたいなと思ったグループを二つだけ、下記しておきますので、ご覧下さい。

先般のアルゼンチン・タンゴの生演奏を聴いた後で、又、更に、自己表現とは何かを考えさせられてしまいました。

 Fabulous Sisters: World of Dance 2018

https://www.youtube.com/watch?v=LGRoXI4No8M&list=RDMS5p9XaBl40&index=4

東京ゲゲゲイ:https://www.tokyogegegay.com/

 


香港逃亡条例撤廃デモに思う:

2019年07月04日 | 社会戯評

香港逃亡条例撤廃デモに思う:

 

もう、中国本土にも、香港にも、旅行やビジネスで脚を踏み入れることもないであろうし、北京ダックを食べるために、本場のレストランに、ゆくこともあるまい。いくらでの天安門やウィグル族の話題をブログやSNSに投稿しても、中国政府公認の検索に引っかかろうが、もはや、私には関係はなかろう。悲しいことに、テレビの映像を見ても、インタビューされている人々の表情は、マスクをしたり、顔を見られることを一様に恐れていて、明らかに、天安門事件30周年を過度に、意識していたとしても、異常な状況であろう。

明らかに、それは、一連の50年は保証されているとされた中国とイギリス政府間での<一国二制度>にしても、或いは、<書店経営者の本土への拉致>や、<近い将来予想される台湾統一>への予行演習であることは、間違い布石であろうことは、容易に、想像されよう。

天安門事件の時に、鄧小平が、2-300人の死が(実際には、死傷者の数は、10数倍であろうかとも言われているが、、、、)これから、20年の安定をもたらすであろうという、こういう歴史観が、今も、権力者の中には、とりわけ、習近平らの中に、DNAとして、継承されていることは、疑いのない事実であろう。それにしても、<雨傘運動>や、<民主派牧師の裁判運動>をみるにつけ、言論の自由へのすさまじい国家権力の締め付けである。とりわけ、<高校生や若者の危機感>には、SNS上で表現されているように、日本人の若者とのそれの差が、甚だしいモノがあろう。ものを自由に言えなくなる、表現する権利を不当に奪われると言うこと、その危険性を、肌身に浸みて、感じる事、それは、どういう感慨なのであろうか?一時期、<ゆで蛙状態>と表現された状態と、今の日本の状況は、どれほどなものなのであろうか?ささいなことで、言いがかりをつけられて、不当に拘束されたり、逮捕されたら、たまらないが、必ずしも、絶対に、観光旅行中にないとも、限らないのが、残念ながら、現実である。このままでは、必ず、先鋭化した一部の過激な分子が、必ず、議会の占拠とか、道路の封鎖という方向性へ向かうことは必至で、その先に待ち受けているのは、第二の天安門であり、多くの若者が、命を落とす事態になり得るであろう事は、容易に、想像されよう。一体、日本で、この元若者である老いぼれに何が出来るのであろうか?新聞広告に一面、出されたアピールを読んだ瞬間、或いは、女性リーダーのテレビに向かって発せられた切実は、ほとんどゆで蛙状態の日本人に、そして、一種の恫喝とも思える又、<決められない政治に戻るのですか?それとも、しっかりとした安定を!>という偽装にほとんど近い甘いささやきに日本の若者は、騙されてしまうのであろうか?

 


金融庁審議会の市場ワーキンググループの報告書とは、:

2019年06月18日 | 社会戯評

金融庁審議会の市場ワーキンググループの報告書とは、:

 

受け取る、受け取らないとか、なかったことにするとか、様々な議論がある金融庁ワーキンググループの例の報告書が、HPに正式にアップされているので、多忙な人たちに替わって、URLを検索・引用してみました。参考までに、皆様、金融庁のHP上にアップされた例の報告書読んでみましょう。5分では流石に読めそうもなさそうだが、、、、、。

https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603/01.pdf?fbclid=IwAR2lS60yfKO8iqqpZSChUU1g6jebbxPrdN0SmBwLVMT64TCfv7XwP9dnbAg

 

#金融審議会 
#市場ワーキング・グループ報告書
#高齢社会における資産形成・管理

 


死の軽重という誘惑

2019年06月09日 | 社会戯評

人の死の重さとか、その価値を敢えてつけようとする、禁断の議論の誘惑に、つい駆られてしまいかねない、誠に、理不尽な、不条理な事件である。近所と諍いを起こしていたとか、プライバシーを尊重しているのかどうか分からぬが、容疑者死亡というわずか、2-3行の行間で、哀れにも、小さな子どもや、前途有望である外交官があっけなく、命を奪われてしまったことに、誠に、唖然とせざるを得ない。集団登校の是非やら、犯罪心理学者の分析を後付けされても、この安全神話が横たわる列島に、激震が走り去った。数多くの交通事故死というものも、この事件の前では、全く、跡形もなく、もろくも、その衝撃度からして、崩れ去り、嘗ての秋葉原無差別殺傷事件を想起して、慄然とし、改めて、この世の無常を痛感せざるを得ない。被害児童の通学するカソリック系学園関係者の毅然とした記者会見の態度には、少なからず、教育者としての矜持が感じられたことは、少なからず、多少の救いを感じられたモノである。

それにしても、事件への今後の対策とか、原因究明とか、そんなことは、誠に、後回しでも宜しいし、全く、関係のない他社を巻き込んだ形の無理心中まがいの一種の自殺劇は、まるで、新宿都バス・ガソリン炎上事件をも、想起させるようで、実に痛ましい。識者の中には、一報を聞いて、覚醒剤や精神疾患を患った人間の犯行ではないかという見立てもあったが、全く、その筋の延長線上ではなく、冷静に、柳刃包丁を複数準備したうえ、当日朝に、平然として、隣人に挨拶を交わして出かけたとも伝えられているようでもある。こうなると、もう、ほとんど、無理心中に近い形での自殺なのであろうか? 人は、生まれながらにして、幸福に暮らすことを与えられていると同時に、一方で又、理不尽に、命を奪われてしまう危険性も、孕んでいることが、改めて、再認識される。そういう負の可能性を有するものなのであろう。わずか10数秒間での凶行に、偶然、遅れて、或いは、早めに、それこそ、後30数秒でも、時間的に、違えていたら、、、、、、、、、と思うと、実に、それはそれで、又、むなしさが増してきてしまう。それが、人生というものなのであろうか?そして、人生とは、そういうモノであると思わざるをえないものなのであろうか?果たして、それで、納得されるものなのであろうか?民事損害賠償請求が出来ない場合には、国家的に、救済援助してくれるような制度は、あるのであろうか?合掌する手も、思わず、その理不尽さともっていきようのない怒りと諦めとで、震えてしまう。

 何故、宗教界のリーダー達は、沈黙して、やまないのであろうか?面と向かって、人の死には、価値の軽重も大小も一切なく、諸行無常なのだとはっきりと断言して、散々に、ネトウから、大炎上することが、必要ではないだろうか?テレビ画面の向こう側で、何やら得体の知れぬ闇が、にやにやと笑っているように思えるのは、私だけであろうか?年の終わりに、漢字一文字で、その年の世相を書いて演じる、高僧は、何を思っているのであろうか?聞こえてこないですね、、、、、、、。今こそ、宗教界の自称リーダー達は、発言すべき時でしょう。

 


海外コンテポラリー・パーフォーマーと議論する:小諸青雲館AIR

2019年05月21日 | 社会戯評

海外コンテポラリー・パーフォーマーと議論する:小諸青雲館AIR

 

小諸の青雲館アート・イン・レジデンス(AIR)に滞在して、地元のジャズダンス・スクールや日本舞踊の伝統流派やニューウェーブ系の日本舞踊流派などとのセッションや発表会への参加コラボを通じて、<表現者としての在り方>や、<コンテンポラリー・パーフォーマンスとは何か>、そして、昨年・今年の<地元住民関係者との交流とは、どのようにしていったものか>について、理屈っぽい古稀を過ぎた老人との議論が、始まった。

 <表現者としてのパーフォーマー>と、<オーディエンスとしての受け手である、観客>とは、<事前の説明がなくて、どのように、コミュニケーションをとるのか?>この質問の発端は、彼ら二名が、デュオの形で、日本舞踊の家元から、黒田節を教わり、これを演舞するという演目で、オーディエンスは、皆、この黒田節や、或いは、白虎隊に関しては、一定の理解を、その歴史。文化的な背景を理解しているという前提であるとはいうものの、コンテンポラリー・パーフォーマンスは、一体、事前に、どのような内容のモノなのかは、説明の必要がないのかというところから、出てきた。つまり、互いの何の<共通認識>が、なくして、果たして、<相互のコミュニケーション>、或いは、<眼に見えない化学反応が生じるのだろうか>という疑問!!である。

 たまたま、ジュースを飲みながら話をしていたので、これは、ジュースですよと説明した上で、パーフォーマンスをすれば、ビールではないことは、間違いなく伝わるだろうが、もし、誤解されるようであれば、それは、下手な演者であろう。しかし、そこには、全く、<教科書通り>で、決して、<想像する力が、オーディエンスの方には、生まれてこない>。<模範解答を演者から、示したり、提示するモノではないのだ>と、、、、、。むしろ、○○のようなもの、というような漠然とした何ものかを、パーフォーマンスで提示し、<想像力をかき立てるモノ>であって、決して、古典的なクラシカルな伝統芸能文化という<教科書ではない>と、、、、。

 では、<どこまでが、マッチングするというのか?>、相互にふれあうことになるのか?オーディエンスのレベルが、まちまちである以上、そのどこへ、演者は、訴えかけるのであろうか?古典というものであれば、例えば、黒田節なら、かくあるべしと言う理想的な、教科書的なもの、白虎隊であれば、白虎隊というものが、現としてある訳なのであろうか?能楽・歌舞伎・浄瑠璃・クラシックバレーも含めて、<演者の表現力とは、どのように反映されるのであろうか?>私には、この点が、コンテポラリー・ダンスという、謂わば、勝手に、如何様にも、解釈、新たな解釈を加えて、変容しても、許されるモノなのであろうか?

 昨年来日したときに、ドイツからのコンテンポラリー・パーフォーマンスは、Everybody Knows というヒット曲に併せて、割り箸をその象徴とするような演舞で、エコの精神やゴミのリサイクル、プラスチックゴミの問題提起を演じたものの、そのとき、事前解説として、そのような趣旨説明をおこなったものの、果たして、<その事前説明は、必要であったのであろうか?>事前説明というモノは、教科書的なモノの提示であって、決して、オーディエンスの想像力を刺激するモノではなかったのかもしれないという反省!

 岡本太郎は、芸術は、爆発だ!といったモノであるが、化学的反応と大爆発とは、一体、<どのような条件下があれば、成立する>モノなのであろうか?それとも、木っ端微塵に雲散霧消してしまうのであろうか?<目に見えない演者とオーディエンスとの交流なのか>、ふれあいなのか、将又、大爆発なのか?それが、一種の<感動という結果につながるモノ>なのであろうか?

 画家が年齢と共に、<作風が変化>してゆくように、コンテンポラリー・パーフォーマーも、同様に、<どのように、変化・変質してゆくのか>?何が変わり、何が変わらないのか?<伝統的な型>などは、この変質しない中核のようなモノなのであろうか?

ガイジンというコトだけで、日本舞踊もうまく踊れますね!ということは、褒め言葉であっても、<仮に、面をつけて、ガイジンという露出を隠して、演じたならば>、どのように、日本人のオーディエンスは、受け取るのであろうか? 仮面劇、仮面舞踏というものも、今後のワークショップには、試してみても面白いかもしれない、次回への改善が、必要であろう。

<気配>というモノを消すことは、パーフォーマンス、踊りの中で、可能なのであろうか?<動と静>のぶつかり合いや、或いは、<動と動>、或いは、<静と静>の中での、能楽などの、日本舞踊でも、ジャズダンスでも、音がなければ、果たして、どのような<静の世界>で、表現が可能なのであろうか?踊り手の側で、<ガイジンという気配・存在を消して>、それでも、古典的な日本舞踊の踊りの世界では、<表現は、可能なのであろうか>?ジャズダンスが、動とすれば、日本舞踊は、静の世界なのか?踊りを演じる前にも、コンテンポラリーダンスも、ジャズダンスも、団体で、一緒に、気分を高揚させるために、エイエイオー的なシュプレヒコールで、気合いを入れるのに対して、日本舞踊や能の舞では、事前に、<沈思黙考・瞑想>が、或いは、<静的な精神統一>が、不可欠なのであろうか?

全く歌詞の分からない、演歌の歌謡曲を、メロディーだけで、解釈して、振り付け表現して貰ったり、同じ曲を、別々に、日本人、ガイジンのパーフォーマーで演じ分けて貰ったり、<違いとは何か>を認識して貰ったり、<多様性とは何か>を感じたりも、面白いかもしれない。

まだまだ、次から次へと、疑問が生じてきて、もっとも、自分の英語能力の低さから、こうした微妙な言語表現が、伴わなかったせいなのか、眠気のせいなのか、分からないが、この次に、議論は、継続することと相成りました。それまでに、もう少し、関係者にも、質問して、勉強しておきましょう。お楽しみに、、、、、続く、、、、、to be continued,,,,,,,,,,,とします。

 


時代が変わる節目:天皇という存在と総理大臣

2019年05月02日 | 社会戯評

時代が変わる節目:天皇という存在と総理大臣

 

どこもかしこも、一応総改元祝い、右へ並への番組一色である。何故、こうも、まるで、帯状疱疹のウィルスが突然、組成してきたようなはしかのような異様なフィーバーぶりなのであろうか? 成る程、戦後の混乱期に、マッカーサーが、朝鮮戦争を境に、政治的な国民の統合としての象徴天皇制を、政治的に、なぜ利用しようとしたのかが、うっすらと理解出来るような気がする。零和の里などと喧伝された、太宰府天満宮ですら、わずか1日の入場者数が、3年分にも、達するとは、何とも、驚くべき、予期せぬ効果ではなかろうか?平成30年間の特集を振り返ってみても、日本の本当の意味での<時代の変革>という観点からのテレビ特集はなかったような気がしてならない。それ程、時代の変遷というエポックメイキング的の出来事は、まるで、太平洋戦争の開戦日にも、観られなかったような異常な高揚感に満ちているといっても過言ではない。

 象徴天皇としての時々の言葉やその行動の裏には、自らの誕生日に、東京裁判での戦犯への絞首刑の執行日が、モノ語るように、まさに、昭和天皇の犯した罪とその贖罪への、或いは、平和に対する、災害も含めた被災者、戦災者へのいたわりという意識が、国民に寄り添わなければならないという、まさに、<国民統合の象徴>という役割を果たしてきたのかもしれない。これに対して、<国民の代表>としての、総理大臣たる、安倍晋三は、憲法改正や、忖度・偽装・改竄などで、<建前論に近づこうとする天皇の言葉と行動>とは裏腹に、お題目の如き国民を疑似代表とする<ホンネの使い分け>を、行うという対照を映し出している。とりわけ、沖縄への住民へ降りそうと言うことは、タダの一度として、今でもないのは、どうしたモノであろうか?

 戦争がない時代とか、災害がない時代とか、世界中の人たちが平和と安寧の中で、幸福に暮らせる時代とか、そんなことは、誰しもが、実現されないと分かってはいても、分かっているが故に、そう願わざるを得ない現実が、一方では、存在する。凜とした佇まいとか、安心感を与える存在というような、まるで、模範的な修身道徳教育の理想から抜け出てきたようなそんな象徴的な人物像が、醸し出されているようでもあるコトが、この境目の日にも、感じられるは何故だろうか?それは、上皇にしても、新天皇にしても、自分の責任では決してなく、むしろ、それは、その国民統合の象徴という霧のような曖昧なモノを、利用せんとするものの存在を忘れてはならない。太平洋戦争の開戦日に、その日記に、皮肉な感想を記した、永井荷風ではないが、私たちも、時代が変わる節目とは、一体、何なのか、将来から過去の一時を眺めることしか、出来ないのであろうか?それとも、その通過時点で、はっきりと、分かるものなのであろうか?この日に生まれたということも、出産したことも、この日に死んだことも、この日に、結婚届けを提出したことも、どれだけの節目の価値が、どれほど、日常の連続性の中で、いかほどの価値があることなのであろうか?

 時代に即した皇室の在り方とか、象徴天皇としての在り方とは、一体、どんなモノなのであろうか?少なくとも、上皇となった平成天皇が、戦後、小泉信三やヴァイニング夫人に師事したコトを考えれば、留学経験という自分の頭でグローバルな思考と多様性の中で、考えることを学ぶことが出来た新天皇は、国民の間接的な代表たる総理大臣とは、異なる、日本人、或いは、日本としての理想的な在り方を、その言葉と行動とで、日本国民、或いは、全世界の人々にも、直接的に、グローバルに、訴えかけていける可能性があろう。それは、新天皇のみならず、新皇后にも、元女性外交官としての貴重なキャリアを生かした、重要な新天皇へのサポーターとしての役割と重責が課せられることでもあろう。何の象徴なのかを、問い直すときに、どこかの国の皇室みたいに、自由恋愛の末に、スキャンダラスまみれな元女優達とは異なり、凜とした、世界に堂々と胸を張って誇るべき日本の文化、伝統、歴史を、主権者たる国民次第で、如何ようにも、良い意味にも、悪い意味にも、時代は変節してしまう可能性があることを、改めて、確認されることになろう。渋谷のスクランブル交差点の大画面に群がる人の波と数寄屋橋交差点で、号外の配布に群がり狂喜乱舞する人たちは、このとき、何を思い、そして、30年後に、あの出来事を、何と思うのであろうか?