小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

難民になる可能性を考える:

2018年08月17日 | 社会戯評

=難民になる可能性を考える:

上田高等学校有志の方々を支援する活動の中で、改めて、<難民になる>とは、どういうことであり、又、その可能性は、どのくらいのものなのかを、考えることにしてみた。一般的には、政治的な難民が、一番、考えられることになるが、どうやら、必ずしも、そうとは限らない現実があるようである。確かに、戦争・紛争という究極の人権抑圧の手段を強いられる状況は、現在の様々な地域紛争、非正規軍戦争型の具体例を観ていても、十分理解されうるが、それに至らずとも、様々な難民になる形態の可能性が十分に、ありそうである。そのひとつが、東日本大震災のみならず、地震、火事、水害、などの各種災害によるものは、何も、基本的な人権の抑圧などでもなくて、簡単に、<幸せな日常生活も安寧が破壊されてしまう>ものなのであろう。そう考えてみると、難民とは、必ずしも、政治的な、遠いどこかの国の出来事でもなくて、広義の意味からすれば、<日常生活の突然の破壊:日常性から、非日常へと強いられる環境の変化>というクライテリアからすれば、いつ何時、自分の身にも、及ばないとは限らないリスクを孕んでいることにもなるのかもしれない、それは、不条理な事故によるものも含めれば、ありとあらゆる場所と機会に、難民と同じ境遇になる可能性が、日常生活にも、潜んでいるものなのかもしれない。更には、突然の会社の倒産による失職・レイオフ、自身の、或いは、連れ合い、家族、子どもなどの病気・健康のリスク、最近では更に、結婚しない兄弟姉妹リスク、考えてみれば、ありとあらゆるところに、<難民に等しい環境下に置かれうるリスク>が、確かに、潜んでいるように想われてならない。

命ある限り、戦争下であろうとなかろうと、食べること、排泄すること、眠ること、生きることは、どんな状況下でも、同じことがいえる訳で、破壊されてしまったコンクリートのがれきの中でも、死臭漂う廃墟の中でも、自分の幸せだった頃のリビング・ルームの無残にも破壊し尽くされてしまったむき出しのソファーにも、そこには、厳然として、<今の生活。生きなければならないという現実>が、存在する。或いは、故郷や祖国を捨てざるを得ない状況もあるのは確かである。一体どれほどの、自分では、気がつかない、難民になるというリスクが、日常生活に、潜んでいるのであろうか?一連の上田映劇での上映を観ながら、<ラッカは静かに虐殺されている>や、<ラジオ・コバニ>、或いは、<原田 要。平和への祈り>を、観終わった後から、問い直し、想う日々である。


映画、<ラジオ・コバニ>を観る」

2018年08月17日 | 映画・テレビ批評

=映画、<ラジオ・コバニ>を観る」

 自分の描いていた未来への理想図が、突然のISによる侵攻により、一転したとき、女子学生の彼女は、<ラジオ・コバニ>というミニコミ・メディアを駆使して、情報発信を試みた。そして、その問いかける口調は、<未来の自分の子供達>に、真実を伝えたい、残したいという思いだったのであろうか?親しかった幼なじみの友人のむごたらしい処刑への思い、或いは、クルド女性部隊の軍人達の戦い、そして、何よりも、捕虜として、インタビューを受けることになった、IS戦士の、<家族に会いたい、自分の安全を知らせて貰いたい!>と懇願する、或いは、無知と貧困から、ISに協力せざるを得なかった言う後悔ともつかぬ、告白など、更には、ブルドーザーによる、空爆で死亡したと想われる、敵味方の区別もつかぬような苦悶に満ち満ちた詩風が漂う、ブルドーザーによる死体処理現場、臀部と想われる太ももの一部や頭部と想われる一部や苦悶に満ちた骸骨顔の表情や、戦争の残酷さが、真正面から、画像の中に、描き出される。それにしても、平和というものは、あっけなく、いとも簡単に、日常生活が壊され、破壊し尽くされてしまうモノである。復興を遂げようとする過程や、最期には、主人公が、結婚式に向かうシーンで、人々の祝福を受けながら、<新しい未来に向かって出かける>シーンで、終わっているが、日常生活とは、かように、食べて、恋愛談義をして、日々過ごしながら、IS戦士も、恐らく同様に、敵味方を隔てることなく、時間が過ぎ去っていったのであろうことを、改めて見せつけている。この主人公は、その後、一体、どのような暮らしを、日常生活を取り戻していったのであろうか?そして、捕虜となったIS戦士は、更には、あのクルド女性部隊の指揮官達は、、、、、、、。日常の平和と安寧に、感謝するとともに、その脆さ・はかなさ・不確かさにも、常に、同時に、気配りしていないと、容易に、気づかぬうちに、破壊されてしまい、非日常へと落とし込められてしまうものである。