=難民になる可能性を考える:
上田高等学校有志の方々を支援する活動の中で、改めて、<難民になる>とは、どういうことであり、又、その可能性は、どのくらいのものなのかを、考えることにしてみた。一般的には、政治的な難民が、一番、考えられることになるが、どうやら、必ずしも、そうとは限らない現実があるようである。確かに、戦争・紛争という究極の人権抑圧の手段を強いられる状況は、現在の様々な地域紛争、非正規軍戦争型の具体例を観ていても、十分理解されうるが、それに至らずとも、様々な難民になる形態の可能性が十分に、ありそうである。そのひとつが、東日本大震災のみならず、地震、火事、水害、などの各種災害によるものは、何も、基本的な人権の抑圧などでもなくて、簡単に、<幸せな日常生活も安寧が破壊されてしまう>ものなのであろう。そう考えてみると、難民とは、必ずしも、政治的な、遠いどこかの国の出来事でもなくて、広義の意味からすれば、<日常生活の突然の破壊:日常性から、非日常へと強いられる環境の変化>というクライテリアからすれば、いつ何時、自分の身にも、及ばないとは限らないリスクを孕んでいることにもなるのかもしれない、それは、不条理な事故によるものも含めれば、ありとあらゆる場所と機会に、難民と同じ境遇になる可能性が、日常生活にも、潜んでいるものなのかもしれない。更には、突然の会社の倒産による失職・レイオフ、自身の、或いは、連れ合い、家族、子どもなどの病気・健康のリスク、最近では更に、結婚しない兄弟姉妹リスク、考えてみれば、ありとあらゆるところに、<難民に等しい環境下に置かれうるリスク>が、確かに、潜んでいるように想われてならない。
命ある限り、戦争下であろうとなかろうと、食べること、排泄すること、眠ること、生きることは、どんな状況下でも、同じことがいえる訳で、破壊されてしまったコンクリートのがれきの中でも、死臭漂う廃墟の中でも、自分の幸せだった頃のリビング・ルームの無残にも破壊し尽くされてしまったむき出しのソファーにも、そこには、厳然として、<今の生活。生きなければならないという現実>が、存在する。或いは、故郷や祖国を捨てざるを得ない状況もあるのは確かである。一体どれほどの、自分では、気がつかない、難民になるというリスクが、日常生活に、潜んでいるのであろうか?一連の上田映劇での上映を観ながら、<ラッカは静かに虐殺されている>や、<ラジオ・コバニ>、或いは、<原田 要。平和への祈り>を、観終わった後から、問い直し、想う日々である。