=50年前の元若者に何が出来るか?:太陽光発電工事の構造的問題を考えるに当たって、
基本的には。現在進行中のこの問題は、単なる景観自然破壊とか、生活環境権侵害への抗議という側面だけではなく、もっと、本来は、巨視的には、国家的な構造的な政策、再生自然エネルギー政策と原子力発電政策の矛盾解明であり、或いは、微視的には、地方都市に於ける、森林税の導入によっても、食い止められない松食い虫による里山荒廃や林業の崩壊という問題や、土地未相続と登記放置や、空き家の増加などや、耕作放棄地の増加と、海外工場への移転に伴う地方税収の減収や、若年労働人口の減少による限界集落の課題や様々な地方創生の矛盾が、太陽光発電工事という形で、すべての矛盾が、そこにリンク集約されて、それらが、如実に現れてきている。謂わば、構造的複合的な問題が結実しているものであろう。
更に言えば、最近のあらゆる事象に共通するところである、昨今の風潮である、<不作為>、<忖度>、<未必の故意>、<組織的な隠蔽>、<個人の責任感の欠如>、<モラルの劣化>、<法制度的な欠陥>、<実務運用上のさじ加減>等など、その意味で、<大胆な様々な仮説と、それらの個別的な精査・検証>を、嘗ての<角栄金脈>ではないが、<構造的なアプローチを前提>とした考察が、必要不可欠であろうと思われる。今となっては、第一線の最前線で活躍した友人達も、既に、退役し、マッカーサーではないが、ただ消え去るのみ。であるが、若い人たちに、期待しつつ、そういう<アプローチ視点の必要性>を、理解してもらいたいものである。10代後半で経験した様々な社会運動の中で、何故、あんな年寄り達が、国家権力に抗して、子や孫の世代のために、老いぼれた身体を張ってでも、抵抗したのかと、思い起こすときに、自分が、同じような世代になって初めて、改めて、<老いぼれが何故>を、恥ずかしながら、実感する次第である。その意味でも、恥ずかしい人生の終焉を迎えたくないものである。(苦笑)
これから、一歩一歩、その長い道のりを通して、解明してゆくことで、様々な<光と影をあぶり出し>ながら、条件闘争とは異なる、<根源的なファンダメンタルな問題点へのアプローチ>を、反対運動といううねりを形成しつつ、剔抉してゆきたいモノである。
老いぼれに何が出来るのだろうか?<余りにも重い言葉という鋭い武器>、果たして、<ペンは剣よりも強し>なのか、それとも、単なるたわごと、戯れ言、で終わってしまうのか?ひとえに、それは、主体としての自分と、このメッセージを受け取る側との戦いでもあるし、それが、拡がるのか、萎んでしまうのか、いずれにせよ、恐らく、こちら側の主体は、ひたすら、老いぼれの誇りを忘れることなく、毅然として、命ある限り、ペンを剣の如く振るうまでのことであろうか?
<次世代に向けてのメッセージ>というと、何か、遺言のようにも思われるかもしれないが、寧ろ、先人が、それこそ、私が20歳前に、この目で接した<老人達の思い>を、改めて、別の形ではあるものの、受け継ぐ形で、言霊を発してゆきたいモノである。自分には、何が出来、何が、出来ないのか、と自らに問うとき、それは、<まず、できることから始める>ことが肝要で、身近なことで出来ることから始めるので、結構ではないでしょうか。
既に逝きし先人達の思いを改めて、自分自身に照らし合わせて、共有するとき、初めて、どこから、行動を起こせるのか、何をなすべきかを問い直し、意識のある限り、生きる限り、自分で出来る範囲のことを、その場その場、その役割に応じて、行なっていかない限り、<知らぬ間に茹で蛙状態>になり、気がつけば、周りを強い電磁波が発生するパネルだらけに、取り囲まれるという、酷い鎖国状態と同じになりかねません。この発想は、別荘地内の管理優先という、愚かな<時代錯誤的な管理運営会社方針>による、触らぬ神に祟りなしとする姿勢にも、通じるものです。
今日、犬の散歩をしていても、地下鉄に乗っていても、<Wi-Fi無線ルーターを携帯>していれば、どこでも、世界中あらゆる情報に接することが可能ですし、このメッセージも、ひょっとすると、コーヒーを愉しむカフェテラスで、スマホを観ながら、読まれているかもしれません。ことほど左様に、一方的ではなくして、あらゆる意見の異なる人も含めて、互いに、<インターアクティブに>、談論風発、意見をぶつけあって初めて、物事が、初めて、動き初め、<山が揺れて、次第に、動き始める>ものであると、<50年前の元若者>は信じてやみません。
ゲームに夢中になったり、パチンコ・スロットに、御先祖様が苦労して開墾したという歴史的な価値ある田畑を、濡れ手の粟の如く手にした札束を、惜しげもなく、時間を浪費しながら、<アパシーと無気力>の中、<茹で蛙>同然の施行停止状態で、これまで培ってきた人生のノウハウが、果たして、次世代に、きちんと、受け継がれるのであろうか?<50年前の元若者>は、社会への恩返しとは言わないものの、少なくとも、無償で、請われれば、ノウハウを提供・教示し、次世代の若者に、還元したいと思います。仮に、そういう活動が、<一種の社会貢献活動>と呼べるのであれば、この小さな動きも、決して、無駄なことではないであろうし、<一寸の虫にも、五分の魂が宿っている>という証拠にもなるやもしれませんね。そんな軽い気持ちで、個々人の持ち場持ち場に応じて、或いは、身の丈に応じて、足し算ではなしに、掛け算に、なるように、更には、二乗三乗になるように、双方向で、インターアクティブに、出来るところから、動いてみて、情報発信御願い致します。