=Dr. Nakamura の突然の訃報:
自分が未だ子どもの頃には、マハトマ・ガンジーとか、密林の聖者と謂われたシュバイツァー博士とか、或いは、やはり、医師であったチェ・ゲバラとか、様々な同時代の同じ空気を自分も吸っていたであろう先人達が、人道主義者が、現に存在していた事を、ふと思い出した。国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子氏も、つい先頃、亡くなり、そして、突然、中村哲医師が、銃弾に斃れてしまったとの一方が、ネットに流れてきた。
それにしても医師として、人々の命を救おうとする中で、何故、土木作業を伴う、水利事業をアフガニスタンで、しかも、30余年という長きに亘り、取り組むことになったのか?
<不作為>とか、<忖度>という言葉の影で、<品格>とか、<矜持>とかいう言葉が、既に、忘れ去られようとする今の時代の中で、ハッキリと、自衛隊の海外派兵は、全く無意味で、むしろ、中村哲医師が目指すような運動への援助をヒト・モノ・カネの面で、積極的に行うことの方が、ずっと、効果的であるという趣旨の国会での発言にも、おおいに、考えさせられる。
医師として、命を助ける中で、幼い幼児の命も、老人の死も、結局は、死という事実の前では、命の長さに、価値があるのではなくて、弱い者から、犠牲になる事実は変わらず、むしろ、清らかな飲料水を提供することで、そこから、まずは、井戸を掘ることから始め、クナール川の急激な流れを自分の故郷の伝統的な山田堰などによる水の流れの変更と灌漑水利事業へと、更には、農地改革と農業による地域65万人にも及ぶ、砂漠の緑化事業へと、30有余年を掛けて、実現へ向かってゆくわけである。それにしても、医師による医療活動を通じる中で、何故、自らも、工事用重機を運転してまでも、日本人スタッフの殺害をも乗り越えて、、、、<危険な現場での活動>に拘ったのであろうか?
Sow the Flagを、インド洋での自衛隊による補給艦や、米軍のミサイルなどではなくて、全く、別の形で、日本人として、アンチテーゼを樹立したことは、不毛な政治家による対米追従路線とは別の道筋を示したように感じられる。国境なき医師団などとは異なる、<100人の医師の派遣よりも、1本の水路を!>というテーゼの確立と、その事業の実行という方向性、テロとの戦いは、貧困との闘いで、水の確保、治水事業、緑の大地と砂漠の克服、農業の振興を、現地の人への尊厳と敬意、家族の安全と、現地人材育成、専門知識の習得の機会と仕組み作りへの邁進、等などという別の異なる手法の確立。
どうもその辺を考える時、そのルーツには、ファミリー・ヒストリー(?)が、関係しているのかもしれない。中村の叔父は、火野葦平、芥川賞作家であり、その本名は、玉井勝則で、<麦と兵隊>や<花と龍>の著作を著し、同時に、今の北九州市の若松区で沖仲仕だった、玉井金五郎の長男であり、玉井組の2代目でもある。(そんな中で、余談だが、石原裕次郎が主演の映画、<花と龍>、母のまん役は、浅丘ルリ子だった。まぁ、それは、どうでも宜しいが、)火野葦平の妹の息子こそが、Dr. Nakamuraで、甥っ子に当たるわけである。祖父、玉井金五郎の顔写真は、そっくりの顔立ちであることにも改めて驚く。
<社会正義感>というものを初めて感じて成人してゆく課程には、何らかのこうした家族環境というか、ファミリーの血の中に、何らかの形で、色濃く影響されながら、引き継がれてゆくものなのであろうか?それとも、幼少期や少年期で、火野葦平の影響が何らかの形で、その後の医師としての、或いは、アフガンでの活動に、どのような影響があったのかは、今となっては、わからないが、、、、、、。<社会貢献>などという概念は、或いは、<貧しい人の為に尽くす>という概念は、ある種の教育で育てられるものなのであろうか?昔の武士の時代のように、武士道とか、忠義とかを、子どもの頃から、教え込まれてきたならいざしらず、73歳になっても、海外、しかも、命の危険を伴うアフガニスタンで、<人道支援事業>を30有余年も継続し続けるというその基になるものとは、何なのであろうか?そして、年齢的にも今や近くなりつつある現在、翻って自分の過去を振り返るときに、同じように、海外事業で、尤も、こちらは、自らの生業のために、やむなく、海外での事業展開に30数余年同じように関わってきたものの、私心というものと、公の心とも、呼べるものが、果たして、少しでも有り、そして、その<開発途上国への何らかの貢献>が、あったのであろうかと自問自答するとき、<技術の移転とヒト作り>くらいは、現地の幹部スタッフには、足跡の一つも残せたかなくらいの誇りは、心の片隅に、一種の結果としての拝金主義的な成功者を、その後に、残してしまったのではないかという罪悪感とともに、反面、持ち合わせているのが、正直なところであろうか?。<現地への利益の完全還元・寄与>という究極な崇高な高い意思は、どうしたら、培われるのであろうか?私のように、生業として、ビジネスとして、やむなく、洗濯せざるを得なかったものには、何とも、ずしりと重くのしかかってくるDr.Nakamuraの訃報でしかない。主亡き後、現地のスタッフ達は、どのように、今後、この事業を推敲継続し、次の30年後に、どのような国作りをするのであろうか?そして、この日本から、若い人達が、Dr.Nakamuraの遺志を継ぐ形で、輩出してくるのであろうか?
吊るし干し柿作りを愉しみながら、訃報に接するとき、非常に、複雑な思いと共に、今、何が、自分に出来るのであろうかと自問自答せざるを得ない。そろそろ、自分史とファミリー・ヒストリーでも整理し始める時期が、近づいてきたのであろうかとも思える。
合掌と共に、その遺志が、一人一人の各自の行動の中に、永遠に引き継がれることを祈りつつ、