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さまよう刃:小説と現実の犯罪被害者


東野圭吾の小説「さまよう刃」を読んだ。
この小説は、映画化もされているので情報番組によって、
”映画のあらすじ”は知ってはいた。
それでも、小説の内容は衝撃的だった。

裁判員制度の導入にともない厳罰化が求められる風潮を危険視する意見がある。
だけど、何かがズレているようにも感じてしまう。
古くから、フィクションの世界では、犯罪の被害者たちが、
自警団行為を行っていくという設定がある。
その危険性についても、示唆されてきた。
「犯罪の被害者たちによる犯罪行為の連鎖」
「もしくは、新たな犯罪組織の発生」などである。
犯罪の被害者たちだからこそ、犯罪がもたらす恐怖を知り尽くしている。
それを考えれば、犯罪の被害者たちが、加害者の立場になってしまう。
”犯罪”が、さらに凶悪な犯罪を生んでいくようなもの。
つまり、犯罪への対処として、加害者をなくしていくと言う発想は、正しく。
もっとも効率的。
しかし、効率だけ考えていけば、”情”が置いてきぼりになってしまうのは、
どこも同じ。
司法の場では、”加害者”のことしか論議されていないのだ。
法律上、被害者にも加害者の人権も同じかも知れない。
だけど、ね。
道義上、社会通念上、立場が、まったく違う!!
そして、被害者、もしくは、被害者の遺族への救済や謝罪は、司法の場にはない。
被害者を救済していく構造も考えていくべきなのでしょう、ね。

追記:
フィクションではなく、現実の犯罪被害者の会について、
ドキュメンタリー番組を見れる機会もあった。
現実の刑事事件でも、加害者には微罪としか思えない”罪”で
罰せられることも少なくなく。
犯罪被害者には、多くの苦難がある。
民事で、被害者への”慰謝料”が勝ち取られ(勝訴し)ても、
それが支払われないことも少なくない。
加害者は、”逃げ得”なのが、実態。
「国が定めた法律が、加害者の権利を守り、
加害者の更正を望むのなら、
”国”が被害者への生活や補償を行うべきだ」と言ったものもある。
“国”にしても、加害者にしても、
自らの不利益になってから、考えるようになるもの。
司法関係者や役人が渋い顔をしそうだが、もっともな意見だとも言える。

加害者の更正を考えるのは、それからなのでは・・・。






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