♪
弱い者たちは夕暮れ さらに弱い者を叩く
その音が響き渡れば BLUESは加速していく
見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
♪
THE BLUE HEARTSの「TRAIN TRAIN」の一節です。
また、いじめを原因とした自殺という悲しいニュースが起きました。
苦しかったんだろうな、つらかったんだろうな、と思うと、やるせない気持ちで一杯です。
一方で、こういう報道があるたびに「いじめ」について語られることになります。
だいたいがこういう論調。
「いじめはどんな理由であっても決して許されない行為である」
つまり、とにかく「いじめはいけません!」ということです。
教育者に限って声高にそう叫ぶのを聞くたびに、またいじめっ子を追い込むのかと切なくなります。
確かにいじめはいけません。
一方的に決まった誰かを傷つけ、貶める行為は許されるべきではありません。
ただ、いじめている子どもも子どもである以上、まだ教育の対象であることがすっぽりと抜けてしまい、「いじめっ子」=「矯正が必要な悪」という見方をしてしまう。
でも、そういった行為の裏には必ずその行為に至る背景があると思うのです。
何かからの逃避、何かに対する反発、何かに対する不安、何かに向けての怒り・・・
学齢期、言い換えれば思春期前後の子どもたちの中にはそういった形にならない「負の要素」を心に抱えている子どもがいます。
本来であれば直接の対象(親だったり、学校だったり、社会だったり・・・時にはそれがわからなかったり、自分だったり)に向かうべき「負のベクトル」を、何かの理由で正しい形で表明できないとき、様々な形で表現し、信号として大人たちに送るのです。
自傷、不登校、軽犯罪・・・
いじめもその中の一つである場合があります。
「いじめっ子」は、誰かをいじめることでしか自分の中の「負の要素」を表現できないのかも知れないのに、「他人をいじめるなんて、どんな理由があっても許されません」と切り捨ててしまうことは教育上本当に正しい手段なのでしょうか。
また、いじめが集団的なものである場合、いじめが集団化する原因がその集団に潜在しているということです。
いじめっ子・いじめられっ子以外の存在になったときに、いじめに荷担せざるを得ない集団心理的な要素があったということです。
第三者、もしくは仲裁者の存在を許さない、もしくは隠してしまう集団的な空気。
本来、いじめはそういう意味で根が深く、「悪いことだ」と切り捨てたところで何も解決しないのです。
弱い者がさらに弱い者を叩いているのです。
そして、もっとも弱い者は、自らの中に弱い者を見いだして叩く。
それが進むと自殺・・・希死念慮につながっていくのです。
「いじめ」という行為を無造作に止めるのは、「見えない銃」を取り上げただけで、「本当の声」に耳を傾けていない。
「聞かせておくれよ」と大人が耳を傾けて、見えない銃を撃たなくても済むようにしてあげることが本質的な解決につながると信じて止みません。
ボクはいじめを肯定はしていません。
是認もしていません。
ただ、「いじめ」という表面的な行為に引きずられて、そこにある本質的な、根源的な問題に向き合わなければ、何の解決も教育的効果もないと訴えたいのです。
少なくとも、教育に携わる人にだけでも伝わってほしい。
弱い者たちは夕暮れ さらに弱い者を叩く
その音が響き渡れば BLUESは加速していく
見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
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THE BLUE HEARTSの「TRAIN TRAIN」の一節です。
また、いじめを原因とした自殺という悲しいニュースが起きました。
苦しかったんだろうな、つらかったんだろうな、と思うと、やるせない気持ちで一杯です。
一方で、こういう報道があるたびに「いじめ」について語られることになります。
だいたいがこういう論調。
「いじめはどんな理由であっても決して許されない行為である」
つまり、とにかく「いじめはいけません!」ということです。
教育者に限って声高にそう叫ぶのを聞くたびに、またいじめっ子を追い込むのかと切なくなります。
確かにいじめはいけません。
一方的に決まった誰かを傷つけ、貶める行為は許されるべきではありません。
ただ、いじめている子どもも子どもである以上、まだ教育の対象であることがすっぽりと抜けてしまい、「いじめっ子」=「矯正が必要な悪」という見方をしてしまう。
でも、そういった行為の裏には必ずその行為に至る背景があると思うのです。
何かからの逃避、何かに対する反発、何かに対する不安、何かに向けての怒り・・・
学齢期、言い換えれば思春期前後の子どもたちの中にはそういった形にならない「負の要素」を心に抱えている子どもがいます。
本来であれば直接の対象(親だったり、学校だったり、社会だったり・・・時にはそれがわからなかったり、自分だったり)に向かうべき「負のベクトル」を、何かの理由で正しい形で表明できないとき、様々な形で表現し、信号として大人たちに送るのです。
自傷、不登校、軽犯罪・・・
いじめもその中の一つである場合があります。
「いじめっ子」は、誰かをいじめることでしか自分の中の「負の要素」を表現できないのかも知れないのに、「他人をいじめるなんて、どんな理由があっても許されません」と切り捨ててしまうことは教育上本当に正しい手段なのでしょうか。
また、いじめが集団的なものである場合、いじめが集団化する原因がその集団に潜在しているということです。
いじめっ子・いじめられっ子以外の存在になったときに、いじめに荷担せざるを得ない集団心理的な要素があったということです。
第三者、もしくは仲裁者の存在を許さない、もしくは隠してしまう集団的な空気。
本来、いじめはそういう意味で根が深く、「悪いことだ」と切り捨てたところで何も解決しないのです。
弱い者がさらに弱い者を叩いているのです。
そして、もっとも弱い者は、自らの中に弱い者を見いだして叩く。
それが進むと自殺・・・希死念慮につながっていくのです。
「いじめ」という行為を無造作に止めるのは、「見えない銃」を取り上げただけで、「本当の声」に耳を傾けていない。
「聞かせておくれよ」と大人が耳を傾けて、見えない銃を撃たなくても済むようにしてあげることが本質的な解決につながると信じて止みません。
ボクはいじめを肯定はしていません。
是認もしていません。
ただ、「いじめ」という表面的な行為に引きずられて、そこにある本質的な、根源的な問題に向き合わなければ、何の解決も教育的効果もないと訴えたいのです。
少なくとも、教育に携わる人にだけでも伝わってほしい。