奈良のむし探検

奈良に引っ越しました。これまでの「廊下のむし探検」に倣って「奈良のむし探検」としましたが、動物・植物なんでも調べます。

達磨寺見学

2025-02-04 20:54:12 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1419弾


2月1日、奈良県王寺町にある達磨寺に行きました。これまで行ったことがなかったので、一度は行ってみようと思っていたのですが、ちょうど節分豆まきがあるというので行ってみました。節分豆まきについてはすでに出したので、今回は達磨寺についてです。





本堂の前にはこんな茅の輪くぐりがありました。茅の輪くぐりは普通「夏越 (なごし) の節句」に身を清め、災いを防ぐために行われるので、今頃は珍しいです。





これが本堂です。









本堂内は資料展示室になっていて、自由に見ることができ、また、撮影もOKとのことでした。今回はボランティアの方がおられたので、説明をしていただきました。







ご本尊は三体あって、中央に木造千手観音坐像があります。パンフレットによると、もとは500手あったそうですが、現状で392手が残っているそうです。室町時代の作で、王寺町指定文化財になっています。





向かって左側には木造聖徳太子坐像があります。これは鎌倉時代の作で、国指定重要文化財になっています。銘文から建治3年(1277年)に院恵・院道が製作したことがわかるそうです。もともと衣(袍)は緋色に着色されていたと推定されています。





向かって右側には木造達磨坐像がありました。室町時代の作で、やはり国指定重要文化財になっています。これも衣が朱色に塗られていたようです。





達磨寺本堂は達磨寺3号墳という古墳の上に建てられています。本堂建て替えのときに発掘調査をしたところ、本堂の地下に石室があり、写真のような宝篋印塔が見つかり、中に水晶製五輪塔形舎利容器と仏舎利が見つかったとのことです。その展示がありました。





これは達磨大師画像で、上に歌が書かれていました。永享三年三月五日 征夷大将軍源朝臣書之の名があるので、1431年に書かれたということのようです。





外には問答石というのがありました。パンフレットによると、実は、達磨寺の由来は、日本書紀推古天皇21年12月、聖徳太子が片岡に来られた時、一人の人が飢餓に苦しんでいたとの記述と関係しています。太子はこれを憐れんで、食べ物と着ている衣服を与え、和歌を一首詠んで去られたとのことです。翌日、様子を見させるとその人は亡くなっていたので、厚く葬らせました。太子はその人は普通の人ではなく、きっと聖者だろうと言って、使者を遣わし見に行かせると、墓は動いてはいなかったのですが、屍はなくなり、衣服だけが畳んで棺の上にあったそうです。そこで、また、使者を遣わせて、その衣服を取ってこさせ、以前のようにお召しになったとのことです。この話は片岡山飢人説話として、後世に伝わっていくのですが、奈良時代後半になって、聖徳太子慧思託生説と一緒になったようです。つまり、聖徳太子は達磨の弟子である慧思(えし)の生まれ変わりであるという説です。そこで、飢餓に苦しんでいた人はおそらく達磨本人であろうということになったようです。先ほどの達磨大師画像の上の歌は太子の和歌に対する返歌として後に伝えられたものです。問答石とは飢えた人のいたところと太子の場所を示したものだそうです。



これは高さが1.8mある八角形の達磨寺中興記石幢で、達磨寺のHPによると、「達磨寺の中興を成し遂げた南峯和尚が、南禅寺の惟肖和尚に頼んで永享7年(1435)9月に記してもらった達磨寺中興記を、南峯和尚が一文を添えて石幢としたのがこの中興記幢である。」とのことです。





達磨寺の境内には1号墳から3号墳という3つの古墳があるのですが、これは1号墳の石室です。奈良県歴史文化資源データベースによると、石室内部には石棺の一部が残っていて、6世紀後半の須恵器が出土したので、そのころに築造された古墳とみられているそうです。また、石室が小さいので聖徳太子の飼っていた犬の雪丸の墓だと伝えられ、また、この石室から法隆寺まで続く地下道があるとも伝えられているようです。





最後はその雪丸塚です。パンフレットによると、雪丸は、「人の言葉が理解でき、お経を読み、臨終の際には『自分を達磨塚の丑寅に葬るように』と遺言した」そうです。雪丸の墓は私の住んでいる大和郡山市にもあるので、ボランティアの人に出典について聞いてみたのですが、よくわからないそうです。

雑談)日本書紀の片岡山飢人説話には達磨という話は出てこないのに、どうして飢人が達磨という話になったのか疑問になったので、少し論文[1]やその中で引用されている古文書を調べてみました。達磨の話が初めて出てきたのは「七代記」という書物のようですが、現存していません。ただ、いろいろな文書に引用されているので、それらを総合すると、中国の「大唐国衡州道場釈思禅師七代記」に、達磨が慧思に東方での教化を勧め、達磨自身は一足先に東方に去ったことが記されているそうです。慧思は聖徳太子に生まれ変わり、達磨は日本に渡来したことが示唆されるので、この飢人は「達磨か」と「七代記」に書かれていたようです。その後、この話が断定的に「達磨なり」と変化していったようです。なお、「七代記」は宝亀二年(771)に天王寺僧敬明(もしくは教明)によって撰述されたものだそうです。
[1] 追塩千尋、「片岡山飢人説話と大和達磨寺」、年報新人文学 99-45, (2012)。

達磨寺の節分豆まき

2025-02-02 20:35:02 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1417弾


2月1日に奈良県王寺町にある達磨寺に行ってみました。一度は行ってみたいと思っていたのですが、ちょうど節分豆まきがあるというので2月1日に行くことにしました。豆まきは11時、13時、14時の3回あるというので、13時に間に合うようにJR大和路線に乗って王寺駅で降りました。



駅舎内から犬の足跡がついていました。私はてっきり、ペットを連れて歩くときはこの道を通ってほしいという意味かと思っていたのですが、外に出ても、こんな犬の足跡がついています。



この看板で分かりました。聖徳太子の愛犬雪丸の足跡だったのです。





観光案内図を見ると、これは雪丸ロードといって、この跡についていくと、達磨寺に到着できるという意味でした。



横断歩道を渡っても相変わらず足跡が続いています。



そして、葛下(かつげ)川に着きました。



土手の道に立札が立っていました。「あいさつ+1ストリート」と書かれています。ネットで調べると、「あいさつ」の後にプラス「ひとこと」を添えてという、「あいさつ+1運動」が行われているようです。



対岸には時計台が見えます。これもネットで調べました。「和(やわらぎ)の鐘」といって、聖徳太子の十七条憲法にある「以和為貴(和を以て貴しと為す)」に因んで、平成元年に設置されたとのことです。



橋を渡ると、そこに雪丸像がありました。



この先、もう少し歩いてから道を渡ると、旗がたくさん立っているところが見えました。



「節分豆まき 達磨寺」と書かれているので、そこが達磨寺なのでしょう。





これが達磨寺西門で、ここから中に入ることができます。その入り口にまた雪丸が立っていました。



達磨寺に着いたのが12時59分。ちょうど豆まきが始まる所でした。ステージの上でいろいろな説明がなされています。



下には天平装束の人も何人かいました。



そのうち、王寺町の公式マスコットキャラクターの雪丸もステージに上がりました。羽織袴の正装をしています。





豆まきが始まりました。



かなり高くまで撒かれているのですが、我々のいるところまでは到底届きません。



仕方がないので、雪丸の姿をもう一度撮りました。

この後、達磨寺の本堂や境内の見学をしたのですが、それについては次回に回します。

橿原神宮と橿考研附属博物館

2025-01-21 21:26:16 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1407弾


1月18日に家族と橿原神宮に行きました。この日は橿原神宮の駐車場に車を止めた後、まず、深田池に行き、その後、橿原神宮に行きました。今回はその続きです。



深田池から橿原神宮の南神門に行く途中で、第二鳥居を見てみると、ちょっと前に見たときは山が鳥居の中にあったのですが、今度は鳥居の上に見えていました。ちょっと不思議ですね。五万分の一地形図を見ると、音羽三山の音羽山、経ケ塚山、熊ケ岳が見えているのだと思われます。



南神門を過ぎると中は広々としていました。



これは御朱印を受ける参集所です。



その向こう側の建物は神楽殿です。ちらっと太鼓が見えています。



これは拝殿だと思ったのですが、橿原神宮には拝殿が二つあって、これは外拝殿の方のようです。



今年の巳年の大絵馬が置かれていました。この大絵馬の前で写真を撮るので、列ができていました。





外拝殿の中に入ってみました。前方に見えているのが内拝殿です。正月期間中は内拝殿まで進めるのですが、この日は外拝殿まででした。



その代わり、ちょうど習字の展示がされていました。ネットで調べると、1月5日と6日に「橿原神宮席上揮毫書初め大会」がジェイテクトアリーナ奈良という体育館で開かれたようで、その優秀作品が展示されているようです。





この展示のお陰で、外拝殿の北側廻廊を途中まで行くことができました。そこから撮った内拝殿です。



内拝殿の向こう側には幣殿があるのですが、その屋根が見えていました。





外拝殿で御参りをした後、外に出てみました。そこにこんな石が置かれていました。「さざれ石」だそうです。「君が代」に登場しますね。説明によると、もともとこんな細かい石のことを「さざれ石」と言うのだそうです。その小さな石と石との間に炭酸カルシウムなどが入り込み、結束して岩となり、苔の生えるまで末永く栄えるようにという意味だそうです。学術的には、石灰質角礫岩というようです。



第一鳥居の方に行ってみました。



橿原神宮と書かれています。



お昼は「Cafe橿乃杜」で食べました。私は「かしもりランチ」を頼みました。



橿考研附属博物館は橿原神宮のすぐ近くなので行ってみました。



まず、ガレージに展示されている横穴式石槨を見にいきました。これは斑鳩町龍田北にある竜田御坊山3号墳のものだそうです。



普通、石棺の蓋は上にあるのですが、これは横に穴が開いていて、蓋は横にあることになります。その蓋が右に置かれていました。



その穴を覗いてみました。



博物館では、「ミステリー小説の中に考古学が登場する件」という特別陳列が開催されていました。実は、家族はこれが目的だったようです。2時から説明があるというのでそれに間に合うように行きました。ただ、見物客が多くて、説明があまり聞こえなかったので、私は途中で諦めて常設展の方を見にいきました。



説明が終わった後、松本清張の「内海の輪」の中に登場するガラス釧(くしろ)の写真を撮っておきました。説明を聞かなかったので、詳細は分かりませんが、研究所の方が出された論文を後から読んでみると、推理小説の中に考古学の話はよく登場するが、三内丸山遺跡、吉野ケ里遺跡のように大きな発見があると、それをもとにした推理小説が多く出されているとのことです。ところが、清張はまだ世間的に注目されていない考古学的な話を題材として、清張自身の説を小説の背景にしたり、登場人物に語らせるという方法を用いているというような内容でした。

橿原神宮と深田池

2025-01-20 20:40:13 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1406弾


1月18日に橿原神宮に行ってみました。奈良に来てから一度も行っていなかったのと、近くにある橿原考古学研究所付属博物館にも行ってみようと思ったので。





橿原神宮の駐車場に車を止めて、表参道に顔を出すと、ちょうど第一鳥居と第二鳥居の間に出てきます。そこから第一鳥居の方角を見た写真です。





表参道には大小の燈篭が規則正しく並んでいます。表参道沿いには屋台もいくつか出ていました。





第二鳥居のちょっと手前に小さな橋がありました。「橿原神宮境内図」によると、これは神橋だそうです。



これが第二鳥居です。



第二鳥居を過ぎたところで撮った写真です。



振り返ると、第二鳥居の間に第一鳥居が見え、更に、遠くの山も見えています。五万分の一地形図を見ると、これは音羽三山の中の音羽山と経ケ塚山のような感じです。いずれも800mほどの山です。



そして、南神門が見えてきました。この門を過ぎると、拝殿に行くことができます。



その前に南神門とは反対側にある深田池の方に行ってみました。



餌をやっているのか、カモが集まっています。



ヒドリガモのようです。



アメリカヒドリっぽいのもいます。



池の傍にあった説明板によると、深田池は奈良時代には築造されたと伝えられているそうです。(ただし、橿原神宮のHPによると、飛鳥時代築造と書かれていました)



池の畔に長山稲荷神社がありました。





こんな赤い鳥居がずっと続いています。



これは手水舎です。



由緒書きによると、長山稲荷神社は橿原神宮が作られる前から、この場所で地主神として祀られていたようです。



これが本殿です。





上の方から鳥居の列を撮ってみました。





神社から下りたところに咲いていました。これはジュウガツザクラなのかなぁ。Wikipediaの「冬桜」によると、冬桜にはコバ、コブク、ジュウガツ、シキがあるそうです。





これは下に花びらが落ちているので、サザンカなのかな。



池の中ほどを渡る橋がありました。地図によると、中桟橋と書かれています。これを渡ってみました。





岸を見ると、先ほど行った長山稲荷神社が見えています。



渡ったところにはマガモがいました。





この先に南桟橋があり、それも渡ると、池の1/3程度を回ったことになります。先ほど渡った中桟橋を撮ってみました。

この後、橿原神宮の拝殿に向かったのですが、それは次回に回します。

佐良気神社の十日えびす

2025-01-15 21:25:29 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1401弾


1月10日は十日えびすの日です。それで、まだ行ったことのない春日大社の摂社佐良気(さらけ)神社に行ってみました。この日はむちゃくちゃ寒くて、雪でも降りそうな天気だったので、どうしようかと思ったのですが、とりあえず出かけました。それで、いつもの県営高畑駐車場ではなく、春日大社の駐車場にとめることにしました。



春日大社の駐車場からは二之鳥居がすぐそばにあります。





写真を撮っている外国人がいたので、何を撮っているのだろうと思って見ると鳥居の下にちょっと貫禄のある鹿がいました。



事前の情報だと、佐良気神社の十日えびすは朝10時ごろは混雑するので、12時ごろがお勧めと書かれていました。それで、11時半ごろに行ったのですが、参道は意外に空いていました。





南門前にある階段はいつもは通れるのですが、この日は通行止めになっていました。



南門の横には「佐良気神社 十日えびす」と書かれた案内板が立っていました。



この道は若宮に至る道で御間道(おあいみち)と呼ばれています。人は少ないですね。





2022年に式年造替された若宮です。



若宮を過ぎると佐良気神社に続く道になるのですが、ここからは人がいっぱい並んでいます。やはりだいぶ混んでいるようです。







それで、反対側から佐良気神社に行ってみることにしました。これは途中にある金龍神社です。



金龍神社を過ぎると佐良気神社にすぐ着きます。ところが神社の前には人が並んでいません。どうやら福笹をもらうために並んでいたようです。







これが佐良気神社です。えびす神社のご祭神には事代主神と蛭子神があるのですが、ここは蛭子神のようです。我々もお参りをしました。







福笹につける縁起物を売っているところに行ってみました。鯛、千両箱、倉などいろいろと売っています。思ったより安いですね。



でも、まだ、長い列ができていました。



それで今回は福笹は諦めて帰ることにしました。









帰りに奈良ホテルに寄ってみました。なかなか趣のある建物です。お昼でも食べようかなと思ったのですが、ちょっと高くて・・・。





建物の近くでジュウガツザクラが咲いていました。



奈良ホテルからだと、隣に在る旧大乗院庭園がよく見えました。