奈良のむし探検

奈良に引っ越しました。これまでの「廊下のむし探検」に倣って「奈良のむし探検」としましたが、動物・植物なんでも調べます。

なら歴史芸術文化村 ワニ氏の展示会

2024-12-21 21:20:18 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1378弾


11月27日になら歴史芸術文化村に行きました。ちょうど天理市共催展「ワニ氏の源流を探る 和爾地域周辺の古墳時代」が開かれていたので見てきました。



なら歴史芸術文化村の駐車場で撮った写真です。見えている建物は芸術文化体験棟です。



すぐ隣には幾坂池という池があります。





ハシビロガモがいました。



芸術文化体験棟の横を歩いていくと、文化財修復・展示棟が見えてきました。ここで共催展が開かれています。



展示室の中に入ったところです。大きな埴輪が並んでいるのが目につきます。



これは赤土山古墳で埴輪が発見されたときの出土状況の再現です。樹脂で型を取って実物同様の彩色をしたものだそうです。古墳の頂上部にあった埴輪群が地滑りで落ちてきたのでこんな格好になっていたようです。



これは東大寺山古墳で見つかった刀です。金象嵌により24文字が刻まれていたのですが、そこに「中平」という西暦2世紀後半の後漢の年号があったことで注目されています。



これはその刀の束の部分で、青銅製環頭と言われています。この刀は製作後150年経って、東大寺山古墳に埋葬されたものだと思われています。



これは先ほどの赤土山古墳の円筒埴輪と朝顔形埴輪です。かなり大きなものです。



これは家形古墳でやはり赤土山古墳から出土されたものです。



これは櫟本チトセ遺跡から出土されたものです。この遺跡は弥生後期から古墳前期にかけての遺跡と思われています。もともと和爾氏は5世紀から6世紀にかけて今の天理市和爾付近で成立した氏族と考えられていて、応神天皇から敏達天皇に至る7代の天皇に后妃を出していた有力な氏族と思われています。6世紀後半には和爾から春日に移り、春日氏を名乗り、その後、大宅、粟田、小野、柿本、櫟井などの氏族を生み出しました。しかし、和爾氏のいたとされる場所近傍でさらに古い遺跡が見つかっているので、すでにこのころから和爾氏の源流となる集団が存在していたと考えられています。



これは上殿古墳から出土された農工具です。上殿古墳は古墳時代前期後半から中期にかけて古墳です。







これはいずれも赤土山古墳から出土されたもので、冠帽形埴輪、甲冑形埴輪、草摺形埴輪です。



これはベンショ塚古墳から出土された甲冑です。ベンショ塚古墳は帯解駅の近くにあって、古墳時代中期の前方後円墳だとされています。







同じくベンショ塚古墳から出土された鞍金具、鉄鏃、鉄鑿・砥石です。これら豊富な出土品から、この地方の首長の墓だと考えられています。



展示物はもっといろいろあったのですが、気の付いたものだけ出すことにします。これは櫟本高塚遺跡から出土された土馬です。古墳時代後期後半だとされています。



これは和爾下神社社家に伝わる伝柿本人麻呂像で、室町時代の作とされています。



これは柴屋丸山古墳で出土されたガラス製勾玉です。綺麗な色なので、思わず撮ってしまいました。この古墳はベンショ塚古墳の北側にある古墳時代中期の古墳です。



共催展を見た後、もう一度幾坂池の方に行きました。





ハシビロガモが泳いでいました。



これはカワウです。



対岸から、なら歴史芸術文化村を撮ってみました。

葛城市歴史博物館と角刺神社

2024-12-15 20:42:57 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1369弾


11月21日は葛城市歴史博物館に行きました。その続きです。





展示室は葛城市の考古資料や中世の武士の資料などが展示されていました。これは弥生時代の竹内遺跡の石包丁、紡錘車の展示です。



ここから古墳時代になります。これは寺口和田古墳群から出土した楕円筒埴輪。



これは屋敷山古墳の長持型石棺。



そして、これは寺口和田1号墳から出土した船形埴輪の複元品だそうです。







ここは古代寺院の展示です。この板状の仏像は石光寺の連坐塼仏(れんざせんぶつ)です。



ここからは室町後期から戦国時代にかけての葛城地方の武士の話です。







山がちの葛城地方では、地形を利用したこんな山城があったようです。





最後は昭和30年代の茶の間を再現したものでした。



この日は特別展として「當麻寺練供養」があったのですが、撮影禁止だったので、写真はありません。練供養というのは阿弥陀如来を先頭に二十五菩薩が迎えにくる様子を再現したものです。當麻寺で始まったものが、現在では日本各地で行われています。もともと、藤原南家の藤原豊成の子として生まれた中将姫が継母にいじめられ、殺されそうになるのですが、16歳の頃、出家したいといって當麻寺に入ることになります。中将法如という名をいただいた姫は生きながらにして阿弥陀如来の極楽世界を拝みたいという希望を持っていました。本堂で読経をしていると、老尼が現れ、蓮を集めて糸を作ることを促します。姫が一晩で當麻曼荼羅を織ると、老尼は阿弥陀如来に姿を変え、13年後に迎えに来ると伝えます。姫が29歳になると、阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎し、姫を極楽浄土へ連れていくという話です。特別展では當麻寺練供養に用いられているいろいろな用具の展示がありました。





歴史博物館のすぐ横に鏡池がありました。中将法如はこの池に生えていた蓮を用いたとのことです。



鏡池は隣にある角刺神社(つのさしじんじゃ)の境内になっています。







この神社の御祭神は飯豊青命(いいとよあおのみこと)です。第22代清寧天皇が崩御されたとき、皇太子である億計王と皇子の弘計王は互いに譲りあって皇位につかれないので、姉である飯豊青命がこの地に角刺宮を置き、朝政を執られたそうです。飯豊青命はわずか十か月余りで亡くなるのですが、飯豊青命を日本初の女性天皇として取り扱うかどうかについては昔から判断が分かれているとのことです。この神社は角刺宮の跡に社を造って、飯豊青命の御霊をお祀りしたものです。



これは狛犬です。



拝殿の横にはこんなに曲がった大きな木が生えていました。



これは境内社で、末吉大明神と書かれていました。

雑談1)だいぶ紆余曲折がありましたが、「大和郡山の鳥」という小冊子の原稿をやっと製本に出すことができました。これで一安心です。次は植物にしようのか、チョウ・トンボにしようか、まだ迷っています。
雑談2)今朝、暗いうちに家を出て散歩に行きました。歩いていると、畑の中から急に猛禽類が飛び立ち、畑の上を二度ほど旋回した後、近くの電線に止まりました。撮影してみると、頬に黒い模様があるので、どうやらハヤブサのようです。おそらく餌を捕まえたところに私が来たので、驚いて飛び上がったのだろうと思われます。邪魔するのも悪いと思って、何枚か写真を撮って通り過ぎました。ふと振り返ると、先ほど止まっていたところにカラスが2羽います。きっとカラスに追い払われてしまったのでしょう。家に戻ってから調べてみると、どうやらハヤブサの幼鳥のようでした。
雑談3)今年4月中旬から始めた植物調べも、12月になり、そろそろ打ち止めになりました。これまでに記録した植物は全部で666種。一年目としてはまあまあかもしれません。

馬見丘陵公園から葛城市歴史博物館

2024-12-14 20:16:31 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1368弾


11月21日は葛城市歴史博物館に行きました。大和郡山からだと車で1時間ぐらいかかるので、途中、馬見丘陵公園でちょっと一休みしました。そのときに撮った写真です。



この季節、馬見丘陵公園には花がなく、ちょっと寂しげな風景です。





その代わり、紅葉が見られました。色づきはいまいちでしたが。







この黄色の葉はエノキのようです。





これはGoogleレンズで調べました。アフリカホウセンカとかインパチェンスという名前が出てきました。



この時期、皇帝ダリアが咲いているかもと思って見に行きました。







確かに咲いていました。何年か前はこの場所にいっぱい咲いていたのですが、この2、3年はぽつぽつ咲いている感じです。





皇帝ダリアにこんな八重の花も咲くのですね。

馬見丘陵公園で一休みしたので、葛城市歴史博物館に向かいました。ここから車で20分ほどの距離です。





そして、葛城市歴史博物館に着きました。



ちょうど「當麻寺練供養」という特別展をしていました。先日、久米寺の練供養を見たばかりだったので、ちょうどよかったです。





博物館の建物に入ったところです。



大きな家形石棺が置かれていました。葛城市にある島の山1号墳から出土したものだそうです。





展示室に入ったところです。



床が地図になっていたので、現在地辺りを撮ってみました。今は葛城市歴史博物館となっていますが、以前は新庄町歴史民俗資料館と呼ばれていたようです。





そして、展示室内部の様子です。ここからは室内で暗くなるので、スマホのカメラで撮りました。写真は次回に回します。

柳澤文庫・郡山城跡

2024-12-07 21:19:11 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1361弾


11月17日、郡山城跡に行きました。16日と17日が関西文化の日で柳澤文庫が観覧無料だったので、行ってみることにしました。その続きです。





これが柳澤文庫です。この建物は旧柳澤伯爵家郡山別邸で、今は郡山藩主「柳澤家」ゆかりの地方史誌専門図書館になっています。







中に入ると、狭い廊下の奥に展示室がありました。中には郡山城に関する資料などがあったのですが、残念ながら写真禁止でした。



柳澤文庫の前にある庭です。ここには旧藩主の柳澤保申に作った「柳澤養魚研究場」があったところだと思われます。







これは極楽橋で、最近、再現された橋です。





歩いていたら、チャノキの花が咲いていました。



そこにオオハナアブが来ていました。





これはオオスズメバチ



ウラナミシジミもいました。



こちらはキタテハです。



ここから柳澤神社の方に向かいました。これはサカキだろうと思います。



そして、柳澤神社の拝殿です。



拝殿の扉には柳澤氏の花菱紋がついていました。



柳澤神社の裏側に天守台があります。昔はこの上に天守閣があったところです。



そこに登ってみました。これは東側を見たところです。



微かに若草山が見えるのですが、望遠で見ると、人の姿まで写りました。



これは北側を写したもので、薬師寺の東塔と西塔が写っています。その右側に大極殿がかすかに見えます。



ここから追手門の方に向かいました。これはたぶん、チャバネセセリ





これはイヌビワのようです。



ツワブキの花が綺麗です。





これはヤツデ。花が咲いていました。





これはヒレタゴボウ



お濠越しに天守台を写しました。



手前の池がやけに赤かったので、見てみました。アカウキクサで覆われていました。

平城宮跡と郡山城跡

2024-12-06 21:25:13 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1360弾


11月13日に平城宮跡公園に行ったときの続きと11月17日に郡山城跡公園に行ったときの写真をまとめて載せます。



13日は平城宮跡公園にある「おぎの美術館」を見た後、平城宮跡資料館に行き、その後、朱雀門近くの駐車場まで歩きました。そのときに撮った写真です。これはツマグロヒョウモンです。翅がだいぶ破れています。



遠くの方に大極殿が見えています。





道端に生えていた植物です。オオバコでしょうね。







これはシロバナイヌタデかな。



そして、南門の近くまで来ました。後ろに見えるのは復原工事中の東楼です。



遠くに朱雀門が見えています。



しばらく歩いてから振り返ると、遠くに大極殿や南門が見えています。広々としていますね。







これはオギです。一面、白い穂で覆われています。



最後は朱雀門の近くで撮った写真で、これはクヌギです。どんぐりができています。




ここから11月17日に郡山城に行った時の写真です。これはやまと郡山ホールです。





中には大きなクリスマスツリーが飾られていました。



ここから歩いて郡山城に行ってみました。近鉄の線路を渡ると郡山城の入り口になります。



お濠が見えてきました。桜の頃は綺麗なのですが、今頃は何もないですね。



ここから先は柳澤神社になります。



この日は柳澤文庫に行くつもりだったので、途中で右に曲がりました。こんな門がありました。



お濠の向こうに極楽橋が見えています。右に見えている建物が柳澤文庫です。



これは反対側を見たものです。



ウラギンシジミが止まりました。やはり翅はぼろぼろです。





極楽橋のたもとまで来ました。そのすぐ近くに柳澤文庫があります。柳澤文庫は近世中後期を中心に地方史研究のための施設で地方史誌専門図書館として昭和35年に設立されました。入場料が必要だったので、これまで観覧したことがありませんでした。16日と17日は関西文化の日で観覧無料だったので、行ってみることにしました。この続きは次回に回します。