奈良のむし探検

奈良に引っ越しました。これまでの「廊下のむし探検」に倣って「奈良のむし探検」としましたが、動物・植物なんでも調べます。

廣瀬大社の砂かけ祭の後

2025-02-17 20:26:02 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1432弾


2月15日、久しぶりに馬見丘陵公園に行ってみることにしました。行く途中、先日、砂かけ祭が行われた廣瀬大社はその後どうなったか気になったので、様子を見に行きました。この日は、先日、帰りに通った県道108号大和郡山広陵線→県道36号天理王寺線で行ったら、あっという間に廣瀬大社に着きました。ただ、信号が多いので、いつもの富雄川沿いの道と比べると時間的には同じくらいだったかもしれません。



廣瀬大社の参道です。この間の砂かけ祭のときはこの両側に屋台がずらりと並んでいました。



そして、二の鳥居です。





鳥居をくぐると、この間、砂が置かれていた境内になります。見た目には砂が無くなったように見えますが、実は、境内全体にならしたようです。



横から橘の木を写したものです。



拝殿側から鳥居を撮ってみました。鳥居の近くまで砂がならされているように見えます。





これは拝殿です。「殿上の儀」では、ここで田人が拝殿を田圃に見立て、苗代作りなどの田植えの所作が行われたのでしたね。



拝殿側から本殿を写したものです。本殿の両横に置かれていた狛犬がなくなっていました。祭のときだけに出てくるのですね。



拝殿前に置かれた箱に松苗がまだ残っていました。これは砂かけ祭のときに、稲の代わりに田植えの所作に用いられ、参加者に配布されたものです。家の玄関において厄除けに用いるそうです。



砂山もまだ残っていました。この砂も持ち帰って、災い除けに庭の四隅に撒くというものでした。



拝殿の前側を撮ってみました。巫女さんが早乙女役になり、田植えの所作を行ったときに、ここから撮影したのでした。



拝殿の横から撮ったものです。





帰りにもう一度砂を撮ってみると、あちこち凹んだところがありました。鋤(すき)を使って砂を掘り、周りにかけた後ですね。

廣瀬大社の砂かけ祭 殿上の儀2

2025-02-12 20:52:14 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1427弾


2月11日に廣瀬大社の砂かけ祭に行きました。午前中に「殿上の儀」があり、午後からは「庭上の儀」があるのですが、午後からのはまさに砂かけなので、これを避けて午前中の「殿上の儀」だけ見物に行きました。10時半から、本殿で宮司の祝詞奏上が行われ、巫女舞があった後、お田植の所作が始まりました。その続きです。お田植の所作は拝殿を田圃に見立てて、田植えなどの所作を行う儀式です。





最初は苗代づくりです。まず、田人(たひと)が鋤(すき)を使って畔作りをします。



次は鍬(くわ)を持って、畔捏ね(あぜこね)をします。畔捏ねとは田んぼの縁を土で塗り固める作業だそうです。



それから、均し竹(ならしたけ)で、苗代を平らに仕上げていきます。



いつの間にか、巫女さんたちがたすき掛けになっていました。



それから籾撒き(もみまき)です。



次は田人が鍬を持って、世間話的な話をしながら、田圃を巡る所作をします。



それから、苗取りで、巫女さん(早乙女)が神前に供えられた松苗を持ってきます。





いよいよ牛の登場です。田人が牛の面をつけた牛役の後ろに犂(からすき)を取り付けて一周します。その間、牛はもーもー鳴いています。



次は馬杷(まぐわ)をつけて回ります。これらは田作りの作業を表します。



それが終わると、いよいよ早乙女役の巫女さんによる田植えになりました。





人垣でよく見えないので拝殿の横に回ってみました。田植えをしている姿が辛うじて見えました。



関係者は拝殿の中に座っているものとばかり思っていたのですが、本殿の前にもいっぱいいました。





「殿上の儀」が終わったので、境内を少し見て回りました。本殿の前に上が刀になっている旗があったので、拡大してみました。これは四神旗というようです。



境内にはだんだん人が集まってきていました。



この日は雪がちらちらする寒い日だったので、焚火で少し暖まりました。





この後、鳥居の方に行ってみました。



道には「砂かけ祭」の旗が立っていました。



午後からの「庭上の儀」については、廣瀬大社の説明板に写真が載っていました。

そろそろ帰ろうかなと思ったのは11時半ごろでした。驚いたことに、廣瀬神社の前の道は駐車場待ちの車の長い列ができていました。この道は狭いので、帰る車も列をなして止まったままです。神社の駐車場も、付近の会社の駐車場もいっぱいで、途中の道は私道なのか、一車線は駐車に使われていました。ともかくものすごい車の数です。仕方なく、カーナビを使って、別の道から帰ることにしたのですが、これが正解でした。太い道であっという間に家に着きました。

廣瀬大社の砂かけ祭 殿上の儀1

2025-02-11 21:15:16 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1426弾


今日(2月11日)は廣瀬大社の砂かけ祭の日です。テレビでよく報道されるのですが、まだ、行ったことがなかったので、ちょっと行ってみることにしました。砂かけ祭は正式にはお田植祭といいます。この日は午前十時半から「殿上(でんじょう)の儀」があり、午後二時からは「庭上(ていじょう)の儀」があります。「庭上の儀」は砂をかけあうので、砂まみれになるのは大変だろうと思って、午前中の「殿上の儀」だけ行くことにしました。





廣瀬神社にはちょうど10時ごろに着きました。午後の「庭上の儀」は人がいっぱいだろうけど、午前中の「殿上の儀」は拝殿の中で行われる神事なので、空いているだろうと思っていました。でも、廣瀬大社に近づくと、道々、交通整理の人が何人も立っています。廣瀬大社に着くと、いつもの神社の駐車場ではなく、奥の会社の駐車場に誘導されました。そこもかなりいっぱいになっているので、少し驚きました。参道には屋台がずらっと並んでいました。





鳥居と扁額です。廣瀬社と書かれています。廣瀬大社は日本書紀や養老律令などにも出てくる古い神社で、龍田の風神・廣瀬の水神として並び称された神社です。





鳥居をくぐって境内に入ると中央に結構な量の砂が置かれていました。この砂をかけあうのでしょうね。







境内の中央には橘の木があり、実がいっぱいなっていました。廣瀬大社の縁起によると、「崇神天皇9年(前89年)廣瀬の河合の里長に御信託があり、沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えた。このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる。」ということで、橘は廣瀬大社にとっては大切な木になっています。



こちらが拝殿です。



拝殿から本殿の方向を見てみました。



拝殿の中には椅子が多数並んでいました。





殿上の儀は午前十時半からなのですが、15分前頃に巫女さん二人が拝殿内に入りました。



まだ、時間があるので、少し境内を見て歩きました。「すな丸くんがいっぱい!」と書いた台が置かれていました。抽選会があるようです。



拝殿の向かって右にこんな砂山が作られていました。



砂を袋に入れて持って帰ってもよいようです。厄除けに家の庭の四隅に撒けばよいとのことですが、うちは庭がないので、今回はパスです。



申し込むと1,000円で松苗と田餅もいただけるようだったのですが、これもパスしました。



本殿を撮ってみました。





ついでに拝殿側から狛犬も撮りました。変わった形をしていますね。



神事はまもなく始まるはずですが、まだ、巫女さんが座っているだけです。



5分前になると宮司さんがやってきました。



拝殿では巫女さんの横に男性が二人座りました。巫女さんを含め、この四人はお田植の所作で重要な役割を果たします。巫女さんは田植を行う早乙女役。白い装束の方は苗代作りや田作りを行います。黒い装束の方は牛の役です。



そして、「殿上の儀」が始まりました。初めに、宮司さんの祝詞奏上が本殿内で行われました。





それが終わると、巫女舞です。この後、お田植の所作になるのですが、少し長くなったので、次回に回します。

達磨寺見学

2025-02-04 20:54:12 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1419弾


2月1日、奈良県王寺町にある達磨寺に行きました。これまで行ったことがなかったので、一度は行ってみようと思っていたのですが、ちょうど節分豆まきがあるというので行ってみました。節分豆まきについてはすでに出したので、今回は達磨寺についてです。





本堂の前にはこんな茅の輪くぐりがありました。茅の輪くぐりは普通「夏越 (なごし) の節句」に身を清め、災いを防ぐために行われるので、今頃は珍しいです。





これが本堂です。









本堂内は資料展示室になっていて、自由に見ることができ、また、撮影もOKとのことでした。今回はボランティアの方がおられたので、説明をしていただきました。







ご本尊は三体あって、中央に木造千手観音坐像があります。パンフレットによると、もとは500手あったそうですが、現状で392手が残っているそうです。室町時代の作で、王寺町指定文化財になっています。





向かって左側には木造聖徳太子坐像があります。これは鎌倉時代の作で、国指定重要文化財になっています。銘文から建治3年(1277年)に院恵・院道が製作したことがわかるそうです。もともと衣(袍)は緋色に着色されていたと推定されています。





向かって右側には木造達磨坐像がありました。室町時代の作で、やはり国指定重要文化財になっています。これも衣が朱色に塗られていたようです。





達磨寺本堂は達磨寺3号墳という古墳の上に建てられています。本堂建て替えのときに発掘調査をしたところ、本堂の地下に石室があり、写真のような宝篋印塔が見つかり、中に水晶製五輪塔形舎利容器と仏舎利が見つかったとのことです。その展示がありました。





これは達磨大師画像で、上に歌が書かれていました。永享三年三月五日 征夷大将軍源朝臣書之の名があるので、1431年に書かれたということのようです。





外には問答石というのがありました。パンフレットによると、実は、達磨寺の由来は、日本書紀推古天皇21年12月、聖徳太子が片岡に来られた時、一人の人が飢餓に苦しんでいたとの記述と関係しています。太子はこれを憐れんで、食べ物と着ている衣服を与え、和歌を一首詠んで去られたとのことです。翌日、様子を見させるとその人は亡くなっていたので、厚く葬らせました。太子はその人は普通の人ではなく、きっと聖者だろうと言って、使者を遣わし見に行かせると、墓は動いてはいなかったのですが、屍はなくなり、衣服だけが畳んで棺の上にあったそうです。そこで、また、使者を遣わせて、その衣服を取ってこさせ、以前のようにお召しになったとのことです。この話は片岡山飢人説話として、後世に伝わっていくのですが、奈良時代後半になって、聖徳太子慧思託生説と一緒になったようです。つまり、聖徳太子は達磨の弟子である慧思(えし)の生まれ変わりであるという説です。そこで、飢餓に苦しんでいた人はおそらく達磨本人であろうということになったようです。先ほどの達磨大師画像の上の歌は太子の和歌に対する返歌として後に伝えられたものです。問答石とは飢えた人のいたところと太子の場所を示したものだそうです。



これは高さが1.8mある八角形の達磨寺中興記石幢で、達磨寺のHPによると、「達磨寺の中興を成し遂げた南峯和尚が、南禅寺の惟肖和尚に頼んで永享7年(1435)9月に記してもらった達磨寺中興記を、南峯和尚が一文を添えて石幢としたのがこの中興記幢である。」とのことです。





達磨寺の境内には1号墳から3号墳という3つの古墳があるのですが、これは1号墳の石室です。奈良県歴史文化資源データベースによると、石室内部には石棺の一部が残っていて、6世紀後半の須恵器が出土したので、そのころに築造された古墳とみられているそうです。また、石室が小さいので聖徳太子の飼っていた犬の雪丸の墓だと伝えられ、また、この石室から法隆寺まで続く地下道があるとも伝えられているようです。





最後はその雪丸塚です。パンフレットによると、雪丸は、「人の言葉が理解でき、お経を読み、臨終の際には『自分を達磨塚の丑寅に葬るように』と遺言した」そうです。雪丸の墓は私の住んでいる大和郡山市にもあるので、ボランティアの人に出典について聞いてみたのですが、よくわからないそうです。

雑談)日本書紀の片岡山飢人説話には達磨という話は出てこないのに、どうして飢人が達磨という話になったのか疑問になったので、少し論文[1]やその中で引用されている古文書を調べてみました。達磨の話が初めて出てきたのは「七代記」という書物のようですが、現存していません。ただ、いろいろな文書に引用されているので、それらを総合すると、中国の「大唐国衡州道場釈思禅師七代記」に、達磨が慧思に東方での教化を勧め、達磨自身は一足先に東方に去ったことが記されているそうです。慧思は聖徳太子に生まれ変わり、達磨は日本に渡来したことが示唆されるので、この飢人は「達磨か」と「七代記」に書かれていたようです。その後、この話が断定的に「達磨なり」と変化していったようです。なお、「七代記」は宝亀二年(771)に天王寺僧敬明(もしくは教明)によって撰述されたものだそうです。
[1] 追塩千尋、「片岡山飢人説話と大和達磨寺」、年報新人文学 99-45, (2012)。

達磨寺の節分豆まき

2025-02-02 20:35:02 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第1417弾


2月1日に奈良県王寺町にある達磨寺に行ってみました。一度は行ってみたいと思っていたのですが、ちょうど節分豆まきがあるというので2月1日に行くことにしました。豆まきは11時、13時、14時の3回あるというので、13時に間に合うようにJR大和路線に乗って王寺駅で降りました。



駅舎内から犬の足跡がついていました。私はてっきり、ペットを連れて歩くときはこの道を通ってほしいという意味かと思っていたのですが、外に出ても、こんな犬の足跡がついています。



この看板で分かりました。聖徳太子の愛犬雪丸の足跡だったのです。





観光案内図を見ると、これは雪丸ロードといって、この跡についていくと、達磨寺に到着できるという意味でした。



横断歩道を渡っても相変わらず足跡が続いています。



そして、葛下(かつげ)川に着きました。



土手の道に立札が立っていました。「あいさつ+1ストリート」と書かれています。ネットで調べると、「あいさつ」の後にプラス「ひとこと」を添えてという、「あいさつ+1運動」が行われているようです。



対岸には時計台が見えます。これもネットで調べました。「和(やわらぎ)の鐘」といって、聖徳太子の十七条憲法にある「以和為貴(和を以て貴しと為す)」に因んで、平成元年に設置されたとのことです。



橋を渡ると、そこに雪丸像がありました。



この先、もう少し歩いてから道を渡ると、旗がたくさん立っているところが見えました。



「節分豆まき 達磨寺」と書かれているので、そこが達磨寺なのでしょう。





これが達磨寺西門で、ここから中に入ることができます。その入り口にまた雪丸が立っていました。



達磨寺に着いたのが12時59分。ちょうど豆まきが始まる所でした。ステージの上でいろいろな説明がなされています。



下には天平装束の人も何人かいました。



そのうち、王寺町の公式マスコットキャラクターの雪丸もステージに上がりました。羽織袴の正装をしています。





豆まきが始まりました。



かなり高くまで撒かれているのですが、我々のいるところまでは到底届きません。



仕方がないので、雪丸の姿をもう一度撮りました。

この後、達磨寺の本堂や境内の見学をしたのですが、それについては次回に回します。