奈良散策 第997弾
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で開かれている特別展「太安萬侶」が26日までだったので、急遽、前日の25日に行くことにしました。太安萬侶は古事記の編纂者として有名なのですが、養老7年の723年に亡くなってから今年で1300年に当たるので、特別展が開かれたようです。橿原考古学研究所附属博物館は3月に来たので、今年2回目になります。
博物館は大和郡山からだと車で40分くらいかかるところにあります。入り口にはこんな看板が取り付けられていました。
これは博物館の入り口です。会期終了の前日の土曜日なので、混んでいるかなと思ったのですが、駐車場にはまだいくつか空きがありました。
博物館の中に入ったところです。「太安萬侶」の大きな幕が置かれていました。
もう少し奥に行ったところです。この右側に入り口があります。入場料は一人800円。入り口で写真を撮ってもよいかと聞いてみました。フラッシュは禁止で、フラッシュ無しだったら全体を撮るのは構わないが、個別の展示は個人的な利用に限ってほしい。また、撮影禁止もあるので気を付けてくださいとのことでした。それで、展示場全体を撮ったものだけを載せることにします。
入り口にあったパネルです。
展示場は2部屋になっていて、第一展示場の入り口です。
これは中に入ったところです。
そして、こちらは第二展示場です。太安萬侶は奈良県田原本町多の出身で、多氏一族の子孫です。多にはその中心となる多神社(多坐弥志理都⽐古神社)があります。太安萬侶はこの近傍に埋葬されていると思われていたのですが、昭和54年、奈良市此瀬町という奈良市の東のはずれの茶畑の中で、まったくの偶然に、火葬墓と銅製墓誌が見つかりました。墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」と書かれていたので、太安萬侶の墓であることが分かりました。「続日本紀」にも死亡したのが養老7(723年)年7月と記されていたので墓誌と一致しています。天武・持統天皇は火葬されていたので、当時、火葬は普通に行われていたと考えられます。この墓誌には住所も書かれていて、平城京の左京四條四坊で現在のJR奈良駅の西側にあったこと、位階が従四位下であり行政府の長官か次官にあたる中級貴族であったことなどがうかがえます。なぜ、これほどまでに離れた場所に埋葬されたのかについては分かっていません。ただ、木櫃は木炭の中に埋められていて、この木炭の年輪と炭素14年代測定法を併用したウィグルマッチング法で調べてみると、木炭の年代が746~766年であることが分かりました。つまり、亡くなった年とは約20年のずれが出ています。それで、この墓は改葬されたのではないかと考えられています。
博物館を出て、周りをちょっと歩いてみました。道を挟んだ斜め南側に橿原考古学研究所の建物がありました。
交差点から見ると、畝傍山がすぐそばに見えました。