音楽会もいい。美術展もいい。演劇もいい。(ちょっと質が違うが、社寺めぐりもいい。)常識的な美しさだけでなく、個性的な美を求めた芸術に触れるのもいい。
しかし、映画を観るという行為は、私にとって‘私自身でいられる時間’なのだ。
好きだからといって、片っ端から上映されたものを見るわけではない。
町を歩いていて、時間があったりすると、ふらりと映画館へ入ってしまう。
あるいは、見たいと思うものは、朝一で出かけて見てしまう。
そういった気ままさや我儘さが許されるところも好きな一因かも知れない。
そしてひとりで見るのがいい。
没入ってわけだ。
知らない人のなかで、思い切り泣き笑い動揺し感動し、あるときはつまらないのを我慢しながら、最後まで見続ける。
実は、はじまる前に延々流される予告編も嫌いじゃない。
館内に入った時にはからだにベッタリついていた日常が、予告編の時間で、次第にそぎ落とされていくのがまたたまらない快感だ。
それは映画を受け容れる仕度が整ってくる時間だから貴重なのかもしれない。
昔は、いっしょにニュースも流れていた。
そのニュースはテレビで見るのとは違っていたように思う。
日常茶飯事化した感覚で見てしまうテレビニュースとは一線を画していた。
事件が、戦争が、政治が、喜ばしいことが、重く熱く人間の尊厳のうちに伝えられたような印象があった。
そして映画の導入は、こちら側から向こう側へ誘ってくれる独特の手法があるような気がする。導入こそ監督の腕なのだから。
何かが始まる予感に、心の重心が下がってからだ全身がスクリーンに溶け込み、全編を見終わって映画館を出たときには、再び日常に引き戻されるまで、一連の時の流れのリズムが面白さを決定している。
さて、「おくりびと」が、第81回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞候補となったと報じられた。
賞をいただけたら嬉しいね~。
しかし、映画を観るという行為は、私にとって‘私自身でいられる時間’なのだ。
好きだからといって、片っ端から上映されたものを見るわけではない。
町を歩いていて、時間があったりすると、ふらりと映画館へ入ってしまう。
あるいは、見たいと思うものは、朝一で出かけて見てしまう。
そういった気ままさや我儘さが許されるところも好きな一因かも知れない。
そしてひとりで見るのがいい。
没入ってわけだ。
知らない人のなかで、思い切り泣き笑い動揺し感動し、あるときはつまらないのを我慢しながら、最後まで見続ける。
実は、はじまる前に延々流される予告編も嫌いじゃない。
館内に入った時にはからだにベッタリついていた日常が、予告編の時間で、次第にそぎ落とされていくのがまたたまらない快感だ。
それは映画を受け容れる仕度が整ってくる時間だから貴重なのかもしれない。
昔は、いっしょにニュースも流れていた。
そのニュースはテレビで見るのとは違っていたように思う。
日常茶飯事化した感覚で見てしまうテレビニュースとは一線を画していた。
事件が、戦争が、政治が、喜ばしいことが、重く熱く人間の尊厳のうちに伝えられたような印象があった。
そして映画の導入は、こちら側から向こう側へ誘ってくれる独特の手法があるような気がする。導入こそ監督の腕なのだから。
何かが始まる予感に、心の重心が下がってからだ全身がスクリーンに溶け込み、全編を見終わって映画館を出たときには、再び日常に引き戻されるまで、一連の時の流れのリズムが面白さを決定している。
さて、「おくりびと」が、第81回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞候補となったと報じられた。
賞をいただけたら嬉しいね~。