羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「骨」のつづき

2017年09月23日 04時53分06秒 | Weblog
 美しい景色、落ち着いた男性のナレーションにうっとりして、いいなぁ〜・いってみたなぁ〜と心が揺れているうちに
「そうだ京都、行こう JR東海」。
 今回の永代供養の行く先は、この京都なのに、コマーシャルのようなわけに行かない。
 最後に埋められる骨の行方はいかほどに……。

 骨には善人も悪人も、その印はない。
 骨には身内も赤の他人も、その違いはない。
 しかし、骨ってなんだ!
 
 こんなに拘る思いを呼び起こすのは、一体ずつの骨壺がいけないのか。
 ミトワさんは水上勉さんからもらった骨壺に入った。
 野口先生は、生前に用意してあった骨壺には入れなかった。理由は簡単。すべての骨をおさめるには小さすぎたから。
 結局、焼かれて出て来た骨の量が多すぎて、最後は砕いてなんとかおさめた。
 実父は、病気ばかりしていて、65歳で罹患した病いではステロイドが最後まで離せず、亡くなる前の5年間は抗癌剤投与を受けていたにもかかわらず真っ白で美しい骨が骨壺を一杯に満たした。

 二人を看取ってこのかた、灰にしてしかるべき河に流す文化をうらやましいと思っていた。
 死期を悟ったら、死を待つ人の家にからだを横たえる。それもいいと、観念的に肯定していた。
 しかし、変わった。
 私は変わってしまった。
 死の文化が違う、と。

 先祖代々の墓が罪作りなのか。
 土葬だったらもっと生々しい感情が、情念が、恨みつらみが、おぞましいほどに渦巻くのか。

 世間では、夫や舅と同じ墓には入りたくない、という女性も少ない。
 逆にあの人と一緒の墓にはいりたい……が、それは許されない関係もある。せめて隣に墓をつくってもらいたい、という人もいる。

 いやはや、身内や愛する人や憎む人の死というのは理路整然とはいかない。
 死の象徴、骨って何だ?
 いっそ、逆の道を辿ってみようか。
 骨に肉付けをしてみる。
 血管や神経を通してみる。
 内臓を加え、皮膚で覆う。
 毛髪があり、体毛があり、爪をはやす。
 現代人なら最後に頭蓋骨におさまっている脳に恭しく祈りを捧げる。
 それで自分のからだになるのか。
 これが、ならない、のである。

 骨はどこまでも骨で、それ以上でもなくそれ以下でもない。

 あぁ〜、狂いそうだ。
 どうでもよくなってくる。
 しかし、骨になるまで大変だ。
 骨になってからも大変だ。
 愛が試されるからだ。

 骨になれば善人も悪人もない。
 静かなものだ。
 しかし、静かな骨が、急に饒舌になる時がある。

 骨は愛の姿を見せてくれるのか。
 墓から取り出して手元に置く人がいた。
 死に納得できずに、埋葬せずに何年も手元においていた人がいた。

 どんなに愛していても、骨まで愛することなんてできない、と思っていた。
 案外、そうでないのかもしれない。

 葬儀と埋葬とは何だろう。
 自然な涙。
 人は祈りの言葉を捧げ、花を供する。
 自分にはあまり馴染みがないと思い込んでいた死の文化が、かなりしぶとくからだの奥に伝えられていたことに驚く。

 母を自宅で介護している時は、考える余裕がなかった。
 野口先生を見送り、父も送り、徒歩で15分のところで母はまだ生きている。
 それが嬉しい、と思っている。
 その母との逆縁を考えて、今の問いかけがある。

 こうして、私は、雨の朝の静けさのなかで、じっと命の行方をみているのか。
 こうして、私は、雨の朝の静けさのなかで、自分がこれからなし得なければならないことを考えているのか。

 一人ひとりの物語が、一体の骨に潜んでいることに愛おしさが募る。
 はじめてのことだ。
 骨には救いがある。
 善人・悪人もなくすべて同じだからだ。

「仕切り直しや!」
 雨が上がってから、考えなおそう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする