養老孟司著『遺言』は、ご自身の幹の部分を示した憲法のようなもの、と日経新聞のインタビューに答えている。
先日、朝日カルチャー日曜クラスのレッスンで、「野口体操はアートだ」という言葉が伝えられたのは、養老インタビューの記事がきっかけだった。
と言われても、何のことやら?疑問に思われるだろう。
私とて、論理的に、いや手短に書きたいところだがむずかしい。
忘備録として、書き始めてみようと思う。
インタビューに答えて、養老先生は次のように語っておられる。
《感覚優位の動物に対して「人間は意識に従っており、現代は感覚を使わなくなる方向へと向かっている」》
感覚は「違い」を見つけそれに従う。
一方の意識は「同じ」にまとめる働きする。
感覚と意識は全くベクトルの向きが真逆なのである。
そこで引いてくる養老先生の例えはわかりやすい。
ここにリンゴが3つあったとする。
3つののリンゴは、それぞれ違うにもかかわらず、3つとも「同じ」リンゴとして認識する。
これが意識の働きでそのものある、とおっしゃる。
では、目先をズラして、野口に話を振ってみる。
野口体操は、「感覚こそ力」なのである、から始めたい。
そのことは野口にとっては、体操に限らない。
例えば、感覚優位傾向に、こんなエピソードがある。
朝日カルチャーセンターがある新宿住友ビルは、開業当時から相当に長い間、地下街は日本有数”宝石の街”であった。
多くの宝石店が入っていて、みごとな宝飾品が並べられていた。
当時は48階でレッスンをしていた。
レッスンが終わって、理由はわからないが、帰りのエレベーターは一階ではなく、地下まで降りて、エスカレーターで一階に上がってビルから出る。
当然、宝石街を通ることになる。
野口は、その頃からすでに鉱物に関心を深めていた。
そこで、宝石店の中でも「ラピスラズリ」だけを扱っている店に通い続けた。
店主はラピスラズリ信仰を持っている人で、砂漠の夜空を写し取ったようだ、と形容される”アフガニスタン産”の選りすぐった石を収集していた。
「これを身につけていると健康になれる・幸せになれる」というパワーストーン信仰だったのだ。
店主と昵懇になった野口は、ある日のこと百八つの数珠を注文した。
大喜びした店主は、108個のラピスラズリ全てが、瑠璃色・一色で揃った良質の玉で作る約束をした。
そこで、野口曰く
「瑠璃色の中に黄鉄鉱の銀色と金色の混ざり合ったような部分があるのがいいんです」
そう主張して譲らない。
店主との間に気まずい空気が流れた場面に、私は遭遇した。
しばらくして出来上がってきたものは、瑠璃色に黄鉄鉱の色や他の鉱物の白が少し混じっている野口好みの数珠であった。
流石にお客の要望を聞くのが御商売である、と私は何となくおかしかったことを記憶している。
実は、その後、アフガニスタン産のラピスラズリは、輸入されなくなった。
皮肉なことに、他の地域からのラピスが入ってくるようになって、価格が驚くほど下がったのである。
もちろん野口が関わっていた新宿で開催される「ミネラルフェア」でも、多くのラピスラズリが出品されるようになった。
あの人にも、この人にも、大好きなラピスをプレゼントしよう。
野口は心踊らせた。
相手を思い浮かべながら、ラピスの標本を増やしていった。
さて、それからが大変だった。
手に入れたラピスを並べて、どれを誰にあげるのか、思案を始めた。
いくつもの石を、手にとっているうちに、次第に目利きになってしまう。
微妙な違いに気づき、目利きになればなるほどプレゼントへの意欲が失われていった。
手放せなくなっていくのである。
結局、手元に同じようなラピスラズリが溜まっていく結果を招いた。
「自然のものには、違いがあるのよ。良い意味で不揃いで不純物がいい風景を石に描き出すんだ」
それが格別の味わいとなる。
さて、再び、養老先生の話に戻そう。
《人工的な建造物が立ち並ぶ都会は意識の塊だ。「『同じ』であることに立脚するから『違い』を前提とするアートが解毒剤として盛んになる」》
都会の人間が鉱物に魅せられるのは、自然が作り出す一つ一つの微妙な違いがあることで、鉱物や石にアートに近い感動を覚えるからに違いない。
『自然直伝』『感覚こそ力』の野口体操も同様だ!
好意的な方から言われることを思い出した。
「野口体操は芸術なのよ」
同じ価値にまとめ上げようとしない「個の自由を求める体操」に居心地の良さを感じる人は少なからずいる、というわけだ。
野口体操の特徴を挙げれば・・・・・
一方向(全体主義)に、意識をまとめるのに役立つ制服はなし。
動きを外側のリズムに合わせるための音楽はなし。
たった一つの理想の「型」を求めないので鏡はなし。
「人とは、微妙に違っていいい!」
人は自然の存在なのだから。
定義は一つではない。
数値化、計測化、平均値を頼りとする理想の身体(肉体)を求めてはいない。
それぞれが自分の価値観を持つことが大事なのだ、という姿勢を野口は貫いた。
枕が長すぎる落語のようだ。
ここからが本題。
せっかくお付き合いいただいたのだから、最後までお読みいただきたい。
先日の日曜日には、ここまで書いてきた”違いがわかる男・野口三千三”の収集傾向がそのまま現れている貨幣コレクションを持って行った。
実際に、見てもらい、触ってもらい、舐めることだけは控えていただくが、感覚を総動員してで味わってもらった。
シェルマネー、貨幣代わりの古代ガラスネックレース、トルコ石の石貨、中国・オーストラリア・日本の記念硬貨等々。
見た目にはバラバラであるけれど働きは同じ、”貨幣”である。
時代も国も異なる多様な価値を秘める、紛れもない貨幣なのである。
どなたも思もう。
「たった一言、”貨幣”といいう言葉でくくるには多様性がありすぎる」
野口の集めたものだから、そつなく貨幣を揃えているのではない。
いわゆる貨幣コレクションとは異なっている。
しかし、それぞれがもつ意味は、価値の多様性を示している”貨幣”に違いなかった。
そういう集め方を、野口はしているのである。
コレクションのためのコレクションではなく「人間にとって貨幣とは何か」を探るのが主眼である。
もっと言えば、野口自身の身体感覚を通して、はかられた貨幣なのである。
身体感覚をフル回転させるところに体操につながる意味が潜んでいる。
貨幣を一つ一つ味わうことで、「感覚こそ力」をそれぞれが実感するのである。
「野口体操はアートである!」
居合わせた方々は、体操に引きつけて、それを実感として得られたような反応をくださった。
「これがなんで体操?」
その疑問は、次第に納得に変わっていった。
養老先生のおかげでもある。
「感覚は違い」を、「意識は同じ」を、という言葉の意味が腑に落ちたのだ。
中国殷代のキイロタカラガイ・シェルマネーから、石貨、硬貨。
そしてすでに始まりつつあるデジタルマネーまでの話に照らし合わせることで、それぞれの自分自身のからだと、体操の見方が変わったようだ。
繰り返します。
「野口体操はアートだ」
よし、それでいこう、と私は密かに心に誓った。
平成30年1月21日の日曜日のことだった。
長々と書いた本日のブログは、1月20日の続きであります。
先日、朝日カルチャー日曜クラスのレッスンで、「野口体操はアートだ」という言葉が伝えられたのは、養老インタビューの記事がきっかけだった。
と言われても、何のことやら?疑問に思われるだろう。
私とて、論理的に、いや手短に書きたいところだがむずかしい。
忘備録として、書き始めてみようと思う。
インタビューに答えて、養老先生は次のように語っておられる。
《感覚優位の動物に対して「人間は意識に従っており、現代は感覚を使わなくなる方向へと向かっている」》
感覚は「違い」を見つけそれに従う。
一方の意識は「同じ」にまとめる働きする。
感覚と意識は全くベクトルの向きが真逆なのである。
そこで引いてくる養老先生の例えはわかりやすい。
ここにリンゴが3つあったとする。
3つののリンゴは、それぞれ違うにもかかわらず、3つとも「同じ」リンゴとして認識する。
これが意識の働きでそのものある、とおっしゃる。
では、目先をズラして、野口に話を振ってみる。
野口体操は、「感覚こそ力」なのである、から始めたい。
そのことは野口にとっては、体操に限らない。
例えば、感覚優位傾向に、こんなエピソードがある。
朝日カルチャーセンターがある新宿住友ビルは、開業当時から相当に長い間、地下街は日本有数”宝石の街”であった。
多くの宝石店が入っていて、みごとな宝飾品が並べられていた。
当時は48階でレッスンをしていた。
レッスンが終わって、理由はわからないが、帰りのエレベーターは一階ではなく、地下まで降りて、エスカレーターで一階に上がってビルから出る。
当然、宝石街を通ることになる。
野口は、その頃からすでに鉱物に関心を深めていた。
そこで、宝石店の中でも「ラピスラズリ」だけを扱っている店に通い続けた。
店主はラピスラズリ信仰を持っている人で、砂漠の夜空を写し取ったようだ、と形容される”アフガニスタン産”の選りすぐった石を収集していた。
「これを身につけていると健康になれる・幸せになれる」というパワーストーン信仰だったのだ。
店主と昵懇になった野口は、ある日のこと百八つの数珠を注文した。
大喜びした店主は、108個のラピスラズリ全てが、瑠璃色・一色で揃った良質の玉で作る約束をした。
そこで、野口曰く
「瑠璃色の中に黄鉄鉱の銀色と金色の混ざり合ったような部分があるのがいいんです」
そう主張して譲らない。
店主との間に気まずい空気が流れた場面に、私は遭遇した。
しばらくして出来上がってきたものは、瑠璃色に黄鉄鉱の色や他の鉱物の白が少し混じっている野口好みの数珠であった。
流石にお客の要望を聞くのが御商売である、と私は何となくおかしかったことを記憶している。
実は、その後、アフガニスタン産のラピスラズリは、輸入されなくなった。
皮肉なことに、他の地域からのラピスが入ってくるようになって、価格が驚くほど下がったのである。
もちろん野口が関わっていた新宿で開催される「ミネラルフェア」でも、多くのラピスラズリが出品されるようになった。
あの人にも、この人にも、大好きなラピスをプレゼントしよう。
野口は心踊らせた。
相手を思い浮かべながら、ラピスの標本を増やしていった。
さて、それからが大変だった。
手に入れたラピスを並べて、どれを誰にあげるのか、思案を始めた。
いくつもの石を、手にとっているうちに、次第に目利きになってしまう。
微妙な違いに気づき、目利きになればなるほどプレゼントへの意欲が失われていった。
手放せなくなっていくのである。
結局、手元に同じようなラピスラズリが溜まっていく結果を招いた。
「自然のものには、違いがあるのよ。良い意味で不揃いで不純物がいい風景を石に描き出すんだ」
それが格別の味わいとなる。
さて、再び、養老先生の話に戻そう。
《人工的な建造物が立ち並ぶ都会は意識の塊だ。「『同じ』であることに立脚するから『違い』を前提とするアートが解毒剤として盛んになる」》
都会の人間が鉱物に魅せられるのは、自然が作り出す一つ一つの微妙な違いがあることで、鉱物や石にアートに近い感動を覚えるからに違いない。
『自然直伝』『感覚こそ力』の野口体操も同様だ!
好意的な方から言われることを思い出した。
「野口体操は芸術なのよ」
同じ価値にまとめ上げようとしない「個の自由を求める体操」に居心地の良さを感じる人は少なからずいる、というわけだ。
野口体操の特徴を挙げれば・・・・・
一方向(全体主義)に、意識をまとめるのに役立つ制服はなし。
動きを外側のリズムに合わせるための音楽はなし。
たった一つの理想の「型」を求めないので鏡はなし。
「人とは、微妙に違っていいい!」
人は自然の存在なのだから。
定義は一つではない。
数値化、計測化、平均値を頼りとする理想の身体(肉体)を求めてはいない。
それぞれが自分の価値観を持つことが大事なのだ、という姿勢を野口は貫いた。
枕が長すぎる落語のようだ。
ここからが本題。
せっかくお付き合いいただいたのだから、最後までお読みいただきたい。
先日の日曜日には、ここまで書いてきた”違いがわかる男・野口三千三”の収集傾向がそのまま現れている貨幣コレクションを持って行った。
実際に、見てもらい、触ってもらい、舐めることだけは控えていただくが、感覚を総動員してで味わってもらった。
シェルマネー、貨幣代わりの古代ガラスネックレース、トルコ石の石貨、中国・オーストラリア・日本の記念硬貨等々。
見た目にはバラバラであるけれど働きは同じ、”貨幣”である。
時代も国も異なる多様な価値を秘める、紛れもない貨幣なのである。
どなたも思もう。
「たった一言、”貨幣”といいう言葉でくくるには多様性がありすぎる」
野口の集めたものだから、そつなく貨幣を揃えているのではない。
いわゆる貨幣コレクションとは異なっている。
しかし、それぞれがもつ意味は、価値の多様性を示している”貨幣”に違いなかった。
そういう集め方を、野口はしているのである。
コレクションのためのコレクションではなく「人間にとって貨幣とは何か」を探るのが主眼である。
もっと言えば、野口自身の身体感覚を通して、はかられた貨幣なのである。
身体感覚をフル回転させるところに体操につながる意味が潜んでいる。
貨幣を一つ一つ味わうことで、「感覚こそ力」をそれぞれが実感するのである。
「野口体操はアートである!」
居合わせた方々は、体操に引きつけて、それを実感として得られたような反応をくださった。
「これがなんで体操?」
その疑問は、次第に納得に変わっていった。
養老先生のおかげでもある。
「感覚は違い」を、「意識は同じ」を、という言葉の意味が腑に落ちたのだ。
中国殷代のキイロタカラガイ・シェルマネーから、石貨、硬貨。
そしてすでに始まりつつあるデジタルマネーまでの話に照らし合わせることで、それぞれの自分自身のからだと、体操の見方が変わったようだ。
繰り返します。
「野口体操はアートだ」
よし、それでいこう、と私は密かに心に誓った。
平成30年1月21日の日曜日のことだった。
長々と書いた本日のブログは、1月20日の続きであります。