昨日は、予告なしにお休みをしてしまった。
朝から、朝日カルチャーでの二つの授業と取材の準備に追われていた。
午後からは一つの授業をすませ、すぐさま次の教室に移動して板書もそこそこに、テレビクルーが入った授業ということで、ハイテンションのまま一日が過ぎてしまった。
この場をかりて、昨日レッスンにご参加されたお一人おひとりに、お礼をお伝えしておきたい。
朝日カルチャー土曜日クラスの皆様が、大人の対応をしてくださってありがたかった。
雑誌の取材とは桁違いに大事の取材だったこと。
はじめてのことなので予想がつかなかったのでご迷惑をおかけした。
しかし、こうした経験をしてみると、テレビ番組が作られていく生の現場を体験することで、テレビの見方が理屈でなく変わってくれる一つのきっかけになるのではないかと思っている。
今朝、目覚めて思ったことがある。
それは、野口体操という組織があるわけでもなし、道場があるわけでもなし、形あるものはどこにもないのだけれど、野口三千三先生から引き継いだ「野口体操」という名の遺産はすごいものだという実感だ。
思えば亡くなる10年前に「野口三千三授業記録の会」をはじめて、先生の記録を残してきたのだが、そのときそうした行動を促したものは「野口先生の思想と野口体操を残したい」というたった一つの思いだった。
そして、先生を失って途方にくれた。
「これからどうなるのだろう」
まったく予測も展望もなく歩き始めたが、今、思いもかけない展開のなかに野口体操が立ち位置を見つけ始めているような気がしてならない。
先生没後の私の思いは、それほど複雑ではなかった。
「せっかく野口先生の記録を残してきたのだがら、それを少しでも活かすためには、ある程度社会的に認知されていなければ、残した意味がなくなるのではないか」
そしてもう一つは、「野口三千三授業記録」の活動に、誠心誠意かかわってくださった佐治嘉隆さんをはじめ多くのみなさんと、形のない野口体操を「いい在り方」で、共有していきたい。その上で、次の世代に伝えていきたいと言う思いだった。
そうした理由から、外からいただく仕事はお断りせずに、できるだけ開かれた在り方をしてきたつもりだった。つもりではなく、そうしてきたのだと思う。
ここでもう一度、足元を確かめてみたいと思っている。
すると立ち返る時は、平成10年の3月である。
先生のお通夜の晩、鶯谷・上野一帯は桜色に染められ仄かに明るかった。そして翌日の最後のお別れの日は、ご遺体を載せた車にしたがって町屋まで先生を守りながら続き、車窓から満開の櫻がはらはらと散る様を、無心に見つめていた自分がいた。
その日から過ぎていった8年の歳月を、ゆっくり手繰り寄せてみたいと思っている。
30日、「朝は、楽しく!」の本番が終わるまで、しばし、時を戻さずにということになりそうだが。
朝から、朝日カルチャーでの二つの授業と取材の準備に追われていた。
午後からは一つの授業をすませ、すぐさま次の教室に移動して板書もそこそこに、テレビクルーが入った授業ということで、ハイテンションのまま一日が過ぎてしまった。
この場をかりて、昨日レッスンにご参加されたお一人おひとりに、お礼をお伝えしておきたい。
朝日カルチャー土曜日クラスの皆様が、大人の対応をしてくださってありがたかった。
雑誌の取材とは桁違いに大事の取材だったこと。
はじめてのことなので予想がつかなかったのでご迷惑をおかけした。
しかし、こうした経験をしてみると、テレビ番組が作られていく生の現場を体験することで、テレビの見方が理屈でなく変わってくれる一つのきっかけになるのではないかと思っている。
今朝、目覚めて思ったことがある。
それは、野口体操という組織があるわけでもなし、道場があるわけでもなし、形あるものはどこにもないのだけれど、野口三千三先生から引き継いだ「野口体操」という名の遺産はすごいものだという実感だ。
思えば亡くなる10年前に「野口三千三授業記録の会」をはじめて、先生の記録を残してきたのだが、そのときそうした行動を促したものは「野口先生の思想と野口体操を残したい」というたった一つの思いだった。
そして、先生を失って途方にくれた。
「これからどうなるのだろう」
まったく予測も展望もなく歩き始めたが、今、思いもかけない展開のなかに野口体操が立ち位置を見つけ始めているような気がしてならない。
先生没後の私の思いは、それほど複雑ではなかった。
「せっかく野口先生の記録を残してきたのだがら、それを少しでも活かすためには、ある程度社会的に認知されていなければ、残した意味がなくなるのではないか」
そしてもう一つは、「野口三千三授業記録」の活動に、誠心誠意かかわってくださった佐治嘉隆さんをはじめ多くのみなさんと、形のない野口体操を「いい在り方」で、共有していきたい。その上で、次の世代に伝えていきたいと言う思いだった。
そうした理由から、外からいただく仕事はお断りせずに、できるだけ開かれた在り方をしてきたつもりだった。つもりではなく、そうしてきたのだと思う。
ここでもう一度、足元を確かめてみたいと思っている。
すると立ち返る時は、平成10年の3月である。
先生のお通夜の晩、鶯谷・上野一帯は桜色に染められ仄かに明るかった。そして翌日の最後のお別れの日は、ご遺体を載せた車にしたがって町屋まで先生を守りながら続き、車窓から満開の櫻がはらはらと散る様を、無心に見つめていた自分がいた。
その日から過ぎていった8年の歳月を、ゆっくり手繰り寄せてみたいと思っている。
30日、「朝は、楽しく!」の本番が終わるまで、しばし、時を戻さずにということになりそうだが。
今日、辿り着いた谷の下のお寺でいろいろお祈りしました。ヒンズーであろうと何だろうと、彼岸はきっとアクセス自由でしょうから、きっと野口先生に届いたことと思います。
それを伺って微かに慰められた…なんて言ってはいけませんね。私は自分の不用意のせいで出席できなかったんですから。
悪い事に、更に今週来週と用事が続いて、3回=4週間の空白…その間に一人で出来ることは何か、真剣に考え中です。