北鎌倉駅にたどり着いた。「円覚寺」までは駅から徒歩2分。午後の強い太陽の光線が全身に容赦なく照り付ける。暑過ぎて、あっという間に汗だらけだ。
500円の入場料を支払って、墓地の場所を訊く。以前来た事があるので、迷う心配は無かった。
炎天下の中、広大な墓地の中を早速彷徨ってしまった。記憶が曖昧だったのだ。
ようやく、ある一画に「無」と大きく書かれた墓標を見つけた。
この小津安二郎監督のお墓だ。お墓の前にはたくさんの酒類が並び、故人が酒好きだった事が窺われた。そして、何故か墓前に「小銭」が供えられている。
前回ここに来た時、小津安二郎監督の向かい側に相対して、木下惠介監督のお墓があった様に記憶していた。
そして、小津監督のお墓の真後ろに、女優の田中絹代さんのお墓があった筈だ。
しかし、二人のお墓が見つからない。茹る様な暑さの中、墓場の中を行ったり来たり。
最初に「木下家之墓」と書いてある墓標を見つけた。しかし、小津安二郎監督のお墓から遠く離れている。
そこから小津監督のお墓の方向に近づいて行くと、もう1つ「木下家之墓」があった。
墓標の横を見ても、書いてある文字が風化していて読めない。
墓標の後ろに卒塔婆があった。その1つに、戒名の中に「木下惠介」の「惠」の1文字が入っている卒塔婆が。
Googleで「木下惠介 戒名」と入れて、検索する。インターネットの接続が非常に悪い。異常な暑さのせいか?「木下家之墓」という墓標の前に座り込んで、「iPhone」と、カラダの中まで焼け焦げる様な暑さの中、半分意識が朦朧としながら格闘を続ける事、10数分。
「あの・・・」
「入場料」を支払った所にいたおばちゃんだ。
「お墓、見つかりましたか?」
おばちゃんに事情を説明した。そしたら、僕が今座っている前にあるお墓が「木下惠介監督のお墓」で間違い無いとの事。
但し、女優・田中絹代のお墓は別の場所にあって、現在は「非公開」だそうだ。
「公開している時にまた来て下さいね!」と言われた。
暑い中、わざわざ急な坂を登って僕を追いかけてくれたおばちゃんに感謝。最近、こんな暖かい「人と人のふれあい」を体験していないもんで、涙が出そうになった。何か、自分の事だけ考えて生きてる奴がこの頃、何故か大量発生している気がしてならない。
「こないだ、木下惠介監督の映画『二十四の瞳』を久しぶりに観て、凄く感動して、木下監督に会いたいなぁーという気持ちでお墓参りに来たんです。これで、その報告も出来たし、木下惠介監督にも会えました!」
僕の言葉におばちゃんは優しく笑みを浮かべて頷いてくれた。
そこは外国人で溢れかえった「鎌倉」の中で、僕とおばちゃんしかいない素晴らしい空間だった。
気持ちがスッーと晴れた気がした。
北鎌倉駅に集う制服姿の女子高生を見ても、その気持ちは変わらなかった。円覚寺のトイレの横の自販機で買ったミネラルウォーターを駅のホームに立ってガブガブ飲んだ。それにしても暑かった。
外国人は「黒澤明のお墓」や「小津安二郎のお墓」には行きたくても、「木下惠介のお墓」に参る人はほとんど居ないだろう。
写真でも分かる通り、「小津安二郎のお墓」にはお酒類など「お供え物」がたくさんあったが、「木下惠介のお墓」の前には何にも、何一つ無かった。だから、僕が墓前でiPhoneで検索していてもスペースはタップリ有ったのだ。
でも、僕は「木下惠介を日本一の監督」だと思っている。
今、僕は横浜駅で「JR線」から「相鉄線」に乗り換え、都心に向かっている。
先日、開通した「相鉄新横浜線」と「東急新横浜線」を乗り潰したいという気持ちに駆られたから。「乗り鉄」なのだ。
これから、「東急東横線」を通り、渋谷経由で「東京メトロ副都心線」に直通乗り入れ、「新宿三丁目駅」で「都営新宿線」に乗り換え、新線新宿経由で「京王線」で帰宅する。
家に着く頃には暗くなっている事だろうなぁー。
夜は、まずお風呂に入って、汗を流し、DVDか HDDレコーダーで映画を観ようかと思っている。
思ったより、「円覚寺」で時間がかかり、「渋谷での栗原恵、迫田さおりのトークショー」には行けなかった。
今日は「スマホの充電」が一時自動的に止まってしまう程、暑かった。「スマホ」が加熱し過ぎない様にそんな機能が付いているのだろう。「スマホの画面」に出た表示を見てビックリした。
でも、人の温かさに触れた素晴らしい1日だった。
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「サブスク」が怖い。毎月定額のお金を支払うと膨大な「音楽」や「映画」、「配信ドラマ」を聴き放題、見放題の「サブスク」。とっても便利なサービスだ。
しかし、「レコード」「CD」「ビデオ」「DVD」を買い続けて来た僕。「形に残して、手元に取っておきたいという強い思い」がある。
「レンタルビデオショップ」があった時代、僕は一度も「延滞」した事が無い。友人には「2年以上もビデオを返し忘れて、何万円もの延滞金」を支払った猛者もいる。
ケチなのか、「延滞金」を払いたくない僕。「1週間レンタル」で借りても、無理して、映画を3本続けて観て、「一泊二日」で返してしまう。じゃあ、より安い「一泊二日コース」で借りればいいのにと思うが、それも自分にプレッシャーをかけている様で嫌なのだ。
「サブスク」。確かに魅力的だ。「こんな曲があるじゃないか!」「観たい映画が見つかった!」とか、メリットは十分感じる。
しかし、ただでさえ「情報過多の社会」を生きている中で、「新しい情報源を増やす事」をやるのが得策なのか、と思う。
例えば、映画に関して言えば、僕らが中学・高校・大学の頃は「ビデオ」も無かった。
映画を観る為には、「映画館に行く」か「テレビの映画劇場」で観るしか無かった。
でも、その「飢餓感」が「感動」を生む。「水曜ロードショー」で「風と共に去りぬ」を初めて放送した時はテレビの前に齧り付いて観た。
「なかなか観られない環境」だから、「感動」もひとしおなのだ。
「音楽」「映画やドラマ」「服のレンタル」「車のレンタル」などなど、今様々な分野で「サブスク」が存在する。
1つ1つに払う金額は少しでも、たくさんの「サブスク」に入れば、預金通帳から「チャリンチャリン」と毎月大きな金額のお金が落ちて行く。
そんな状況では、「1ヶ月、全く使わないサブスク」も出て来るだろう。
僕はそれが怖いのである。
最近は行かないが、高級ホテルの「バイキング形式の料理」。高いお金を払ったのだから、元を取らなきゃと思い、お腹いっぱいでも、まだ食べる。食べて食べて食べまくる。吐きそうになる程。結局、僕は貧乏性なのだろう。
先日、自分の「LINEトーク」に音楽を付けようと思った。こんな「チマチマした作業」が僕は好きなのだ。
「LINEミュージック」で、お気に入りの曲をダウンロード。「無料お試し期間」は1ヶ月。3曲ダウンロードした。
そして、Googleで「LINEミュージックの解約方法」を調べ、滞りなく「サブスク」から離脱した。
「飲み屋の『飲み放題』」もある種の「サブスク」。時間が来たら、店員さんが「『飲み放題』の注文、最後になりますが」と聞きに来る。
「2杯頼んでもいいですか?」と僕。
いつもこのやり取りだ。そして、お酒を飲み過ぎてしまう。
「サブスク」の世の中、やはり僕は「怖い」。
1983年3月31日、入社する前日に行ったのが、京都・東山にある坂本龍馬のお墓。京都霊山護國神社。
司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んで、坂本龍馬の生き方に強く感銘を受け、翌日から始まる「社会人生活」への覚悟を決める為、お墓を訪ねたのだ。
坂本龍馬の墓は中岡慎太郎の墓と並んで建っており、お供物などたくさんの人々が訪れた形跡が残されていた。
僕が行った時もお墓にお参りする人たちで大賑わい。
自分の家のお墓参りをすると、気持ちが清々しくなる。先祖に現状を報告出来た事、そして家族の健康と幸せを見守って下さいと頼めた事が心がスッキリ晴れ晴れする理由だと思う。
手塚治虫のお墓。
僕のディレクターデビュー作の「11PM」にゲスト出演して頂いた手塚治虫先生。
1989年没。享年60歳。
生きていたら、今頃どんな「火の鳥」を描いていたのか?あまりにも早すぎる死である。
お墓は巣鴨の總禅寺にある。墓石の横の碑には「手塚漫画のキャラクターたち」が描かれている。
ここにお参りした時は、「11PM」でお会いした時の手塚先生の温かく優しい声が聞こえて来る様で、思わず涙しそうになった。
小津安二郎、木下惠介、田中絹代のお墓。
北鎌倉の円覚寺にある。
映画監督・小津安二郎は誕生日と同じ日が命日。ちょうど還暦で亡くなっている。なんか、小津作品と同じ様にきちんとした人生の閉じ方。
小津安二郎の墓標には「無」という一文字が。いかにも小津らしい。
小津安二郎の墓の向かいにあるのが、映画監督・木下惠介の墓。
このお墓に数々の名作を撮られた木下惠介監督が眠られているかと思うと、生前お会いした事は無いが、木下映画の様々なシーンが僕の脳裏を過ぎり、合わせた両手に汗をかいていた。来て良かったと思う。
女優・田中絹代の墓。亡くなった当初は山口県の下関中央霊園に納骨されたが、後に分骨され、鎌倉の円覚寺にお墓がある。
そして、京都・二尊院には戦前の剣戟スター・阪東妻三郎の墓かある。
僕が初めて訪れた時は境内の大きな木の下に小さな墓標があるだけだった。
「阪東妻三郎の墓」という薄汚れたかまぼこ板の様な、手書きのちっぽけな案内板があり、すごく意外に思ったものだ。
阪妻の長男・田村高廣もこのお墓に入っているが、次男の田村正和は聞いた話によると、「このみすぼらしいお墓に入るのは嫌だ」と言って、横浜市の八景苑にお墓を建てて、そこに入っている。
大映のスターで惜しまれながら37歳でこの世を去った市川雷蔵。
彼の墓は東京の池上本門寺にあったが、現在は山梨県見延山久遠寺に移設されたと言われているが、真偽の程はよく分かっていない。
憧れの人の映画を観たり、本や漫画を読んだりして、その人のお墓に行って、一対一で話したくなる事は僕含めてファンの皆さんには多いと思う。
そんな時、ファンは生きていた時の憧れの人に寄り添っている。
大阪梅田、曽根崎商店街にあった喫茶店「田園」。「うめだ花月」からも歩いてすぐ。
この「田園」、確か4階建て。2階から4階が「巨大な喫茶店」になっていた。
その2〜4階を突き抜けて大きな穴の様な空間があり、そこを巨大なエレベーターに乗った生バンドが上下して、生演奏を聴かせてくれるシステムだった。
大学や合コンの二次会でよく利用した。その「田園」も今は無い。
大阪ミナミ、「なんば花月」の2階に「ケニア」という喫茶店があった。ここで吉本の芸人さんとよく打ち合わせをした。
西川のりお・上方よしおが様々な人の所に行って、どんな雑事でもお手伝いする番組「のりおよしおの何でも出前ショー」(関西ローカル・1983)のADをやっていた時、この「ケニア」で打ち合わせがあった。
のりお・よしおさんと共にプロデューサーの松井守さんを待っていると、松井さんが「ケニア」の入口の自動ドアの前に現れた。
しかし、松井さんはなかなかドアを開けて、中に入って来ない。
よくよく見ると、松井さんは自動ドアの扉が開いた時に収まる収納部分の前にずっと立っていたのである。
これでは自動ドアが開く訳が無い。
中から手振り身振りでその事を教える。
やっとその事に気付いて、店内に入って来た松井さんを見て、のりお・よしおさん、ディレクター、ADの僕は大爆笑!
松井さんは「びっくり日本新記録」「2時のワイドショー」「ザ・ワイド」のプロデューサーも務められ、その人脈の広さは凄かった。
僕の記憶では「2時のワイドショー」の「パーティーファッション」という名物コーナーを生み出したのも松井さん。
「パーティーファッション」は普段はなかなか取材に応じてくれない有名な女優さんを女性視聴者が強い関心を持つ『ファッション』という観点から撮影するという真にテレビ的な企画。
(発案したのが松井さんじゃなかったら、僕の記憶違いです)
その頃、大阪梅田の富国生命ビル屋上に「ゴーゴービアガーデン」があった。
ビールを飲むテーブルが並ぶセンターに、そこだけ高くなった台があって、水着姿の若い女性が何故だか二人くらい踊っていた。
僕たちはその踊る姿を見ながら、ビールを飲んだ。まだ、「セクハラ」の「セ」の字も無い「昭和」の時代。
別のビアガーデンでは、女性二人が泥の中でプロレスをする「泥レス」が名物だった。
多分、ビアガーデンには女性客も来ていたと思う。彼女たちは何を思っていたのか?
新宿歌舞伎町の「トー横」で「ウリ」をする「令和」の未成年の女性。
「昭和」のあの頃、ビアガーデンで「泥レス」をしていた若い女性たちとどこがどう違うのだろう。比べてはいけない事かも知れないが。
大阪青春グラフィティー。徒然なるままに走馬灯の様に頭の中に浮かんで来る出来事を記してみた。
今でも「ビアガーデン」ってあるのだろうか?纏いつく「昭和の暑さ」がそれはそれで良い塩梅だった。今の人たちは冷房の効いた空間でビールを飲む方がいいのかも知れないが。
「男女雇用均等法」が施行されたのは僕が入社して数年後。
それまで男だけしかいなかった「制作部」にも総合職の女性が数人配属されて来た。
それまでの「制作部」の若手男性ディレクターやADは、開局してまもなく入社した20歳くらい歳上の「技術スタッフ」に何かと言うと文句を言われ続けて来た。
「そんな映像は撮った事無いから撮られへん」
「そのカメラ位置では逆光になるからあかん」
「技術スタッフ」はグループでの作業になるので、「制作部」の若手は言い返せない事も多々あった。
ある時、「照明部」を怒らせた。スタジオの照明をリハーサル終わりで全て消して、「照明技師」以下、「照明部」が現場から突然撤収してしまった事もあった。真っ暗なスタジオ、迫る生放送!
そんな「技術スタッフ」とは、徹夜で麻雀をしたり、一緒にミナミのスナックで深夜まで飲んだりして、僕らは仲を深めていった。
まずは「自分自身のキャラクターを理解してもらう事」がとっても重要だった。「飲み会」に誘われれば必ず行った。
そして、話は冒頭の「男女雇用均等法」に戻る。
まだ入社して1〜2年しか経っていない「女性ディレクター」が「技術スタッフ」に囲まれて、打ち合わせをする。
ここで僕たち「若手男性ディレクター」と圧倒的な違いが出た。
「女性ディレクター」の説明に「技術スタッフ」はニコニコ笑いながら、楽しそうに打ち合わせしていたのである。
彼女が多少の間違った説明をしても、基本「男性」は「女性」を叱れない。
「技術」という「男性グループ」で「女性ディレクター」の説明に反論する事は、彼らにとって「1人の女性を寄ってたかって男性がいじめている」様に思っていたのだろう。
だから、叱れない。「女性」に泣かれても困るから。叱られない事は彼女にとってもある意味不幸な事だった。
僕ら「若手男性ディレクター」から見れば、「逆セクハラ」。
「クラブ」や「キャバクラ」に行った時、女性ホステスに「もう一本キープしてくれるでしょ?」「延長してもイイ?」と言われて、断れないのが「男の性(さが)」。
「オカマバー」に初めて行った時に感じたのが、オカマのホステス(?)さんがいろんな面で「女性ホステスさんより気が付くという事」。
確かに冷静に考えてみれば、「女性のいるバー」より「オカマバー」の方が男性客の求めるサービスのハードルが高いと思う。だから、話も巧い。「女性」を使えないのだから。
最近、ドラマの製作現場の「助監督」「製作助手」「カメラ助手」等、ドラマでも仕事がキツい職種にどんどん女性が進出している。
現場の人間に訊くと、キツい仕事だと「男性」はすぐ辞めていくスタッフが多い。しかし、「女性」は残るとの事。
「男性」の得意な事、苦手な事、「女性」の得意な事、苦手な事は違うと思う。
それぞれを活かして生きていく事が大切なのかも知れない。
地球上には「アナタ」はONLY ONE、たった一つの「個性」。体や心の「性」が違っていても、「アナタ」には誰にも負けない「アナタ」だけの魅力がある事は確かだ。
ONLY ONEを目指して、「自己肯定感」を高く持って生きていれば、きっと何らか「幸せ」に出会う事は絶対にあると思う。
人の「幸せ」は平等だ。「不幸せ」と感じる時は大人しく行動しないで、「幸せ」が来るのを待てば良い。
「はい、1310円ですね」
と僕は4週間に一度通っている内科の会計でお金を渡した。5分位握り締めていたので、硬貨が生温かくなっている。
支払いの時、会計の女性を待たせるのが苦手だ。だから、いつも決まった額の診察料1310円を必ず握り締め、手元に準備しておく。
よくスーパーでレジがすごく並んでいるのに、現金(硬貨)を1枚ずつ出して支払いをしているおばあさんを見かける。
多分、クレジットカード等を持っていないからそうするのだろうが、僕の場合、自分の後ろに並んでいる人の目線を意識する。だから、どこでもカードがPASMOで支払う。
支払いが現金でしか出来ない場合、財布からお金を出す手が震えてしまう。
そんな時は速攻で高額紙幣を出してお釣りを貰う。
最近のスーパーには、自分で商品のバーコードを読ませて、会計を済ませる「無人レジ」もある。
毎日スーパーに行っているせいか、妻は何の抵抗も無く使っている。
僕は1人でスーパーに行くと、「無人レジ」が使えない。途中で使い方が分からなくなり、パニックになるのが嫌だから。
妻は「ポイント大王」でもある。あらゆるポイントカードを持っていて、それを駆使する。中には、そのスーパーに行っただけで貰える「楽天ポイント」等もあって、面倒くさがり屋の僕にとって、ポイントは苦手な分野である。
後ろに並ばれるのが嫌という事であれば、高2の時。修学旅行で東北旅行に行った。
観光バスに揺られていると、尿意を催した。膀胱がパンパンに張っている。
何とか我慢しているうち、バスは止まり、狭いサービスエリアでのトイレ休憩。男子校だったので、1学年180人の学校だったので、その大方がトイレに殺到。小便器は3つしかない。
幸いにも小便器の列、いちばん前に並べた。パンパンだった膀胱。勢いよく小便が出ると思いきや、全く出ない。
何故なら、たくさんの同級生が僕の後ろに並んでいるからだ。
「こいついつまで小便してるんや!長すぎるぞ!」
と思われているのでは無いかと、僕は気が気では無い。
遂に一滴も出ず、チャックを閉めて、小便器の前から離れる。
トイレ休憩は15分位あったので、少し時間を置いて、列に並び直す。2度目という事を誰にも悟られない様に。
今度は何とか上手く出た。後ろに誰も並んでいなかったから。
用を足している間も後ろの気配には十分注意している僕がいた。
修学旅行で安心してトイレで用を足せたのは「新幹線のトイレ」だった。
「新幹線のトイレ」には窓も付いておらず、中に入ってしまえば、「使用中」の札が表に出て、誰が中に入っているか分からない。多少、時間がかかっても、同級生に不審な目で見られる事が無いからだ。
今、自宅で「小便」をする時、男性でも座ってする人が多くなってきている。
妻や家族に「立ってすると、トイレが汚れる」と指摘される男性も多いのだろう。
僕も「座ってする派」。
会社のトイレでも「大」も「小」も座ってする。
僕は昔から「潔癖症」で、小便器で用を足すと、「飛沫」がズボンに飛ぶ様に感じて、前々から嫌だったのだ。
そんな僕から見れば、小便器で大きな音を立てて、堂々と小便する人は男らしいと思う。
その豪快な音は「大」の部屋に座っていても、気持ち良く響いて来る。
中には小便器で小便をして、手も洗わずに出て行く人も見かける。
いろんな事がいちいち気になる性格の僕にとって、ある種、羨ましいかぎりである。
用を足した後、手は洗って下さいね。
ある日、レンタカー会社「ハーツ」から突然8万円の請求書が来た。
その数ヶ月前、確かにイギリス旅行に行き、イギリス南部を「ハーツ」のレンタカーを借りて旅した事があった。
その時のレンタカー代は確かインターネット上でクレジットカードを使って決済したはずなのだが。
よくよく請求書の明細を読んでみると、「スピード違反」「駐車禁止」「ロンドン市内進入税」などの項目が見て取れる。
実際、「スピード違反」はしていたと思う。日本でいう「オービス」の様なカメラが高速道路のあちこちに設置されていた。
「駐車禁止」。泊まるホテルに着いたが、駐車場の場所が分からず、フロントまで訊きに行く間、ホテルの裏手に車を止め、5分位車から離れた事があった。
イギリスの首都ロンドンは街の中心部が車で大渋滞。
その混雑を解消する為に出来た税が「ロンドン市内進入税」だ。
この税がある事は知っていたが、「税を払う料金所」の様なものがあると信じ込んでいた。
今回、イギリスの公的機関の代わりに「ハーツ」が違反した全ての料金を請求して来たのだ。
つまり、イギリスには何千何万という無数のカメラが設置され、カメラが映す膨大なデータを解析・処理して、ハーツに請求させる巨大なシステムが存在する事になる。
もちろん、僕は8万円というお金は「ハーツ」に支払ったが、日本との違いを思い、いろいろ考えさせる事があった。
「悪いものは悪い」だから、「違反をした者からは絶対お金を取る」イギリス。国民もその事を「是」としている様だ。
日本の場合、高速道路の「オービス」も録画していない事もある。「駐車違反」の取り締まりも人海戦術だ。もちろん、都心が車で混雑しても「都心進入税」を導入する気配すらない。
これらの事に寛容な国民性とも言えるが、「決して国民を追い詰めないという公的機関の暗黙の了解」もあると思う。
ある種、悪い意味での「以心伝心」である。
全国で統一地方選挙が行われている。僕の知っている人物も立候補した。
僕の気持ちがそう思わせるのか、その人も政治家を目指す事になってから、「顔付きが悪く」なった。
「政治に新しい風を起こしましょう!」
彼のスローガンだ。毎日、Instagramで多数の写真や動画を上げている。講演会も繰り返し開いている。
「新しい風」とは具体的に何の事なのか?それを具体的に説明して欲しい。
「現職」に対抗する選挙の為、その様に言っているのか?彼が何をしたいのか、全く見えて来ない。
そして、選挙カーにより行われるうるさいだけの選挙活動。
実際に、その候補が「市長」や「市議会議員」となった時、何をしてくれるか、ちゃんと説明して欲しい。もちろん、なった暁には実践を伴う事は言うまでも無い。
話が少しそれたが、「イギリスの公平で厳格な車に関しての意識」と「日本の『以心伝心』」、もう一度比較して考え直す時代に来ているのではないだろうか?
自らの確固たる意思を持たず迷走する「岸田政権」の事も真剣に考える時期に来ている様だ。
昨日、巨大スーパーチェーン店「Costco」川崎店に妻と行って来た。
「Costco」は初めてだっが、駐車場は満車、ショッピングフロアはたくさんの人々で超大混雑。山積みされた商品の間をアメリカ仕様の巨大なカートを押しながら、人混みに流される様に進んだ。
そんな中、僕は吐き気を催し、気分が悪くなってきていた。
「人当たり」した様だ。
僕だけ「Costco」の外に避難。外気に当たって深呼吸。
元々、僕は凄い「人見知り」をする。人が沢山いる場所は苦手。
40年前、U君、S君と共に僕は大阪の「制作部」に配属された。
新人1年目の夏、彦根での「鳥人間コンテスト」の収録に僕たち3人は駆り出された。
灼熱地獄の中、早朝から陽が沈む夕方暗くなるまで収録現場を走り回った。
撤収後、彦根市の居酒屋で「打ち上げ」が行われる。100名以上の参加者。もちろん、「制作部」の上司もいる。
U君、S君、乾杯が終わると早速上司にビールを注ぎに行く。
僕はいちばん末席の座った場所から動けないでいた。
「人見知り」プラス「上司にビールを注ぎに行く自分を想像して、気恥ずかしなる事」、そして「また、それほど親しくなっていない上司とどんな話をしたらいいか分からない事」。
「心配事」だけが次々とアタマの中に浮かぶ。
結果、「鳥人間コンテスト」の「打ち上げ」ではその場を動く事が出来なかった。
僕は「酒乱」だった。2015年に病気をして、酒を断つまでは。
もちろん、良い事では無いのだろうが、「酒の力」を借りないと他人に腹を割って話せない。
だが、一度お酒の場で仲良くなると、「懐く(なつく)」のである。「酒乱」で失敗したケースは数えきれない程。
舞台演出家のG2がうちの会社の1つ後輩だった頃、東梅田の「彦ちゃん」というオカマバーのカウンターに2人で座っている時、言われた事がある。
「(僕は)誰にも嫌われないと思いますよ」
その言葉が褒め言葉なのか、それとも僕の欠点なのか?
「11PM」の先輩ディレクターに言われた言葉。
「お前は一から番組を作り出すのは苦手やけど、人の意見はよく聞き、それを上手く自分の番組に取り込むなぁー。そこがお前のええとこや」
同期のU君はバラエティー番組をやっていて、大物MCと多数の番組スタッフを強い力で仕切っていた。
S君は日本を代表するアニメプロデューサーになった。毎日毎日、いろんな分野の人と飲み歩き、大変広い人脈を持っている。ラジオ番組にもレギュラー出演中。
僕の妻は「人見知り」しない。スーパーの見知らぬお客さんにも突然話しかけ、会話を成立させる。僕から見ると、類稀な才能だ。
ある時、彼女に訊いた。
「突然知らない人に話しかけて、無視されたらショックで立ち直れなくない?」
彼女は全くショックは無いと言う。彼女の「自然体」が話しやすいオーラを出しているのかも知れない。
まあ、性格が反対だから、夫婦として30年以上も上手くいってるのかもしれないけど。
僕の「自分を意識し過ぎる人見知り」は多分直らないだろう。だけど、それも僕の大事な個性。これからも大切に付き合って行こうと思っている。
吉本興業・泉正隆さんに連れて行って貰ったバーが梅田にあった。泉さんとは会社は違うが、1983年入社の同期生。
場所は当時の「うめだ花月」から旧・曽根崎小学校の横を通って、大阪中央病院へ行く手前のビルの4階。
バーの名前は「店長」。バーのマスターは、洋酒ほかの輸入代理店「国分(こくぶ)」を脱サラして、店を開いたのだった。
脱サラの理由もウィスキーが大好きな為だった。優しい人柄でさりげなく気を遣って下さる。
泉さんに連れて行って貰った後も、僕はこの店が気に入って通い倒した。カウンターに5人座れば、満席になる本当に小さなバー。
閉店時間は午後11:30。マスターと話が弾んでも最大12:30。この時間はきっちり守られていた。マスターは几帳面な性格なのだろう。
僕はここでバーボンウィスキーの美味しさを学んだ。マスターが薦めてくれたからだ。
癖の少ないバーボンウィスキー「オールド・グラン・ダッド」をボトルキープした。
スコッチウィスキーを飲みたい時は、「グレン・モーレンジー」。
おつまみは、マスターが阪神百貨店の食品売り場で買って来る「スモークサーモン」か「ビーフジャーキー」、そして「レーズンバター」と「乾き物」。
当時、僕は「朝の連続ドラマ」のAP(アシスタント・プロデューサー)をやっており、いつ終わるとは知れぬ脚本打ち合わせに毎夜参加していた。
付き合っていた嫁は梅田で働き、神戸に帰るので、「店長」で待っていて貰った。脚本打ち合わせの終わる時間が、嫁の終電の時間に間に合うかどうか分からないからだ。
間に合わない場合は、「店長」のマスターと話をして、嫁一人で帰って貰った。
今考えても、かなり大変なデートをしていたと思う。
脚本打ち合わせが無い日は早い時間から「店長」へ行き、一人で飲んだり、嫁と飲んだりした。
先日読んだ吉本興業会長の本「居場所。」の中で、大崎さんは自分の「居場所」はミナミのサウナだと書かれている。
ボーッと出来て、何にも考えずに長時間居れる「居場所」。それが僕にとって、「店長」だったのだ。僕はこの店にあまり、他の客が来ないのを気に入っていた。
1994年、阪神淡路大震災の前年夏、僕は東京のドラマ班に異動になり、東京に出て来た。
それからは同期の諏訪道彦くんが連れて行ってくれた新宿ゴールデン街の「酒乱童べるじゅらっく」というバーが僕の「居場所」になった。
仕事のストレスから、この店に入り浸った。マスターは俳優の井原啓介さん。午後7時に行って、夜中12時まで、僕以外の客が来ない日もざらにあった。
井原さんは儲けがほとんど無いので、僕によく愚痴っていた。
でもそんな時は二人で店を閉めて、近所の行きつけの吉野寿司に行った。井原さんは日本酒を頼み、少しばかりの寿司をつまんだ。
その吉野寿司もコロナで去年閉店してしまった。
井原啓介さんも天国へ旅立った。
ある日、大阪に住む大学の同級生から電話がかかって来た。
「『店長』のマスターが姉が交通事故を起こして、大金がいるからお金を貸して欲しい。必ず返すから」
と言われて、サラ金から150万円を借り、マスターに貸したと言う。
彼に「店長」を紹介したのは僕。嫌な予感がした。僕が大阪にいたら、マスターは借金の話を僕のところにして来ただろう。
僕は友人に借金の半額75万円を渡し、サラ金に全額返却する様に促した。
吉本興業の泉さんからも僕に電話があった。泉さんのところにもマスターからお金を貸して欲しいとの電話があったそうだ。
その後、僕の携帯電話にもマスターから、
「お金を貸して欲しい」と言う無心の電話があった。
さすがに、貸せなかった。
それから何年も経って、僕は「店長」を訪れた。もう店は無かった。
「姉が交通事故を起こした」と言うのは嘘だろう。多分、お店の回転資金が底を尽いたに違いない。
あの当時でも、マスターは僕よりかなり年上だったから、サラリーマンへの転職は難しいに違いない。
僕は時々、「店長」のマスターがホームレスになっている夢を見る。
家族の話を一切しなかった「店長」のマスター。マスターの「居場所」はどこにあったのだろう?
僕はその部屋でパンツを履き替えていた。中学3年生。友だちの前で着替えるのは気恥ずかしい年頃になっていた。履いていたパンツの穴から順番に足を抜き、新しいものに足を入れていると、突然、肩を叩かれた。振り返る。そこには誰もいなかった。
脱いだ衣服をリュックに仕舞い込み、その部屋からそっと出て、後ろ手で鍵を閉める。
僕は中学の卒業旅行で富山県の立山に来ていた。
黒部アルペンルート、観光の拠点になっている「室堂」手前、学校が昭和40年代に買い上げた山小屋「追分小屋」。
国立公園内に建っているので、どんなに朽ち果てても修理や建て直しが出来ない建物。
古びた小屋は四隅をロープで固く縛られ、地面にそのロープを固定する事で、ようやく建っている。
いつ崩れ落ちてもおかしく無い佇まいを醸し出している。
学校が買い上げる前は、今の様に交通手段も発達していなくて、立山に登山する人々の為の中間宿泊施設として、大変賑わっていたという。
それゆえ、小屋の周りでは度々遭難事故が起こっていた。それは小屋が建った昭和初期から断続的に続いたのだった。
僕ら中3の学生は2泊3日で、その小屋に泊まる事になっていたのである。
山小屋だから、当然、風呂やシャワーは無い。
潔癖症でアトピー性皮膚炎の僕は持参したタオルで身体を丹念に拭き、着替える場所を探した。
すると、廊下の片隅に軽く蝶番が引っ掛けている扉を発見したのである。
ここでパンツを新しいものに着替えた。これでスッキリした。
夜、晩御飯が終わって、先生から「追分小屋」に関する話を聞く。
「追分小屋」はゴールデンウィークに先生が来て、「小屋開き」をするそうだ。
その際、昨年の秋、「小屋仕舞い」の際、小屋に置かれた食糧やマッチ、焚き木などが減っていないか、まずいちばんに確認する。
冬の間に遭難して、この部屋に命からがらたどり着いた人々が使う為の食糧、マッチ、焚き木なのである。
誰も入っていない事を確認すると、小屋の窓を開けて空気を入れ替える。そして、夏に訪れる中3の僕たちを迎える為の準備を開始するのである。
「小屋開き」は毎回、「誰か、遭難者が入っていないかドキドキする」と言う。
昭和30年代のある日、「追分小屋」から少し上がった「室堂」という立山登山の拠点から、ひと組の若いカップルがスキーで滑り降りようとしていた。辺りは濃霧で何も見えない。
男女それぞれが厚い霧の中、思い切って滑り始めた。
そして、男性の方は無事下まで滑り降りる事が出来た。
しかし、女性の方は幾ら待っても、その姿を現さない。
捜索隊が出て、連日彼女を探したが彼女の行方は全く分からなかった。
そして、春。徐々に気温も上がり、日毎に雪が融けていく。
ゴールデンウィークに入り、「追分小屋」の持ち主が夏に向けての清掃と準備の為に、小屋に向かった。
小屋の食糧は減っておらず、焚き火の跡も無い。
彼は各部屋を一つ一つ点検していく。
最後の部屋だ。小屋の屋根に四角い煙突の様に突き出した「冬の入口」。その入口の真下の部屋。
「ギャー!!!!!」
彼は大きな悲鳴を上げた。暖炉の様な「冬の入口」へ続く短い煙突状の場所に、「女のミイラの顔」が逆さ吊りになって見えていたのである。
そう。あの行方が分からなくなっていた若い女性スキーヤーだった。
彼女は濃霧の中、スキーで滑って来て、ゲレンデに突き出した「追分小屋の冬の入口」にぶつかり、半回転してぶら下がったのである。
当時、スキー板とスキー靴が自然に外れる「ビンディング」という様な装置は無く、スキー板とスシ靴が外れなかった。それゆえ、スキー板を上にして、「冬の入口」に逆さまにぶら下がった。だから、吊り下げられた形で亡くなっていた。ミイラになって。
先生が語るこの話を聞いた時、僕は悪寒に襲われ、ぞっとした。
今は「開かずの間」として永遠に閉められていたその部屋を、僕はパンツを履き替える為に使ったのだった。
パンツを着替えている時に肩を叩いた人物。それはその部屋で無念の死を遂げた女性スキーヤーの彼女だったに違いない。
僕は、一冬置き去りにされてミイラになった彼女の顔を想像し、吐き気が止まらなくなっていた。しかし、吐き気はしても、何も戻せない状況に陥った。
「人の死」の怖さを知った。
あれから、「追分小屋」は取り壊されたのだろうか?今もあの時、肩を叩かれた感触は鮮明に思い出す事が出来る。あの柔らかい手で。
これはフィクションでは無く、本当の実話である。
ペルーの首都リマへ行った時の話。
リマの「日系人の資料館」を観たくて、街を彷徨っていた。やっとたどり着いたが、便意を催した。「大」の方である。「立ち小便」の様にはいかない。
スーパーマーケットを見つけた。運が良い事に、その横にトイレがあった。
中に入ってみると・・・
トイレットペーパーが無かった。
慌てた。スーパーで買って来なくっちゃ。財布には「ペルーの通貨」がほとんど残っていなかった。
スーパーの横の銀行。両替の列に並ぶ。たくさんの人々が並んでいる。
突き上げて来る便意。どれくらい待っただろうか?やっと両替が出来、スーパーに駆け込んでトイレットペーパーを買う。
レジのおばちゃんから受け取ったお釣りをズボンのポケットに押し込み、トイレへ向かう。
座ろうとすると、さっきは気付かなかったが、便座が無かった。イタリアなどでもそうだが、便座は盗まれる事も多く、外しているトイレも多いらしい。
足が攣りそうになりながら、なんとか用を済ませた。
お尻を拭いた紙はトイレ備え付けのゴミ箱へ捨てる。南米の水洗トイレでは、水の流れる勢いが弱く、紙を流すとすぐ詰まってしまうので、ゴミ箱に捨てるのだ。
ゴミ箱には、当然、前にトイレに入った人が拭いた紙も山積みになっているのだが、空気が乾燥していて、ほとんど臭わない。
インドの都市部とは離れた村々にはトイレが無い。
朝、観光に行く為に村の横を通る道を車で走っていると、村人のお尻が道の方を向かって並ぶ。
何故、道の方に向かって用を足すのか分からないが、多分、村の方にお尻を向けたくないからかも知れない。とは言っても、村人十数人がお尻をこちらに向けて、朝イチの「用を足す」のは圧巻だが。
高校時代、修学旅行で東北を一周した。7泊8日、全ての旅程の最後は、青森から上野への寝台特急。
雪が降り積もる極寒の青森駅のホームでは、付き合っているらしいカップルが別れを惜しんでいた。
若い男性がホーム。若い女性が列車の中。彼女が東京に帰る様だ。
列車が動き出すと、男性が女性を追ってホームを走り始めた。無情にも寝台特急は速度を上げて行き、やがて青森駅は見えなくなった。
男子校の僕らはその光景を見て、本当に羨ましいと思った。
その女性の寝台が僕の寝台の下だったのである。つまり、僕が二階で彼女が一階。
深夜、列車は寝ている僕らとは関係無く、ゴトンゴトンと音を奏でながら走って行く。寝台で寝ていた僕も心地良くウトウトしていた。
僕はトイレに行きたくなった。小さな照明の灯だけが点く寝台特急の廊下を揺れに任せる様にして歩く。窓外の闇の中、時々小さな灯りが通り過ぎて行く。
僕は長旅の疲れのせいか、少し寝ぼけていた。
トイレにたどり着き、トイレの横の「あき」の表示を確認。ドアをガラッと勢いよく開けた。
若い女性の用を足す、真っ白でツルツル、スベスベなお尻がこちらを向いていた。顔は見えない。
慌ててドアを閉める僕。
男子高生の僕にとって、そのお尻の光景はあまりにも刺激的だった。
便意も忘れて、自分の寝台に戻って、カーテンを閉めた。息を潜めて。顔が熱っていた。
10分位しただろうか?僕の寝台の下に、あの青森駅の女性がトイレから帰って来た。
僕は彼女のお尻を見てしまったのである。
あれから数十年が経つが、あの時の光景は未だに忘れる事ができない。
今、彼女はどうしているのか?
「用を足す場所」、トイレ。人間に無くてはならない行動であり、場所であるからこそ、どこに行ってもその記憶は鮮明なのかも知れない。
小学校五年生の時、僕は「死にたい」と思った。
「今日からこの本をやるのよ」
母が持って来た「力の5000題 算数」という一冊の参考書。
この日、母の鶴の一声で僕の中学受験の日々が始まった。
小学校四年生から参考書。五年生、六年生と神戸市魚崎にあった学習塾「井上塾」に通った。
当時、僕は西宮市立浜甲子園小学校に通っていたのだが、45人のクラスで塾に通い、中学受験を目指す生徒は4〜5人しかいなかった。
五年生、塾は5時に始まる。校門を出ると、母が車のエンジンをかけて待っていた。放課後、校庭で遊ぶクラスメイトを尻目に、母は週3日僕を神戸・魚崎の塾に送った。
阪神間に大学受験に強い高校が少ない事もあり、灘中学・甲陽中学・六甲中学・関学等を目指す生徒で「井上塾」は溢れかえっていた。
塾は「阪神魚崎駅」から歩いて10分余り。
日本家屋・井上先生の自宅の二階、畳敷きの大広間が教室だった。
五年生の授業開始時間が5時だった事もあり、五年生の時は往きは母の車、帰りは阪神電車。六年生は7時に授業開始、終了が9時なので、往きが阪神電車、帰りが母の車だった。
夏休みには夏期講習が待ち構え、僕らは毎日玉の様な汗を掻きながら、塾へ通った。
塾では毎回テストがあり、上位10位までが名前を貼り出され、順位に応じて賞品がもらえる。上位にランクインするのは灘中学の合格圏内に入っている生徒ばかり。僕が二年間通ってもらえたのは「皆勤賞」だけだった。
小学校の勉強は、僕にとってとてもとても簡単なレベル。塾で猛勉強させられているので、「大リーグボール養成ギブスを取った後の星飛雄馬」だ。
冬の夜、凍てつく寒空の下、塾から阪神魚崎駅へ歩いていると、北斗七星が見えた。この時、僕は
「死にたい」
と無性に思った。もうこんな状況から絶対逃れたいと切実に思っていた。
子供にとっていちばん大切な「遊ぶ事」も出来ない。好きなテレビを見る事も・・・
僕は中学に合格した。そして、同時に自宅は西宮市浜甲子園から大阪・茨木市に引っ越した。浜甲子園時代の幼馴染はどこにもいなかった。中学の友だちも近所にいない。男女交際も全く出来なかった。
自宅から中学校まで、阪急六甲駅で降りて、片道一時間半。部活のバスケをやっていると、通学だけで一日が終わった。この生活を六年間続けた。
今でも僕はどこかで
「死にたい」と思い続けている。
「自分の生きているという意識」を止める事は出来ない。しかし、「時間」はどんどん経過し、「生きている意識」を感じたまま、いずれは「死の瞬間」を迎えるのだろう。太古の人が「水平線の向こうは滝」の様になっていると考えたのと似ている。
僕は死ぬのが怖い。何故怖いのか、それすら分からない。
小学校四年生、母から渡された一冊の算数の参考書。あの時から「死への意識」が芽生え始めたのだろう。
あの時、
「公立にする?私立にする?あなたが自分の意志で決めなさい」
そんな問いかけを母が子供の僕にしてくれていたら。
きっと、今の「生きている意識」も変わっていたに違いない。