お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「11PM」歌合戦

2023年05月12日 | テレビ番組
「11PM」をやっていた時、毎年恒例の「3つの歌合戦」があった。

1つは秋の行楽シーズンに放送していた「バスガイド歌合戦」。

日本全国の観光地で観光バスに乗務している女性バスガイドさんに集まってもらい、その観光地の写真がスライドで出る前で「観光地にちなんだご当地ソング」を得意の美声で歌ってもらう企画。もちろん、各バス会社の制服姿で。

その当時でも「都市部」で「バスガイド」を見かける事はほぼ無く、僕は「こんな企画、今時有りなんや」と思っていた。

2つ目の「歌合戦」は「上方芸人紅白歌合戦」。

「吉本興業」「松竹芸能」、その他の事務所、関西で活躍する「芸人」と呼ばれる人々を全てと言って良いほど集めて、「紅白」に分かれてやる「歌合戦」。

200人以上の「芸人」が集い、自分の「十八番」や「メドレー」を次々と熱唱していく。

歌の合間に賑やかなトークを挟んで。スタジオに「目立ちたがりの芸人多数」、みんなカメラに映ろうと必死でもがいていた。

しかしながら悲しい事に生放送。番組が始まって早々、TK(タイムキーパー)から「巻き(早く終わらせて欲しいという合図)」が出る。

時間が予定より「押して(スケジュールが遅れて)」来れば、「芸人」が盛り上がっている最中でも冷酷にCMに行ったものだ。でないとこの企画、「生放送」の枠に入らない。放送事故寸前の番組だった。

僕はこの企画でTKをするのが好きだった。どんなに「押して」いても、冷静に番組全体の盛り上がりを予想し、ディレクターに残り時間を伝える事が快感でたまらなかった。

無事生放送が終わった時はストップウォッチを持った手が汗だくだったが充実感は半端ないものがあった。

この「上方芸人紅白歌合戦」はスタッフにとって、何が何か分からないうちに興奮のるつぼに巻き込まれ、生放送が終わってしまう事が毎年の恒例だった。

そして、僕はこの企画で「作曲家にメドレーの編曲を依頼する」ディレクターに同行し、「メドレー」の作り方を学んだ。

3つ目は、「11PM 」(大阪イレブン)で生放送では無く、1年に1回だけ収録する企画、「全国芸者歌祭り」。

放送が正月の為、「完パケ(編集無しで、放送する形そのものの尺で収録する事)」で年末に録画するのだ。

全国各地の温泉地から「芸者」の皆さんに集まってもらい、髪を結い上げ、着物姿で「温泉地にまつわる歌」を披露してもらう。

ある年、この「全国芸者歌祭り」を収録していたら、テレビスタジオの照明の暑さで本番中、芸者さんが倒れた事が有り、肝を冷やしたものだ。

この時は放送時間より2〜3分長めに収録して、編集してOA。

今のテレビでは「芸人」や「タレント」以外の「素人」が生放送の番組で歌う事は皆無に近く、そういう意味でも稀有な番組だったのではないだろうか?

なんか、こうして書いてみると、「テレビ」は「人間が作っていたなぁー」と強烈に感じる。「初々しい」と。

未来に「インターネット」や「スマホ」が出来ると思ってもいない「バスガイド」「芸人」「芸者」の方々。

今なら、本番までの待ち時間があれば、下を向いて周りと会話もせずに「スマホ」を見ているのだろう。

今から30年以上前のあの時代、彼らは本番までの緊張感の中、一体何をして、何を考えていたのだろうか?

全国に流れる「テレビ」の重要性を日々教えられた「11PM」時代の話。
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塩見孝也と全共闘

2023年05月09日 | テレビ番組
僕は構成作家のKさんと東京・高田馬場にある塩見孝也(1941〜2017)の事務所に向かっていた。(以下、全て敬称略)

塩見孝也、元・共産同赤軍派議長。テロリスト。「日本のレーニン」と呼ばれる。

1970年3月逮捕、その半月後に起こった「よど号事件」他で起訴される。

1989年、約20年の刑期を終え、府中刑務所から満期出所。つまり、あの「赤軍派」を作った人と言えば分かりやすいかも知れない。

「EXテレビosaka」で「全共闘」をテーマにするにあたり、ゲストの1人として、出演交渉に行ったのだ。

塩見は僕と構成作家のKさんに「アジ(アジテーション)口調」で延々と話し続けた。「アジ」とは「自分の唱える『主義主張』を大勢の人々を巻き込む形の喋り方」。

僕は20年間刑務所に入っていて、懲りもせず、「アジ口調」で僕らに「赤軍派の主義主張」について話し続ける塩見に大きな違和感を感じていた。

他のキャスティングは作家で「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)を結成した小田実(おだまこと)(1932〜2007)。

作家の野坂昭如(1930〜2015)。

「自衛隊に入ろう」を歌ったシンガーソングライターの高田渡(1949〜2005)。

脚本家の佐々木守(1936〜2006)。

この番組の放送日は10月21日、「国際反戦デー」。

今は全く見られなくなった学生たちの政治へ向けたパワー。「平和ボケ」していると言われる日本人。

ベトナム戦争後も地球上では悲惨な戦争はあとを絶たない。

1960年代後半から1970年にかけての日本人の政治に対するパワーは何だったのか?

そして、今の日本はこれからどの方向に向かって進んで行くのか?

ゲスト5人と上岡龍太郎でのトークが展開される。

こうして、25年以上前の番組の主旨を書いていると、今の日本にも置き換えられる事が多々あって、ある意味ゾッとする。

番組本編で話された内容の大半は忘れてしまったが、未だに忘れられないエピソードがある。

一つ目は、小田実に出演交渉の電話をした時の事。

僕が自分の事を紹介して、番組内容を説明しようとしたところ、小田実が大声で怒った。

「番組出演なら、まずギャラの額を提示するのが常識だろう!」

小田が長く生活をしていたアメリカではそれが常識だと言う。

小田実が書いた旅行記「何でも見てやろう」に感銘を受けていた僕にはショックな出来事だった。

もう一つは、本番中、塩見孝也が「アジ口調」で「赤軍派を肯定する事」を言い始めた時、野坂昭如が遮った。

「アナタは赤軍派が何をしたか認識していますか?それを総括して世の中に提示しないうちは、塩見さんアナタに発言する権利は無い!」と。

痛快だった。野坂の言っている事が正しい。塩見は返す言葉も無く黙ってしまった。

塩見孝也は66歳になり、「老齢」を感じるまで、自らの組織からのカンパを生活費に充てていた。

しかし、東京都清瀬市シルバー人材センターの紹介により、時給950円で清瀬市所有の駐車場の管理人になる。

「66歳にして労働の意義を知る」と公に発言。体制側に付いたとの批判を浴びた。

そして76歳で、その生涯を閉じる。

こんな番組が作れた環境は今考えても有難い。

「今の日本を考える」

そんなテーマで番組を作れないものか?

日本から見たウクライナや北朝鮮では無く、ウクライナや北朝鮮から見た「日本」という地球上の特殊な国を。

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APS

2023年05月08日 | テレビ番組
「APS」というボタンがテレビ局のサブ(副調整室・スタジオにディレクター等が指示を出す部屋)にはある。

TK(タイムキーパー・番組の『残り時間』をスタジオに読んだり、VTRをスタートさせたりする)がCMに行く時、この「APS」を使う

例えば、「11PM」が全国28局で生放送されていたとする。
発局を含め、28局で流れる「CM」は全て異なっている。

「APS」を押すと、大阪の発局から系列各局に、「CMの VTRをスタートさせる信号」が自動的に送られるのである。

その信号を受けて、VTRがスタートして3秒後、各局のCMが流れ始める。

「11PM」の場合でも「APS」を押すと、テレビ画面の右下に「11PM osaka」の表示が出ていた。

これは聞いた話だが、「APS」の信号が無い頃、各局はこの画面上のスーパーが出たら、「CM」のVTRのスタートボタンを押していたらしい。

伝説の音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS)や現在も放送中の大型番組「オールスター感謝祭」(TBS)も生放送ゆえ、「CM」に入る前、番組タイトルが必ず右下に出る。「APS」を押しているからだ。

僕が「11PM」をやっていた頃、この「APS」装置を持たない地方局が存在していた。

その時は「放送している地方局の映像と音声」を大阪まで送ってもらい、「APS」のボタンを大阪で押して、大阪から全国に電波を流していた。

ある時、海の上のフェリーから地方局が中継した。

船上からの電波が上手く本土に届かなかったのだろう。

大阪のサブにいて、「APS」のボタンを押す役目を担っていた僕。

生放送の1時間、何も映っていない「砂嵐」の画面を見ながら、「APS」を押して「CM」を入れていった。

「APS」のボタンにはプラスティックのカバーが付いている。
カバーを押し上げてボタンを押す。

間違えて押すと、番組途中でも「CM」に入ってしまう重要なボタンだからだ。

先輩がTKデビューした時、緊張のあまり、そのカバーの存在を忘れて、何度も何度もカバーの上から「APS」を押そうとした。遂にカバーは壊れてしまった。

無事に「CM」には入ったが。

何気なく流れているテレビ。その裏で「APS」を毎日押している人がいる事を想像してみるのも楽しいのでは。

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「お通夜」

2023年04月25日 | テレビ番組
「EXテレビosaka」で「お通夜」という番組をやった。数少ない僕の企画である。

元々の企画の発想のスタートは2つ。

1つは、黒澤明監督の映画「生きる」である。この映画は確か志村喬扮する主人公の「胃のレントゲン写真」にナレーションが被り、続いて「主人公のお通夜」で市の職員たちがお酒を呑み、大騒ぎしているシーンに繋がったと思う。そこから、「主人公が生きていた時の回想」が始まる。

2つ目は、「お通夜」の祭壇の「遺影」の所に「縦型のTVモニター」を入れ、それがスロットマシンの様に回ったら面白いと思った事。

「企画」としては、「遺影」のスロットマシンが回り、「遺影の出た人」が「死んだ人」という事になる。

その人は、周りの喋りが全く聞こえなくなる様に、「白い三角頭巾」を付けたヘッドフォンをして、祭壇に向かって木魚(もくぎょ)を叩き続けている。

その他の人が「生前の故人」について、赤裸々に語り合うのである。

メンバーは、順不同に、上岡龍太郎、野坂昭如、横山ノック、大竹まこと、円広志、デーブ・スペクターの6人である。

セットもわざわざ大掛かりなものにした。祭壇も葬儀社とタイアップした本物。

家の門があって、玄関がある。玄関で靴を脱ぐと、廊下を通り、祭壇のある畳敷の大広間へ。まるで映画「犬神家の一族」である。

その間は家全体を見下ろす様にクレーンカメラで撮った。

大広間のカメラは「鯨幕(お通夜・告別式で使う白黒の幕)」の黒い部分に四角い穴を開けて、左右に2台ずつ、4台。カメラ側の照明を落とし、カメラが映らない様に工夫。

そして、祭壇の上から木魚を叩く「故人」を撮るために固定のミニカメラを設置した。

本番が始まる。「遺影」が回り始める。「遺影」のスロットマシンが止まる。

「故人」に当たった順に祭壇の前でヘッドフォンを付け、木魚を叩き続ける。

他の5人は「故人」との思い出を切々と話した。

「出会い」「忘れられない言葉」「故人と行った旅の想い出」などなど。

僕がこの番組で言いたかったのは、「生きる事」と「死ぬ事」は表裏一体である事。「1日1日生き続ける事」で「死ぬ事の意味がぼんやりとでも見えて来る事」。

番組の進行も前半は狙い通り行っていたが、番組も終わりかけてみると、「〇〇さんは若い女の子とデートしていた」とか下世話な話。

本番終了後、各出演者に「下世話な話で本当にNGな話」を確認していく。本人は何を喋られたか、聞いていないからだ。

でも、面白くなった。

「どう生きるか?」が「どう死ぬか?」に繋がる。その事が少しでも視聴者に伝わった様な思いがした。

深夜とは言え、30年ほど前、こんな番組が作れたのは、テレビマンとして、良い時代にディレクターをやれたのだとつくづく思う。

今、こんなテーマを持った番組、民放では作れないだろうなぁ。
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宣伝の仕事・・・「秘密のケンミンSHOW」と「ニセ医者と呼ばれて 沖縄・最後の医介輔」

2023年04月12日 | テレビ番組
ドラマ班から東京宣伝部に異動になって、様々な番組の宣伝を担当した。

「名探偵コナン」「ブラックジャック」「結界師」「秘密のケンミンSHOW」「ダウンタウンDX」などのレギュラー番組。

そして、木曜23:59から始まる連続ドラマを15本余り。

さらに、遊川和彦さん脚本、堺雅人さん主演のスペシャルドラマ「ニセ医者と呼ばれて 沖縄・最後の医介輔」(2010年)。

まずは今年放送開始15周年になる「秘密のケンミンSHOW」(2007年〜)。僕はスタート当初の宣伝担当だった。

この番組、東京都以外の「46道府県」の秘密を扱う。それまで、この手の番組はありそうで無かった。

まずはテレビ誌や新聞などに載る記事の元になる「リリース原稿」が問題になった。

初回からしばらく、原稿には「ケンミンの謎」が全て書かれていた。

「これでは放送内容がネタバレし過ぎだ」

制作を担当する「ハウフルス」からクレームが付いた。僕はそこまで気が回っていなかったのだ。これに関しては僕が悪い。

全国の「道府県」、そして「市町村」のホームページに、「番組の趣旨」と「宣伝のお願い」、「番組のネタの募集」の文章を書き込んだ。コピペしたが、膨大な作業だった。

番組がまだ放送されていないせいか、その書き込みに対する反応はほとんど無かった。

続いては、新橋・銀座の「道府県アンテナショップ」に番組ポスターを貼ってもらう様に、一軒ずつお願いに行く。もちろん、お店のスタッフには、番組内容を伝えた。

そして、日本で最大の旅行代理店に「番組とのタイアップの話」を持って行った。

旅行代理店の全国の支店に、番組のチラシを置いてもらう代わりに、番組で扱った「料理を食べに行くツアー」などを番組名を使って企画してもらうというスキームだった。

契約書を交わす寸前に、番組スポンサーの関係で、この話は成立しなかった。残念!

系列各局への対応も大変だった。OAの中で出てくる地域の局は、その局自体が宣伝を強化すると、視聴率40%超える事もあった。

その為には毎週各局に本編の「抜き素材(それぞれの局に関しての放送部分)」を渡す必要があった。かなり、手間がかかり、大変だった。

現在は「音楽とテロップが入っていない素材」を「制作」に作ってもらい、それを各局にダビングしてもらうシステムが出来上がっている。進化したものだ。

話は変わって、スペシャルドラマ「ニセ医者と呼ばれて 沖縄・最後の医介輔」。ドラマの大部分が沖縄のロケだった。

今では宣伝予算もキツイので、なかなか出来ないが、記者の皆さんを沖縄の撮影現場にお連れして取材してもらう「記者誘導」を行なった。

沖縄までの航空券の手配。沖縄で記者に乗ってもらうマイクロバスを押さえた。

前日に沖縄入りして、記者を乗せた航空機が到着するのを待ち、マイクロバスに案内する。

昼ごはんは撮影現場までの途中のレストランで食べようと思っていたが、「ドラマのモデルである医介輔のお宅」で御馳走になる事になった。沖縄の人は温かい。

記者の皆さんは、昼ごはんを食べながら、「85歳を過ぎた本物の医介輔」を囲んでお話を伺う。当時、御存命の医介輔は沖縄に数人しかいなかった。

「医介輔」とは、終戦後、医者不足の沖縄で「簡単な診察や治療が出来る資格を与えられた人」の事。

彼等は長い沖縄の戦後史の中で「正規の医師免許を持つ医師」からは差別され、不当な扱いを受けて来ていた。

午後、撮影現場に着く。記者の皆さんは撮影現場の「堺雅人さんと寺島しのぶさん(夫婦役)のシーン」を見学。

その後、すぐ近くの「公民館」に場所を移して、堺さんと寺島さんと記者の皆さんによるいわゆる「囲み取材」。お二人に記者のから質問が行われる。

「撮影現場の見学」の時刻も、「囲み取材」の場所と時刻も事前にプロデューサーと打ち合わせた上で、当日携帯電話で連絡を取り合い、撮影のスケジュールの進行具合を聞きながら、取材のスケジュールを決めていく。

全ての「記者誘導」が終わると夕方。辺りは暗くなってくる。

もう記者は東京に帰れないので、手配したホテルに泊まってもらう。ホテルとは部屋割りも事前にして、到着したら各自部屋へ。

夕食の時間と場所を記者の皆さんに伝えておき、再集合してもらう。

夕食は豪華な料理にアルコールを飲んでもらって、日頃お世話になっている御礼も兼ねて、いわゆる「接待」の時間。

ここで僕は問題を起こしてしまった。

ここまでの段取りがとても上手くいったので、接待する側にも関わらず、お酒を飲み過ぎて泥酔してしまったのである。

大阪本社から女性の宣伝担当者が一緒に来ていたので、彼女が食事を終えた記者の皆さんを上手く誘導してくれた。

僕は宴会場にポツンと一人取り残されていた。

先日、彼女が起業して会社を辞める事になった。

「あの時は泥酔して申し訳なかった」とメールを送ったら、

「私、堺雅人さんのファンなので、あのドラマの担当になって嬉しかったです」との返信。

宣伝の現場はストレスが溜まり、苦しくて逃げ出したい時もあったが、たくさん記事が載り、たくさんの人に番組を見てもらった時の嬉しさはひとしおだった。

2015年、僕は大病をし、酒を断った。番組宣伝の現場に出る事も無くなった。

今はデスクで、現場をやっている若いスタッフを支えている。

自分の現場での経験を押し付ける事無く、バレーボールのセッターの様に、宣伝のアシストが出来る存在に今はなりたい。
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紳助のサルでもわかるニュース

2023年04月05日 | テレビ番組
「俺、こんな事やりたいねん!」
六本木の全日空ホテルの喫茶ルーム。

「EXテレビ」の後番組の打ち合わせに行った時、島田紳助さんはこう口火を切った。

僕とチーフ・プロデューサーの荻原さんは3本の企画書を紳助さんに説明する為に持って行った。

その企画書を読む事無く、紳助さんは自分のやりたい企画の話を始めたのである。

「タレントが講師になって、『時事問題』をタレントの生徒たちに教える番組や。面白いやろ」
と鼻を鳴らしながらにんまり笑う。

次々とアイデアが浮かんで来る紳助さん。番組の概要は次の様になった。

「タレントがタレントに『時事問題』を教える。間違っていた時の為に、アドバイス出来る大学の先生に来て貰う。タレントにツッコんだり、進行をしたりするのが紳助さん」

打ち合わせの結果を持ち帰って、CPの荻原さんと、初回のディレクターの僕を中心に番組の準備が進められた。

放送枠は日本テレビの「どんまい!!スポーツ&ワイド」の火曜日。深夜の生放送、「スポーツコーナー(日本テレビ制作)」が終わってから、「バラエティーコーナー」として、大阪での生放送が始まる。

初回のテーマは当時、戦争が頻発していた「ボスニア・ヘルツェゴビナ」に決まった。

インターネットが無い時代、梅田の紀伊國屋書店に行って、関連本をたくさん買い込んで来て専門の先生を探す。

「ボスニア・ヘルツェゴビナ」を専門に研究している先生は千葉大学にいた。

早速、会いに行く。研究室で先生と向き合い、ディレクターの僕が話を聞く。僕が理解していなければ、タレントさんに説明できないし、授業で使う素材も発注出来ない。

千葉大学の先生は今までテレビに出た事が無く、ボスニア・ヘルツェゴビナ」の事を僕に端から端まで説明しようとするが、1時間の生放送で説明出来る事は限られている。人の良さそうな先生は2時間以上、素人の僕に「ボスニア・ヘルツェゴビナ」の話をしてくれていた。

紳助さんの狙いは、タレントが「時事問題」を講義する事で「テレビの前の視聴者も容易にとっつき難い「時事問題」を理解出来る番組」にする事だろう。

何度も何度も千葉大学の教授に聞き直しつつ、「ボスニア・ヘルツェゴビナ問題」の要点をなんとかノートにまとめていった。

千葉から湘南まで移動。 1回目の講師をやる元プロ野球選手・加藤博一さんの御自宅に伺って、教授の話を簡素にして教える。加藤さん、何とか理解してくれる。

番組名もスタッフで散々話し合われたが、なかなかしっくり来るタイトルが出て来ない。

そんな時、後輩の前西ディレクターが言った。
「サルでもわかるニュース」
というのはどうですか?
スタッフ全員が大きく頷いた。

僕は「サルでもわかるニュース」の前番組「EXテレビosaka」の最終回の収録が残っていたので、この頃は日々バタバタだった。

記念すべき、「どんまい!!スポーツ&ワイド 紳助のサルでもわかるニュース」(1994〜1997年)の第1回放送当日、日本テレビの「スポーツコーナー」から生放送が始まる。

その日のスポーツネタの多さで「スポーツコーナー」の時間が決まる。我々大阪のスタッフは日テレが押しません様にと強く強く祈っていた。

ほぼ定刻通りに始まった「紳助のサルでもわかるニュース」。千葉大学の教授のアシストはかなりぎこちなかったが、紳助さんが見事に仕切ってくれ、笑いも頻繁に起こる見やすい番組になっていた。

そして、僕の2回目のディレクター。テーマは「国際連合」。京都大学の高坂正堯教授に教えを乞いに京大の研究室まで足を運んだ。

高坂先生はテレビ慣れしているので、こちらの番組意図を即座に理解して下さり、30分程で打ち合わせは終わった。

今回のタレント講師は飯島愛さん。局に早めに入って貰い、「国際連合」について、僕が教えていく。

彼女は頭がいいとその時思った。その飲み込みの速さに舌を巻いた。

生放送での彼女の講義は的を得て素晴らしく、高坂先生が見事にアシストして下さった。

後に彼女の訃報を聞き、呆然としたものだ。

1994年4月に始まった「紳助のサルでもわかるニュース」が軌道に乗り始めた8月、僕は東京制作部に移動になり、ドラマのプロデューサーへの道を歩み始める。

後年、東京宣伝部で番組宣伝の仕事をしていた時、島田紳助さんの2時間特番の宣伝を担当した事があった。紳助さんは収録中、喋り続け、気が付いたら、9時間経っていた事もあった。度肝を抜かれた。

才能のかたまりの様な紳助さん、今はどうしているのだろうか?最近、Twitterで島田紳助さんと名乗る人が発信し出した。発信内容を見ると本人の様な「人の機微を巧く捉えた発言」なのだが。


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笑福亭鶴瓶さん

2023年04月04日 | テレビ番組
旧・ABC朝日放送隣の系列、ホテルプラザ2階の喫茶コーナーで極度に緊張して待っていると、突然僕の脇腹を掴む奴がいた。

「誰だ!」と横を睨み上げると、当の打ち合わせの相手、笑福亭鶴瓶さんがイタズラした子供の様な笑顔を見せて立っていた。

しばらく、鶴瓶さんはウチの局には出ておらず、復帰第一弾の番組のディレクターを僕は任されたのである。

その時、鶴瓶さん本人とどんな話をしたのか、よく憶えていないが、脇腹を掴まれた段階で、僕の心は鶴瓶さんにがっつりと掴まれていた。1985年、夏の事である。

構成作家も入れて、何度か会議をしたが、なかなか番組内容が固まらない。僕はかなり焦っていた。

そんな時、僕は鶴瓶さんの個人事務所「オフィスまどか」に行く機会を得た。

収録当日、スタジオを仕切って貰うスタッフとして、「オフィスまどか」のスタッフ達が来てくれる事になっていたからだ。

鶴瓶さんのやり易さも含めて、ぶっちゃけ、どんな番組が良いのか、スタッフに訊いてみた。

そこで出た案が「鶴瓶さんが、一般の働く強い女性たちの所を訪ねて、その女性たちを応援する友だちを大型バスに乗せてスタジオに連れて来るのはどうか?」というものだった。

心配性の僕は腑に落ちるところも多かったが、そんなに友だちを収録当日、スタジオに連れて来られるものだろうかと一抹の不安を抱いていた。

でも、やってみよう。早速、構成作家の東野博昭さん(通称・がっしゃん)に構成を作って貰い、準備を進める事にした。

「働く女性3人」は「オフィスまどか」のスタッフが探してくれる事に。

「東大阪で働く40代のガス料金検針員」「大阪中央卸売市場で働く10代の魚屋見習い」「西宮夷神社近くの商店街で何十年もどら焼きを焼き続けている80代のおばあちゃん」、この3人の女性を鶴瓶さんにロケして貰う事になった。

ロケの前に3人に打ち合わせに行った。3人共、キャラクターは魅力的。僕は面白い番組になる予感がしていた。

忘れられないのは、東大阪に打ち合わせに行った帰り、近鉄鶴橋駅で降りてみると、駅の売店に「号外」が貼り出されていた事。

「夏目雅子さん死去」の文字が目に飛び込んで来た。
大きなショック。
僕は夏目雅子さんが大好きだったからだ。1985年9月11日の事だった。

鶴瓶さんのロケ当日。朝6時、ロケ車は鶴瓶さんの泊まっているミナミの南海ホテルの前に横付けされていた。

鶴瓶さんは深夜2時半までラジオ大阪の「ぬかるみの世界」の生放送があった。睡眠時間は多分2〜3時間しか無かっただろう。

眠気の塊の様な顔でロケ車に乗り込まれた。車内でも爆睡している。

最初は「東大阪のガス検針員のおばちゃん」。めちゃめちゃユニークな個性で、鶴瓶さんはそこを本当に巧く引き出してくれた。

2人目は「大阪中央卸売市場のおねえちゃん」。10代の若さと恥じらい、卸売市場の皆さんの活気が鶴瓶さんのツッコミで見事に出ていた。

3人目は「西宮のどら焼きを焼くおばあちゃん」。隣近所のおばちゃんの関西ならではの赤裸々な喋りと、何を言われても優しく微笑むおばあちゃんの対比を鶴瓶さんが温かく包み込んでいった。

3人のロケが無事終わり、西宮の商店街で鶴瓶さんからエンディングのコメントを貰った。

ちょっと長かったので、
「もう少し短めに。15秒位でお願いします」
と僕が言うと、
「初めから秒数ちゃんと出してぇなあー」と、怒られた。
全面的に僕が悪い。反省!

スタジオ当日、3人の女性の友だち達の乗る大型バスが次々と局に到着する。

スタジオに全ての人に入って貰うと、スタジオがパンパンになった。
僕はホッと胸を撫で下ろしていた。

笑福亭鶴瓶さんとアシスタントの歌手・清水由貴子さんが勢い良くスタジオに登場。本番が始まった。

鶴瓶さんの司会は素人の皆さんの良さをとことん引き出し、時には強いツッコミでみんなを笑わせ、スタジオは家族的雰囲気で順調に進んでいった。

最後のコーナーでは「西宮のおばあちゃん」がどら焼きを焼いて、スタジオに来ている皆さんに振る舞った。鶴瓶さんと清水由貴子さんをほっておいて、おばちゃん達がどら焼きの取り合いをする大混乱の中、本番は終わった。

無事、笑福亭鶴瓶さん司会のバラエティー番組「集まれ!鶴瓶のあっぱれウーマン」が出来た!

誰でもが感動して、温かい気持ちに成れる「陽だまりの様な番組」になったと思う。鶴瓶さんの人の心を優しく包む人柄に心底惚れた瞬間でもあった。 

入社して3年目、ディレクターになって半年。若かりし頃の良き思い出。

この後、鶴瓶さんは上岡龍太郎さんと「鶴瓶上岡のパペポTV」(1987〜1998年)をレギュラーでやる事になる。

私見だが、「パペポTV」はラジオ大阪の鶴瓶さんと新野新さん(放送作家)がただ2人だけで喋るだけの番組「ぬかるみの世界」(1978〜1989年)のテレビ版では無いかと思っている。

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桂三枝(現・文枝)さん

2023年04月03日 | テレビ番組
かつて、年末に「笑って総決算!」(関西ローカル)という番組があった司会は桂三枝(現・文枝)さん。年末の特番で、放送時間は2時間半。

解答席、吉本芸人始めタレントさん達が、いろんな形で出題されるクイズに答えていき、優勝チームが豪華な賞品をもらえるというもの。

まずは三枝さんの事務所に御挨拶に行く。

実は僕、入社してすぐ付いた番組が「三枝の恋人ラブマッチ」(関西ローカル)と言って、当時流行っていた男女若者のお見合い番組だった。

この番組のリハーサル。本番前に男女を会わせる訳にはいかないので、男性のリハーサルの時は女性たち、女性のリハーサルの時は男性たちをADの僕たちが代わりになってやった。

リハーサルの司会はパンチパーマで「その筋の人」にしか見えないIチーフ・プロデューサーがやる。

素人の女性たちの時のリハーサル相手は僕たちAD。

Iチーフ・プロデューサーが訊く。
「あなたはデートする時、彼女をどこに連れて行きますか?」

「陽が沈む海岸」
「恋愛映画を観に行きます」
「絵画展に誘います」

この番組の収録は2本録りなので、2週間に一度。

Iチーフ・プロデューサーもこのやり取りに飽きて来たのだろう。

やがて「当たり前のデート場所」を言うADを凄い剣幕で怒鳴りつける様になっていた。

ADである僕たちは2週間、必死で今までに言っていない「デート場所」を考える。

「長野の空気がきれいな白樺並木の中で」とか。

CPからカミナリが落ちないか、ヒヤヒヤものの番組収録だった。

話が脱線した。三枝さんとの仕事は「三枝の恋人ラブマッチ」以来である。もちろん、三枝さんは憶えていないだろうが。

三枝さんにラフなクイズ案、番組構成案を見せて、意見を聞く。

放送時間2時間半の長丁場。最初にお会いしてからも、マネージャーを通して、頻繁にやり取りして、番組内容を固めていく。

タレントを使ったロケ。僕はタレントをロケで使うのが初めてで、正直自信が無かった。

僕は人見知り。
生身の人間である吉本のタレントにどう指示を与えるのか?
絶望的な気持ちでいっぱいになっていた。

会社に残って遅くまで、考えに考えたが、「オチ」のある、いいアイデアは思いつかない。ロケは明日に迫っていた。

番組の構成作家・儀賀さんに電話する。彼は三枝さんのブレーンで、僕はこの仕事で初めて知り合った。

儀賀さんは2時間程で、ロケ台本を書いてFAXしてくれた。優しい。

山ほどあるクイズのロケも何とか終わり、ミナミの吉本会館の中にあるテレビスタジオで、三枝さん司会の「笑って総決算!」の収録が始まる。

吉本のハイヒール・モモコさん始め、芸人さんも出ているので、三枝さんとのやり取りで、本番は大いに盛り上がる。

今まで、「局」の技術さん、照明さん、美術さんと番組を作って来た。

ディレクター単独で吉本に乗り込むのはどこか新鮮で気持ちいい。

三枝さんの司会は最高だ。収録時間、3時間半、番組はエンディングを迎えていた。

優勝チームのハイヒール・モモコさんが透明な電話ボックスに入り、中で大量に飛び交う千円札。掴んだだけ、貰える。それが賞金。

収録が終わり、VTRを持って会社に帰ると、僕はグッタリしていた。目を瞑ると再び目を開ける事が出来ない。それ位、疲れ果てていた。

編集室にこもって、番組の編集が始まった。

そこに、桂三枝さん本人からの電話。

「田中角栄が亡くなったので、番組のいちばん最初にそのニュース映像を入れて欲しい」との事。

1年を「総決算」する番組、年内の最新情報もあった方が良いという三枝さんの思いなのである。

事前の打ち合わせの細かさ、本番は自由自在に出演者を操る技、思いついた事は番組が編集段階になっていても入れて欲しいと言う粘り強さ。僕は桂三枝に真のプロの姿を見た。

テレビ界のプロという存在を。
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白岩久弥さん

2023年03月29日 | テレビ番組
プロデューサーでディレクターの白岩久弥さん。僕が入社して付いた「11PM」の先輩だった。

白岩さんは本当はテレビ局では無く、落語家を目指していたそうだ。僕は生涯通じて、こんな利発な人に会った事は無い。

スタジオでのディレクションも完璧。サブ(ディレクターが指示を出す部屋)ではカメラ割り通りも思うがまま。CMに行く時は立ち上がって、勢いを付けてCMの合図を出していた。

イタリアのファッションショー「ミラノプレタポルテコレクション」の中継録画の際、モデルたちが出て来る出口が左右に5ヶ所ずつ有った。

タイムキーパーの僕がリハーサルで「次はどこからモデルが出て来るか」を必死で書き留め、本番はそのメモを読んで、白岩さんがカメラマンに指示。見事なカメラワークを見せた。

「今日はほんま良くやった。ADで名前載せたるからな」

これが白岩さん本番直後の言葉。
こうして、僕は初めて、全国ネットの番組で自分の名前がスーパーされるのを見た。岡山の親戚からそれを見て電話があったのも嬉しかった。

白岩さんは人心掌握に長けていた。これも「ミラノプレタポルテコレクション」の時だったが、リハーサルが終わって、スタッフが休憩中、

「5カメさん、自分の好みの女の子を撮ってみ!そうそう、その子でええんやな?」と白岩さん。全スタッフがその一言で笑い、盛り上がった。

収録した「ミラノプレタポルテコレクション」の編集を明日に控えた夕方、僕と同期の諏訪道彦はどうしても麻雀がやりたくなり、ウズウズしていた。

ダメ元で白岩さんに声をかけたら、OKしてくれた。

翌日の編集。白岩さんは一回プレビューしただけで、即興でVTRを繋いでしまった。

僕なら、絶対、編集の前日は麻雀などする余裕も無く、編集チェックを最優先にしていた事だろう。
白岩さんのアタマの中はどうなっているのだろう?

「11PM」(1965〜1990年)でも「1時間、藤本義一さんが現役風俗嬢と電話で話すだけの企画」をやり、後に「〜だけ」という番組をたくさん立ち上げる片鱗を見せた。

その代表作が「鶴瓶・上岡パペポTV」(1987〜1998年)であろう。笑福亭鶴瓶さんと上岡龍太郎さんが2人で話をするだけの番組。これが視聴者から大好評を得た。

「パペポ」は「日本武道館」、アメリカ・ニューヨークの「カーネギーホール」での収録も行っている。

順不同だが、月〜金の午後5時から生放送していた「ざまぁKANKAN!」(1988〜1990年)も白岩さんが作った番組である。

MCの森脇健児と山田雅人が「ハガキを読むだけの番組」をコンセプトでスタート。若い女性がたくさん観覧を希望して、テレビ局の周りを何周も並んでいたのを憶えている。

「大阪ほんわかテレビ」(1993年〜現在)を立ち上げたのも白岩さん。情報番組をドラマ仕立てで表現するという発想が凄い。

そして、今も続く「ダウンタウンDX」。(1993年〜現在)

最初は「ダウンタウンのおふたりが大スターと対談するだけの番組」だった。

初回のゲストは菅原文太さん。トラックの頭の部分だけ切り出して、その中でトークを展開した。

もちろん、映画「トラック野郎シリーズ」からインスパイアされたセットだ。

「EXテレビosaka」。(1990〜1994年)今までのテレビをぶち壊す」をコンセプトに、「上岡龍太郎さんが1時間、カメラに向かって1人だけで語りかけるだけ」ほか、テレビの領域を良い意味で壊す企画が人気を呼んだ。

最終回で「EXテレビでやった企画」を販売する企画をやり、その1つを買ったのがテレビ東京。今でも続く人気番組「開運!なんでも鑑定団」(1994年〜現在)である。

白岩さんはお酒を飲めない。でも、よく深夜になるまで麻雀をした。

白岩さんが僕に言ってくれた事。

「お前は何かを一から作り出す能力には欠けているが、先輩・後輩の意見をよく聞き、それを自分なりに取り入れる能力がある。そこを伸ばしてみたらどうや」

白岩久弥さん。今は吉本興業に居られるが、忘れられない先輩だ。

久しぶりに会ってみたい。
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「全日本有線放送大賞」の生放送で重大なミス

2023年03月23日 | テレビ番組
その朝はいつに無く緊張していた。
僕は「11PM」で毎週TK(タイムキーパー・生放送で時間を計り、時間内に番組を入れる人)をやっていたが、「全日本有線放送大賞」(現・ベストヒット歌謡祭)のTKをやるのは初めてだった。

年に一回の社運を賭けての大型特番。その大舞台、生放送でミスをしないか、不安で仕方が無かったのである。

会場に横付けされた中継車に乗り込む。モニターには「音合わせ」「カメリハ」の様子が次々と映されていく。

歌毎の「演奏時間」を計り、自分で作った「時間配分表」に書き込んでいく。

「カメリハ」が終わり、ディレクターを中心にスイッチャー(各カメラを切り替える人)とカメラマンが集まって、「カット割り」の修正打ち合わせが始まる。

「カメリハ」をやってみて、カメラが間に合わない所を見直す打ち合わせだ。

打ち合わせが終わり、生放送のスタートが近づいて来る。

僕の本番への秒読みが始まった。

MCが舞台に登場し、生放送に突入した。

数曲の歌が続き、生放送は順調に進んでいた。

僕は元来「強迫神経症」である。
「家の鍵閉めてきたかな?」
と不安になり、何度も家に戻って確かめないと済まない病気だ。
ひどくなると、自宅から一歩も出られなくなる。

僕はそこまでは行かないが、そういう状態になる危険性をいつも孕んでいた。

この生放送の時がそうだった。
「本当に自分の時間割表は大丈夫なのか?」
ムクムクとそんな気持ちが芽生えた。

生放送が進行する中、秒読みをしながら、僕は時間割の再計算を始めた。

隣に座っているディレクターに気付かれない様に。

そして、発見した。自分自身のミスを。

このまま、生放送を続けていくとエンディングで1分、時間が余るのである。

つまり、グランプリを受賞した歌手が歌を歌い終わって、紙吹雪が降り注ぎ、紙テープが飛んで、受賞歌手の歌終わりのUPから会場全体の映像になって終わるはずが、そこからまだ1分も時間が余ってしまう。

脳が痺れた。頭が真っ白になった。

これから後に歌われる歌の時間を引き延ばす事は出来ない。

「どこを1分延ばせばいいんだ?」

自問自答。心を落ち着かせようと懸命に試みる。今一度、時間割表を凝視する。

その間もディレクターや現場に秒読みもしなければならない。

「ここしかない!!」

見つけたのは、番組後半にある4分のトークコーナー。これを5分で「読む」事に決めた。

何曲かの歌が終わり、トークコーナーに入った。1分を1分強にして読んだ。

「トーク長くない?」

ディレクターがついに僕にそう言った。

「いえいえ、時間通りに進んでいます!順調ですよ」

冷や汗ものだった。心の中と裏腹に、僕は表面上落ち着いて秒読みをしていた。

トークコーナーが永遠に終わらないのではないかと思うほど、長く感じた。

エンディングに入り、グランプリ歌手が決定、号泣しながら歌っていた。

エンドロールが流れ始め、紙吹雪が大量に落ちていた。歌終わり、紙テープが客席に向かって発射され、MCが一言締めのコメントを言って、会場の広い画になり、生放送は終わった。

「お疲れ様でした!」

僕は心無しか、大声でそう叫んでいた。人生でいちばん痺れた瞬間だった。

「強迫神経症」的な性格で良かったと。でも生放送の怖さを身を持って感じていた。

サザンオールスターズが番組に出ていたので、数十年前の話だ。
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番組の「前説」

2023年03月20日 | テレビ番組
公開収録番組。公開生放送。前説。

まず、バラエティー番組の収録の前説。

スタジオに来ている観客の皆さんを「温める」のが目的。

では、「温める」とは?

出演者のやりとりを観て聞いて、「自然に大きなリアクションで笑ってもらえる状態」に観客を持って行く。それが「観客を温める」という事。それが「前説」のいちばん重要なポイントだ。

基本は若手有望な漫才コンビの皆さんが「前説」をやっている事が多いのだが、あるバラエティー番組では後輩のN君がやっていた。彼は番組の「総合演出」だ。

彼の「前説」は、今流行っている事などから話し始め、大阪人ならではの「笑いのセンス」で観客を魅了し、爆笑に誘う。

スタジオ観覧のほとんどが若い女性だ。100人位の女性の前で、N君の話は盛り上がる。特に女性が興味を持っている「恋愛あるある」とか、一方的では無く、観客と双方向に会話をする様に徐々に女性たちを盛り上げていく「前説」をするのが彼の流儀。

僕が女性だったら、彼の魅力的な喋りにぞっこんになり、惚れてしまうかも知れない。そんな事を思った事もあった。

但し、あまり本番前に観客を爆笑させ過ぎると、観客が本番中疲れて「笑い」が起きにくくなってしまう。

その辺の塩梅がN君は絶妙だった。

N君の巧いのはそればかりでは無い。

MCとゲストがスタジオに入り、本番3分前位まで「前説」をやるのだ。

スタジオ内の観客がホッカホッカに「温まり」、それが頂点を迎えた瞬間、MCの二人がスタジオに飛び出す。

「オーオーオー!」

スタジオにこだまする観客のどよめき。それに続く大きな拍手。

MCも気持ち良く番組をスタートする。MCの気持ちは呼び込むゲストにも伝わり、相乗効果となって番組は盛り上がっていく。

N君の「前説」に僕は何度も爆笑した。他の番組で「前説」をする若手漫才コンビには絶対真似できない何かを彼は持っていた。

「前説」は難しい。
僕もいろんな番組で「前説」をした経験は有るのだが、結構緊張する。人見知りの僕には。

50〜300人位の前でやるのが、いちばん「アガる」。観客一人一人の顔がはっきり見えてしまうからだ。

「ウケる」と思って言った言葉に反応がそれほどでも無かった時、焦る。焦れば焦るほど、「前説」は面白く無い方に一気に転げ落ちて行く。最悪だ!

AD時代、「高校生クイズ近畿大会」、大阪城ホール満員、一万人の高校生の前で「前説」をやった事がある。

この時は全然アガらなかった。一万人になると、各々の高校生の顔は点にしか見えない。だから、自分のペースで「前説」が出来る。

大阪城ホール、一万人の高校生の前で今、僕は喋っているんだという高揚感もプラスに働く。

公開収録でも公開生放送でも大事なのが「拍手の仕方」を観客に伝える時。

先輩から教わった言葉。

「ハイ、これから拍手の練習をします!」
パチパチパチ。
「隣を見て、拍手をしていない人がいたら、その人は置き引き犯ですよ!御注意下さいねー!」

その言葉に観客はより一層大きな拍手をしてくれる。

芸人でもタレントでも歌手でも観客が入っていた方がすぐにリアクションが見られて、番組の進行がやりやすい。

その「大切な観客」をテレビ画面の外で盛り上げる「前説」。テレビ番組を作っていく上では無くてはならないものなのである。

今日もあっちのスタジオ、こっちのスタジオで、ユニークな「前説」が行われているに違いない。

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「11PM」と「秘湯の旅」

2023年03月10日 | テレビ番組
その日は何かと慌しかった。
「火曜イレブン」の本番当日。
カメラリハーサルは押しに押した。(スケジュールが遅れる事)

終いには、番組の最後の一つ前のコーナーで流す「秘湯の旅」のVTRも「流したテイ」でカメリハは進められた。

23:33からの生放送なのに、カメリハが終わったのは、23:15。

スーパーテロップの直しも数枚。

当時はディレクターやタイムキーパーがいて、スタジオに指示を出すサブ(副調整室)で、テロップは直せなかった。

紙のテロップを四階のサブから地下一階の「テロップ室」まで持って行き、直して貰い、再びサブに戻るという作業が必要だった。

直してもらったテロップを持ってサブに戻って来たのが生本番5分前。

この日、タイムキーパー(スタジオに向かって、残り時間を伝えるスタッフ)だった僕は生放送までの時間をよみ始めた。

タイトルが終わり、一つ目のCMに入る。

CM明けは「バーを持って踊る水着姿のキャンペーンギャルのVTR」から始まる。

「火曜イレブン」は「TIME GANG TUESDAY」と呼ばれていた。

僕の想像だが、「いろんな情報が詰まっていて、視聴者の時間を奪う(GANG)程、魅力的な1時間といった意味だったのか?

藤本義一さんとホステスの掛け合いの中に、羽川英樹アナウンサーやタージンたちが割り込んで来て、次々とテンポ良く番組を進めて行く。

「特集のコーナー」が二つ有り、その後、面高昌義さんがアメリカからリポートする「USA最新情報」。

そして、「火曜イレブン」の名物コーナー、トップレスの女の子がウサギちゃんに扮して、全国の温泉を紹介する「秘湯の旅」。

最後のコーナーは、藤本義一さんが今日の番組の感想を言い、ホステスが
「明日は東京・日本テレビからお送りします」
と締める。

エンディングのハモンドオルガンの演奏がスタート。

今週のギャルの映像に変わり、ダバダバダバダバが流れ始め、番組は終了。となるはずだったが・・÷

この日の生放送はカメリハでバタバタしたのが嘘の様に、スタジオも盛り上がって、順調に進んでいた。

ちょうど、新人研修の一環として、十数人の新入社員が「11PM」の見学にサブの後ろで生放送を見守っている。

一年前、僕が見学した時、「カッコいい仕事を先輩たちはしているな」と思っていたので、僕もそう思われているのかな?と内心誇らしげな気持ちも多々あった。

ラス前、「秘湯の旅」のコーナーに入る。CM明け、VTRをスタートさせる。

1分毎にスタジオにVTRの残り時間を伝えていく。

「まもなくスタジオに降ります!」と僕は言った。

しかし、
「まだ、スタジオには降りないよ!」とOディレクター。

「えっ!!!」と僕は絶句した。

本番終了、Oディレクターに聞いた話。

台本を作っていて、時間を書き込む時、番組全体の尺がオーバーしてしまった為、「秘湯の旅」のVTRの長さを実際とは違う7分と書いたのだと言う。

「秘湯の旅」の後は、最後のCMを挟んで「エンディング」しか残っていない。

Oディレクターの判断で、「秘湯の旅」のVTRの途中でスタジオに降りた。

「ウサギちゃんが温泉の効能」を言うところは流れず、サブには本当に気まずい雰囲気が流れた。
僕には居所が無かった。

Oディレクターの判断は正解だった。

ラストのCMを消化して、エンディングのコーナーがなんとかキチキチで入った。

この出来事、起こらない様にする為には、僕がカメリハ前に、各VTRの尺を確認しておく必要があった。
タイムキーパーとして失格だった。

生放送が終わって、僕はしばらく立てなかった。自分のミスで起こった事を猛烈に反省していた。

サブの後ろに並ぶ一年後輩の新入社員の方も恥ずかしくて見られなかった。

生放送は怖い。何度やっても怖い。だから逆にやめられないのかも知れない。

生放送に臨む時には、何が起こっても大丈夫な万全の整えをする事をこの日学んだ。



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アメリカ横断ウルトラクイズ その2

2023年03月06日 | テレビ番組

「コンボイクイズ」とは、解答者がそれぞれ走る複数のコンボイ(超大型トラック)に乗って、トメさんがヘリコプターで並走し、クイズを出題。正解すると、前のコンボイを追い抜く事が出来、コンボイ軍団の先頭で正解すると勝ち抜け。


「複数のコンボイ」を使ってやる大掛かりなクイズ。


上下二車線、一台の車も走らない状態で、長距離の道を封鎖して行わなければならない。


さらに、クイズが行われる沿道の全ての家に「収録当日、車を使わない様に」と伝える。


何故なら、「コンボイ」の間に、他の車が入って来てはクイズが成立しないからだ。


これはアメリカのコーディネーターの仕切りが素晴らしく上手かった。


「『コンボイクイズ』でいちばん大変なのは『音声さん』ですよね?」と僕。

「そうなんです。よく分かりましたね」とSさん。


トメさんの喋り、そしてクイズを出題する音声を、動く複数のコンボイに乗った解答者に聞かせる事。


解答者の喋り、そしてクイズの答えがトメさんに聞こえる事。


もちろん、トメさんと解答者のやり取り全てが、基地にいるディレクターにも聞こえる事。


しかも、ヘリコプターとコンボイとディレクターの3点を繋ぐのは全てワイアレスで行わなければならない。

この技術は半端ない。


「アメリカ横断ウルトラクイズ」、早押しクイズの撮影。


正面から解答者全員を押さえていて、「ウルトラハット」の「?マーク」が立ち上がったら、瞬時にその人に寄るメインのカメラマンKさん。手持ちカメラで寄っても一切ブレない。


そして、サブのカメラマンが解答者の横からそれぞれの解答者の表情を狙う。


この二人のカメラマンの「匠の技」によって、「ウルトラクイズ」は成り立っていたのだ。


「収録したVTRはどうやって日本に持ち帰っていたんですか?」


紛失してはいけない収録済みな大切なVTR。決勝の地、ニューヨークまで全てを持って行けない。


「それぞれのチェックポイントの敗者を日本まで送り届けるスタッフが東京の編集室まで運ぶんです」


「なるほど!」


小さなスーツケース1つしか持って行けない「ウルトラクイズ」のスタッフ。

毎日、着る服はどうしていたんだろう?


その疑問をSさんにぶつけた。


服装は基本、Tシャツと短パン。ホテルの乾燥機付きランドリーで洗う。


寒い所のロケは、洗わないで済む「ウルトラクイズ」特製のジャンバーをスタッフ全員羽織っていた。


Sさんと過ごした池袋の夜。泉の様に湧き出るお話を聞いていると、時間の経つのはあっという間。


二人で蕎麦屋を出た。


外気が少し肌寒かった。

そして、またの再会を約束した。


「壮大な人間ドキュメンタリー」、「アメリカ横断ウルトラクイズ」が終わって、四半世紀。


その裏側にも、もう一つ、「スタッフの、想像を超えたドキュメンタリー」があった。


僕は帰路、心の中でスキップしていた。

Sさんにたくさんのエネルギーをもらった。


生まれて来て、見たテレビの中で、僕のいちばん大好きな番組は、「アメリカ横断ウルトラクイズ」だ!


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アメリカ横断ウルトラクイズ その1

2023年03月06日 | テレビ番組

元・日本テレビプロデューサーSさんと金曜日の夜、池袋の蕎麦屋で飲んだ。コロナ禍もあって、三年ぶりの再会。


Sさんと知り合ったのは、「高校生クイズ」だった。


当時、Sさんは、「高校生クイズ」のチーフ・プロデューサーで僕は「高校生クイズ 近畿大会」のAD


どんなスタッフに対しても、分け隔てなく接して下さる温かい人柄のSさんとの長い付き合いが始まった。


Sさんは日本テレビ入社後、ドラマ「前略おふくろさま」の「美術進行」(撮影現場で「美術」に関する事を全て取り仕切り、現場をスムーズに進めるスタッフ)をやっていた。


その際、脚本の倉本聰と主演の萩原健一(ショーケン)には絶対文句を言わせないと心に誓って、ドラマの収録に臨んでいたという。


そして、ドラマの次に手がけたのが「木曜スペシャル」の「美術」。


いろんな経験をされた。

ピラミッド特番でディレクターとエジプトに行った事もあったそうだ。


ある日、Sさんは美術部の上司に呼ばれる。


「今度、アメリカ各地を廻って、クイズをやる番組がある。お前やるか?」と上司。

Sさんは少し考え、

「やります」と答えた。


これが日本テレビ開局25周年記念番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」だった。1977年。


最初は二週にわたっての放送。その年だけの特番の予定。


しかし、放送してみると番組は好評。第2回以降も続く事になる。(19771998)


Sさんは「美術」だから、「早押し台」にも「ウルトラハット」の製作にも関わっていた。


アメリカ大陸横断中には、「東京直行」の看板を手書きで描いたりもしていたそうだ。


「美術」から「制作」に変わったSさんはディレクターやプロデューサーとして、毎年番組に参加していた。


海底で福留功男さん(トメさん)が問題を出し、同じく海底にいる解答者が早押しで答えるクイズのディレクターはSさん。


池袋の蕎麦屋で引き続き、Sさんの話を聞く。


「『コンボイクイズ』、凄かったですよね」と僕。

(その2へ続く)


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ディレード放送とは?

2023年03月02日 | テレビ番組
「ディレード放送」というのをご存知だろうか?

いちばん分かりやすいのはゴルフ中継。

ゴルフ中継は一見「生放送」に見えるが、実は厳密にはそうでは無い。

16〜18番ホールにそれぞれ中継車が置かれ、そこに複数のカメラがある。

この3台の中継車から本社のサブセンターへ、3ホールの中継映像と音声が同時に送られる。

16番ホールの模様をOAしている時、同時に17番、18番ホールの模様もVTR収録しているのである。

16番のOAが終わったら、ディレクターの指示に従い、17番か18番のVTRが再生されて、視聴者にはあたかも3ホールのプレイが連続して生放送している様に見せるのである。

これが「ディレード放送」の基本。

「11PM」でも「ディレード放送」が行われる時があった。

日本テレビ系列が「プロ野球・ジャイアンツ戦」を放送する日、当時は30分の延長があった。

ところが、「11PM」のうち、「テレビ大分」だけが「日本テレビ系列とフジテレビ系列両方の番組を混在して放送するクロスネット局」。

「テレビ大分」は「ジャイアンツ戦」を放送していなかった。その時間帯、フジテレビの番組を放送していたのである。

つまり、どういう事が起こるかというと、「11PM」、日本テレビ系列のテレビ局は「ジャイアンツ戦」が30分延長になって、24:03からの放送。

「テレビ大分」だけは30分延長が無いので、23:33からの放送となる。

この場合、どうするかと言うと、「テレビ大分」の放送時間に合わせて、「テレビ大分」だけ、生放送。

あとの日本テレビ系列の局は、その放送をVTRで収録しつつ、30分遅れで放送する。つまり、収録しながら、放送するのだ。

普段の生放送の場合、CMに入ると、サブ(副調整室・・・ディレクターやタイムキーパーが座って、スタジオに指示する部屋)のデジタル表示に「CMの残り時間」が自動的に表示される。

タイムキーパーをやっていた僕たちもそれを見ながら、スタジオへカウントダウン。

しかし、「ディレード放送」の場合は、うちの局は生放送していないので、CMに入っても「残り時間」は表示されないのである。

こんな時はどうするかと言うと、僕自身がCMに入った瞬間に手元のストップウォッチを押し、CMの「残り時間」をスタジオに伝えていく。

ストップウォッチを握る手は薄らと汗が滲み出る。この操作を間違えれば、「テレビ大分」を含め、「11PM」をネットする全局で大きな放送事故が発生する。

本当にドキドキしたものだ。

でも、僕はこの「タイムキーパー」という仕事が好きだった。

カメラリハーサルを見て、ディレクターがどのコーナーをいちばん重要視しているかを以心伝心で察知し、生放送の時間配分を調整していく。

テロップの確認、準備も重要な仕事。

生放送に入れば、スタジオへの秒読み。

VTRのスタートボタンを押す。VTRは3秒経たないと、OAに乗せられない(当時のVTRは一定のスピードになるまで3秒かかった)ので、スタジオトークが終わりそうなタイミングを読んで、スタートボタンを押していた。

CMに入る時に押す「APS」と呼ばれるボタン。このボタンを押すと、5秒後に全ネット局がCMに入る。

そして、いちばん大事なのは、なるべく余計な事は言わない事。

インカム(サブとスタジオを繋いでディレクターがカメラマンやフロアディレクターに指示を出す回線)の使用を最低限にする事。

ディレクターの指示が僕の秒読みなどで聞こえなくなってしまっては最悪だから。

几帳面な性格の僕にはこの仕事が合っていた。

あり得ない事だが、日本テレビ「24時間テレビ」のラスト・マラソンがゴールする時のサブのタイムキーパーをやってみたかった。

「負けないで」が流れ、全ネット局のリレー中継があり、「サライ」が「確定(決まった時刻)」で出る。そのタイムキーパーをやるのが叶わぬ夢だった。

話は脱線したが、「ディレード放送」。

ある特別番組をやった時、こんな事があった。
その番組も「ディレード放送」。収録して、すぐにOA。

あるコーナーで時間が押して来た。後輩フロアディレクターのN君が仕切っている。

あまりにも押すので、N君、初めは指を回して、「巻き」の合図(早く終わって!の合図)を司会者に出していた。

でも、そのコーナーはなかなか終わらない。今度はN君、司会者に×を両手で大きく出した。やっとCMに入った。

ここで予想だにしない事が起きた。司会者が
「司会者がスタジオを出て行くか、N君がスタジオを出て行くか」
とN君に迫ったのである。

もちろん、N君は駆け足でスタジオを出て行った。

その時までN君に全てを任せて、呑気にスタジオの隅にいた僕。

突然、取り残された僕が時間内に番組を入れる宿命を背負わされる事になった。緊張のあまり、ドキドキが止まらない。司会者は物凄く怒っている。

最後のCMに入った。CM明け、最後のコーナーの残り時間がタイムキーパーさんから来た。

僕は恐る恐る司会者に近づいて行き、横に立って言った。

「ラストのコーナー、2分37秒です」と。
司会者は怒った事が恥ずかしかったのか、僕と目線を合わせないで頷いてくれ、ちゃんと時間通りに番組を終わってくれた。

収録が終わると、僕は全身の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。

「だから、『ディレード放送』は嫌なんだ」と呟きながら。



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