先月、長男の結婚式があった。一日、新郎の父親として、結婚式から披露宴に出ているのはとても嬉しい事だったが、かなりのエネルギーも必要とした。
参列された方々が「新郎新婦」の写真をパシャパシャと撮る。
普通のカメラを使って撮る人は皆無。皆さん、「スマホ」で連写している。何十万枚もの写真が1日で撮られた事だろう。
数十年前、「スマホ」も「インターネット」も無い時代、写真の撮影は「フィルムのカメラ」だった。
フィルムには24枚とか36枚の「枚数制限」が有り、「現像料」もかかる。それゆえ、撮る枚数も限られていた。現像が挙がった写真は「アルバム」に丁寧に貼られた。
今、「スマホ」で写真を撮る人たちは、「決定的瞬間」を逃さない為に「連写」する。だから、写真の枚数は膨大に膨れ上がる。枚数ゆえ、「アルバム」に貼られる事も少ないだろう。
太古の人々が食べた貝。それらが「一ヶ所に捨てられた場所」を「貝塚」という。教科書で習った「大森貝塚」の事を憶えている人も多いだろう。
今から何千年か経った未来、「スマホ」が「一ヶ所に捨てられた場所」を発見する未来人。「スマホ」の中身を「復元」すると・・・
大量の「写真」が出て来る。未来人は「大昔の人が何故こんなにたくさんの写真を撮ったのか?」疑問に思うかも知れない。
こういう事を「妄想」するのが僕は大好きだ。
その「妄想」は全て、僕が「筒井康隆」というSF作家にハマっていた事から始まる。
「筒井康隆」、現在88歳。中学・高校・大学と彼の新刊が出る度に、即購入。授業中も膝の上に文庫本を広げて、「筒井康隆」を読んでいた。
「虚人たち」より前の作品は全て読破。
中でも短編集「エロチック街道」(新潮文庫刊)に所収されている「遠い座敷」という作品がいちばん好きだ。
「山の麓に住んでいる少年」が「山の頂上に住んでいる友だち」の家に遊びに行く。
二人は遊ぶ事に夢中になり、気が付いたら、窓の外は真っ暗な闇。完全に夜になっていた。
「麓に住む少年」は「行き」に登って来た道を、闇の中、家まで帰って行くのを躊躇う。街灯も無く、やっぱり怖いからだ。
すると、「友だちの家族」が当たり前の様に、「君の家とウチの家は繋がっているよ」と明るく言う。
主人公の少年は「友だちの家族」の言葉を信じて、その家の和室の襖を開けると、そこには「一段低い座敷」が現れる。
その座敷に降りて、次の襖を開けると、またさらに「一段低い座敷」が現れるのだ。
階段状の「座敷」をどんどん下りて行く少年。「次の襖の先」には何が現れるか、ドキドキしながら。
座敷には「子供心にとても怖しく感じる彫刻」がいろんな形で欄間に刻まれていたりもする。
数えきれない「階段状の座敷」、「気が遠くなる様な時間」が過ぎた。
そして、少年は何十回目かの襖を開ける。
そこには「明るい我が家の座敷」が有り、家族が囲炉裏を囲んで団欒していた。
読んだのがかなり昔なので、細かいところは間違っているかも知れないが、おおよそそんな話である。
中高時代、進学校の男子校に片道1時間半もかけて通学していた僕。部活のバスケで家に帰るのも遅く、女の子とデートする時間も取れなかった。多感な10代に「熱い恋愛」をしたかったのに。
「筒井康隆」は、そんな僕を「妄想の世界」に何度も導いてくれた。一度、「妄想の世界」に入ってしまえば、僕はどこでも行けた。
だから、結婚式や披露宴に出席して、「貝塚」ならぬ「スマホ塚」の事を思いついてしまったのである。
現在、警察は犯人を捕まえると、まず「スマホの中身」を見るという。そこに「犯人の人格」が凝縮されているからだ。
地球上で、「今生きている何十億人が持っているスマホ」。100年以上経てば、全て使い手は死んでしまう。
「Facebook」などで、亡くなった人を追悼するアカウントもある。友人や学校や仕事を共にした友人が亡くなった人の「誕生日」に「誕生日の追悼コメント」を毎年書き込んでいるのに接した事も多々ある。
地球上の全ての「スマホ」が「スマホ塚」となって、残される可能性もあるのでは?
未来人は大量の「写真」や「文章」「動画」「閲覧履歴」「いいね」を見て、何を思うのだろうか?
僕はその事に、今、興味津々なのである。