若いうちに「地球の端」に行きたいと思った。そこで選んだ目的地が南米・マゼラン海峡。アメリカのマイアミ(南米へのハブ空港)経由で、チリの首都サンチャゴへ。暑くてTシャツ一枚。国内線に乗り換えて、チリの最南端の町・プンタアレーナス。かつてテレビ番組「電波少年」ドロンズ南北アメリカ大陸縦断の旅のスタート地点。空港に着くと極寒。震えながらダウンを着込む。雪が降りしきり、道路は凍りついていた。ホテルにチェックイン後、海を見に行く。空はいつ魔物が出て来てもおかしくない薄暗い灰色。体を持って行かれそうな強風が吹き荒れ、波が激しく泡立っている。やはり、昔から幾多の船乗りを泣かせたマゼラン海峡。風景が泣いているようだ。遥々、日本から見に来て良かった。翌朝は午前3時起き。往復6時間タクシーに揺られて、氷河観光ツアーに参加。ツアーが戻って来るまで、タクシーには待ってもらう。二度と来ない地だから、多少の出費には目をつぶろう。氷河の先端は想像以上に巨大でそそり立っていた。ツアーのバスで腰を浮かしたり姿勢を変えても小便を我慢できなくなり、大ピンチ!添乗員さんに申し出る。外国人観光客が優しく笑いながら「エコロジカル・トイレット(環境に優しいトイレ)」と大合唱。バスを降りて森の中で立ち小便。翌日、空路プエルト・モンへ。この町から首都サンチャゴに向けて、寝台特急が出るのだ。ホテルを取り、列車の指定券を取る為、駅に向かう。翌朝、乗り鉄の僕はウキウキしながら駅へ。列車に早めに乗る。しかし、定刻の午前11時を大幅に過ぎても列車はぴくりとも動かない。親切なアメリカ人が来て、「機関車がこの駅には来ないから、駅前のバスに乗って移動するよ」と。駅員は誰も説明に来ない。バスに乗って北上。何ヶ所かの駅に止まるが、機関車が来ないのでどんどんバスは北へ向かって走る。やっと着いた駅のホーム。足を投げ出してゲームボーイの麻雀。やがて北の方向から汽笛が聞こえ、煙が見えた。4時間遅れ。寝台特急に乗り込んで、すぐ食堂車へ。ステーキとウイスキーを頼む。疲れた体と心に酒が心地良く沁み込む。就寝。翌朝、列車は遅れを一切取り戻すこと無く、4時間遅れでサンチャゴ駅に滑り込んだ。僕は秒単位で動いている日本の鉄道の事を考えた。
エールフランス航空でフランス統治領タヒチの首都パペーテに向かう。日本から10時間あまり。最終目的地はチリ領イースター島いる。だ。チリ領だが、イースター島に行くにはタヒチ経由の方が早い。ランチリ航空がタヒチ・イースター島・チリの首都サンチャゴの間を週2〜3便結んでいる。日本から行く場合、いろんな旅行代理店に申し込んでも、それをタヒチの旅行代理店がまとめて、イースター島まで連れて行くのだ。僕が参加したツアーは新婚カップル4組と男性添乗員と僕の10名。現地のホテルに着くと部屋に。ベッドの下から何かの微かな鳴き声。覗き込むと子猫が震えている。スペイン語は分からないが、部屋の前で掃除をしていたおばさんに手振り身振りで子猫の事を伝える。観光。雲ひとつ無い快晴。少し汗ばむほど。添乗員さんがしきりに写真を撮っている。訊くと、イースター島は南海の孤島ゆえ、普段は嵐の様に雨風が吹き荒れているとの事。彼は28回来ているが、こんな快晴は初めて。観光パンフレット用の写真を撮っていたのだ。海の方を向いて並んでいるモアイ像。神々しい。お土産物屋へ向かうバスの中、お腹がぐるぐるなっていた。新婚さん達がお店に殺到。僕は漏らしそうになっていた。限界だ。これ以上我慢できない。ポケットティッシュを手に急いでバスの反対側に。民家の庭で「した」。添乗員さんは気付いていた様だったが無言。申し訳ない思いでいっぱいだったが、新婚さんの乗っているバスの中で漏らす事には耐えられなかった。僕のイースター島のいちばんの想い出はこれ。二年後、東京・お台場のホテルで来日した添乗員さんと会った。僕らは既に親友の様に親しくなっていた。
2022ありがとうございました(≧∇≦*) pic.twitter.com/LcqjO60spo
— 多胡うらら (@t_u01111) December 31, 2022
来年もよろしくお願いします❣️
南米ボリビア、首都・ラパス。富士山の頂上くらいの標高に位置する街。僕は「遊園地」でジェットコースターに乗っていた。海外旅行に行って必ず行くのは「文房具屋」「本屋」「百貨店」「動物園」「駅」「遊園地」など。その国の人々の暮らしが知りたいからだ。観光地にはそれ程興味は無い。ラパスを歩いていると、五分くらいで息が切れる。空気が薄いからだ。そんな時は「コカ茶」を飲む。コカの葉は「覚醒剤」の原料だ。この街はすり鉢状になっていて、そのすり鉢の底に「金持ち」が住んでいる。理由は「標高が少しでも低いと、空気が濃いから」だ。この日、僕は日本食を食べたくて、ガイドブックを見ながら歩いていた。そこに「富士鮨」の看板。思い切って入る。カウンターの奥から板前さんが銃で僕を狙っている。ヒヤッとしたが、よくよく話を訊くと「ボリビアには最近中国からの不法労働者の入国が多く、治安が悪化している為、カウンターの下に銃を置いている」との事。板前さんはラパスに来る前、大阪・江坂の鮨屋で働いていたと聞いて、大阪出身の僕と話が盛り上がった。ガラガラっと音がして、カップルが入って来た。日本人の男性とボリビア人の女性。男性は土木の技術者として、指導の為にボリビアに長期滞在していると言う。女性は彼の愛人。二人と親しくなり、よる10時半から行われるフォルクローレ(「コンドルは飛んでいく」を歌ったり、タンゴのダンスを観たりするショー)を観に行かないかと誘われた。もちろん、ガイドブックに載っている店では無く、地元ラパスの人に人気の店。南米ではよる10時半と深夜1時半の二回公演でショーが行われる国が多い。好奇心いっぱいの僕はOK。カップルと別れて、夜、指定された店の前で落ち合う。ショーには様々な出し物がある。歌・踊り・人種差別を題材にした際どいスタンドアップコミック(日本でいう「毒舌漫談」の様な出し物)などなど、様々な芸を観る事が出来る。至福の二時間。最後にバンドが出て来て、観客席の僕らに呼びかけた。「今夜は二人のハポーネ(スペイン語で日本人のこと)が客席にいらっしゃいます。その二人の為にこの曲を捧げます。お聴き下さい」。そう言って、演奏し始めたのが坂本九の「SUKIYAKI」。ボリビア・ラパスという異国の地で、深夜この歌を聴いた時、僕の心は打ち震えた。おじさんの連れの女性がこのバンドの知り合いで、僕たちに内緒でリクエストしてくれたのだ。劇場を出て、僕は空を見上げた。標高が高くて空気が薄いせいか、僕には満天の星が今にも降って来そうに思えた。ワインで程よく酔った身体に外の寒さが心地良かった。僕は坂本九の「見上げてごらん、夜の星を」を口ずさみながら、ホテルへ向かった。
一歳になる長女を連れ、家族三人でイギリスに行った。ちょうどクリスマスの頃。ロンドンから鉄道に乗って、ピーター・ラビットの故郷・イングランド北部の湖水地方を巡り、さらに北上してネス湖でネッシーを観て、ロンドンに飛行機で戻るというプラン。しかし、この計画に大きな壁が立ち塞がった。イギリスには「BOXING DAY」という日がある。クリスマスの飾りを箱に仕舞うという日。この日、イギリス国鉄は全線ストップ。慌てて、レンタカー屋に駆け込み、車で湖水地方を目指す事になった。その距離、500km余り。大型のVOLVOを運転して、慣れない道を走る。路肩に出来たアイスバーンで何度も何度も何度も滑りそうになる。湖水地方の「お菓子の家」の様な可愛いホテルに着いたのはもう日が暮れようとする夕方。粉雪がしんしんと降っていた。音が降る雪に吸収されるのか、とても静かで心が癒される。翌日は湖水地方の中心にあるウィンダミア湖で汽船に乗る。手が痛い程寒い。さらに車で北上。グラスゴーのヒルトンホテル泊。グラスゴーの街には日本人がたくさん働いていて、ホテルのレストランのビュッフェでも美味しい日本食が食べられる。運転で疲れた身にはありがたい。長女は車の中でも大人しく寝てくれている。グラスゴーから北は道路が凍結していて危険なので、鉄道でネス湖観光最寄り駅インヴァネスへ。駅前に赤提灯がぶら下がっていて、そこにはカタカナで「カラオケ」と書かれていた。日本から遠く離れたこの地で「カラオケ」と出会うとは感慨深い。ネス湖周辺は限りなく曇天。いつ「ネッシー」が出てもおかしくない雰囲気を醸し出す。お土産物屋でネッシーが刺繍されたワイン色のトレーナーを購入。これは今でも持っている。僕のお気に入り。
インヴァネスからグラスゴーに戻り、空路ロンドンへ。ロンドンでは寒い中、長女を遊園地に連れて行く。メリーゴーランドに乗った長女は上機嫌。吐く息が白い。ロンドンは北海道と同じくらいの緯度。ホテルのロビーに置いてある朝日新聞で、フリーアナウンサー・逸見政孝さんの訃報を知る。年を越えて、日本航空にて帰国の途に付く。座席に余裕ができたのか、赤ちゃんを連れているからなのか、食事はまんまだがビジネスクラスにアップグレードしてくれた。機内でも長女は一切泣かず、家族三人、無事日本到着。今思うと、懐かしくも良き想い出が出来た年末年始の旅だった。
ブラジル・リオに行った時、街中を走る路面電車に乗りたくて、衝動的に行動に移した。電車の終点はリオでも治安のとても悪い所。僕はかなりドキドキしていた。終点近くの美術館に行きたくて探していると、ジョギングしているおじさんが通りかかった。彼に訊くと美術館まで連れて行ってくれるという。美術館を観覧し出て来ると、おじさんが待っていて、「ちょっと飲みに行かないか?」と誘ってくれた。石畳の路上にテーブルの出た居酒屋で乾杯!英語で話をした。ブラジルでは人種差別がある。白人・白人とインディアンの混血・インディアン、色の濃いさで差別されるそうだ。そこで小学校の先生は考えた。生徒全員を「緑色」に塗れば差別が無くなると。しかし、差別は無くならなかった。「緑色」の濃い方から差別される様になったのだ。こんな話をおじさんから聞いていると、「今日は息子の誕生日なんだ。家に遊びに来ないか?」と言われた。好奇心旺盛な僕は尻尾を振っておじさんに付いて行く。出会って、2時間くらいで、「Happy Birthday」を息子さんの前で歌っている自分がいた。「おばあちゃんの家に行きたい!」と息子さん。一緒に来るかとおじさん。「行く行く!」と僕。おばあちゃんの家に移動。その家の窓から遠くに「娼館」が見えた。おばあちゃんはそれを指差して、「今、あそこは死の館と呼ばれている」と教えてくれた。ブラジルはアメリカに次いで「エイズ」が流行っている国だったのである。夜も更けてきた。おじさんは僕を車で、コパカバーナ海岸いちばん端にある一泊5000円の安宿まで送ってくれた。翌朝、ホテルの食堂で飲んだカフェ・コン・レーチェ(カフェ・オ・レ)は今まで生きてきた中でいちばん美味しかった。2023年は日本や世界を旅して来て感じたお話を綴っていこうと思っています。