僕は「11PM・手塚治虫特集」で1985年3月21日、ディレクターデビューした。
高田馬場・手塚プロダクションでの打合せ、宝塚市から大阪市内のロケ、そして生放送の本番。3回、手塚治虫先生とは会い、直接お話もさせて頂いた。
打合せ。15分位、手塚プロダクションの急拵えの二畳位の狭い応接室で待っていただろうか。
「初めまして。手塚です」
手塚治虫先生はそう言いながら、応接室に現れた。温かく優しく僕を包み込む様な声だった。
打合せが終わり、先生がアシスタントの方々に指示する様子を見ていると、「漫画に対する厳しい姿勢」をその顔付きに感じた。先生の目がギラギラと光っていたのを憶えている。
ロケは丸一日スケジュールを頂き、まずは宝塚市御殿山の生家跡の前から。母親の話。隣に宝塚歌劇団の大スターが住んでいた話。
移動して、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場に向かう「花のみち」を歩いてもらい、宝塚歌劇の楽屋に遊びに行って、そこから生まれた「リボンの騎士」の話。
そして、「手塚漫画」は「宝塚という街が持っていた洋風なハイカラさと大阪という街が持っていた泥臭さの融合」だという話をしてもらった。
大阪市内、四ツ橋にあった「電気科学館」。先生がよく通ったプラネタリウムの中で、「鉄腕アトム」の「近未来の世界」を想像していたの話。
そして、最後は大阪ミナミ・道頓堀・松竹座の前で、昭和20年4月戦争中に観たアニメ映画「桃太郎 海の神兵」の話。
先生はこのアニメ映画を観て、「一生に一回、アニメーションを創ってみたい」
と強く心に誓ったそうだ。
そして、生放送当日を迎える。
番組冒頭で、僕は手塚先生にピアノで「鉄腕アトム」を弾いてもらった。とてもとても巧かった。
初めてのディレクター、生放送はアッという間に終わっていた。
昨夜放送された「漫勉neo 手塚治虫」を今朝見た。
「今、手塚治虫先生が生きていたら、どんな『火の鳥』を描いていただろうと想像する」だけで、涙が溢れ出てきた。ロシアのウクライナ侵攻、コロナ禍・・・
僕にとって、そして多くの人々にとって「手塚治虫」は偉大な「漫画の神様」だった。
僕の部屋には、ディレクターデビューしたあの生放送の本番が終わった直後に先生が描いてくれた漫画が2つ残っている。
1つは、色紙に描かれた僕の大好きなキャラクター「三つ目がとおる!」の「和登さん」。
もう1つは、プロデューサーが「今日が初めてのディレクターだったんです」と手塚さんに言ってくれて、手塚さんが僕の台本をサッと取って裏表紙に描いてくれた「火の鳥」である。
僕はその家宝を毎日眺めながら、日々頑張って生きていく。