お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「野沢尚の世界」を観た。

2008年07月03日 | Weblog
NHKハイビジョンでの放送だったので、大阪の母に録画して貰い、DVDで送って貰った。僕は野沢さんと直接仕事をした事は無いが、僕が一緒にドラマをやった先輩ディレクターが野沢さんとよく仕事をしていたので、野沢さんが撮影現場に陣中見舞いで来られたのだ。その時の印象は先輩ディレクターのかなり後ろから現場に気を遣ってこっそり眺めている風で、本当に謙虚な人だなと感じた。番組は野沢さんの奥さんと関わりのあったドラマスタッフ、小説の編集者のインタビューと再現ドラマで構成されていた。ドラマで野沢さんを演じたのは陣内孝則さん、奥さん役は新山千春さん。知り合いのディレクターが演出しているのだが、アソコまで二人の芝居を大袈裟にした事、音楽の入り方が早く、感激して欲しいとばかり大音量で流されたら、逆に心に響かない。これは僕と妻の意見なので他の見方をされた方もおられるとは思うが…ドキュメント部分とドラマ部分のトーンの違いに違和感を覚えた。見終わって、「どんな無様な生き方でも生きている事がとても大切な事」だと再確認した。

砦なき者

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名探偵コナン・ベイカー街の亡霊

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1996年に放送開始され、長い人気を保つ青山剛昌原作のミステリーアニメシリーズの劇場用作品第6作。2002年作品。
バーチャルリアリティ空間で遊ぶ新型体感ゲームシステム「コクーン」が完成し、コナンたちはその披露パーティに招待される。だが、現場では開発責任者が殺される事件が発生、解決の鍵はゲームの中にあるとにらんだコナンは、ゲーム空間として用意された、切り裂きジャックの恐怖に包まれた19世紀末のロンドンへ。
本作では『破線のマリス』で江戸川乱歩賞を受賞したミステリー作家兼脚本家の野沢尚がシナリオを担当しており、一般のミステリマニアをもうならせるトリックと社会派テーマが味わえる。また、舞台が舞台だけにシャーロック・ホームズ好きにもたまらないネタが盛りだくさんの快作。(田中 元)

青い鳥 BOXセット

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さびれた田舎町の駅員である理森(豊川悦司)が、地元の実力者である名家の御曹司広務(佐野史郎)の再婚相手であるかほり(夏川結衣)と人知れず恋に落ちる。さまざまな障害を越えてふたりは愛し合い、理森になついたかほりの連れ子の詩織(鈴木杏)を連れ、3人であてのない旅に出る。
企画準備に1年、北海道から沖縄までをたどるロードムービースタイルの撮影に半年を費やした、ドラマの枠を超えたラブストーリー。脚本家・野沢尚がその力量を存分に発揮し、前半は主人公の理森と恋人のかほりの愛の逃避行、後半は逃避行後の理森とかほりの娘・詩織を中心に2部構成で描き、複雑な人間関係、理森、かほりにまつわる過去など、ミステリアスな要素もふんだんに取り入れて、ラブストーリーものを好きでない人まで夢中にさせた。佐野史郎ほか脇を固める役者陣の演技も素晴らしく、キャラクターひとりひとりのバックボーンが透けて見え、奥深く豊かな作品となっている。(茂木直美)

川、いつか海へ DVD-BOX

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一つの浮き玉をめぐって繰り広げられるさまざまな人々の営みを、倉本聰、野沢尚、三谷幸喜がリレー形式で脚本を担当して壮大な愛の物語に仕立てたテレビ放送50年記念ドラマ。網元の娘・遼子(浅丘ルリ子)と山の男・司郎(森本レオ)が一緒に作った愛の結晶である浮き玉を、その娘である多実(深津絵里)と愛人のもとに走った夫・慎平(ユースケサンタマリア)が、山奥深くの最初の一滴が生まれる水源の泉に里帰りさせるところから物語のすべてははじまる。
ダム建設に揺れる町の子どもたちを描いた第3話はいかにも倉本聰らしいタッチだし、元夫婦が夜の川で一緒に過ごす描写に雰囲気がある第5話も野沢尚らしいドラマティックな展開を見せるが、大いに笑わせてくれるのが第4話の三谷幸喜脚本のコメディー編。演劇のバックステージ物という十八番で楽しく見せてくれて巧みだが、浮き玉の話とはあまり関係ない。第6話はメッセージつきの番外編といった様相で、『川、いつか海へ』という大看板に偽ることなくドラマは締めくくられる。(麻生結一)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
NHKがテレビ放映開始50周年記念として制作した連続テレビシリーズ。脚本家に倉本聰を始め、野沢尚、三谷幸喜ら個性派メンバーを迎え、夫婦・親子・恋人など、さまざまな人間模様を絡ませた6つの物語が、不思議な力を持つ“浮き玉”と共に展開していく。

その男、凶暴につき

バンダイビジュアル

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
北野 武の記念すべき第1回監督作品。無謀な捜査で異端児視されている刑事・我妻諒介と、麻薬組織の殺し屋との息詰まる対決を描く。ある日、一隻の釣り船で麻薬売人の惨殺死体が発見された。捜査を進めるうち、我妻はひとりの男に辿り着き…。

内容(「Oricon」データベースより)
麻薬密売事件に巻き込まれた中年刑事の姿を描いた、北野武監督、主演で贈るバイオレンスドラマ。白竜、芦川まこと、川上麻衣子ほか出演。
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「どん底」という飲み屋に行ってみたい(新宿三丁目)

2007年10月29日 | Weblog
 ▼どん底の話


1.「どん底の歴史 」 
芝居好きの青年が、戦後の焼跡に掘っ建て小屋の飲み屋を開いた。昭和26年、酒場・どん底の始まりだ。

2.「どんカクの説明、林ライス・ピザの話」
夢はあっても金が無い。早く・安く・酔いたい。そんな時代に、どん底カクテルは生まれた。元祖、酎ハイ。酒場で軽食を出し始めたのは、どん底が最初かも知れない。その頃、専門店でしか味わえなかったピザ、キャベツと牛肉をサフランソースで炒めた具をのっけた林さんのライス。小腹を満たし、どんカクをあおりながら朝までの饗宴だ。


3.「どん底の内観・外観の話」
バラックの小屋から始まったどん底が、現在の場所に移ったのは昭和28年。今では、地下1階から3階建ての店となっている。蔦のからまる・レンガ作りの店だ。ドアを開けた瞬間、昭和30年代にタイムスリップする。灰皿を埋め込んだ開き窓、一升瓶の底を切っただけのシャンデリア、3階には歌声酒場、名残りのピアノ。今は、大型プロジェクターでスポーツ観戦等の出来るパーティフロアーになっている。30名様位まで、ビデオ・ピアノ使用可(要予約)

4.「スペインどん底の話」
スペインのマドリードにどん底の支店がある。店の名も『どん底』和食の店だ。ヨーロッパを遊学中、スペインが気に入った。ワイン・シェリー・生ハム・魚貝、何をとっても申し分ない。ただ、和食のおいしい店がない。ならば自分が、創始者・矢野は思った。今では、日本人旅行者だけではなく、スペイン内外のお客様に愛される店となっている。

5.「 常連客の二世・三世の方は、それぞれ2割引・3割引としています」

お店のサイトはこちら→http://www.donzoko.co.jp/


行きたい!行きたい!行きたい!




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上岡 龍太郎

2007年09月29日 | Weblog
上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、本名:小林 龍太郎、1942年3月20日 - )は日本の元漫才師・タレントである。旧芸名は横山パンチ、伊井パンチ。京都市出身。2000年に芸能界を引退。長男は映画監督の小林聖太郎。

人物
芸風としては、立て板に水を流したような流暢な口調と、理路整然とした語り、その一方で切れ味鋭い毒舌を吐きつつ、芸人としてバカを演じてオチをつける、というスタイルである。また、司会業に優れ、出演者のボケや主張に対してうまくツッコみつつ、ひとつの作品(仕事)を仕上げていくということができた。西条凡児以来の「知性で笑わせられる芸人」との評がある。

本人による自身の芸評
「僕は知的だといわれますが、適当なことばっかり言ってるんです。もっと知識のある人が僕を見て、『愛い(うい)やつじゃ』と嗤ってくれればいいんです」
「僕はしょうもないことはよく覚えてて、大事なところの知識がない。これを僕は『知識のドーナツ化現象』と名付けてます」
「インテリ」「知性的」「理論派」の芸風で人気があり、いわゆる上方お笑いの「コテコテ芸」からは逸脱していた。偏屈で、屁理屈をこねては鋭い毒舌を吐く印象がある一方で、言動に一貫性の無い部分もあり、それを洒落と受け止められない人もいたため、関西でも好き嫌いは分かれていた。

番組で自己紹介をする際、「『私が』上岡龍太郎です」と、常に私がを付け、更に強調していたのが特徴であった(ちなみに探偵!ナイトスクープの現局長の西田敏行もこれを踏襲して「私が局長の西田敏行です」と自己紹介している)。それ以前には、「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、上岡龍太郎です」と自己紹介をしていた時期もあった。この変遷は、後の東京進出によりギャラが一流になってしまったため、もう「ギャラが三流」とはいえないと本人が判断したことによる(EXテレビ内での発言)。

横山ノックは上岡より10歳年長であり、上岡の師匠だと思われがちだが、実際は師弟関係ではなく、漫画トリオ(1959年~68年)結成時からの仲間である。ただし、漫才や演芸については知識はあっても素人だったため、特にツッコミの入れ方でノックから厳しく指導された。ネタの構成等で上岡のセンスが必要でノックから声をかけられた。ノックのわがまま(参院選出馬)で解散となり、吉本にも戻れず干された時期があっただけに、ノックに対しては愛憎ともにあるといったところである。上岡曰く、ノックは自分の一番弟子(二番弟子が板東英二。もちろん、師弟関係ではない。正式な弟子は後述)。

売れ初めのころは自分のことの出た新聞・雑誌の記事をスクラップしていたが、たまたま見つけたノックが「そういうのはちゃんと残してくれる人が出てくるよ」と注意されたことに感動し、「残してもらえる芸人になろう」と発起したという。

夫人はパンチ時代のファンである。上岡に集まってきたファンの中から感ずるところがあり、「君は将来、ぼくと結婚する」と口説き続けていたと言う。当時、夫人はまだ中学生(上岡とは7歳年下)であり、それを知った笑福亭鶴瓶からは、「あんた犯罪者や」と突っ込まれた(上岡夫人に関しては、テレビ番組で一度だけ、自宅で後姿が写った写真が公開された事や横山ノックのお通夜へ上岡と一緒に参列した時に報道陣から車で去っていく写真を撮られたことがある)。

女性にはよくもてた。「囁けばみんな落ちる」と言われていた。これは、女性を左耳から囁けば右脳が反応し恋に落ちやすくなるという話を聞き、実践していたからだと言われている。黒柳徹子が徹子の部屋でやってほしい、と振ったことがあるが、これは理屈を並べて断った。

落語立川流の門下(Bコース)でもある。立川流での芸名は上岡自身が大ファンでもある市川右太衛門にちなみ立川右太衛門。また、上方お笑い大賞の大賞を受賞したときの授賞式のプレゼンターとして市川右太衛門が登場し、大感激の授賞式となった(市川右太衛門がプレゼンターでなければ断っていた、とは本人の話。もともとが賞嫌い)。

様式美を好むところがあり、前述の市川右太衛門のように、様式美の中で心躍らされるチャンバラ映画を深く愛している。そのため、リアルさを出していった黒澤明を非難し、黒澤以降の近年の時代劇映画のほとんどには否定的である。(「天国と地獄」など現代劇に関しては黒澤を認めていた。)また、松竹新喜劇にも強い敬意を払い、「変化座」構想を練り上げ、気の合う仲間たちと引退前の数年、新喜劇興行を行った(藤山寛美自身の賛同も得、寛美本人の演出も予定されていたが《演目は「愚兄愚弟」》、これは寛美の急逝のため、実現しなかった)。

九州王朝説=邪馬台国とは九州の邪馬'壱'国《小国》説の熱心な支持者としても知られる。

仕事以外では非常におとなしく、紳士然とし、後輩には優しいらしい。そのために芸人仲間や後輩の人望を集めているのだが、一方で、芸にはかなり厳しく、気に入らないことや人物に対しては本人の前だろうが、公衆の面前であろうが、カメラの前であろうが、本番中であろうが、容赦なくいじり倒した。これが「毒舌」と呼ばれ、人気も出たのだが、反面、敵が多かったのも事実である。

「某県は盗人が多い」「某県はほら吹きが多い」「(京都市の区のうち)某区は京都と認めない」など、一定の地域をステレオタイプ的に揶揄したりすることがあり(しゃれ、芸風だが)、真に受けた県議や知事らに抗議されたこともある(マスコミが煽ったきらいやこの件が引退のきっかけになったのではないのかとの説もある)。

眼鏡を掛けていないときの顔がミッキーマウスに似ており、また、眼鏡を掛けたときの風貌が横山やすしに似ていた為、「理性ある横山やすし」と比喩されたこともある。 ところで、横山やすしはノックに弟子入りし、漫画トリオの付き人としてついていたが、少年漫才の経験もあった為、年上ながら漫才では後輩に当たる上岡に対しては複雑な思いを持っていたようだ。 上岡も必要以上に「やすしは〜」「木村くん(やすしの本名)は〜」と口にすることによって、やすしを意識していたことが伺い知れる。 「上岡龍太郎かく語りき」によると、やすしは「パンチさんと漫才したい」と先輩に相談したが、その先輩に「お前らはタイプが似てるから組んだら損や」と止められたらしい。


東京進出
関西では長い間人気芸人であったが、東京を含め全国的には知名度は低かった。1990年代以前にもラジオや、テレビ番組「ラブアタック!」などの全国ネット番組に出演していたが、お笑い芸人としての人気は皆無に等しいほどであった。その時期に、ノックからの紹介で「笑っていいとも!」に出演したことがあるが、キャラをつけなければと思ったのか、テンガロンハットをかぶりカントリー&ウエスタンを歌う姿にタモリも観客も戸惑うばかりだった。上岡もずっと「東京が嫌い。東京では仕事をしません」「全国ネットでやってる笑いは程度が低い。僕がアホに合わせる必要はない」と公言していた。1987年に朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」に出演、甲斐智枝美扮する主人公が若いころに勤めていた美容室の店長の役柄で、おかま口調の関西弁を使って好演したことをきっかけに、東京だけではなく全国での知名度が徐々に上がっていく。そのおかま口調の演技は絶品。関西で人気深夜番組だった「鶴瓶上岡パペポTV」が1988年から東京で放送されるようになると、「鶴瓶の横にいるあの芸人はだれだ」と関心を集めるようになり、一気にブレイクした。

東京で仕事をするようになると、これまで「東京は嫌い」と言っていたことからその一貫性のない言動に反感を覚える人もいた。上岡が東京でのギャラについて、「びっくりしました。東京と大阪じゃギャランティの明細の額がゼロ3つ違うんですわ」と当時吉本興業取締役だった林裕章(後に社長・会長、故人)に言ったのは有名な話である。ギャグとして「(全国ネットの視聴者も)やっと僕の笑いが分かるようになった」とうそぶいていた。 ただ、東京進出初期には「東京は田舎もんの集まりやろう。生粋の東京人でない人が、東京人ぶってるのが腹が立つ。帰れよ〇田や山〇に」と頻繁に言っていた。上岡自身は後に、「この発言で笑ってもらえると思っていたら、笑ってもらえなかった。それから言うのを辞めた」とEXテレビで発言している。またEXテレビで、東京嫌いの事を突っ込まれると、「ひがんでたんやろうな」と自嘲気味に語っていた。

オカルト嫌いによる騒動
短気で妥協を許さない一面があり、番組出演中に納得がいかないことがあれば番組を途中で降りたり、役割を忘れることがあった。特に心霊モノや霊媒師・超能力・オカルト現象などを採り上げると、この傾向は顕著に出た。

その背景には、上岡の実体験が大きく影響している。上岡の実母が乳ガンにかかった際、霊媒師・占い師などが詰め掛けて食い物にしようとしたことを目の当たりにしたため、上岡は心霊モノを嫌うようになった。

朝日放送「探偵!ナイトスクープ」で心霊モノが取り上げられたとき、激怒して収録を途中で放棄して帰宅する。その際「テレビという科学的なものが霊媒師や霊を証明もしないのにさもあるかのように表現してはいけない。霊媒師も証明しないのだから、『「自称」霊媒師』と表現するべきだ」と語っている。
「上岡龍太郎にはダマされないぞ」では司会の役割を半ば忘れ、同じ心霊モノ否定派の大槻義彦、大竹まことと共に、織田無道と乱闘寸前になった。そのため、ゲストコメンテーターだったデーモン小暮閣下が各々の意見を冷静に取りまとめつつ番組進行としての調整を行ったほどであった。
ユリ・ゲラーの超能力にも懐疑的であった。ゲラーと共演していた際、初めは興奮を抑えつつ応対をしていたが、ゲラーが超能力について語りだすと上岡は次第に興奮し、矢継ぎ早に「今すぐこのカメラを壊してください、今すぐに!」とゲラーに激昂した。その激昂ぶりに驚いたゲラーは「こんな否定的なことに能力を使いたくない」とコメント、収録を途中で放棄した。その模様もカットされずにそのまま放送された。その番組の後半でゲラーが帰ったのは自分(上岡)が興奮したからと自らオチをつけた。
Mr.マリックがなかば超能力者的に売り出されたころ、過去のマリックの姿勢を引き合いに出して、強烈な批判を加えた。後にマリック自身が「超能力的に見えるマジックである」という姿勢に戻ったため、和気あいあいと共演するようになった。
泉アツノが白蛇占いでブレイクしたときには、「この間までお茶子やってた奴が、なぜ突然霊が見えるようになったんや」と非難した。
ラジオ番組で、共演した占い師の顔に「×」の文字を書いた。占い師なら×を書かれるのは予見できるはず、という考えからそういった行動を起こした。(後にEXテレビでも同様のことをし、このときは視聴者に顔を向ける形で謝罪をした)
ほかにもEXテレビでは「超能力選手権」という企画を語る際、「厚さ1メートルのコンクリートの壁で取り囲まれたものが何か透視で当ててもらう」という企画を出した。また、上岡に占いを信じさせるためプロの占い師にその仕組みを説明する企画が実施されたが、上岡は科学的・論理的な根拠をとことん求める姿勢に徹した。結局その占い師は「昔の人がそう決めた」という回答しかできず、最後には「あなたにではなく視聴者に説明しているんです」と激昂してしまうことになった。

政治姿勢
「政治家でない以上、青臭いくらいの立場でいい」とのことで、「左派的」かつ「判官びいき的」姿勢である。90年代前半までは平和:市民を支持していた(ただし、立川談志を深く尊敬するように右傾姿勢の者に対しても議論さえしなければ許容している)。

普段の発言と異なり、翼賛的な風潮があると判断した場合は批判的になる。横山ノックに対しても例外ではなく、ノック2期目出馬の際、ノックではなく日本共産党推薦の対立候補で哲学者の鯵坂真を支持した。その後のセクハラ事件の際も、疑惑発覚当初から現職大阪府知事でもあったノックを正面から批判した(「あれはやっとる」と発言し、府議会でもノックへの質問に取り上げられた。しゃれであった可能性もあるが、明確にはされていない)。

また横山ノックが大阪府知事時代、「大阪市の市長選挙に出馬するのでは?」という噂が流れたように、政界進出の噂もあったが、現在のところ、本人はヤル気ナシのようである(当選してから『勉強します』と言う議員が多く、見苦しいと感じていたため、『勉強してから出馬する』と言っていた時期もあったが、立川談志から『勉強したほうがだめだよ』と言われ、やる気をなくしたようだ)。

アナウンサー批判
上岡が舌鋒をアナウンサーに向けた時期がある。逸見政孝、徳光和夫などがフリーになり、自分たちのテリトリーであるバラエティ番組の司会をレギュラーとして多く持ち始めた1980年代後半である。「正確な日本語、事実やニュースを伝えるべきアナウンサーが言葉を崩して、芸人たちに向かって口を利くこと」「(司会業はプロでも)突っ込みの素人がバラエティで下手な突っ込みをやる」などについてあからさまな嫌悪を示していた。また逸見に関しては「大阪出身なのに大阪弁を捨てた」と非難した。とはいえ、若手時代に出演していた「底ぬけ脱線ゲーム」の金原二郎などには敬意を持っていたようで、矛盾があり、結局、前述のように議論さえしなければ、和気あいあいと共演した。徳光とは敬称で呼び合い、パペポTVでも徳光に関するエピソードを披露している。逸見に至っては両名の冠で番組も持った。

一方で、讀賣テレビ放送報道局局次長の辛坊治郎には嫌う素振りを見せていた。これはもともと好意が無かったのに加え、讀賣テレビの感謝祭と位置づけた特別番組の1コーナー(元番組はときめきタイムリー)でアナウンサーへの批判を加えた際、辛坊の名を挙げたところ(シャレの要素が強かったようだが)、スタッフに促されて辛坊が登場し、激論に至ってしまったことがある。このとき、辛坊が「会社の命令だから」と言ってしまい、それについて「言論のファッショ」と断じている。また、一説では辛坊がメディアで「正しい日本語」に関する話をした際、「大阪弁は正しい日本語ではない」と発言し、それが日本語の起源などに深いこだわりを持っていた上岡の耳に入ったことが原因と言われている。

これらのエピソードでも見られるように、時折、上岡はタレントという立場を離れて、マスコミへの批判を強烈に加えることが少なくなかった。特に阪神大震災の際にはマスコミの無能、低能を鋭く指摘、「テレビは最早、『道』を失い、『報道』機能を失った」とまで断じた。


引退
上岡自身は「ボクの芸は21世紀には通用しない」との言葉を残し、2000年3月をもって芸能界を引退する。

引退前は『シニアプロゴルファーになって、戸張捷よりも良い解説をする(選手や解説者であって、タレントではないから)』『ジョギングで桜前線とともに北上し、紅葉前線とともに南下する』『みんなが止めようとしないからやめざるを得ない』と発言していたため、それまでの転向癖もあって、周辺の中には「翻意するのでは」とする向きもあった。だが、現在のところ、一部の著述や発言を除いて、芸能の表舞台に現れてはいない。

また、引退を前にほとんどのレギュラー番組は終了したが、唯一継続した「探偵!ナイトスクープ」(上岡が局長<司会>役)のメインプロデューサー松本修は翻意したときを想定して約8カ月、局長役を空席にしていた(その後、2代目として西田敏行を迎える。まったく異なるカラーへの転換だった)。

ごくまれに横山ノックなど知人の芸能人のパーティーやゴルフ大会などに顔を出すこともある。特に現在でも親交のあるオール巨人のブログには、芸人仲間との宴会・イベントの写真に見切れ出演することがあり、ファンにとって上岡の近況が確認できる貴重な情報源となっている。またやしきたかじんとゴルフを打ちに行っていることも、たかじんが自身の番組などで明かしている。

2002年2月9日に行われた出版記念サイン会では、「今の関西のテレビは上沼恵美子ばかり出ているから、出る気がしない」とテレビ復帰を否定していた。

島田紳助から心の師として尊敬されており、紳助が2004年に暴力事件を起こして謹慎中だったとき真っ先に相談したのが上岡だった。紳助の「僕はこれからどうすればいいのでしょう」との言葉に、「悪いと反省しているなら誠心誠意相手の女性に謝れ。でも自分から『引退する』などとは絶対に言うな。周りのスタッフのことを考えろ」と、引退を決めようとしていた紳助を諭した(後日紳助が会見を開いた際、告白)。

紳助は上岡引退の際、「芸能界での道標を失ってしまう。引退を考え直してくれ」と言う内容の手紙を送ったが、 上岡は「ずいぶん前から君は僕の前を走っているんだよ。」と言う内容の手紙を送った。 この手紙を読んだ紳助は涙が止まらなかったという。

また、紳助が「オールスター感謝祭」の司会を行うときは、必ず一番前の席に座り紳助を見守っていたという。 紳助はその上岡の姿勢に感動し、「気持ち良く司会が出来る」と語っている。 番組が終わった後は必ず上岡から「完璧でした、見事でした」との言葉をもらっていたとの事。

そして、2007年5月3日に亡くなった横山ノックの通夜に参列するため、約7年2カ月ぶりにテレビカメラの前に姿を現わした(青芝フックや月亭八方ら現役芸人と共に会場入り、そしてマイカーで夫人とともに会場を後にするところ)。だがマスコミの質問には終始無言のまま会場を去ったが、会場で大号泣していた。同年6月7日に大阪市内のホテルで開かれた「横山ノックさんを天国に送る会」では、「横山パンチ」の名前で追悼のあいさつを行い、涙ぐみながら感謝の言葉を述べた。その時、記者からのインタビューで、「抗がん剤使ってんの?」「使ってない」「でもハゲてるやん」「もとからやがな」などと見舞いに行った際の会話の内容を吐露した。

2007年6月17日に行われた桂雀々芸能生活30周年記念『雀々十八番』(会場:シアターBRAVA!)最終日のパネルトークにサプライズゲストとして出演した。

2007年7月7日京都南座での桂ざこばの会に特別サプライズゲストとして出演。

その他
20歳頃に三代目桂米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で十代目桂小米(のちの二代目枝雀)を見かけ、かなわないと思い、あきらめた。(上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続ける。自身が司会の「EXテレビ」にて笑いの理論「緊張の緩和」についてのインタビューを行ったこともある。)
引退後も米朝一門とは縁が深く、自身のコメントなどの管理窓口を米朝事務所に委託しているほどである。
ラブアタックで一緒に司会をしていた和田アキ子とは和田の素人時代からの知り合いである。

経歴
父親は、京都で活動を行っていた庶民派弁護士・小林(旧姓・上岡)為太郎。日本共産党公認で衆議院総選挙に出馬したこともある(落選)。母親は厳しく、上岡が10歳の頃に早世したこともあり、あまり記憶にないという。しかし、巨乳であったことだけは覚えている。父への尊敬の念が強いようで、「上岡」を芸名として名乗る。姉が一人、異母妹が一人いる。
小学校時代によく映画(特に時代劇)に触れ、友達とはよく相撲をとっていた。また、この頃から鴨川から春画集(いわゆるエロ本)を拾って、四十八手などについて解説していたらしい。
他に、美空ひばりのエピソードに倣って、百人一首を覚えたり、露天商の口上を覚えたりと、この時期に吸収したものが彼の芸に存分に発揮されている。
私立京都西高校(現:京都外大西高等学校)第一期生として卒業。入学時にOTV(現:ABCテレビ)のニュース映像に写っており、「探偵!ナイトスクープ」でも放送された。現在もABCに報道資料映像として保存されている。しかし、立命館大学の受験には失敗している。
京都でバンドボーイ、ジャズバンドの司会などを経験。
1959年 ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」加入。
1959年 横山ノックの誘いにより「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。
1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により漫画トリオ活動停止。以後、「上岡龍太郎」に改名しピンで活動(同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」としても活動していた)。当初はほとんど仕事が無く「ホサれていた」時期として有名。(食いつなぐため、作詞などの仕事も請けている)
70年代、「ノックは無用」「ラブアタック」「花の新婚・カンピューター作戦」などで上岡は関西の司会者として認知される。
1987年 「鶴瓶上岡パペポTV」開始。翌年から東京圏でも放送。全国的にも注目を受け始める。88年、「探偵!ナイトスクープ」開始。
90年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。九十九一などを見出したとのことだが、小劇団の限界を感じて、手を引いていく。※詳細データ求む。
2000年4月 惜しまれつつ芸能界を引退。

出演していたテレビ番組
毎日放送・JNN系
逸見のその時何が!(1993年)
ムーブ・上岡龍太郎の男と女ホントのところ(1992 - 1993年 TBS)
ザッツ!上岡龍太郎vs50人(1993 - 1994年 TBS)
上岡龍太郎がズバリ!(1994 - 1996年 TBS)
おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ(1998年 TBS)
朝日放送・All-nippon News Network系
探偵!ナイトスクープ(1988 - 2000年)
ラブアタック!(1976 - 1984年)
大発見!恐怖の法則(1996 - 1997年)
龍の金印(1996 - 1997年・テレビ朝日)
超次元タイムボンバー(1996 - 1997年、テレビ朝日)
上岡龍太郎のイチャ門天(1997 - 1998年 テレビ朝日)
龍の福耳(1997年 テレビ朝日)
関西テレビ・FNS系
ノックは無用!(1975 - 1997年)
花の新婚!カンピューター作戦(1978 - 1991年)
ゴールデンタイム(フジテレビ)
以下の3番組はフジテレビ制作の番組だが、関西地区はサンテレビ・KBS京都で番組販売でネットされた。

上岡龍太郎にはダマされないぞ(1990 - 1996年 )
もうダマされないぞ!!(1988 - 1990年)
上岡・ヒロミの花も嵐も(1996 - 1997年)
ytv 読売テレビ・NNS系
クイズ新幹線
EXテレビ
鶴瓶上岡パペポTV → LIVE PAPEPO 鶴+龍
朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」
ときめきタイムリー(1984 - 1996年)
ミセス&ミセス(日本テレビ)
ルックルックこんにちは(出演期間不明 日本テレビ)
新装開店!SHOW by ショーバイ2(1995 - 1996年 日本テレビ)
KBS京都
タイガースフィーバー

横山ノックさんを偲ぶ会の時、公の場で喋る上岡さんを久しぶりに見た。大阪時代、僕がディレクターをしていた番組に上岡さんに出て貰っていた。正直、怖かった。でも、久しぶりに見た上岡さんはふっくらとし、優しさに溢れていた。
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マルセル・マルソー氏死去

2007年09月24日 | Weblog
 「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれるフランスのパントマイム俳優の第一人者、マルセル・マルソー氏が22日、死去した。84歳。死亡時の状況や死亡場所について家族はしばらく公表を控えたいとしている。葬儀は近くパリ市内で行われる見通し。フランス公共ラジオが伝えた。

 1923年、フランス東部ストラスブール生まれ。いったん職人になるための学校に入ったが、幼い時からチャプリンらにあこがれていたこともあり、演劇の道に転身。40年代半ばに演出家のシャルル・デュランの門下生となり、エティエンヌ・ドクルーの下でパントマイムを学んだ。

 ピエロを20世紀風にアレンジした役柄「ビップ」を創造。自らのパントマイム劇団を率いて世界各国で公演した。78年にはパリ・パントマイム国際学校を創設。代表的なパントマイム劇にゴーゴリ作の「外套」など。

 歌舞伎や能など日本の伝統芸能に影響を受けたとされ、来日公演も多数。日本のパントマイムの名手で2001年に死去したマルセ太郎さんの芸名の由来ともなった。

 ▼マルソー氏の弟子のパントマイム俳優やまさわたけみつ (フランスで三年間師事したとき)稽古は厳しかったが、外国から来た僕の生活を心配してくれて、とても心の温かい人だった。その人間性に引かれました。舞台では笑いの中にメッセージ性を織り込んでいくので、見る人の心の奥にまで伝わる。芸術作品としての質を下げることなく、娯楽性を持たせた独特のスタイルで、パントマイムを誰もが楽しめるようにした人だった。 (共同通信より引用)



僕の好きな映画監督メル・ブルックスの『サイレント・ムービー』で、ただ1人、無声映画なのに、「声を出した人物」がマルセル・マルソー。その後、彼の日本公演にも行き、その芸の素晴らしさに圧倒された思い出がある。

メル・ブルックスのサイレント・ムービー

20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント

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<ストーリー>
1976年、映画の都ハリウッド――。酒浸りで落ち目となった映画監督メル・ファンは、仲間2人と組んでもう一度いい映画を作ろうと決意する。しかも今どき流行らないサイレント映画でである。メルたちが脚本を売り込みに行った撮影所は深刻な経営危機にさらされ、乗っ取り専門の悪徳企業に狙われていた。始めはサイレント映画に渋っていた所長だったが「大スターを総動員で」のメルの言葉に、それならイケる!と大乗り気。早速バート・レイノルズ、ジェームズ・カーン、そしてライザ・ミネリ、ポール・ニューマンなどなど、次々と超大物スターを口説きにかかるが、みんな出演を快諾。ついにフィルムが完成し、成功を目前にしたメルの前に悪徳企業の一味が妨害しようと立ちはだかるが……。

<ポイント>
●現代に"オール・スター"でサイレント映画を作ろうとする監督が巻き起こす珍騒動。たった一度の台詞を除いて、全編がサイレント=無声映画で作り上げハチャメチャ・コメディ。
●切れめのないギャグとジョークの連続で全世界を爆笑の渦に巻き込んだ傑作コメディを作ったのは、自ら主演、脚本を兼ねた喜劇王メル・ブルックス監督。
●ライザ・ミネリ、ポール・ニューマン、アン・バンクロフト、バート・レイノルズ、ジェームズ・カーンなど大物スターがカメオ出演し、それぞれがユニークな登場の仕方でファンを魅了!

<特典>
●オリジナル劇場予告編

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舞台は1976年のハリウッド。落ち目の映画監督メル・ファンは、サイレント映画でひと旗あげようと決意。大スター総動員のサイレント映画を作るため、スターたちの説得に乗り出す。ところが成功を目前に撮影所を乗っ取ろうと企んでいた悪徳企業が、メルらに妨害をするようになって…。
パロディ王ともいうべきメル・ブルックスがサイレント映画を本気で復活させた作品。従来のサイレント映画のテンポや撮り方を、見事なまでに継承していて、その凄まじいまでのメルの映画愛には敬服してしまうほど。当時の大スターだったバート・レイノルズのニヤけた2枚目演技や、ポール・ニューマンの電動車椅子でのチェイスなど、大スターが自分自身を実に楽しげにオーバーに演じていて楽しませてくれること確実だ。(横森 文)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
メル・ブルックス監督が豪華キャストを迎えたサイレントムービーを作ろうと画策するコメディ。ハリウッドを舞台に、セリフはたった一度だけの奇妙な物語が展開する。“今だけ2枚で\1,990 第7弾”。※初回限定生産※一般告知解禁日:2005年12月20日

内容(「Oricon」データベースより)
コメディ王メル・ブルックスが贈るオール・スター出演のスーパー・コメディ。なんとたった一度の台詞を除いて、全編が無声映画という驚愕の作品。
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あちち!

2007年08月21日 | Weblog
今、阪急梅田駅。大阪はほんまに暑いわ!これから東京に戻り、もう一件打ち合わせ。駅名問題。「放出」と書いて「はなてん」と読みます。では「祝園」と書いて、何と読むでしょう?

答えは「ほうその」。ではでは「京終」と書いて何と読むでしょう?これは難しい問題です。

正解は「きょうばて」と読むのです。どちらも確か奈良県の駅だったはず。
庄内駅を通過。大学時代、模擬店で売るおでんの材料を買いに来たものです。庄内の市場は安いから。当時の僕たちにとってサントリーオールドは「だるま」と言い、憧れの酒でした。今は関税が下がり、美味しいスコッチやバーボンが比較的安く飲めるので、オールドを飲むと悪酔いします。飲もうとも思わないし。やっと蛍池に到着。モノレールに乗り換えます。今週は忙しくなりそうだなぁ…
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暑いぞっ彦根!

2007年07月27日 | Weblog
快晴、無風、湖畔なので、湿度高し。明日からの本番の下見を終え、ぐったりして、ホテルにチェックイン。夏休みの金曜日のせいか、ホテルは超満員。エレベーターに乗るのも一苦労。ホテルの人もこの状況に慣れてないのか、対応が追いつかない。ホテルの各レストランもほとんど予約で満員なので、予約を取るのも大騒ぎ。やっと、予約が取れてホッとして部屋で休憩中。しかし、夜東京から来る人たちから突然の連絡。新幹線が停電で止まっているとのこと。食事の手配を再調整。いろんな事があるもんだ。だから現場はエキサイティングで楽しい。
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11時36分、東京駅発ひかり

2007年07月27日 | Weblog
駅弁を買い込んでお昼ご飯。もちろん黒烏龍茶は忘れません。体重が93キロ台に。原因は暴飲暴食。分かっちゃいるけど止められない。イタダキマス。
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自宅をいざ出発。それにしても

2007年07月27日 | Weblog
暑い。バスを待っていると、ちょっと風。嬉しい。携帯電話の予備バッテリーを購入。FRIDAYも。電車の中は一転して冷え冷え。ラッキー。コンタクトレンズを入れると近くのものが見えにくい。老眼だろう。こうしてメールを打つ時も携帯電話を離さないと字が認識できないのだ。カナシイ。
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ハート柄のチワワ「ハート君」、生後約2カ月に

2007年07月20日 | Weblog
 [大館 10日 ロイター] 秋田県大館市のペットショップで10日、体に茶色のハート模様がある生後約2カ月のロングコートチワワが撮影された。
 5月18日に生まれたこの雄のチワワの名前は「ハート君」。
 ペットショップの経営者によると、これまで1000匹近くを飼育してきたが、このような柄の子犬が生まれたのは初めてだという。ちなみにハート君を販売するつもりは無いという。

画像はこちら→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070711-00000396-reu-ent
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夜明けの街でby 東野圭吾

2007年07月16日 | Weblog
夜明けの街で

角川書店

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出版社 / 著者からの内容紹介
渡部の働く会社に、派遣社員の仲西秋葉がやって来たのは、去年のお盆休み明けだった。僕の目には若く見えたが、彼女は31歳だった。その後、僕らの距離は急速に縮まり、ついに越えてはならない境界線を越えてしまう。しかし、秋葉の家庭は複雑な事情を抱えていた。両親は離婚し、母親は自殺。彼女の横浜の実家では、15年前、父の愛人が殺されるという事件まで起こっていた。殺人現場に倒れていた秋葉は真犯人の容疑をかけられながらも、沈黙を貫いてきた。犯罪者かもしれない女性と不倫の恋に堕ちた渡部の心境は揺れ動く。果たして秋葉は罪を犯したのか。まもなく、事件は時効を迎えようとしていた・・・。


東野圭吾の新作が出た。『白夜行』以来、この作家の筆力は衰えない。奥田英朗と東野圭吾くらいではないだろうか・・・ミステリーで生き残っているのは。『白夜行』を読んだ時は衝撃的だった。『容疑者xの献身』も素晴らしかった。『手紙』も。この新作はどうなんだろう。読むペースより、買うペースの方が速く、本が山積みの自宅のデスクを見ると、文庫本になってから買ってもいいかなぁ~と思う。すぐに読みたいのはやまやまだが・・・

白夜行

集英社

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メタローグ
前作「秘密」で、温かくて切ない物語を紡いだ東野圭吾が、今回は読む者の心を冷え冷えと切なくさせる。 1973年に起こった質屋殺しがプロローグ。最後に被害者と会った女がガス中毒死して、事件は迷宮入りする。物語の主人公は、質屋の息子と女の娘だ。当時小学生だった二人が成長し、社会で“活躍”するようになるまでを、世相とともに描ききる。2人の人生は順風満帆ではなく、次々忌まわしい事件が降りかかる……。当然ミステリーだから謎が隠されているわけだが、真相は途中で暗示されてしまう。しかし謎の存在などどうでもよくなるほどのスケールの大きさが読後に残る。(石飛徳樹)


出版社/著者からの内容紹介
19年前の大阪の質屋殺し。迷宮入りしたこの事件に関係した少年と少女が歩んだ道は…。絶望の白い光の中、魂の荒野を行く男と女を、叙事詩的スケールで描く傑作ミステリー長篇。 (解説・馳 星周)


内容(「BOOK」データベースより)
1973年、大阪の廃墟ビルで一人の質屋が殺された。容疑者は次々に浮かぶが、結局、事件は迷宮入りする。被害者の息子・桐原亮司と、「容疑者」の娘・西本雪穂―暗い眼をした少年と、並外れて美しい少女は、その後、全く別々の道を歩んで行く。二人の周囲に見え隠れする、幾つもの恐るべき犯罪。だが、何も「証拠」はない。そして十九年…。息詰まる精緻な構成と、叙事詩的スケール。心を失った人間の悲劇を描く、傑作ミステリー長篇。


容疑者Xの献身

文藝春秋

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出版社 / 著者からの内容紹介
数学だけが生きがいだった男の純愛ミステリ
天才数学者でありながらさえない高校教師に甘んじる石神は愛した女を守るため完全犯罪を目論む。湯川は果たして真実に迫れるか

内容(「BOOK」データベースより)
これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった。いやそもそも、この世に存在することさえ知らなかった。運命の数式。命がけの純愛が生んだ犯罪。

内容(「MARC」データベースより)
天才数学者でありながらさえない高校教師に甘んじる石神は、愛した女を守るため完全犯罪を目論む…。数学だけが生きがいだった男の純愛ミステリー。『オール読物』連載を単行本化。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
東野 圭吾
1958年、大阪生まれ。大阪府立大学電気工学科卒。エンジニアとして勤務しながら、1985年、「放課後」で第31回江戸川乱歩賞受賞。1999年、「秘密」で第52回日本推理作家協会賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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いのちの電話・・・話し中だったり、キャッチフォンだったら、なんて不謹慎な事を考えてしまった。

2007年06月14日 | Weblog
あなたは、いつから苦しいのですか?

いつからだったのか自分でもはっきり思い出せないかもしれません。

あなたの心はつらいですか?
死んでしまいたいくらい苦しいのですか?
すべてをリセットして消えてしまいたいですか?

死にたいと思う気持ちも、その背景にある状況や心の状態は100人いれば100通りの心や状況があります。うつ病や神経症などの心の問題、健康の問題、経済的な問題、学校や職場での人間関係、恋愛の問題、身近な人を失ったり、仕事を失った喪失感、その他個人のアイデンティティーを揺るがすような出来事など思いつくだけでも多くの理由があります。そこに人それぞれの事情や心の状態などがあるのでひとことで語ることなどとてもできないのではないでしょうか。

昔に比べて少しずつではありますが、心の悩みについての理解が社会的に認知されつつあり、マスコミなどでも取り上げられることが多くなりました。うつやひきこもりに関する番組や雑誌などでの心の特集、また「いつからですか?それ以上我慢しないでください」─1ヶ月つらかったらお医者さんへ相談してください。というTVのCM(グラクソ・スミスクライン株式会社)を目にしたことのある方も多いと思います。

誰にもわからない辛いこころを、悲鳴をあげているあなたの心をちょっとだけゆるめてあげてください。そして、知っていただきたいのは、自分の気持ちを理解してくれる人は多くはないかもしれませんが、心が辛くて、孤独や哀しみでいっぱいになっている人は、あなただけではないということを。

あなたが今このページを開いているコンピューターは、インターネットに繋がっている多くの心に関連したWebサイトにも繋がっています。あなたにとって有益なサイトや、またあまりプラスにならないWebサイトも多く存在しますが、そんな中にはあなたの気持ちを少しでも楽にしてくれるサイトもきっと存在するはずです。
下記には無作為に選んだ、心の問題に関連するサイトを紹介していますが、これらのサイトから、あなたにとって何かしらのプラスになるヒントを得られたとしたら幸いです。


こちらのHPより引用しました→http://www.find-j.jp/nayami.html


でも、「いのちの電話」を受ける側の人も精神的ストレスは凄いと思う。電話が゜鳴ったら、「今から死のうとしている人」と話をして、「死」を思い止まらせないといけないのだから。
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鍛高譚・・・しそ焼酎(北海道・白糠町産)

2007年06月11日 | Weblog

しそ焼酎 鍛高譚(たんたかたん)

入荷しました(~_~)/


鍛高譚:アイヌの伝説

潮が沖に流れ、海がどんよりと濁ってきました。魚達は息が満足に
出来ず苦しんでいます。特に潮に乗って行く者は大変です。

水底に棲んでいるタンタカは、まだ元気がありましたが、みんなの
苦しみを見ているとなんとかしなくては、と頭を悩ませました。す
ると長老の海亀がやってきて言いました。

「あの山の麓にどんな苦しみもいやしてくれる紫の草がある。私達
は、川では生きていけないがお前なら大丈夫。みんなのために行っ
てその葉をとって来ておくれ」

そう言ってはるか遠くにぽこんと頭を出している山をさしました。

タンタカは、勇気を出して川をさかのぼりました。流れの強い瀬も、
滝も越えて、ようやく青い山のすそまでやって来ました。

そこは、木漏陽の美しい豊かな大地でした。紫の草はすぐにわかり
ました。そのよい香をかいだだけで、長旅の疲れが飛んでいったか
らです。しかし、水にいるタンタカには、その草をとる事が出来ま
せん。途方にくれたタンタカを、森の動物がみつけて、わけを聞い
てくれました。タンタカの話を聞いた動物達は、かわいそうに思い、
手わけして葉をつみ、川に落としてくれました。

タンタカの持ち帰った葉のおかげで魚達は元気をとりもどすことが
できました。まもなく潮も帰って来て、海に平和がもどりました。

そして魚達は、紫の草のある青い山を“タンタカ山”と呼ぶように
なりました。

白糖沖から望むタンタカ山は昔も、今も、漁からの帰港の時、目印
として大切にされています。


そんな物語から生まれた、しその香がとても飲みやすい焼酎です。

(しそ焼酎、720ml、20度、北海道白糠町特産)



地方には「個性的な焼酎」が多い。僕も「メタボ」を考え、いつも「焼酎」を水割りかウーロン割りで飲んでいる。
でも、「しそ焼酎」なら、お湯割りにして、「しその香り」を味わいたいものだ。



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横山やすし

2007年05月22日 | Weblog
横山 やすし(よこやま やすし、 1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。身長163cm(本人談)。血液型B型。

来歴・生涯
人物
高知県宿毛市沖ノ島出身。大阪府堺市堺区に育つ。愛称は「やっさん」。結婚歴2回、離婚歴1回のバツイチ。俳優の木村一八は長男。漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかりは次女(この二人は異母兄妹)。長女がいるが一般人の為、殆ど公開されていない。 西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に中学時代の同級生で競艇選手(現選手会長)の野中和夫と、後にやすしが所属する阪田エージェンシー社長で住職の阪田教揮がいる。


天才少年漫才師誕生・負けず嫌いなポリシー・阪田教揮との出会い
少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、「漫才教室」に出場した事を契機に漫才師になる事を決意した。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になる事を告げる。卒業式で漫才を披露し同級生からも拍手喝さいを浴びた。「漫才教室」の本番前に、同じ中学の同級生で後に所属事務所の社長になる阪田教揮がやすしのうるさい態度に激怒したため、やすしが喧嘩を売ったところ阪田が言い返したが、それに対してやすしが反撃しなかったという逸話がある。後に二人は和解し友情を深める事になる。 1959年、堺市立旭中学校卒業後松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社、漫才作家秋田實の門下に入り芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」結成、その年の5月に角座で少年漫才師としてデビュー、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。しかしネタが中学時代の思い出話がメインだった為かそれが裏目となり、人気も次第に衰退し、さらに相方の岡田が「辞めたい」と言い出した為1961年にコンビ解消をする(岡田がやすしの強固で強引な態度に付いて行けなかった為、けんか別れをしたという説もある)。


横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人も横山エンタツをもっとも評価し、エンタツより続く漫才の名門屋号「横山」姓への憧れがあった事から、改めてノックに弟子入りし「横山やすし」となり、同時に吉本興業に移籍する(秋田には弟子入りするとの了解を得ていたらしいが、一説ではやすしの短気な態度と、岡田とのけんか別れに秋田がさじを投げ、「破門」に近い意味合いであったとの説もある)厳しい修行だったがノックからの指示を完璧にこなした。


やすきよ結成と最愛の父の死と最初の過ち
数回のコンビ結成~解消を経て西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。過去の漫才の相方は、弟弟子の横山プリン、レツゴー三匹の正児(いずれも芸名は横山たかし)。そんな絶頂の時、悲劇が起こる。

1969年11月、最愛の父である庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切を渡ろうとした時に列車にはねられ、その7日後に、意識が戻ること無く他界した。その10日後に長男・一八が誕生。父に息子を見せて上げたかったが、かなう事が出来なかった。更に翌年に、事件を起こしてしまう。

1970年、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期の謹慎処分を受ける、同時に最初の妻と離婚、その後の自らのライフワークであるモーターボート(競艇)の全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝した事で、当時「病気療養中」とマスコミには会見していたやすしのマネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという話等、通常なら恥晒しとされる話が、武勇伝として語り継がれているのも彼の特徴である。


競艇選手の夢
数回のコンビ別れを繰り返していた当時、一度引退を考え、競艇選手になろうと決意して受験をした。しかし、視力が低かった為不合格になり、父の庄吉にも反対され、友人の野中和夫を口説いて競艇学校に通わせて競艇選手にし、自分の夢を友人に託したという逸話がある。しかし笹川良一からは特別にアマチュアボート選手のライセンスを交付されている。また娘のひかりも父に「競艇選手になれ」と勧められ、競艇選手の試験を受けようとしたが、父と同じく視力が低かった為断念した逸話もある。やすしに夢を託された野中は後に競艇界で初めて年間獲得賞金1億円の大台に乗せ、更にはSG17勝(史上最多)を挙げ、7冠グランドスラマーとなる等の記録を打ちたてて「モンスター」と言う異名を取った。


現夫人との再婚・愛娘ひかりの誕生
1975年3月に3歳年下の啓子夫人(余談ではあるが本人もバツイチ)と再婚し、大鳥大社(堺市西区)で挙式した。その時の仲人は師匠の横山ノックである。余談だが啓子夫人には、前の夫との間に1男1女がいる。 そして、1980年10月に二人の間に愛娘、光(次女)が誕生した。やすしもその時、娘に対して誕生の喜びを色紙に書いた。現在もその色紙は大切に保管されている。

啓子夫人に「雄ちゃん」と呼ばれていた。


相方の参議院選出馬と度重なるトラブル
1983年には日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔っ払いながら生放送に出演し、暴言を発した事で問題になった。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれた事に立腹し、「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全く喋らなかった事も。そして1984年10月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組のすっぽかしをした為に降板、吉本からは無期限謹慎処分を受ける。

1986年に相方・西川きよしが参議院選挙に出馬し、見事当選する。そして当選後に行われた『復活漫才』を以て「やすしきよし」は活動を事実上停止する事となった。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたと伝えられる。その反動の大きさもあって酒の量が増え、度重なるトラブルを引き起こし、タレント・芸人としての生命も徐々に薄れて行く事になる。

1988年2月に『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ製作 日テレ系)で酒気帯び出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒してやすしを舞台裏でビンタをした事は有名。この事件が原因で番組を降板する。さらに10月にも二日酔いを理由に「三枝・やすし興奮テレビ」(MBSテレビ)のすっぽかしを行い降板。そして翌月、やすしがかつて起こした過ちを今度は長男の一八が起こしてしまう。

11月、一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こし現行犯逮捕、一八はやすしを通じて解雇を言い渡された。やすしは当初事件の内容を把握しておらず、「男は喧嘩するぐらいが丁度いい」などとコメントしていたが、後に被害者が、一八に一方的に暴力を受け意識不明の重体に陥った事を知ると、記者会見で陳謝し、「自分の教育が間違っていた」と自身の息子に対する教育論の過ちを認めて大号泣、その責任を全て負う形でやすしは無期限謹慎を自ら申し出る。


芸能界復帰と吉本解雇・事実上の芸能界追放
年が明けた1989年3月、芸能界に復帰。きよしが司会の『すてきな出逢い いい朝8時』(MBS制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや、(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時既に吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は解雇する」と最後通告を受けていた。しかし、最後通告を受けていたにもかかわらず、わずか1ヶ月後に芸人・タレントとしての生命を落とす決定的な不祥事を起こしてしまう。

同年4月、飲酒運転によるバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性に怪我を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ」と慰めたという。警察での取調べの結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、やすしを解雇した。吉本に通報したのは毎日新聞社であり、その通報を受けた木村政雄は「またか。ホンマにあの人だけは・・・」と呆れていた。やすしは息子一八の暴行事件で謹慎中だった2月にも(飲酒運転ではないが)人身事故を起こしていたことが判明。さらに今回の事故直前、ゲスト出演していたラジオ大阪の「入川保則の日産さわやか文庫」の収録中にウイスキーを飲んでいた事や、ホテルプラザで前日の宿泊時から飲酒していたと、ラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった(木村政雄が行動を聞き出す為に問い合わせていた)。やすしは多くの報道陣に対し「やめる。もう漫才やめる」と号泣しながら話した。

しかし啓子夫人の証言よると、夫人がやすしに問いただした際、前の日は確かに飲んだが、当日の朝は実際にはビール一本飲んだかどうかというぐらいだったという。しかし事故の取材に訪れた新聞記者の「どのぐらい飲んだのか?」との問いに対し、やすしは「ウイスキーボトル一本飲んだ」と答えてしまい、それが解雇を決定したと思われる。また、夫人がやすしに「どうしてそんなアホなこと言うの?」と聞いた所、「そんな、ちょっと飲んだ言うたら格好悪いやろ」と答えたという説もある。

当時、吉本の社員で解雇を言い渡した木村政雄は、報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われる」と真剣な表情でコメント。
やすしが様々なトラブルを起こしたときにかばい続けてきた会長の林正之助氏も、報道陣からの問いに「やすしは問題ばっかり起こし続けるので反省の色がない。うちとしてもこれ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」と匙を投げた格好でコメント。
師匠の横山ノックは「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」と淡々とした表情でコメント。
解雇されたのを聞いた西川きよしは「もう殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません」と厳しいながら悔しさを露わにしていた。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすしきよし」は解散。また松竹芸能、渡辺プロダクション、ホリプロ等の他のプロダクションも獲得の意向が無く、やすしは芸能界を事実上追放される。さらに吉本からは一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。

やすしの解雇は、「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所、「しょうがないやろうな」との一言であっさり決定したと言う。解雇通知書を発行したのも林裕章であった。

解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで会社まできて下さい」と言われ、妻の啓子と共に吉本を訪れた。木村から「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告をし、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は当日体調不良で出社していなかった為、やすしは林に詫びる事が出来なかった。


解雇後と林会長の死
解雇された後は寂しさを紛らわす為に知人に会ったり、競艇場へ行ったり、飲みに行ったり、次女ひかりの小学校の運動会に参観する等の気ままな生活を送っていた。ただし知人のスナックの開店祝いの司会等で謝礼や一部の親しいファンからプレゼント等をもらっていたのでそれなりの蓄えはあり、生活は困ってはいなかった様である。次女のひかりは「家にいるお父さんのイメージしか出て来ない」と雑誌の取材で語っていた。同時に中学時代の同級生だった阪田教輝が社長を務める阪田エージェンシーへ移籍。しかし、吉本興業を解雇されて間もない1989年の夏、兵庫県赤穂市内のホテルにて、酒に酔った勢いでホテル所有の観光用クルーザーに無断で乗り込んだところを従業員に注意されて逆上し、注意した従業員にビンタとひざ蹴りを加えるというトラブルを起こした(結果、やすしは書類送検され、罰金刑を受けた)。その件で木村政雄は「既に解雇された芸人なんで当社には一切関係がない事。これで完全に復帰は無理でしょうね。まぁあんな漫才師がおったと言う思い出にすんのがええんとちゃいますか」と他人行儀なコメントをした。そして2年後、やすしにとって悲しい事が起こる。

1991年4月、父親的な存在で度重なるトラブルをかばい続けてきた吉本興業の会長林正之助が死去。社葬にやすしは一般人として参列した。しかし、きよしと三枝が舞台で思い出話をしている場面を見た瞬間、泣き出して会場を後にしてしまった。それ以後、二度と吉本の敷居を跨ぐ事は無かった。そのショックな出来事が原因で酒の量が更に多くなったと思われる。


挫折した断酒
1990年に芸人仲間の若井ぼん(若井はんじ・けんじの弟子)・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へやすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビス本人はその時点でもうやすしを怒る気も無かった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。ぼんちゃん・エビっちゃん、ありがとう。やすしより」とメモに書き残して行った。エビスは「この手紙に落ち目になった恨み辛みがあったんでしょう、酒を止める事が出来なかったのはやっぱり意志が弱かったんやと思います」と淡々とした表情でコメントした。おそらく断酒が出来ていればやすしはもっと長生きしていたであろう。尚、そのメモは現在もエビス本人が保管している。


芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか
1991年に内田裕也主演の「魚からダイオキシン」で芸能界に復帰、活動の場をVシネマ等に移す。学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。

1992年、参議院選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務める右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱の会」と揶揄された。直後の会見では「この党に投票しなかった国民はアホや!ドアホや!」と吐き捨て、怒りをあらわにした。また、記者からの「(選挙区では)誰に投票しましたか?」という質問に対し、「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていたが、やすしは比例区での立候補であり、これが事実であれば当然無効票となる(比例区の場合でも当時は個人名での投票は無効票)。が、親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなく『西川きよし』に一票を投じているはず」と口を揃える。なお、この選挙の大阪選挙区では西川きよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。

その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明。既に時効が成立しており、「迷宮入り」となっている)を受けて重傷を負い、表舞台からはすっかり身を引いてしまった。この暴行事件でやすしは失語症となるが驚異の回復力で復活をする。

1993年に「やすしを囲む会」を開き、知人を含め約100人が出席した。きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本の圧力で彼らは出席出来なかった(当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けた。しかし木村政雄はお忍びでこそっと来ていたらしい)。

1994年には、大人気シリーズ「ミナミの帝王」に萬田銀次郎の先生役で出演、漫才を演じているときとは何ら変わりない様子を見せていた。

その後、1995年7月には京都府八幡市にある石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体も振らついた状態で、当時の祭りの参加者は往年のやすしの姿が覆された衝撃的な姿を目の当たりにした。

更にその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで桂福団治と即興漫才を披露、これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と呟いていたという。

そして、月日が過ぎ、やがて死期を迎える事となる・・・。


晩年、そして死
1996年1月21日、自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見し、救急車で病院に運ばれたが既に心臓と呼吸が停止、意識が戻ることなく急逝した。享年51。亡くなる前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院へ診てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は啓子夫人と娘のひかりに対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。

病院の医師から自宅で亡くなったと診断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の前にビール缶が多く入ったごみ袋が写っており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいた事が弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であった事が裏付けられた。 やすしは1986年に仕事先の徳島で吐血し、医師から「このまま飲み続けたら10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告されていたが、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化。肝硬変と診断されて入退院を繰り返したが、急に夜中にナースコールで「(俺の腹の)水抜けぇ!」とわめいたり、無断で退院したりとトラブルを起こし、更に酒も飲み続けた。そして10年後にそれが現実となってしまった。

やすしの死は関西のマスコミは元より全国に衝撃が走り、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。

若手の頃に可愛がってもらった宮川大助・花子はうめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしの事を思い出して号泣、観客もほぼ全員が号泣しやすしの死を偲んだ。
木村政雄は「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てる訳にはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除すると述べ、のちに正式に免除された。
当時吉本の専務だった林裕章は「人の話を聞かんからこうなった」と厳しい口調でコメント。
師匠の横山ノックはやすしの遺体が安置された摂津警察署へ訪れ、「最後まで警察の厄介になりよって…」と泣きながらコメント。
横山ノックの弟子としての姿を見ていた上岡龍太郎(当時は横山パンチ)は「僕には「漫才の天才少年・木村君」としての姿しか思い出されません」と、やすしが輝いた時代への評価と晩年の不遇を惜しむ発言をした。
これらの経緯からすると吉本を解雇されて以降、やすし自身の人生は特に晩年にあたって不遇で終わったといえる。現在でもやすきよのファンや一部の関係者の間でも「あの時、酒をやめれば復帰出来るチャンスがあったのでは?」「飲酒運転しなければ良かったのに」等の賛否両論の声が相次いでいる。


最後の別れ
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていた。

西川きよしは「もうええかげんゆっくりしいや、ゆっくり休んでや」と泣き崩れながら弔辞を読み上げた。
横山ノックも「君の芸は師匠の僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と弔辞を読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子程、可愛いといいますが、それ程、完璧に僕の指示をこなしてくれた。」とやすしとの師弟愛を物語るコメントを述べた。
親友だった野中和夫は泣きながら「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」と弔辞を読んだ。
出棺の時、ファンからは「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上り、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場にて「散骨の儀」が行われ、船上から散骨された。その後、テレビ番組ではやすしのデジタル出演によりデジタルやすきよ漫才の要望もある。


最後の破滅型芸人
やすしの人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述の「数々のトラブルはあくまでネタである」というスタンスを貫こうとしたやすしは、この時代の流れに最後まで抗おうとしていた懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で、彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型芸人」と称される事もある。


短気な性格
生前、短気な性格であり、自分が納得行かない事があれば、番組中に激怒したり、途中で帰ったり、若手タレントに説教したり、酒飲んでいれば殴ったり等がしばしば見受けられた。

ギャグ
毎度!横山や!
怒るでしかし
メガネ、メガネ …(眼鏡を探す時に言う。)
正味の話が!
かわりべんたん、かわりべんたん(かわりばんこの代わりにこの語を好んで使う)
持っとけ弟子!(といって上着を舞台袖に投げる。大抵投げ返される)

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都市伝説PART5.

2007年03月10日 | Weblog
ジョーク的な都市伝説
内容が面白く、ウイットに富んだ話は、語り継がれやすいため、都市伝説として広まりやすい。また、教訓を含む寓話は事実として広まりやすい(もちろん事実である場合もありうる)。

悪の十字架
シャッターの閉まったパチンコ屋の前に老婆が立っている。不審に思いその老婆に目をやると老婆が叫んだ「開くの10時か?(悪の十字架)」これは、地域によっては人物が中年男性だったり、店がスーパーマーケットだったり、変化がある。同種として「今日、麩の味噌汁(恐怖の味噌汁)」、「寝台車頼む(死んだ、医者頼む)」「“カネオクレタノム”“ダレガクレタ アマリノムナ”(電報)」。
クロネコヤマトの怪談
ある日の真夜中ドライブをしていた時、飛び出してきた黒猫を轢いてしまう。しかし見てみぬ振りをしてそのままドライブを続行、しばらくすると後ろから子猫を銜えた黒猫が追いかけてくる。どんなにスピードを出しても黒猫は追いかけてくる。そして、とうとう黒猫に追い抜かれようかとした時、ふと目をやるとそれはヤマト運輸のトラックであり、黒猫はヤマト運輸のロゴであった。
とある教授のテスト
毎年同じ問題を出す教授がいた。テストの内容が分かっているので、この教授の講義は出席率が極めて悪い。教授はむしゃくしゃして一矢報いてやろうと考えた。テストが始まった。テストの内容は「この中から私の顔を選べ」というものであった。東京大学で実際にあった、というように大学を具体的に示すエピソードもある(実際に上智大学や工学院大学で行われた)。『週刊ストーリーランド』にて、類似した内容のアニメが放送されたことがある。
見慣れない微生物
自分の唾液を顕微鏡で観察する実習中に、女子学生が教科書には載っていない微生物を発見する。講師を呼んで確認してもらったところ、一言「精子だね」と言われるというもの。歯学部や医学部の学生の間で、具体的な上級生の実話として伝えられることが多い。
赤ちゃん列車
大学の既婚者寮のうち一つだけ、入居者の出産率が異様に高いものがあった。調べてみると、早朝に近くを通る列車が原因であった。列車の音によってこの既婚者寮の入居者夫婦達が起きる。しかし「再び寝るには遅過ぎる、起きるには早すぎる」時刻なので、夫婦達は子作りに励んでしまうのであった。
サプライズ・パーティ
今日が自分の誕生日である事に誰も気づいてくれない。自棄になって「仕返し」の為に自分の部屋に不倫相手・売春婦を呼ぶ。裸になっていざ行為に及ぼうと思った瞬間、部屋のドアが空いて皆が「ハッピー・バースデー」を歌う。皆は驚かそうと思って誕生パーティを行う事を黙っていたのだ。主人公に対するサプライズパーティーを題材とした小説やドラマの影響と思われる(『世にも奇妙な物語』にはサプライズパーティーで人が隠れていたために主人公の犯罪が発覚する話がある。また、山口雅也の短編集「ミステリーズ」(1994年)にも、同様のモチーフによる短編ミステリーが収録されている)。
ロールス・ロイスは壊れない
砂漠横断中にロールスロイスが故障。しかしどこからともなく人々がやってきて、ロールスロイスを修理。金を渡してこの件を公言しないようにいう。彼らは「ロールスロイスは壊れない」というイメージを守り抜くために会社が派遣した修理団であった(街中など舞台は多数ある)。
裸でスキー
女性がスキーの最中尿意をもよおす。近くにトイレがなかったので、仕方なく繁みに隠れ、スカートと下着を降ろす。しかしバランスをくずしてスキーが滑り出してしまい、そのままの姿でゲレンデを滑ってしまうというもの。
セックスの途中、膣痙攣でカップルが救急車で搬送
性交中、女性が膣痙攣を起こし男性の局部が抜けなくなり、救急車で搬送されるという話。有名タレントや、身近な学校の生徒等が遭遇した事件(八中事件)として流布されている。
男性の局部が抜けなくなった報告例がアメリカで一件だけあったがのちに創作と判明。1971年ヴァンダービルト大学病院のボンジュラントとカパナーリが『フィラデルフィア医学ニュース』で嘘を暴露(ブルンヴァンの都市伝説シリーズより)。
なお、膣痙攣そのものが都市伝説とされることがあるが、実在する症状。医学上は「膣痙」と言い、英語ではvaginism、独語ではvaginismusと呼ばれる。性交前に起これば挿入不可、もしくは痛みを伴う。性交中に起これば抜去不能となり、陰茎捕捉(cativus)の状態になるという部分が都市伝説であり、陰茎捕捉はイギリスで1947年の手紙による報告一例のみである[4]。
大阪ビジネスパークのTWIN21ビルの影
1983年に開業した大阪ビジネスパークのTWIN21ビルはその姿が数字の11に似ている。それまで高層建築物のない近隣では、TWIN21ビルができたことで、午前11時11分に11の影が11分間かけて通過するといわれ、暗くなることから当時の人気深夜番組にたとえ『11PM』と呼ばれたという話。[5]
グレムリンはクレムリンへの嫌がらせ
米国の映画『グレムリン』に登場する妖怪「グレムリン」はソ連の共産党本部があったクレムリンに対する嫌がらせとして名づけられたとする説([6])なお、飛行妖怪グレムリンの話自体は第二次世界大戦の頃から存在した(小さな灰色の雲の姿で飛んで来て、飛行中の機体に纏わり付き、翼を捥いで墜落させるという)。
牛の首
「『牛の首』という恐ろしい話があるが、恐ろしすぎて誰も話さない」という話。鮫島事件と同様に、話の内容はなく、その内容が知りたいという好奇心から伝播してゆく。
飼っていたカブトムシが死んだ時、カブトムシの電池を入れ替えようとした子供がいた
1980年代から話されているとのこと。実際の生物に触れる機会が少なくなった子供が増えたことから作られたといわれている。
2000年代になり、森昭雄『ゲーム脳の恐怖』の前書き、『甲虫王者ムシキング』ブームの際の保守系文化人の見解において共に実話として紹介されこともあり、再び広まりつつある。
カレーの作り方で試験に合格
解答が分からなかったので、ふざけてカレーの作り方を書いておいたらなぜか試験に受かったとするもの。
次の年に真似をしてカレーの作り方を書いた学生がいたが、今度は試験に落ちる。教授に理由を聞くと、「君のカレーにはジャガイモが入ってなかったから」と答える。
1980年代の東大教養学部の理系向け哲学概論の教授は、講義中にカレーの調合について一説ぶつことで知られていた。その教授の期末試験は例年「講義の内容に付いて論じよ」だったので、講義中に「カレーの調合について期末試験に答えた場合はAとする、但し香辛料一つでも抜かした場合は不合格とする。」と宣言していた。講義中に説明する香辛料は数十種類あるため、本当に答えた学生がいたかどうかは不明。東大生といえども、そんな記憶力は稀で、もしそれほどの記憶力があるなら普通の授業内容を論じた方が楽だと思われる。なお、70年代後半~80年当時の東大生数人にヒアリングした結果、当時すでにこの噂はあったとのことで、もっと古くからある噂と思われる。
漫画動物のお医者さんに似たような話が出てくる。(漫画の舞台は北海道大学でモデルはインド史の辛島教授という架空の人物。)
カレーについての同様の話は名古屋大学など多くの大学で聞かれる。「答案として~を書けば合格」「答案用紙の裏に~を書けば合格」などの噂は全国の大学に多数存在する。中には酒井法子の写真を貼れば合格という噂もある。
無名な事を利用して試験に合格
ある学生が試験時間終了後も延々と解答を続けていた。学生は答案を提出するが、彼が時間終了後も答案を続けていた事を理由に教授(又は試験監督者のアルバイト学生)は答案を受け取らない。学生は聞く。「ところで先生は僕の事を知ってますか?」。カンカンに怒った教授は「おまえなんか知るものか!!」と答える。学生は「なら、しめたものだ」と他の答案の中に自分の答案を混ぜこんでしまう。学生の名前を知らないので教授は混ぜこまれた答案を見付ける事ができなかった。(なおこれは有名なジョークで、例えば『ユダヤ・ジョーク集』にはアイゼンハワーを怒らせたコーエン二等兵が同様のやり取りのすえ逃亡して助かったというジョークが掲載されている。この都市伝説を基にしたムービー[7])
個性的な回答で面接に合格・不合格
三船敏郎が「男は黙ってサッポロビール」と言うCMが放映されていた頃、ある男子学生がサッポロビールの入社試験を受けた。しかしその男子学生は面接社員の質問に対し無言のまま何も答えない。怒った面接社員が「どうしてずっと黙っているんだ?」と聞くと男子学生は「男は黙ってサッポロビール」と発言。この発言で、男子学生は内定をもらった。この話を聞いたある学生が同じ事をしたが、結果は不合格であった。「オリジナリティのない人間は必要としていません」というのが理由とされている。この話に関しては長いこと「この人物は実在する」と言われてきたが、2005年2月に放映されたフジテレビ系列の番組『就職の神様』にて、サッポロビールの人事部長にこの人物の存在を質問したところ、「私はその人物に会ったことはない」と否定された。ただし、河合塾の倫理の講師である河本和彦が、著書の倫理参考書にそのエピソードを載せている(この参考書は講義を受ける学生に語りかけるような文体・文章で著されている)。したがってこの参考書を用いた人達はこの話を事実と思っているようだ。
ある男子学生が日産自動車の入社試験を受けた時、面接で「GNPとは何のことですか」と聞かれた。男子学生は緊張のため思い出すことが出来ず、苦し紛れに「頑張れ・日産・パルサーです」と答えた。その男子学生は他の質問に対しても満足な回答を言えなかった為、不合格だと思っていたら、後日内定通知が届いた。なお、このネタは全国の様々なラジオ番組やジャンプ放送局(第8巻に収録)等に投稿され、その都度パクリネタであることを指摘される。
ある男子学生が、面接中に両手を組んで親指を回す癖をし始めた。その落ち着きの無い態度に苛立った面接官は、「君にはそれしかできないのか」とたしなめた。すると彼は、「いいえ、逆にも回せます」と言って指を逆回転させた。その後、その学生は内定を貰った。
ある男子学生が、面接官から「あなたの家業は何ですか」と聞かれた時、緊張の余り「家業」と「か行」を間違え、「かきくけこ!」と言ってしまう。しかし、彼は内定を貰うことが出来た。この話はトーク番組『踊る!さんま御殿!!』の中で視聴者から投稿されたエピソードであるが、それ以前からも噂として存在している。
ある男子学生が、製菓会社の面接で「当社のCMソングを歌ってみてください」と言われ、彼は「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは…」と歌い、そこである事に気付く。その歌は明治製菓のCMソングだが、彼が面接を受けに来ていた企業は森永製菓だったのである。そのため、その学生は不合格となった。派生として、無理矢理「チョコレートは森永」と歌い切り、合格になるという物もある(同様に、松下電器の入社試験で東芝のCMソングを歌いかけてしまい、「光る♪…光るナショナル♪」と歌いきると言う伝説がある)。
ある学生が航空会社(全日空または日本航空)の入社試験を受けた。呼ばれて面接室に入るとき、「キーン」と言いながら両腕を広げ、旅客機の真似をしながら入室した。椅子に座ろうとした学生は面接官に「着陸してよろしいですか?」と尋ねた。面接官は答えた。「そのまま旋回しなさい」。学生は、両腕を広げたまま引き返し退室した。
昭和60年代、三菱電機の集団面接で「当社提供のテレビ番組を答えなさい」という問いに、多くの学生は当時人気番組だった『テレビ探偵団』と答えていたが、その中で『太陽にほえろ!』と答えた学生だけが次の試験に臨むことができた。
内定辞退の報復
就職活動中の学生が複数の企業の内定を受けて、その中の一社に断りの挨拶に出向いた。相手企業の担当者は「まあ今までこちらも世話になったから最後に食事でもおごろう」とレストランに誘い、丼ものを注文する。やがて注文された品が配膳されると、担当者はやおら丼を持ち上げ、学生の頭から浴びせかけて退散した。就職活動が学生の「売り市場」だったバブル期によく語られたもので、この企業はなぜか野村證券とされる場合が多かった。この後、「クリーニング代だ」と言って5000円(あるいは一万円)を置いていく、また、かけられるのは丼ではなくコーヒー、もしくはカレーライスというパターンも存在する。中谷彰宏の著作『面接の達人』中にもこの話が取り上げられていた。
就職活動中の学生が複数の企業の内定を受け、その中の一社に断りの挨拶に出向いた。相手企業の担当者は、「そんな事を言わずに是非とも入社をお願いしますよ」と翻意を懇願する。担当者の熱意に負けた学生が、内定辞退を撤回し入社する旨伝えた。担当者は学生の気が変わらないうちにと、その場で学生が内定を受けた企業全てに、内定辞退の電話をさせた。やがて、学生が全ての会社に電話を終えると、担当者は先ほどと打って変わり、「うちの会社をなめるなよ!!」と罵声を浴びせ、学生に内定取消しを申し渡す。この企業も、なぜか野村證券とされる場合が多かった。
南海コンドルズ
プロ野球の南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)のニックネームにまつわるジョーク。1947年6月に、近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離する事になったため、同社が保有する球団の「近畿グレートリング」を改称するにあたって、親会社が電鉄会社であることから「飛ぶように速い」というイメージで鳥の名前ということがまず決まり、コンドルズが有力候補だったのだが、当時の球団代表が見事な禿頭で「ハゲタカはいけない」ともうひとつの「ホークス」に決まった、というもの。言いだしっぺとされているのは時の監督鶴岡一人で、のちのちまで折に触れて繰り返し、最後には自伝「御堂筋の凱歌」の中にまで記してしまった。
コンドルズが有力だったのは、電車だけに客がよく乗っている(=混んどる)方がいいから、とつく場合もある。
その前身のグレートリングだが、当時のアメリカの俗語で「しまりのいい女性器」という意味があったので、チーム名を変更した。「ホークス」は、南海電気鉄道の社章が鷹の羽を描いたものであった事に由来する。
国鉄コンドルズ
南海の話に近いジョーク。現在の東京ヤクルトスワローズの前身である国鉄スワローズは、当初「国鉄コンドルズ」とする予定であったのが、「混んどる」ではいけないということで「座ろう」にするため「国鉄スワローズ」になったという説。当然ながら「スワロー」は「ツバメ」の意味である。ツバメは国鉄にとってのシンボル的な存在であり、当時の代表特急列車「つばめ」号に因んだものなので、明らかな誤りである。後に『トリビアの泉』のコーナー「ガセビアの沼」にも登場した。
カーネル・サンダースの呪い
1985年に阪神タイガースが優勝した際、一部のファンがケンタッキー・フライドチキン店頭からカーネル・サンダース人形を持ち去り、これを当時の主力選手であるランディ・バースと見立てて道頓堀川に投げ込んだ。その翌年から続いたタイガースの長期低迷を「カーネル・サンダースの呪い」ではないかとして、その人形を発見しようとする試みが『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)の番組内で行われたことをきっかけに、この説が全国に広く流布した。これについて、当時番組のプロデューサーであった松本修は、著書『全国アホ・バカ分布考-はるかなる言葉の旅路-』の中でこの説を、番組内容が関東に伝わった際に一人歩きを始めたものであって、関西人である番組スタッフは誰もその説を信じていない、と言及している。
『連想ゲーム』の電動こけし事件
NHKのかつての人気クイズ番組『連想ゲーム』において、女性チームのキャプテンが出した「電動」というヒントに対し、これに回答者のある女優が「こけし」と即答したというもの。この際のキャプテンや回答者の女優の組み合わせについても複数の名前が挙がっている。実際は「電動」ではなく「伝統」らしい。
『ロンパールーム』の出演幼児途中排除事件
日本テレビのかつての幼児番組『ロンパールーム』で、司会者から「『き』で始まるものの名前を答えてください」といわれた幼児が、睾丸の俗称を口にした。司会者が「もっときれいなものはないの」と尋ねると今度は「きれいな」という形容詞を付けて同じ回答を繰り返し、中間のCMが終わるとその幼児が座っていた場所にぬいぐるみのクマが置かれていた、というもの。実際に見たという意見も根強く存在する。ただし、同番組の終了は1979年であるのに対し、この話が広まったのは1980年代になってからである。
2005年4月28日放映の関西ローカルのバラエティ番組『ビーバップ!ハイヒール』で、当時司会だったうつみ宮土理にこの件を確認したところ、うつみが実際に起きた出来事であると証言する模様が流れた。
また、2005年9月21日放送の『笑っていいとも!』にて、観客が「番組が年内終了するのか?」とタモリに質問を繰り返し言ったことからその観客は退場させられ、CMの後、その席には実際にクマのぬいぐるみが置かれていた。番組が違うとはいえ、都市伝説が現実化した例といえよう。
愛媛県にはポンジュースが出てくる蛇口がある
「愛媛県では、水道の蛇口のひねるところが3つあり、青い蛇口は水、赤い蛇口はお湯、オレンジの蛇口はポンジュースが出る」と言うもの。実際にはそのような蛇口は存在しないが、製造・販売元であるえひめ飲料ではポンジュース蛇口(の形をしたストラップ)プレゼントのキャンペーンを行なった事がある。ちなみに、京都府宇治市の小学校ではお茶(宇治茶)の出てくる蛇口が実在[5]する。

意図的なジョークが都市伝説化したもの・都市伝説に見せかけたジョーク
ジョーク的な都市伝説の極北的な存在として、ジョークなのか都市伝説なのかが微妙な一連の話が存在する。

痛みの基準はハナゲ
「鼻毛を抜いた時の痛みから、痛みをあらわす国際単位HANAGEが制定された」という内容の小噺(ジョーク)。1990年代半ばにパソコン通信「ニフティサーブ」のFJOKEフォーラムで披露されたものが、のちにWeb掲示板への投稿(無断転載)やチェーンメールといった手段・媒体で再流布されたことにより、再流行した。都市伝説扱いで紹介されることもあり、また様々な派生ネタが誕生した。これをきっかけにBSフジ「宝島の地図」で「かっこよさ」「はかなさ」等の単位を集めた新しい単位というコーナーが誕生し、総集編として出版された書籍の発行部数は30万部を越えた。
有事には東京都庁がロボットに変身して日本を守る。
結論から言えば、現在の世界中のどの国の建設・建造技術をもってしても、技術的に不可能である。また、都庁ロボの他にも「お台場のフジテレビは巨大ロボットに変身する」、「有明のビッグサイトは巨大ロボットに変形する」等、形が特徴的な有名建造物にまつわる話がある。
このネタは『行け!稲中卓球部』やトニーたけざきの漫画『岸和田博士の科学的愛情』などで取り扱われているほか、業務用のビデオゲーム「ソニックウィングス」でも都庁ロボが敵キャラとして登場する。1980年代には東海大学アニメ研究会が制作した自主制作アニメ作品「うにくらげ」に東海大学の校舎が合体・変形して誕生する「東海大ロボ」が登場しており、「校舎や巨大な建造物が合体・変形してロボットとなる」というジョークはこの時代にはすでにあった事が伺える。また、「フジテレビがロボットに変身」は『SMAP×SMAP』の中でコントのネタとして取り上げられたことがある。パイロットは前園真聖だという。
赤い玉が出たら打ち止め
男性が射精時、ペニス(尿道口)より精液では無く赤い玉が出たら、その人の生殖機能は限界に達した証拠だとする説。昔のパチンコ台の構造に由来する。現在のように天井から自動的にパチンコ玉を配給するシステムは無く、出玉をパチンコ台に内蔵させていたため、打ち止めが近付くとあらかじめ投入されていた赤い玉が排出され、玉が尽きると遊戯が終了した(台の玉を補給しなければならなかった)ことから。この伝説を元に『赤い玉の伝説』(聖飢魔II『愛と虐殺の日々』収録、『陽炎』シリーズ主題歌)、北崎拓原作『クピドの悪戯 虹玉』が作られた。私屋カヲルの漫画『青春ビンタ!』でもネタにされている。
続きはPART6.へ
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スゴイ女性がいる。

2007年02月20日 | Weblog
僕の知り合いの女性で、ビックリするような人がいる。百貨店の外商でいつも買い物をしているらしいのだが、「赤いベンツ一台持って来て」と電話で頼んだそうである。その百貨店も上客の注文をむげにする訳にもいかず、系列の自動車ディーラーにすぐ手配させたとの事。
その女性は職場の後輩とタクシーに乗っていて、「小銭がないわぁ」とつぶやいた。その小銭とは1000円札の事だった。腕時計はブルガリの160万円相当のものをしている。
でも、仕事には誰にも負けない位、前向き。邪心はまったく無い。携帯電話は長年使い続けた充電しても半日しかもたないものを大切に使っている。この人の「金銭感覚」はどうなっているのだろうか?
不思議な人だが、ポンポン本音で話せるので、僕は大好きだ。

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