僕は「助監督」を1回だけやった事がある。
収録8ヶ月、放送半年の、朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」である。
視聴率は「青空」では無く、「いつも曇空」だったが。
「助監督」は常に「撮影現場」にいなければならない。
ロケの時はロケ隊が出発する時間の1時間前位から、ロケ隊が戻って来て1〜2時間後まで。
スタジオの時も午前9時開始だと、午前8時前から深夜まで。
撮影後、スタッフルームに戻って来て、明日の撮影の段取りを確認しながら飲むビールはとても美味しかったが。
僕は「セカンド助監督」をいきなりやったので、「衣裳さん」との打ち合わせが多かった。
朝、ロケバスに「衣裳さん」と一緒に「衣裳箱」を積み込むのも僕の役目だ。
「助監督」が所属する「演出部」は「チーフ」(芝居担当)、「セカンド」(衣裳担当)、「サード」(小道具担当)、「フォース」(カチンコ及び俳優さんの呼び込み担当)に分かれている。
「チーフ助監督」はしばしば現場を抜け、翌日以降の「撮影スケジュール表」をスタッフルームで書いている事も多かった。
何故、僕が「助監督」を1回しかやらなかったか?
僕は小さい頃から「多動症」で1つの場所に拘束されるのが非常に苦手。「助監督」として、一日中、「撮影現場」に閉じ込められる事は本当に苦痛で苦痛で仕方が無かった。
そして、「先輩ディレクター」や「テレビで放送されている他局のドラマディレクター」の「演出」を目の当たりにした時、彼等の「演出」を僕は絶対抜けないなぁーとつくづく思った。
「ディレクター」はまず「役者の芝居を最大限に引き出す事」が第一義だと思う。
それは「人見知り」で「1人でいる事が最高の喜び」の僕にとっては「苦痛」「拷問」以外の何物でも無い。
「人」が「人」の芝居を引き出すなんて僕には考えられなかった。
リハーサル後、役者が意見を言って来たらどうしよう?そんな芝居は出来ないと言って来たらどうしよう?
プロデューサーと違い、ディレクターは「現場にいて、直接役者と相対する。しかも、大勢のスタッフのいる前で」。
そんな状況に置かれたら、「あがり性」である僕はきっと「アタマの中が真っ白」になってしまうだろう。
「助監督」の仕事、「台本」を読み込んでの「撮影前の準備」も多々あった。
「実際に存在していない会社名を考える」「ドラマ内で出て来る新聞や雑誌の記事作り」「台本には書いていないエキストラの台詞作り」などなど。
インターネットもスマホもPCも無い時代。「電話帳」で「会社名」を調べたり、「図書館」で調べ物をしたり。
出来る限りの事をして、それを「ディレクター」に見せて判断してもらう。
一緒に仕事をしていた「チーフ助監督」は「ディレクター」に全てを捧げるかの様に「身を粉にして」一生懸命準備をしていた。
僕はと言えば、元来の無精。「ディレクター」に見せるのは2つの案だけ。一方を意図的に少し「劣っている案」にして、そちらを先に見せる。
「ディレクター」がその案で納得しなければ、もう一つの「より良い案」を見せて、それで納得してもらう事が良くあった。
平たく言うと「怠けていた」のである。
なんでも出来る「優秀な助監督」が「優秀なディレクター」になるとは言えない。ならない可能性の方が大きいと僕は思う。
「誰にでも合わせられる器用さ」が邪魔をして、「他人に代え難いディレクター」にはなれないのである。
そんなこんなもあり、次のドラマから僕はAPに復帰した。
「物語を紡ぐのが大好きな僕」にはプロデューサーの方が向いていた。
1回きりの「助監督」。暑い暑い夏の日々を思い出す。
主演の甲斐智枝美さんも早逝された。「オカマの美容師役」でレギュラー出演されていた上岡龍太郎さんも先日鬼籍に入られた。
バラエティー番組と違って、ドラマの撮影8ヶ月間、上岡さんはどんな事を指示しても、「はい!」とうなずいて明るく返事をされ、どんなに待たされても一度もキレる事は無かった。
上岡さんには「芸人」とは違う「役者」という世界では文句を言うまいという「考え」があったのかも知れない。
とてもしんどかったが、1回だけやった「助監督」の思い出は頭に刻み込まれ、忘れる事の出来ない強烈なものだった。
若い時に「とってもしんどい事」をやってみるのも、その後の人生の糧になるかも。
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