小学校五年生の時、僕は「死にたい」と思った。
「今日からこの本をやるのよ」
母が持って来た「力の5000題 算数」という一冊の参考書。
この日、母の鶴の一声で僕の中学受験の日々が始まった。
小学校四年生から参考書。五年生、六年生と神戸市魚崎にあった学習塾「井上塾」に通った。
当時、僕は西宮市立浜甲子園小学校に通っていたのだが、45人のクラスで塾に通い、中学受験を目指す生徒は4〜5人しかいなかった。
五年生、塾は5時に始まる。校門を出ると、母が車のエンジンをかけて待っていた。放課後、校庭で遊ぶクラスメイトを尻目に、母は週3日僕を神戸・魚崎の塾に送った。
阪神間に大学受験に強い高校が少ない事もあり、灘中学・甲陽中学・六甲中学・関学等を目指す生徒で「井上塾」は溢れかえっていた。
塾は「阪神魚崎駅」から歩いて10分余り。
日本家屋・井上先生の自宅の二階、畳敷きの大広間が教室だった。
五年生の授業開始時間が5時だった事もあり、五年生の時は往きは母の車、帰りは阪神電車。六年生は7時に授業開始、終了が9時なので、往きが阪神電車、帰りが母の車だった。
夏休みには夏期講習が待ち構え、僕らは毎日玉の様な汗を掻きながら、塾へ通った。
塾では毎回テストがあり、上位10位までが名前を貼り出され、順位に応じて賞品がもらえる。上位にランクインするのは灘中学の合格圏内に入っている生徒ばかり。僕が二年間通ってもらえたのは「皆勤賞」だけだった。
小学校の勉強は、僕にとってとてもとても簡単なレベル。塾で猛勉強させられているので、「大リーグボール養成ギブスを取った後の星飛雄馬」だ。
冬の夜、凍てつく寒空の下、塾から阪神魚崎駅へ歩いていると、北斗七星が見えた。この時、僕は
「死にたい」
と無性に思った。もうこんな状況から絶対逃れたいと切実に思っていた。
子供にとっていちばん大切な「遊ぶ事」も出来ない。好きなテレビを見る事も・・・
僕は中学に合格した。そして、同時に自宅は西宮市浜甲子園から大阪・茨木市に引っ越した。浜甲子園時代の幼馴染はどこにもいなかった。中学の友だちも近所にいない。男女交際も全く出来なかった。
自宅から中学校まで、阪急六甲駅で降りて、片道一時間半。部活のバスケをやっていると、通学だけで一日が終わった。この生活を六年間続けた。
今でも僕はどこかで
「死にたい」と思い続けている。
「自分の生きているという意識」を止める事は出来ない。しかし、「時間」はどんどん経過し、「生きている意識」を感じたまま、いずれは「死の瞬間」を迎えるのだろう。太古の人が「水平線の向こうは滝」の様になっていると考えたのと似ている。
僕は死ぬのが怖い。何故怖いのか、それすら分からない。
小学校四年生、母から渡された一冊の算数の参考書。あの時から「死への意識」が芽生え始めたのだろう。
あの時、
「公立にする?私立にする?あなたが自分の意志で決めなさい」
そんな問いかけを母が子供の僕にしてくれていたら。
きっと、今の「生きている意識」も変わっていたに違いない。
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