南米に惚れた。ブラジル・アルゼンチン、ペルー・ボリビアと旅し、三回目の今年はチリの最南端、マゼラン海峡沿いのプンタ・アレナスへ行く事にする。
日本からは、アメリカン航空で南米のハブ空港マイアミに飛び、飛行機を乗り換え、チリの首都サンチャゴへ。サンチャゴはTシャツ一枚でも汗ばむ陽気。国際空港から国内線専用のターミナルへ移動し、塔乗を待つ。ここからチリ最南端の町プンタ・アレナスを目指すのだ。プンタ・アレナスは日本テレビ「電波少年」でドロンズが旅を出発した町でもある。
5時間後、到着。日本からは30時間あまりかかっている。プンタ・アレナスの空港からはタクシーで市内へ。寒い。雪が降っており、マゼラン海峡沿いの町なので、海峡から強く吹く風も顔に痛い。厚手のコートを着ても寒いのだ。
ガイドブックに載っていた2つのホテルから1つを選び、チェックイン。
ホテルの室内はとても温かくて生き返る。翌日の氷河ツアーをフロントで予約。
ツアーの出発点まで、タクシーで4時間かかるので、往復8時間。1日押さえて3万円。南米のここまで来る事は絶対無いだろうから、奮発した。服を着込み、マゼラン海峡海岸へ散歩。どんよりと灰色の空の下、荒れた海が目の前に広がる。体をなぎ倒さんばかりの強風が吹き荒れている。自然の怖ろしさを全身で感じる。海岸から見るだけでも怖いのに、船に乗ってこのマゼラン海峡に挑んだ過去の船乗りたちに拍手を送りたいという感じだ。
ホテルのレストランで夕食を取り、早めに就寝。
翌朝はホテルをまだ真っ暗な午前3時にタクシーに乗り、氷河ツアーの出発地点に向かう。欧米人に混じってツアーに参加。巨大な氷河等を見て、夕方終了。
また、4時間かけて、プンタ・アレナスへ戻る。
翌朝、タクシーで空港へ行き、プエルト・モンまで飛行機。
この町からサンチャゴまで1日1往復の寝台特急に乗るのが目的。
まずは「プエルト・モン駅」に近いホテルを押さえる。南米の市街地にあるホテルでは英語が通じるので、ホテルを取るのも楽。もちろん、観光客が泊まらない様なホテルではスペイン語しか通じない。
部屋に荷物を置き、駅に行って、翌日11時発の寝台特急の指定券を取る。
翌日、せっかちな私は、10時過ぎ、駅に着き、止まっていた客車に乗り込んだ。
ところが11時になっても動き出す気配が無い。11:15、アメリカ人らしき乗客がやってきて、
「駅前からバスが出る。機関車が来ないらしい。機関車のいる駅まで北上する」
と教えてくれた。これが無ければ私はバスに乗れていなかっただろう。鉄道会社からのオフィシャルなアナウンスは全く無い。
でもこれが旅の醍醐味だと思う。日本では当たり前の非常時の誘導。誘導が無くても、自分で感じ、自分で動くという事。「チリの流儀」に試されていると思った。それが何故か心地良かったのだ。
駅前で待っていると、11:30過ぎマイクロバスが来た。バスはサンチャゴの方角、すなわち、北に向かって走り出した。
途中、2つの駅に立ち寄り、機関車の来るのを待つ。乗客はその度に、駅の待合室で待機。それぞれ30分くらい待っただろうか?バスは北に向けて走り出した。
15:30、着いた駅で待てとの事。ホームに座り、線路に向かって足を投げ出し、ゲームボーイで「麻雀ゲーム」をやりながら1時間。なかなか機関車は来ない。
日本の常識で言うと考えられない事態である。
そうこうしているうちに、遠くで汽笛が聞こえた気がした。
蜃気楼の様にレールをゆっくりと近づいてくる機関車。
17:00すぎ、機関車を付け直した寝台特急はゆっくりとサンチャゴに向けて走り出した。
すぐにトイレに行く。便器に座っていると、便器の下から冷たい風が吹いてくる。かつての日本の列車にあった様に、汚物がそのまま線路に排出されるシステムである。
列車には「食堂車」があって、とてもお腹が空いたので、ステーキと水割りを頼む。まだ他の乗客はここには来ていない。
ステーキは少し硬かったが、ウィスキーの酔いが体に沁みる。そして、列車がレールの繋ぎを通り過ぎるカタンコトンという衝撃音が心地良い。次第に意識を失くしながら私は眠りに落ちていった。
6時間遅れでサンチャゴに向かった寝台特急は早まる事も遅れる事も無く14:00にサンチャゴに着いた。
サンチャゴのホテルにチェックインし、スーツケースを置き、バスに揺られて約1時間、サンチャゴの西に位置する軍港バルパライソに。神戸よりもっと山が海に迫った町だった。山の斜面には、日本でいうと明治時代に作られた「斜めに斜面に沿って昇降する木製のエレベーター」が多数点在。それに加えて、建物が原色で塗られ、白と赤と黄色と青のコンビネーションが素晴らしい。
私は52カ国に旅したがこのバルパライソいう町がいちばん好きだ。
木製のエスカレーターに乗って、町を上から眺めても飽きない魅力がバルパライソにはあった。軍港ゆえ、写真を撮るのが禁止。それでもこの町の事を忘れる事はないだろう
(1995年)
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