僕は1983年、1958年に「開局した当時の社屋」に入社した。
社屋の入口には、今みたいに警備員も立っておらず、誰でも入れる状態だった。
一度、正面玄関から「包丁を持った男」が乱入して来て、大騒ぎになった事もある。
2つのスタジオに1つのサブ(副調整室・ディレクターが指示を出す、スタジオの上にある部屋)、タレント控室は2つしか無かった。
ウチの番組に「美空ひばりさん」が出演した時、大スターを迎い入れる為、彼女の好きな色である「紫色のカーペット」が正面入口から控室まで敷かれたと先輩に聞いた。
また、「ザ・ピーナッツ」が「梅田コマ劇場」に出演している時は、「ハナ肇とクレージキャッツ」がウチのスタジオで「シャボン玉ホリデー」を収録していたとも聞いた。
社屋は開局時に、お墓を移転させ、その跡地に半年程の期間で建設されたので、僕の入社した当時は「増築に継ぐ増築」で迷路の様に入り組んでいた。
場所によっては「スタジオの中」を通り抜けなければ辿り着けない所もあった。
番組でかけるレコードを保存している「レコード室」は一旦屋上に出て、行くしか方法が無かった。
当時の「制作部」はタバコの煙でモウモウ。それぞれのプロデューサーやディレクターの机の上には「タバコの吸い殻」が山積みになった灰皿が並んでいた。
番組のスタッフ毎に連日飲みに行き、新人ADの僕たちにとっては参加がマストだった。
部署によっては夕方早い時間から、酒盛りが開かれる事も日常茶飯事。開局から「テレビ局」で働いている人たちには、彼ら独特の「流儀」があったに違いない。
今では考えられないし、通用しない「流儀」。
「やっぱり普通の会社とは違うなぁー」と僕はそんなテレビ局の「自由な雰囲気」がとても好きだった。
40年前の事である。
「朝の連続ドラマ」を千里中央の「よみうり文化ホール」で録っていた頃の話。僕はまだ独身。
偶然、本社に用事があって、僕は一階パーラーでお茶していた。
そこに同期入社の面々が通りかかって、「飲み」に誘われた。
その時行ったのが、ミナミ・宗右衛門町の「千寿」というラウンジだった。
そこで、僕は「運命的な出会い」をする。
身長が185cmほどもある「優子」という美人ホステス、彼女と出会った。僕は189cm。彼女はとてもアタマが良く、気遣いがさりげなく出来る女性だった。
「千寿」には「チークダンスタイム」があり、客とホステスがチークダンスを踊れた。
僕と「優子」はよくチークダンスを踊った。ほぼ身長が一緒なので、頬と頬を合わせる事はとても簡単だった。
ドラマの収録の合間を縫って、僕は「優子」に会う為に「千寿」に通い詰めた。どんなに疲れていても、彼女に会いたかった。
お店の営業時間は午後5時から深夜の1時まで。
長い時には開店から閉店まで8時間も店に居て、酒を飲んで踊った。「朝の連続ドラマ」の長時間に及ぶ撮影で全く「女の子とデート」も出来なかった僕。
撮影がかなり遅く終わっても、自腹を払ってタクシーに乗り、ミナミに駆けつけた。睡眠時間を削っても。
それが僕の「深夜の青春」だった。
そんな、「優子」と会う為の「千寿」通いは2年位続いただろうか?
「千寿」はある日突然、閉店した。それと同時に「優子」の消息もパタっと途絶えた。
僕は彼女に会いたくて、身悶えし、ドラマの収録にも身が入らなかった。しかし、再会は叶わなかった。携帯電話も無い時代、彼女に連絡する事が出来なかった。
そんなある日、自宅に「優子」から電話がかかって来た。
「セーターを編んだから持って行きたい」と。
ちょうど実家に両親はいなかった。
「優子」が「初めて編んだ手編みのセーター」を持って来た。
そのセーターは「初めて編んだという言葉」通り、手の部分と体が入る部分が扇状に繋がっていて、「モモンガの様なセーター」だった。
僕の部屋で二人っきりになったが、話をするだけで、お互いに照れて、それ以上の事は何も無かった。窓から差し込んで来る陽光を受け、「優子」の横顔は優しく美しく光っていた。
両親がいつ帰宅するか、気が気で無い僕。
あれから、40年弱。あの「モモンガセーター」はどこにいったのだろう。「優子」は今でも元気にしているのだろうか?
僕はその後、結婚し、東京に異動。
「私はアナタと付き合えない『理由』があるの」と「優子」は僕に言った事がある。その「理由」とは一体何だったのだろうか?
あれから「優子」からの連絡は一切無い。
フルネームは、「野崎優子」。血液型O型。当時、母親と二人、大阪・堺市の浜寺公園辺りに住んでいた。生年月日は1960年6月27日。僕とタメだ。
皆さん、「野崎優子」という女性を知っていたら教えて欲しい。
彼女は僕の大切な「青春の1ページ」だから。
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