「俺、こんな事やりたいねん!」
六本木の全日空ホテルの喫茶ルーム。
「EXテレビ」の後番組の打ち合わせに行った時、島田紳助さんはこう口火を切った。
僕とチーフ・プロデューサーの荻原さんは3本の企画書を紳助さんに説明する為に持って行った。
その企画書を読む事無く、紳助さんは自分のやりたい企画の話を始めたのである。
「タレントが講師になって、『時事問題』をタレントの生徒たちに教える番組や。面白いやろ」
と鼻を鳴らしながらにんまり笑う。
次々とアイデアが浮かんで来る紳助さん。番組の概要は次の様になった。
「タレントがタレントに『時事問題』を教える。間違っていた時の為に、アドバイス出来る大学の先生に来て貰う。タレントにツッコんだり、進行をしたりするのが紳助さん」
打ち合わせの結果を持ち帰って、CPの荻原さんと、初回のディレクターの僕を中心に番組の準備が進められた。
放送枠は日本テレビの「どんまい!!スポーツ&ワイド」の火曜日。深夜の生放送、「スポーツコーナー(日本テレビ制作)」が終わってから、「バラエティーコーナー」として、大阪での生放送が始まる。
初回のテーマは当時、戦争が頻発していた「ボスニア・ヘルツェゴビナ」に決まった。
インターネットが無い時代、梅田の紀伊國屋書店に行って、関連本をたくさん買い込んで来て専門の先生を探す。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ」を専門に研究している先生は千葉大学にいた。
早速、会いに行く。研究室で先生と向き合い、ディレクターの僕が話を聞く。僕が理解していなければ、タレントさんに説明できないし、授業で使う素材も発注出来ない。
千葉大学の先生は今までテレビに出た事が無く、ボスニア・ヘルツェゴビナ」の事を僕に端から端まで説明しようとするが、1時間の生放送で説明出来る事は限られている。人の良さそうな先生は2時間以上、素人の僕に「ボスニア・ヘルツェゴビナ」の話をしてくれていた。
紳助さんの狙いは、タレントが「時事問題」を講義する事で「テレビの前の視聴者も容易にとっつき難い「時事問題」を理解出来る番組」にする事だろう。
何度も何度も千葉大学の教授に聞き直しつつ、「ボスニア・ヘルツェゴビナ問題」の要点をなんとかノートにまとめていった。
千葉から湘南まで移動。 1回目の講師をやる元プロ野球選手・加藤博一さんの御自宅に伺って、教授の話を簡素にして教える。加藤さん、何とか理解してくれる。
番組名もスタッフで散々話し合われたが、なかなかしっくり来るタイトルが出て来ない。
そんな時、後輩の前西ディレクターが言った。
「サルでもわかるニュース」
というのはどうですか?
スタッフ全員が大きく頷いた。
僕は「サルでもわかるニュース」の前番組「EXテレビosaka」の最終回の収録が残っていたので、この頃は日々バタバタだった。
記念すべき、「どんまい!!スポーツ&ワイド 紳助のサルでもわかるニュース」(1994〜1997年)の第1回放送当日、日本テレビの「スポーツコーナー」から生放送が始まる。
その日のスポーツネタの多さで「スポーツコーナー」の時間が決まる。我々大阪のスタッフは日テレが押しません様にと強く強く祈っていた。
ほぼ定刻通りに始まった「紳助のサルでもわかるニュース」。千葉大学の教授のアシストはかなりぎこちなかったが、紳助さんが見事に仕切ってくれ、笑いも頻繁に起こる見やすい番組になっていた。
そして、僕の2回目のディレクター。テーマは「国際連合」。京都大学の高坂正堯教授に教えを乞いに京大の研究室まで足を運んだ。
高坂先生はテレビ慣れしているので、こちらの番組意図を即座に理解して下さり、30分程で打ち合わせは終わった。
今回のタレント講師は飯島愛さん。局に早めに入って貰い、「国際連合」について、僕が教えていく。
彼女は頭がいいとその時思った。その飲み込みの速さに舌を巻いた。
生放送での彼女の講義は的を得て素晴らしく、高坂先生が見事にアシストして下さった。
後に彼女の訃報を聞き、呆然としたものだ。
1994年4月に始まった「紳助のサルでもわかるニュース」が軌道に乗り始めた8月、僕は東京制作部に移動になり、ドラマのプロデューサーへの道を歩み始める。
後年、東京宣伝部で番組宣伝の仕事をしていた時、島田紳助さんの2時間特番の宣伝を担当した事があった。紳助さんは収録中、喋り続け、気が付いたら、9時間経っていた事もあった。度肝を抜かれた。
才能のかたまりの様な紳助さん、今はどうしているのだろうか?最近、Twitterで島田紳助さんと名乗る人が発信し出した。発信内容を見ると本人の様な「人の機微を巧く捉えた発言」なのだが。
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