以前、「過保護な京王線」という話を書いた事がある。
「京王線」は「車内アナウンス」が異常に多いのである。ありとあらゆる事を乗客に知らせておいて、「クレーム」が来ない様にしているのだろう。
僕はこれは「音の暴力」だと思っている。
「カタッコト」とレール上を走る電車の心地良い「音」を聞いて、好きな本でも読みたいではないか!
「日本人」は「音」に鈍感である。
今のテレビ番組。「ナレーション」や「効果音」など、まるまる1時間、「音」で埋め尽くされている。
「スマホ」をいじりながらの「ながら視聴」が多い事もあって、「音」で「今、面白い場面ですよ!」という事を伝えて、少しでもテレビ画面に振り向いて欲しいのだろう。
「インターネット」の出現・発達に伴い、「1人の人間が抱えきれない程の情報」が若者を中心に「日本人」に毎日襲いかかっている。
「いろんな媒体」が「音」を通じて、チョイスされようと必死なのである。
僕の新人AD時代、「お笑い番組」で先輩ディレクターが「編集をやってみろ!」と言った。
初めての事で徹夜しながら、四苦八苦して、30分番組を繋いだ。
出来上がった番組を見て、先輩はこう言った。
「これでは『視聴者が笑う糊代』が無い」と。
つまり、芸人さんが「笑わせた後」に「視聴者がそれを観て、『笑える間(ま)』が無いと番組は成立しない」と言う事。
それはドラマでも同じ。視聴者が『感動する間(ま)』が重要なのだ。
だから、「感動するシーン」では「音楽」が「視聴者が感動した直後」にほんのわずかの「間」を空けて、流れ出す事が多い。「音楽」の流れ出しがほんの少しでも「視聴者が感動する瞬間」より早くなると、視聴者は冷めてしまう。
「本」を読んでいると、「感動したり」「笑ったり」「泣いたり」出来る。自分の感情に合わせて、本をそっと置き、じっくりと「喜怒哀楽」を味合う事が出来るのが「読書」の醍醐味であり、「間」なのだ。
コミックだと、テレビ番組とどこか似ていて、この「間」を既に漫画家が作っている場合が多い。
そうした意味でも、「静寂の中での大切な読書タイム」を「京王電鉄」、どうか奪わないで欲しい。とても、贅沢で芳醇な時間だから。
人と人の「会話」でも「間」は大切だ。自分の事ばかり話して、相手の話を聞かないのでは「会話」にならない。
相手の「生き方を想像する時間」を作って、お互い心が豊かになる為に「会話」をしよう。
昨日、18歳の「自衛隊員見習い」が「上司」ほか1名を射殺した。本当に衝撃的な事件である。
最近、「自分の周りの人の人生」「自分自身の人生」を考えず、凶行を犯す事件が増えている。
「人の命」は非常に尊く大切なものだ。
極論だが、「日本人」に「インターネット」というツールを手渡した事。
「日本人」と「インターネット」の相性が良すぎたのか悪すぎたのか、いずれにしても、「想像力の欠如」を招く大きな要因になっているのは間違いないと思う。
「音の無い静かな世界」で「心を統一」して、「オンラインゲーム」や「SNS」では無く、「読書」や「趣味」「運動」など「間」を作れる事をやってみよう。
日本映画で「人の命を最も尊んで描いた映画監督・木下惠介」の映画「二十四の瞳」をもう一度見直してみたい衝動に駆られている。
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