奥さんが甲斐友さんからLINEで教えて貰った田家秀樹さんの連載コラムです
スマホの画面越しに、甲斐バンドのライブアルバム「100万$ナイト」のジャケ写と
「1979年 先駆者たちの分岐点」という記事を楽しませて頂いたんだけど
その記事が掲載された1月6日付の東奥日報をポチりました(笑)ので、ご紹介することに…
…ただ、その前に、甲斐バンドフリーク必携の書と言われる
田家さんの著書「ポップコーンをほおばって」は、甲斐さん始めメンバーの皆さんにではなく
甲斐バンドのレコーディングやライブ活動などに携わられた
スタッフの方々や関係者の皆さんへのインタビューによって
「甲斐バンド」の歩みを浮き彫りにしたものでしたが
同じく周囲の方々へのインタビューを基に著された「嵐の季節」の著者であり
甲斐報にもたびたび寄稿なさっていた石田伸也さんが
2月6日に急逝されていたと知って大変驚いております
ボクは、このブログの読者の方から「甲斐バンドの『翼あるもの』を聴いて記憶を取り戻した男性」
…の記事についてお訊ねがあり、その記事の掲載紙と掲載日をお知らせしたところ
実は石田さんが「嵐の季節」のために探していらしたと知ってビックリしたことや
奥さんが、そのことを、甲斐バンドのライブ会場に設けられた
「嵐の季節」販売コーナーにお見えになっていた石田さんにお知らせしたことなど
たびたび、このブログで石田さんのことを書かせて頂いていたら
ご本人からコメントを頂戴したり、ご自身のツイッターに記事をアップして頂いたりして
一面識もないんだけど、勝手に親近感を覚えておりました
思えば、奥さんが「アサ芸」に載っていた甲斐バンドの記事を読んで
「このライターの石田伸也さんって、絶対、甲斐バンドファンだよね?(笑)」
…と言ったのが、そもそもの出会いだった訳ですが
田家さんが、甲斐さんやその周囲の皆さんと、ほぼ同世代でいらっしゃるのに対し
石田さんは、奥さん達「甲斐バンド世代」と呼ばれるファンの代表という感じで
より身近な存在というか、実際、奥さんはライブ会場で石田さんをお見かけすると
ご挨拶がてら、お話しさせて頂いていたようですし
石田さんのツイッターもよく拝見していて、直近のツイートでは
「もう少しで書名を含めて正式発表できると思うけど、僕の16冊目の新刊は
当初の2月下旬から1ヶ月ほど延期し、3月23日頃の発売となりそう
これは非常に前向きな形のスケジュール調整です。いいモノを創る時間をくれよーー」
…と、いつかどこかで聴いたことのあるフレーズにニヤニヤしたり(笑)
「行きつけの下北沢のバーで、もしかしたら本棚にあるんじゃないかと見たらドンピシャで存在
今は絶版になっている貴重な資料なので、新刊を書き上げるまで貸して貰うこととした」
…「っていうのは、甲斐さんも行きつけのあのバーかなあ?」と思ったり
「2009年春に初めて甲斐さんに会った日は、天気も体調も暗めで
目が覚めた瞬間から吐き気に襲われた
この仕事を長くやってて、大物インタビューもこなしているのに、ここまで緊張するのかと
その緊張感は、5年後『嵐の季節』に結実する
そして、今日の人も吐き気こそないけど緊張感ある対面だった」
…の「緊張」という言葉に「わかる!わかる!」と頷いたりして
件の新刊がどんな内容なのか、楽しみにしていた矢先の訃報に言葉もない様子でした
石田さんのご冥福を心よりお祈り致します…m(__)m
さて、田家さんのコラムですけど…「J-POPが花開いた80年代
ミュージシャンたちと並走してきた田家秀樹さんが
名盤や記念碑的な公演を紐解きながら、当時の音楽シーンを綴ります」
…という趣旨で、毎週木曜日に掲載される連載みたいで
その第1回目の冒頭に「『79年のドラマは全て終わりました。俺たちは80年代に行きます』
甲斐バンドの甲斐よしひろが、1979年12月21,22日の初の武道館2日間公演でそう言ったのは
本編最後の曲『100万$ナイト』の前でだ」とのツカミがあり
「どんな年代にも終わりと始まりがある
それまでの10年がどう終わって、新しい10年がどう始まったのか
劇的な分岐点という意味で、79年の大みそかをしのぐ年はなかったのではないだろうか
今、僕らが日常的に親しんでいるポップミュージックの基盤は、70年代に作られた
日本語のロックバンドにシンガー・ソングライター
それまで日本にはなかった音楽のスタイルやコンサートの形
その頃に原型が誕生した例は数え切れない」と続き
ある「日本語のロックバンド」ファンである我が家の住人は
そのバンドのリーダーの方が、全国ツアーの先々で
「自分が買った席だから、その場で立って楽しめばいい」と
スタンディングでのライブ観賞を布教していらしたことを思い出して遠い目…(笑)
「ただ、そうした先駆者たちの多くが不遇だった
RCサクセションは事務所の問題に巻き込まれ
THE ALFEEはレコード会社との契約解除で、思うように作品が出せなかった
日本語のロックの元祖『はっぴいえんど』にしても活動期間は約3年
オリジナルアルバムは3枚だけだ」…と、この辺りは
田家さんのラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」でおっしゃっていた
「はっぴいえんどからBOOWYに至る過程での最重要バンド」というキーワードを彷彿させ
「その一方で、時代の象徴となった吉田拓郎、井上陽水
松任谷由実や中島みゆき等にとっても、苦戦していた人達にとっても
『70年代の終わり』は『舞台が変わる』以外の何物でもなかった」…との一文は
前述のラジオ番組の中でも「1970年代から1980年代の変わり目というのは
本当に色々なことがあり、時代が変わって行くんだということを強く感じたのを
今でも鮮明に思い出すことが出来ます」という言葉で表現なさってました
ともあれ…「79年の12月に初めて使われたのが『武道館ラッシュ』という言葉だ
松山千春、ゴダイゴ、陽水・高中正義、桑名正博、原田真二、ジョニー・ルイス&チャー
唯一の単独2日間公演が甲斐バンドだった
『100万$ナイト』は、79年10月発売
チャート1位になったアルバム『マイ・ジェネレーション』に収録されていた
歌詞の中の『踊ることも出来ずに』倒れてしまう『傷ついたダンサー』は
失意の中で挫折して行った70年代の多くの若者たちを連想させた」と記されてますが
奥さんは「男と女は本当には判り合えない
だから、俺は祈るのね」とおっしゃっていた甲斐さんが
「祈る言葉はありはしない」という歌詞をお書きになって
それを、聴いていると胸が締めつけられるような声で歌われていたのがショックだったんだとか…
それはともかく…「大みそかの日本青年館のステージで
『もう古い歌は歌わない』と言ったのは拓郎だ
浅草国際劇場(当時)のニューイヤー・ロックフェスティバルで
バンド名を『ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド』に変え
過去のオリジナル曲を封印すると宣言したのは
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
同じステージで、髪を染め化粧を施した
ド派手なロックバンドに変身して登場したのが、RCサクセションだった
それぞれの区切りと再出発。新しい時代が始まろうとしていた」
…と、初回の記事は結ばれてましたけど、当時の風潮…というより、肌で感じた空気感は
「不遇」や「失意」といったネガティブなものばかりじゃなく
「夜明けが来る!」「新しい風が吹く!」的な
ある種のワクワク感を伴っていたような気が…?