ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

80年代ノート3

2022-02-13 18:10:00 | メディア
引き続き、1月27日付の上毛新聞に掲載された田家秀樹さんのコラムです
前回は、田家さんのラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」での言葉をお借りすると
「82年のアルバム『虜』でですね、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったエンジニア
ボブ・クリアマウンテンと組んだというところまで話をしました」…ということで(笑)

「現地(ニューヨーク)でのスタジオ作業が始まった1日目のことだ
ロビーに待機している僕らの前に姿を現した(甲斐バンドの)ドラムの松藤英男は
呆然とした表情で『わしのドラムがロキシー・ミュージックになった』と呟いた」と田家さん
でも、確か、当時の機関紙「BEATNIK」には…
「わしのタイコがロキシー・ミュージックになってしまった」…と記されていたような気が…?(笑)

そして、コラムは…「それは、70年代のロックバンドの太く重いドラムとは違う
エコーの効いた『80年代の音』だった
デジタル技術で肉厚な音に進化したバンドサウンド
ハードボイルド小説のような骨太な物語性のあるロック」と続いているんですが

前述のラジオ番組では…
「よく『骨太のロックバンド』という言い方をしますけども
じゃあ『骨太』とは何だ?っていうことなんですね
あの時代の新しいリズム、色んな新しい要素を取り込みながら、バンドのですね、骨格が揺るがない
まあ、甲斐バンドはですね、デジタルの普及で激変したレコーディング環境とですね
いち早く向き合ったロックバンドだった

で、例えば、70年代後半から80年代の初頭にかけて
レゲエとかですね、スカとか、新しいリズムが台頭して来た訳で
日本のCMソングなんかでも、スカのですね、バンドが登場したりする時代が来ました
でも『地下室のメロディー』のように、スカを採り入れながらもですね
バンドらしさというのが、カッチリとあるというのはですね、そういうケリのつけ方
一つ一つですね、時代に対しながら答えを出して行くという例だったと思いますね

で、そこにこう…その都度その都度ですね
実験的な要素も採り入れながら、時代を疾走するというですね
甲斐バンドの12年間っていうのは、そういう時間だったと思いますね」とおっしゃってました

ただ、コラム枠の文字数の関係からか?(苦笑)…
「『虜』発表の後、83年の『黄金/GOLD』
85年の『ラブ・マイナス・ゼロ』と続いたボブとのアルバムは
『ニューヨーク3部作』として語られている」…と駆け足で触れておられるんだけど

同番組では…「1982年のですね、年末の武道館…
毎年年末に2日間ずつライブをやってましたが
この82年の年末でですね『良いものを作る時間をくれよ』というですね、名ゼリフを残して
翌年のコンサートスケジュールを全部白紙にして作ったのが
83年7月に発売されたアルバム『GOLD』だったんですね

で、アルバムにですね、アレンジャーというのが
このニューヨーク3部作から加わってるんですね
後藤次利さんとか、椎名和夫さんとか、井上鑑さんとか、瀬尾一三さんとか、星勝さんとか
まあ、そういう意味では、音の甲斐バンドというのがですね、ここから始まってます」とか

「田中一郎さんが、甲斐バンドに正式加入してから
1年間かけて作ったのが、85年3月に出た『ラブ・マイナス・ゼロ』ですね
このアルバムのためにですね、甲斐さんは2回ニューヨークに行ってます
5月にはですね、ニール・ドーフスマンという人と組んで
10月にもですね、更にボブ・クリアマウンテンとそれをやり直し
2人の(エンジニアの)手を経て作り上げられました

ニール・ドーフスマンはですね、その後、スティングとか
ポール・マッカートニーとか色んな人を手がけて…
この(エンジニア)2人ともですね、グラミー賞を受賞してますね
で、日本では、その後、渡辺美里さんとか、浜田省吾さんとか
氷室京介さんとか、まあ色んなアーティストと組むようになるんですが
そういう意味では、甲斐さんはですね
先見の明があったという風に言っていいでしょうね」とか

「『ラブ・マイナス・ゼロ』はですね、打ち込みのアルバムなんですね
メンバーの演奏は2曲だけ、それぞれ別々にレコーディングしたものを
ボブ・クリアマウンテンに最終的に委ねたというアルバムでした
そのボブ・クリアマウンテンの当時のスケジュールではですね
ダリル・ホール&ジョン・オーツとブライアン・アダムスの間に
甲斐バンドが入っておりました」と話されてました

まあ、甲斐さんは、1996年の再結成時のインタビューで…
「音はムチャクチャ良いんだけど、極端なテンション出して、ねじれてるよね
そういう時期があると思うんですよ
ナンでこんなにサウンド・テンション高いの
?っていう時期が…
まさに、この『ラブ・マイナス・ゼロ』がそうだね。もう今こんなミックス出来ないよ
80年代の徒花だね」とおっしゃってましたけど…(笑)

そして、コラムの最後は…「誰もやってないことをやりたい
80年,箱根の芦ノ湖畔、81年,花園ラグビー場と続いた野外イベントもそんな例だ
ニューヨークで生まれた音を東京のど真ん中で鳴らしたい
新宿西口に2万人以上を集めた野外イベント
『THE BIG GIG』が行われたのは、83年8月だった」…と結ばれてますが

「『GOLD』(発売)の翌月8月7日にですね、新宿新都心
当時『ZONE』と呼ばれていた所で行われたのが、野外ライブ『THE BIG GIG』でした」と田家さん
「お客さんが21,000人、東京の都心で行われた最初の大規模野外ライブですね
その1曲目が、82年のアルバム『虜』の中の『ブライトン・ロック』
ニューヨーク三部作の1枚目『虜』の中の曲ですね」とか

「東京・新宿新都心都有5号地…今、都庁が建ってる所ですね
当時はですね、もちろん都庁なんて出来てなくてですね
住友三角ビルと京王プラザくらいしかなかったんですね
で、都会の野外ならではだったのが、住友ビルをですね、借景したんですね
あそこの壁にですね、こう…照明を当てて、それをこう…まっ、演出効果したという意味では
新宿のド真ん中ならではのイベントでありました

で、あの一角はですね、周囲にですね、陸橋のように歩道がずっと通っておりまして
ちょっと下がった所に地面があったんですね
で、周りのですね、歩道からステージが見えるんですね
で、お客さんは2万人くらい居たんですけども
その陸橋にはですね、チケットを買ってない人たちが、たあくさん
こう…鈴なりになって様子を見てたというですね(笑)
そういう都心のド真ん中ならではの光景が繰り広げられました」と熱く語られてましたけど

それが、甲斐さんの「武道館でライブをやるって言っても
小さな記事にしかならなかったから」という歯がゆさから発し
「誰もやったことがない場所でのライブ」に発展した
その結果の1つだったということには触れていらっしゃいませんでした(笑)
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