ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

80年代ノート2

2022-02-12 18:05:00 | メディア
前回ご紹介した「第1回」のコラムは、田家秀樹さんがこの先
「J-POPが花開いた80年代」を綴って行かれる上で
その「分岐点」となる「1979年」にまず触れられていましたが

かつて、甲斐バンドの機関紙「BEATNIK」に寄稿なさっていた記事から誕生した著書
「ポップコーンをほおばって」でも「話を1972年から始めたいと思う」と田家さん
「甲斐バンドには、60年代の血が流れている」とおっしゃる理由を説明なさる上で
「甲斐バンドのレコード・デビューは、1974年のことだ
74年11月5日発売『バス通り』…これが正式なレコード・デビューとなっている
それでも、72年から始めたいと思う。その第1ページを、72年にしたいと思う

歴史には『前史』という段階がある。表舞台に登場する前の人目に触れなかった時間のことだ
そして表舞台の歴史としての長い時間よりも
前史の方に、より凝縮された本質が窺えたりする
いきなり表舞台が始まる訳でもない
ある日突然、バンドが降って湧いたかのように生まれる訳でもない
そこに至るまでの隠された必然というやつがある
甲斐バンドにとってのそんな時間が、1972年だったという気がする」と記されてます

さて、その「80年代ノート」の最初に、甲斐バンドのライブアルバム
「100万$ナイト」が取り上げられてから3週間…
1月27日掲載の第4回に、今度は甲斐バンド9枚目のオリジナルアルバム「虜」が登場♪
まあ、田家さんは、1986年の甲斐バンド解散まで
前述の機関紙「BEATNIK」の執筆を始め、かなり甲斐バンドに近い所にいらした方ですし…

…で、こちらも当日の朝、甲斐友さんがLINEで記事の写真を送ってくれたそうで
ボクもスマホの画面越しに、その内容を拝読したあと「上毛新聞」をポチっとな(笑)
前回の「東奥日報」もそうだけど、こういう文化面…エンタメ系の記事は
地方紙の方が自由度が高いというか、何かに特化した内容が取り上げやすいのかなあと…?

石田伸也さんが受けられたという、尾崎豊さんに関するインタビュー記事も
当初は「群馬、愛媛、岩手と地方紙に掲載され」その後「1月25日の京都新聞夕刊」に掲載決定
更に「地元・熊本にも今月下旬に載ることが決まった
いやあ、同級生や親戚に少しは良いところを見せられるかと
同郷のよしみで掲載を決めてくれた方に感謝です」と各地方紙に波状的に広がったみたいです

ともあれ…その「NY生まれの肉厚な音」というタイトルの記事ですが
「そのシーンは今も鮮明に浮かんでくる
1982年10月、新作アルバム『虜-TORIKO』のトラックダウンのために
ニューヨークに行った甲斐バンドに取材で同行した時のことだ」との書き出しに始まり

「彼らが使ったのは、マンハッタンにあるパワー・ステーション・スタジオ
かつて発電所だったことで、その名前がついた
起用したエンジニアは、ボブ・クリアマウンテン
甲斐バンドを率いた甲斐よしひろは、ボブが手掛けたアルバム
ローリング・ストーンズの『刺青の男』を81年に聴いて衝撃を受けていた
ロックの名盤と言われるロキシー・ミュージックの『アヴァロン』や
デヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』もボブの手による作品だ」と記されてますけど

甲斐さんは、ある日たまたま、ジムへの往復にタクシーを使われ
その行きのタクシーの中で、ストーンズの「スタート・ミー・アップ」を
帰りのタクシーで、ロキシー・ミュージックの「アヴァロン」をお聴きになり
この2曲を手掛けたのは誰なのか、すぐにお調べになり
どちらもボブ・クリアマウンテンというエンジニアの仕事だとお知りになって
彼とのコンタクトの取り方を探ったとおっしゃってましたよね?

それはともかく…「トラックダウンとは、ドラムやベース、ギターや歌など
別々に録音されたテープを一本化する作業である
各楽器の音色や全体の音のバランスはそこで決まる
特に、70年代後半からは、レコーディングの過程で、デジタル機材の重要度が増した
パワー・ステーションは、コンピューターミックスの最先端と言われていた」と田家さん

ご自身のラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」で、甲斐バンドを取り上げられた時にも
「1980年代というのはですね、音楽を取り巻く環境も激変した、そんな年でしたね
79年…78年くらいかな?デジタルというのがですね
レコーディングの現場で取り入れられるようになった
それから演奏にですね、コンピュータというのが占めるようになって来た」とか

「まあ、あの時代の格闘って、色んな形の格闘があったと思いますけども
このデジタルとアナログ、ロックと肉体ということでですね
そこの最も困難な闘いというのを挑んでいたのが
甲斐バンドだったんだなあと改めて思ったりしました
最前線にいましたね、誰も踏み入れたことのない道をですね、進んでいたバンドでありました」とか

「音像が全然違いますね。映像感、広がり方、エコー…このボブ・クリアマウンテンはですね
当時、世界のロックファンから脚光を浴びてたんですね
今思うと、あれだけの規模のレコーディングをよくやったなという感じですね
ボブ・クリアマウンテン、ニール・ドーフスマンという
2人のグラミー賞エンジニアを起用して、現地で作業している訳ですからね

僕も音楽プロパーのライターだった訳でもなく、業界のことをほとんど知らなかった
1枚のアルバムを作る工程とか、コストとか、今なら当然思い浮かべるようなことも
当時は考える余裕もなく、はしゃいでおりました」と振り返っておられました

そして…「米国への出発の前日も、国内ツアーの公演を終えてからスタジオに戻り
一睡もしないまま成田空港に向かった甲斐は
『観光で行くんじゃない、ボブがいるからニューヨークに行くんだ』
…と何度となく繰り返した」と書かれてますが
「ニューヨークに着いたら寝よう!」を合言葉に(笑)…といっても
眠る時間など全くおありにならなかったみたいだけど…(苦笑)

当時の甲斐さんが、ニューヨークでレコーディングなさることに関して
「ニューヨークだから来たんじゃない。ボブがニューヨークにいるから来たんだ
もし、ボブがロンドンにいたら、ロンドンに行ったし、四国にいれば、四国に行ったと思う」
…と「何度となく」おっしゃっていたのは

かつて、甲斐さん初のソロアルバム「翼あるもの」を作られる際に
国内のスタジオミュージシャンは人数が限られていて
どのアーティストの作品も似通った音になっていることを厭われ
ナッシュビルで現地のスタジオミュージシャンを探すことから、お始めになったのに

同時期に、他のアーティストの皆さんも、海外のスタジオでレコーディングなさっていたために
「猫も杓子も海外録音」といった記事で揶揄されたことに対する
「牽制の意味もあったんじゃないかな?」と奥さん

ボクは、それこそ田家さんの「ポップコーンをほおばって」の中に書かれていた
かつての甲斐バンドのマネージャー・佐藤剛さんの
「僕は、甲斐バンドと一緒にやりたいとは思ったけれど
シンコー・ミュージックに入りたいと思った訳じゃなかったんです」という言葉を思い浮かべました
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする