赤印の四万十が当時の中村。そこから宿毛を経由して左端の赤印
西海町まで走ったが、距離が短いので午前中に着いてしまった。
「自分は元気にしているから、純吉や大阪の皆さんによろしく伝えてね」
中村のカズおばさんはそう言って、「気をつけてね」と僕を見送ってくれた。
午前7時15分に、カズおばさんの家を出発。
四万十川を渡り、平坦で走りやすいコースを、しかも追い風の中、宿毛まで実に気持ちのいいサイクリングを楽しめた。
今から考えてみれば全コース中、この中村・宿毛間が最も快適に走れた。加えて徳島を出発してからほとんど人との接触がなく、なんとなく気分が滅入っていたところに、カズおばさんたちとの交流があって、それが心のリフレッシュになったこともあったのだろう。この朝は、特に気分爽快であった。
宿毛高校の横にある聖神社というところで休憩。
カズおばさんが水筒に詰めてくれた「きしまめ」というお茶を飲む。
中村ではみんなこのお茶を飲んでおり、体に良いという。
一口飲んでみたが、何だか妙な味である。うぅ、普通の麦茶がほしい~。
宿毛から篠川沿いに延びる国道56号。静まり返った山間部を通り抜けて行く。
海沿いの道もいいが、川沿いの道にも醍醐味がある。
午前9時半。その篠川の橋を渡ったところで愛媛県に入った。
県が変わっても、急に景色が変わるわけじゃないけれど、やはり感慨はある。今回は香川県は走らないので、この愛媛県が最後の県になる。
篠川に沿って国道56号が延びる。車も人も見えない。
ここから愛媛県。旅も後半に入った。
およそ1時間走った後、いったん国道56号と分かれて左折する。
左折して、西へせり出す半島の先端にある西海町の外泊(そとどまり)という場所に向かう。そこにある共済会館南海荘というところで、今日の宿泊を予定している。あと1時間程度で着くはずだ。
まだ10時半なので、昼前に宿泊所に着くことになる。ちょっと早いな~
なぜ、こんな早い時間に着くことになってしまったのか…?
それは…言うまでもなく、足摺岬をカットしたからである。
本来なら、前日は足摺岬まで行く予定だった。
そして、今日は足摺岬からこの西海町まで走るはずであった。
そんなことで、それ相当の時間を見ていたのだが、中村からそのまま一直線に西海町まで走ったものだから、こんな早い時間になってしまったのだ。
まあいい。楽なことは大好きな僕なんだもんね。ゆっくり景色を眺められて、気持ちにゆとりも出てきた。こちらが正解だったのでしょうね~。
この日のコースは中村から宿毛、そして地図の左上付近に
ある西海町の外泊(そとどまり)まで。最南端の足摺岬を
カットしたので、これだけ距離が短くなった。
国道56号から外れると、とたんに道幅が狭くなり、車はまるで見当たらず、周りにはうっそうと木が生い茂り、走っていても気味悪い。しかも見たこともないようなデッカイ蜂が近づいてきて、自転車と併走するようにすぐそばでブーンと恐怖の羽音を立てて飛んでいる。刺されるのでは…と気が気ではない。
「こらっ、寄るな。あっちへ行け!」と、タオルを振り回して追っ払う。
やがて視界が開けて、内泊(うちどまり)という小さな集落が、海辺に寄り添うように軒を並べている風景が見えた。
ひとつ峠を越えると、次は中泊(なかどまり)という集落が、同じように海辺に寄り添っている。
またひとつ峠を越える。
かなりきつい坂道であったが、気合を込め、息を詰めて一気に登り切り、その気合と緊迫感を、下り道で風を浴びながら心地よく解き放つ。
このあたりは、民宿が軒を連ね、夏休みには海水浴客でごった返すだろうとことは想像に難くない。しかし今日はまだ7月10日だ。人影はほとんど見えない。
西海町の海の風景。
西海町の北側の先端にある外泊に着いたのは、11時半少し前だった。
外泊の中心部と思われる漁港で自転車から降りる。
素晴らしい眺めである。
このあたりは、足摺宇和海国立公園というのだそうだ。
海水が見事に透き通っていて、キラキラと美しい。
前方、道越鼻と呼ばれる陸の突端は小高い丘になっており、緑の木々の間から白っぽい建物が姿を見せている。これが今日の宿泊地である共済会館南海荘だ。
あぁ、久しぶりに時間が余って、何もすることがない。
こういう手持ち無沙汰って、ワクワクするほど嬉しい。
小さな売店で牛乳を買い、店の若い女性にこの西海町の景色の美しさを絶賛したのだけれど、女性は「そうですか」とも言わず、知らん顔をしている。僕が牛乳を飲み終えて「ごちそうさま」と言ったか言わないかのうちに、店の奥に消えて行った。なんだか愛想がないなぁ。
…まだ11時半である。ワクワクしているだけでは時間が経たない。
しかし、南海荘にチェックインするには、いくらなんでも早すぎる。
僕はしばらく思案したあと、ここよりも少しは賑やかだった中泊まで、また峠を越えて引き返した。そこで1軒の小さな食堂に入り、焼きそばと御飯とビールを注文してから、南海荘に電話をした。もう中泊まで来て昼食をとるところだけど、そのあとそちらへ行ってもチェックインできますか…と尋ねると、電話の向こうで女の人が「はい、いいです」と言ってくれた。
その日の南海荘の宿泊客は、僕ひとりだった。
出迎えてくれたフロントには、中年女性が一人いただけだった。
その人がチェックインから部屋の案内から施設の説明まで全部してくれた。
例のごとく「大阪から自転車で来ました」と言ったけれど、ここでもまた無視されてしまった。その女性も、牛乳屋さんの若い女性に輪をかけたような愛想のない人だった。この辺はみんなこういう人たちばかりなのだろうか…?
しかし、部屋から見える景色は素晴らしかった。岬の突き出したところにこの建物があるので、部屋のベランダに立つと、目の前に絵に描いたような海や島々がドカ~ンと見渡せる。これだけの景色を独り占めするのはもったいないほどだ。
それにしても静かだった。
外から聞こえてくる波の音以外は、物音ひとつしない。
部屋にごろんと寝転がって、ボンヤリと時間を過ごす。
しばらくして、ふと我に返り、妻への手紙のほか、カズおばさんにお礼の手紙を書き、そのあと、純吉兄にも「無事、中村へ行き、おばさんにお世話になってきました」との手紙を書いた。
浴場はかなり大きかったが、たった一人の客のために沸かしてくれたようだ。
なんだか、肩身が狭くて申し訳ない…という感じである。
もっと他にお客がいてくれたらよかったのに。
食堂へ案内してもらうと、これも大きな食堂だったが、見渡すと、ポツンと1人分だけの食事がテーブルの上に用意されていた。テレビでは大相撲名古屋場所が放映されていたが、その音声だけが食堂全体に響き渡っている。
相撲中継を見ながら、ビールを飲んで、意外と豪勢な料理に舌鼓を打つ。
ちなみに、フロントで応対してくれた愛想のない中年の女性が、部屋に案内してくれ、風呂にも案内してくれ、食堂にも連れて行ってくれ、ビールも運んでくれ、洗濯物を干すのならここに干しなさいと教えてくれ、結局この人以外の姿は、最後まで見ることはなかった。
静かな静かな一夜が明けた。
翌朝も早朝出発である。
例の女性にお会計をしてもらい「お世話になり、本当にありがとうございました」と心からお礼を言って別れを告げた。女性は黙ったまま軽くうなづいた。
自転車に乗って建物を離れ、数百メートルほど走ったあと後ろを見ると、その女性が玄関前に立っており、ずっとこちらを見ていたようだった。
そして僕が振り向いた時、意外にも大きく手を振ってくれたのである。
「うっ…」
思わず涙がこぼれそうになった。
僕も振り向きながら手を振り返した。
バランスが崩れて自転車がぐらつき、危うくひっくり返りそうになった。
本当に親切な人って、こういう人のことを言うんだなぁ。
昨日の昼から今朝にかけて、彼女一人に何から何までお世話になったのだ。
余計なことはしゃべらないし、ニコニコすることもなかったけれど。
愛想のない人ほどいい人である…という僕の人間観は、このときに生まれた、…と言っても、言い過ぎではないだろう。
(ちなみに、僕はとても愛想のいい人間です。ニコニコ)
写真おまけ ↑ 国道56号で。
ただし、愛媛県に入る前か、入ってからか…
どこで撮ったのかよくわからない写真です。