僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

万博・ひまわり・バイキング

2011年08月10日 | モミィの成長日記

暑い。

8日・9日と、モミィを連れて妻と3人で「お出かけ」をした。
しかし、この暑さは尋常ではない。

それでも万博公園は木々が生い茂り、木陰には涼しい風が吹き抜ける。

万博公園を歩いたのは、何年ぶりだろうか…?

「人類の進歩と調和」をテーマとしたあの懐かしい大阪万博は、
1970年(昭和45年)に開催され、去年、40周年記念イベントが行われた。

大阪万博は、3月中旬から9月中旬まで半年間開催されたけれど、
僕は終盤の8月、つまり今ごろと同じ季節に行ったのを覚えているが、
こんなにむちゃくちゃ暑かったという記憶はまるでない。
やはり昔の地球というものは、今ほど暑くなかったに違いない。

万博の前年の1969年7月に、アポロ11号が月面着陸した時、
地球へ持ち帰ったという「月の石」がアメリカ館で展示されていた。
しかし、あまりの長蛇の列に恐れをなして、僕はその前を素通りした。
そんなことは、鮮明に覚えている。

そして、あれから41年もの歳月が流れたのだ。

まさに、 Wow! Time Flies!  である。

むろん、その間も万博公園へは何度も来ているが、
最近は長い間ご無沙汰をしていた。

久しぶりにお目にかかった太陽の塔も、元気そうにしていた。

万博公園の自然文化園の中で、「ひまわりフェスタ」が行われていた。

「22品種約1万株」というひまわりの群が、花園を埋め尽くしていた。

その迫力には圧倒されたが、なにせ暑いし、その辺には日陰がない。
人影もまばらで、ひまわりの派手さと正反対に、周囲はひっそり。

病み上がりのモミィに炎天下を長く歩かせるのも心配だったので、
ひまわりを見ただけで、またぶらぶらと歩き、入り口へ戻った。

モミィは途中で買ったソフトクリームを食べると、急に元気溌剌となる。
チョコ味のクリームをかぶりつき、鼻と口のまわりにチョコがついた顔は、
まるでタヌキの顔そのもので、笑わずにはいられなかった。

やっぱりモミィは花より団子。ひまわりよりソフトクリーム…なんだ。

ひまわりのそばを、小さな川がキラキラと光を反射しながら流れていた。

地図によると、その川の名前は「もみじ川」とあった。

ふ~ん。もみじ川なぁ…

万博公園からモノレールに乗って千里中央まで行き、
千里阪急ホテルに入り、「あ~、暑かったなぁ」と身体を伸ばす。

モミィは心配したような疲れた様子はなく、
持参したプリキュアのシールブックや、プリキュアのDS、
ぬり絵、お絵かきなど、次々と出してきて遊んでいた。

その間、僕はガーデンプールに行こうとちょっとのぞいて見たが、
予想に反して、ほとんど人がいなかった。
泳ぐより、プールサイドでビールを飲むのが似合う雰囲気だ。
でも、一人でそんなこともできないし…

プールをやめ、部屋に戻り、用意していたジョギングスタイルに着替え、
ホテル裏口から遊歩道を走って800メートル先の千里中央公園へ行き、
緑に囲まれたジョギング&ウオーキングコースをゆっくり走った。
ほとんど木陰のコースを走ることが出来たので、快適だった。

部屋に戻ってシャワーを浴び、冷蔵庫の冷えたビールを飲んだ時…

もう死んでもいい…
とまでは…思わなかったが、天国に舞い上がった心地だった。

ホテルは、その日の夕食も翌日の朝食もバイキングだったが、
モミィは完全に調子を取り戻したのか、食べまくっていた。

ちなみにホテルの料金は、五歳児のモミィも大人と同じ料金である。

病み上がりとは思えないものすごい食欲で、
モミィは十分にモトを取った。はっはっは。あっぱれ~。




 

  太陽の塔は今も相変わらず元気一杯である。


    

 

   モノレールを眺めるモミィ。

 

  

  ひまわりはお暑いのがお好き。こんなたくましさが自分にも欲しい~。

 

 

  こんな風景を見ると、必ず映画「ひまわり」を思い出す。

  何度見て、何度涙を流した映画だっただろうか。

 この映画を最初に見たのも、1970年の万博の年だった。

 

 

 

 

 

 

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モミィの夏休みは…

2011年08月08日 | モミィの成長日記


モミィが2週間前の7月25日(月)に高熱を出し、予定していた旅行をキャンセルしたことは先日のブログに書いた(「モミィのこと 檀れいのこと」)

熱を出した時にかかりつけのお医者さんに診せたら「普通の風邪ですね」ということであった。しかしその後もなかなか良くならなかったので、28日(木)にも夕方、妻が診察へ連れて行った。ふだん、風邪などめったに引かず、幼稚園も1年で1度しか休まなかったモミィだったが、夏休みに入って早々のアクシデントだった。

さらにその3日後、7月31日(日)にモミィが口の中が痛いというので、休日急病診療所へ連れて行くと、今度は、
「手口足病です。明日になれば熱は引きます。お薬は不要です」
ということだった。
しかし医師がきっぱり言い切ったわりには、その後も熱は不安定な状態を繰り返し、8月3日(水)の朝にはまた39度の高熱を出した。

「ちょっと頬が腫れていない?」と妻がモミィの顔を見て言った。
「そういえば…」
モミィの両頬がいつもよりふっくらとしている。
「ひょっとして、おたふく風邪…?」と妻。
「あ、そうかも知れないね」と僕。

その日は水曜日で、かかりつけのお医者さんは休診だった。
少し遠かったが、また別のお医者さんへ連れて行った。

幼稚園が夏休み中なのが、せめてもの幸いであった。
夏休みでなければ、幼稚園へ行ったり休んだりとややこしい。
しかも他の子どもに感染する病気なら、うっかり登園させられない。

さて、その別のお医者さんに連れて行ったわけだけど…
診察にはいつも妻が付き添うので、僕は待合で待っている。
どの医院もエアコンがよく効いて、最初はいいがだんだん寒くなる。
こんなことでは、健康な人も待っている間に風邪を引くのではないか。
な~んて思いながら、本を読んで待っている。

モミィと妻が診察室から出てきたので「どうだった?」と聞いた。
「やっぱり、おたふく風邪みたい」と妻が小さな声で言った。

家に帰ってから、妻は、
「最初は手口足病ではなく普通の風邪です、って言われたのよ」
と、診察室でのやりとりを話した。
「え…? 手口足病じゃなかったの…? なに、それ?」
「うん。でも、普通の風邪って言われてもねぇ。頬っぺたが腫れているからおたふく風邪じゃないかと思っているんですけど…と言ったら、あ、そうですか? それじゃぁ、おたふく風邪ですね、ということになったわけ」
「へぇ~。医師にもこちらから指導してやらなければならないわけだ」
と、僕は笑った。

休日急病診療所の医師もそうだが、この医師もイマイチ頼りない。

この医師は、普通よくやるように両手で患者の頬から喉をぐ~っと押さえて腫れていないかどうかの触診のようなこともしなかったという。
黙って診察を受けているだけではダメである。こちらからしつこく症状を説明し、時には助け舟すら出すことも必要なのだ(笑)。

   ……………………………………………………………

モミィはこの2週間、エレクトーン教室もスイミングスクールも休み、ほとんど家で過ごしたのだけれど、エレクトーンのほうはちょうど先生から、今のグループレッスンに加えて個人レッスンも受けることを勧めてもらい、これまでの週1回から2回のレッスンに増えて張り切っていた矢先のことだったので、ちょっと残念だった。

エレクトーンは、わりに性に合っているのか、モミィは熱心である。
決して音楽的才能があるように見えないが、楽器が好きなのだろう。
これに取り組む姿勢が、予想した以上に意欲的なのが嬉しい。

これくらいの年齢の子どもというのは、驚くほど上達が早い。

ついこの間まで、右手の指1本で鍵盤を叩く姿もたどたどしかったが、
今は両手のすべての指を使って、10曲以上は弾けるようになった。
指の動きが、5月ごろから比べると別人のようになめらかになった。

また、スイミングのほうも、モミィは調子に乗ってきたところであった。

最近まで、少し水しぶきがかかっただけで、顔をそむけ、トホホな表情をしていた。泳ぐどころか水の中に顔を浸けるだけで精一杯のありさまで、いつまでも「ひよこクラス」の「4」のまま、長い間、まったく進級しなかった。

ところが、7月にはいって幼稚園でプールが始まったある時…
モミィを迎えに行ったら、担任の先生が僕のところに駆け寄って来られて、
「モミィちゃんは上手ですね~。プールでみんなにお手本を見せてくれるんですよ。ほんとうに、よ~く頑張ってくれています」
と、信じられないようなことを口にされた。

スイミングスクールを見ていると、いつもパッとしないのに、幼稚園のプールでは、他の子どもたちをリードするほどに動き回り、「泳ぎ」まで披露している…ということなのである。

「ほんまですか…?」
先生の言葉に、僕は喜ぶより先に不思議な気持ちになったほどだ。

その直後のスイミングスクールで、恒例の進級テストがあり、
僕はその様子を見ていたのであるが、そのとき、アッと声をあげた。

他の誰よりも活発に動き、水の中にも積極的に潜る子がいた。
それが遠目には、しばらくモミィだとは気がつかなかった。
でも、よ~く見ると、それは間違いなく、モミィだった。

テストに合格し、長いブランクを抜けてモミィは「5」に進級した。

そして続いてテストがあり、今度は無理だろうと思いながら、
モミィの動きを眺めていると、またもやびっくりさせられた。
バシャバシャと、両手両足をバタつかせながら泳いだのである。
その思い切りの良さといい、物怖じしないバタつきぶりといい、
これまで消極的だったモミィには見られなかった姿である。

前回に続き、その日もまた合格して「6」に進級した。
まさにトントン拍子であった。

そんなときに病気になったので、文字どおり拍子抜けがした。

でもまあ、ここ数日で、体調も完治したようで、一安心である。

  ……………………………………………………………

実は今日、千里阪急ホテルというところへ行って泊まる。
ホテルにプールもあり、夜は妻もモミィも大好きなバイキングがある。

ひょっとしてこれもキャンセルしなければならないか…?と思っていたが、モミィの体調が良くなったのでどうやら予定通り出発できそうだ。私鉄と地下鉄を乗り継ぐだけで行ける近さなので、いざという時でも、まあ安心である。

しかし、病み上がりのモミィをプールに入れるのは心配だ。
プールで泳ぐのは僕だけにしておこう(何だそれは?)。

近くに万博公園があり、モノレールも走っているしね~。
きっとモミィも楽しめるだろう。

2週間ほとんど家にいたモミィは、
久しぶりの「お出かけ」に張り切っている。

では、今日から2日間、行ってきま~す。

 

 

 

 

 

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松田直樹選手のこと

2011年08月06日 | スポーツの話題

松田直樹選手のプレイはU17サッカーの日本代表のころから見ていた。

17歳以下だから、全員がほぼ高校生で構成されるチームだ。

1993年、その世界大会が日本で開催された時、
宮本恒靖、中田英寿らに混じって松田直樹がいた。

当時宮本が、僕の勤めていた松原市にある生野高校に通っており、
僕も広報担当のときに彼に取材したことがあったのと、
長男が、宮本と同じ生野高校に通っていたことなどの縁で、
この時のU17の大会では、宮本を応援するのが目的だったが、
そのメンバーの中に、有名になる以前の中田英寿も松田直樹もいた。

こうした選手たちの活躍で、日本はグループリーグを突破したが、
準々決勝でナイジェリアに敗れた。

日本代表は、1998年のフランスW杯で悲願の初出場を果たした。

しかし日本のディフェンス陣にはそのころ井原や秋田がおり、
中田以外の若い宮本や松田が代表に呼ばれることはなかった。

2人がW杯で活躍するのは、次の2002年の日韓大会だった。

あのときの松田は、宮本とともに実に頼もしい存在だった。

イケメンだし、妻は「若いときのショーケンに似てるわ~」
と、松田を一生懸命応援していた。

松田選手は、横浜マリノスには16年間も在籍したと言うが、
衰えが見えはじめるとあっさりクビにしてしまうとは非情な話だ。
実力だけが物を言うスポーツの世界では仕方ないかもしれないが、
もしあのままマリノスにいたらこんなことにならなかったのでは…
と、今さら考えても仕方のないことを、ふと思ったりする。

松田直樹選手の突然の死の原因は急性心筋梗塞だったという。

何かの拍子に不整脈などが起こって血の塊ができ、
松田選手の場合はそれが左冠動脈の血管に詰まったそうである。

僕も5年前の6月に不整脈から血の塊ができ、脳の血管が詰まった。
右半身がしびれたように動かなくなり、話すとろれつがまわらなかった。
脳梗塞だったが、幸い、詰まった血管の場所がよかったので軽症で済んだ。

後日、ベテランの専門医が僕の脳内部のMRI画像を見て、
「詰まった場所がひとつ違ったら、命を落としていたか車椅子でしたね。本当にラッキーでした」と言った。

まさに、紙一重であった。

人の命は、いつ、どうなるかわからない。

松田選手のあまりにあっけない逝き方には、言葉もない。

ただ、ただ、悲しい。

 

 

 

 

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「のんき」の自分史

2011年08月05日 | 読書

前回のブログで「のんきのすすめ」を標榜した限りは、「のんき」についての考察と「のんき」とかかわってきた自分史を回顧することが必要であろう。
そう考えた僕は、いったい、いつ頃から「のんき」を意識し始めたのだろうかと、自分の人生を振り返ってみることにした(大げさやなぁ)。

まあ、自分史といっても、内容のほとんどは、二十歳前後の頃の僕の読書遍歴ということになるのですが

中学までほとんど漫画ばかり読んでいた。小説の類は「貸本屋」で借りて読んだことがあるが、それが習慣になるほどではなかった。父も母も読書とは無縁の人だったので、わが家には漫画と雑誌以外の本というものは存在しなかった。僕が日常的に本に親しみ始めたのは、高校生になってからだった。

高校から大学2年生にかけて(つまり十代後半の頃)は、19世紀のロシア文学とフランス文学…トルストイ、ドストエフスキー、スタンダール、フローベル、モーパッサンなどに傾倒し、日本文学では夏目漱石や太宰治を耽読した。漱石は「猫」は別として、「こころ」や「明暗」が特に好きだった。太宰は代表作の「人間失格」のほか、「晩年」「お伽草紙」などに強く惹かれた。

これらの小説は、野心と挫折、狂おしい恋と悲劇、身を焦がす孤独、利己主義や虚栄心…など、並外れて世間知らずだった僕にとっては、理解がむずかしい未知の世界の話ばかりだったけれど、生理的にはこれらの小説を違和感なく受け入れていたようだった。

兄弟もなく、両親との対話も少なく、そばに仲のいい親戚もいなかった僕は、まわりの人たちに影響を受けるよりも、本のほうに大きな影響を受けていた。

これらの本を読みながら、
「う~む。きっと人生というのはこういうことなんだ」と腕組みをして、
それだけで何だか世の中の摂理をすべて理解したような気になっていた。

しかし、息の詰まるような小説ばかり読んでいると、本当に息が詰まる。
読書で心を和ませることはあまりなく、これからの人生を生真面目に予習する場という堅苦しい姿勢でいろんな本を読んできたのだけれど、やがて
そういう姿勢に、息が詰まりはじめてきたのだ。

ある時、それまで、世界文学全集や日本の文学全集しか興味のなかった僕に、大学の後輩が「おもしろい本を書いている作家がいますよ」と教えてくれた。

それが、どくとるマンボウこと、北杜夫であった。
この人の作品を読んで、僕の人生観が変わった。

どくとるマンボウシリーズは、「昆虫記」を読んだのが最初で、それ以来、病みつきになり、「航海記」「小辞典」「途中下車」などの独特のユーモアに酔いしれた。“迷作中の迷作”である「怪盗ジバコ」は僕のバイブルになった。僕はこのころに、固い人間から抜け出したようである。

大学時代の後半、ひとりの女性とつき合っていた。

「筆まめ」な僕は、毎日のように彼女に手紙を書き、彼女と会って別れる時、「はい、これ」と手渡した。彼女は、帰りの地下鉄の中で、僕からの手紙を読むのが習慣になった。

手紙は、最初から終わりまで、北杜夫調で尽くされていた。
なにせ当時の僕の頭の中は北杜夫によって占領されていたのだから、そのユーモア感覚がわが身に乗り移っていた。いかに文章をもって彼女を笑わせるかと頭をひねりながら、毎日いそいそと手紙を書いた。

「地下鉄で手紙を読んでいて、何度も笑い声を上げそうになったわ」
彼女がそう言ってくれたものだから、調子に乗った僕はさらにせっせと手紙を書き続けたものである。その彼女が現在の妻であることは、改めて申し上げるまでもないだろう。(妻でなかったら、こんなこと、書きませんわい)。

前述したように、北杜夫を読み始めてから、かなり人生観が変わった。
「あくびノオト」「南太平洋ひるね旅」という彼の著作のタイトルにも注目し、僕は自分の「ペンネーム」を「あくび」として、ひとりで出したガリ版印刷の文集の題名にも「あくび」と名づけ、20歳のときの北海道への自転車旅行の時は、知人への手紙に「あくびより」なんて書いたりもした。今でも、知人から僕宛に届いた「あくび君へ」という当時のハガキが残っている。

それ以来、「あくび」とか「ひるね」とかいう、
のんき系の言葉を、強く意識するようになった。

こう振り返ってみると、僕は根はマジメで神経質なのだが(笑わんといて)、
20歳ぐらいの時から「のんきなことはいいことだ」と思っていたようだ。
「のんき」に対する憧憬が、きっとこのころから芽生えていたに違いない。

その起爆剤となったのが北杜夫の著作であり、僕ののんきの出発点となったわけだが、ただ北杜夫自身、神経科医だけれど、躁うつ病患者でもあった。

苦悩の多い人ほど「のんき」へのあこがれが強い、と言えるのかも知れない。

というようなわけで、還暦を通り過ぎたいま、「のんきのすすめ」を自分のラストテーマとし、人生の下り坂を心地よく過ごそうと企てる僕なのだが、前回のブログ「のんきりん」に対して、yukariさんとびんさんが、
「のんきのすすめがとても感慨深いですわ~」
「のんきのすすめを興味深く拝見しました」
というコメントを寄せてくださった。

yukariさんは、
「わたしも忘れていた『のんき』を少しでも生活に取り戻していきたいです」

びんさんは、
坂道をゆっくり下山する時期。無事事故を起さず、ゆとりを持ってゆっくり成熟した豊かな下降をいかに楽しむか。ソフトランディングの秘訣、そのヒントがきっと『のんき』にあるのでしょうねぇ」

そう書いていただいていた。

そうですよね。
み~んなで、「のんきのすすめ」を実践していきましょう。

もっとも、yukariさんやびんさんは、
「下山」するにはまだまだ早すぎますけどね  。

 

 

 

 

 

 

 

 

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のんきりん

2011年08月02日 | 日常のいろいろなこと

 
 



生きる力とは、こんき げんき のんき の3つである…
というのを、何かで読んだことがある。

たしかにね~
「こんき」がなければ、やりたいことも継続できない。
「げんき」がなければ、これはもう生きるだけで精一杯である。

でも「のんき」が生きる力として重要であるとは、にわかには思いにくい。
思いにくいけれども、これがいかに大事なものか、最近少しわかってきた。

だいたい僕はせっかちで、おまけに欲が深い。
あれもこれもと願ってしまう悪い癖がある。
結局どれも中途半端に終わってしまうのだ。
そんなことを、ず~っと繰り返してきた。

そして気がつけば、人生下り坂である。ぐすん。

先日、新聞の人生相談の欄に、僕と同世代で、よく似た性格の男性から、そんな悩み(?)に関する相談が載っていたので、興味深く読んだ。

それに対する識者の回答が、ふるっていた。

生涯成長、一生進歩などという幻想は捨てて、下り坂にふさわしく、わたしが幸せならOKという「自己満足」の世界に生きることですね。でないとあなたは一生、「幻滅と焦り」のなかで過ごすことになるでしょう。幸せとは「自己満足」です。

…という回答だった。ふ~む、含蓄に富んでいるなぁ。

「自己満足」という言葉に対しては、これまであまり良くないイメージを持っていたけれど、別にそういうことでもないわけで、自分が幸せだと思うことが本当の幸せなんだ、という感じでいいんだよね。目からウロコ、でしょうか。

これは言い換えると、のんきに暮らしなさいということでもあるようで…。

あるお医者さんが言っていたが、がんの患者さんにかかわった時、病状を気に病まない人の進行が遅かったことがあったそうである。「無頓着が一番いいのかもしれませんね」という言葉がそれに続いていた。

これも、ある意味では「のんきのすすめ」であろう。

ものごとに熱心であったり神経を使ったりするのは大切だけど、それをストレスにしてしまうとよくない。つまり、生きていく上で、心のリラックスがいかに重要かということを教えられる話である。

耳鳴りに悩まされている身にとって、この話は特に身に沁みる。

さて、そんなとき、同じ耳鳴りに悩む yukari さんから、
「これ、のんさんに似ていませんか?」といただいたのが、

             

 

  

である。

 えへへ~。僕の顔はこんな可愛いことはないのですが、
「のん…」というところが、すご~く親しみを感じます。

いただいた何枚もの「のんきりん」の絵を見ていると、
しみじみと、心がなごんできます。

毎日をあくせくして送るのも、のんびりと送るのも共に人生なら、
できれば、のんびりとかまえて、ゆったりと過ごしたい。

最近、つくづくそう思うのです。

これからは、のんきりんの精神で行ってみよ~と思っています。





「今日ものんきにくらしています」
 今日からこのフレーズを、ブログのサブタイトルに使っています。

 

 

 

 

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