「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
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蜂子皇子(はちこのおうじ)の話

2019-10-17 07:30:00 | 日記
Iさんが出羽三山神社に行っていたのは、今年の7月のことでした。

私達ソラタマ会5人で北海道の知床に行っていた次の週末に月山に登っていたので、かなりなハードスケジュールでしたね。

私が出羽三山について、記事にした時に調べていて、気になった人物がいました。

それは、出羽三山を開山したと言われている蜂子皇子(はちこのおうじ)のことです。


🌟蜂子皇子は、欽明天皇23年(562年)に崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。
崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。
そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦(やおとめうら)にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。
蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。

羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。
現在に残されている肖像画では怪異な容貌に描かれたものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。
出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。


蜂子皇子の肖像画は、文中にもあるようにちょっと怖い感じですね。


8月29日に私は気になっていたので、Iさんに質問してみました。


質問ですが、出羽三山神社の蜂子皇子の墓に行った?


行ったよ。
なんで?
そこで祝詞を差し上げたの。
俺は行くと必ず寄るんだよ。


了解しました。
調べていて、なんか気になったからだよ。


送った写真にあるよ。
5枚目かな?


ありがとう。
話してきた。今。


ということで、蜂子皇子が話してきました。


蜂子皇子だ。
忘れないで来てくれてありがとうと伝えてくれ。


そして、次の日にも話してきました。


蜂子皇子だ。
治水のことで、大変だったのだよ。
私が出羽三山神社にいるのは知られていないのに、Iはいつも来てくれるな。
先日も祝詞あげてくれて嬉しかったよ。

今は、どこの世界にいるのですか?

私は今は四階層の神になっているよ。

平将門様はご存知ですか?

平将門はわかる人だったので、私の言ったことがわかったようだ。
今年は「令和」になったそうだな。
私が生きていた時から1300年くらいになっているのだな。
問題はいつも変わらないよ。
人は欲があるからな。


蜂子皇子が生きていたのは、西暦600年くらいなので、正確には1400年前の時代に生きていた方なのだと思いました。

Iさんが、送ってくれた文章と写真です。

🌟羽黒山 蜂子皇子開山廟

こちらの石碑は江戸時代後期に蜂子皇子が『照見大菩薩』の諡号を
いただいたことを記念する石碑でした。
建立当初は『南無開山聖者照見大菩薩』と刻まれていましたが、明治初期の神仏分離令を受けて、出羽三山神社・初代宮司である西川須賀雄宮司により神代文字の一種である阿比留草文字で『ハチコノミコト』という神名に書き換えられたものに改刻されました。



蜂子皇子の御廟とされる場所は、こちらの開山廟と、同じく羽黒山山頂にある蜂子皇子御陵墓、そして、蜂子皇子が昇天した地とされる皇野(すべの)にある開山塚という場所の三ヶ所があります。


私は、Iさんが送ってくれた蜂子皇子の情報の中にあった

西川須賀雄宮司により神代文字の一種である阿比留草文字で『ハチコノミコト』という神名に書き換えられたものに改刻されました。

に、反応していました。

阿比留草文字は、私に振り子のフーチのやり方を教えて下さったM先生が書いていた物だったからです。
私達が行った五島列島の阿比留氏の話に繋がることですね。



この記事を作るために、10月16日に蜂子皇子と話してみました。


蜂子皇子だ。

この写真のような顔だったのですか?

顔が黒くなってしまったのは、人の話を聞いていたからだろうな。
辛い話ばかり聞いていたからな。
世知辛い世の中は、忘れられないことばかりだったよ。
由良に来た時に八乙女浦で舞を舞っていたのは、鷺(さぎ)だったよ。
美しい舞だったので、この地にしようと思ったよ。
崇峻天皇は、蘇我氏に暗殺されたということになっているが、蘇我氏を陥れようとしていた勢力があったということだろうな。
聖徳太子はいなかったしな。
私は供の者と命からがら逃げたのだよ。
土地はどこでも良かったが、忘れないようにしたかった。
忘れないように生きていたかった。
変わらないで信仰してくれたから、縁があったのだろうな。
スミで塗られなかったのはありがたいことだ。


ずいぶん前に、蘇我入鹿(そがのいるか)の話をしていたことを思い出しました。

聖徳太子は入鹿がモデルだったと言われたのでしたね。
5年も前の記事は懐かしいです。
まだ、Iさんとも会っていない時でした。
彼は、月山に6年前の2013年に登っていたので、その時にも蜂子皇子のところに行っていたようです。


🐶 イルカの神(蘇我入鹿)の話 その5


コメント (6)
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