新中川といってピンとくる人はなかなかいないのではないでしょうか。
特に墨西の方々は。(笑)
※「墨西」とは、ごん汰の造語で「墨東」に対していいます。
だから、墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区以外はみんな墨西です。
今回は墨田区と江東区の人もわからないかも。
さて話を戻して。
東京には中川と名乗る川が三本あります。
もともと一本の川で、過去には利根川や荒川の本流だったこともある川です。
三本のうち一つは中川の本流。
今、荒川の西側に寄り添うように流れている川です。
荒川の開削で下流の流路が変わっています。
そしてこのブログによく登場する旧中川。
荒川放水路(現在の荒川)が作られたことによって荒川に分断された元の中川が荒川の西側に残ったものです。
江戸川区と墨田区・江東区の境になっています。
そして今回登場する新中川。
昭和10年(1935年)利根川下流部が水害に襲われ、東京の被害は浸水面積62k㎡、浸水戸数61,000戸、浸水期間15日に及んだといいます。
その三年後、昭和13年(1935年)またしても関東地方が水害に襲われ、中川下流部にも被害が及びました。(昭和13年の洪水で六万戸以上の被害と書いた文章がネットに多く見られますが、これは昭和10年の水害です。)
そこで、中川と江戸川の放水路計画が持ち上がったそうです。
途中、太平洋戦争で中断されて完成したのは昭和38年(1963年)のことです。
葛飾区高砂からほぼ直線で南下し旧江戸川に合流しています。
さて、今回は京葉道路一之江橋下流から左岸を北上。
さすが人口の川、あまり風情がありません。
所々にクルーザーの係留場所があります。(左岸右岸交互に)
大杉橋
鹿本橋(鹿骨と松本を結んでいるから)
鹿骨(ししぼね)新橋から上流
鹿骨新橋の橋の上の像にはなぜかマスクが・・・・。
鹿骨新橋から新小岩方面を目指して川から離れました。
まぁ、のんびりゆったりの川辺散歩でした。
特に墨西の方々は。(笑)
※「墨西」とは、ごん汰の造語で「墨東」に対していいます。
だから、墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区以外はみんな墨西です。
今回は墨田区と江東区の人もわからないかも。
さて話を戻して。
東京には中川と名乗る川が三本あります。
もともと一本の川で、過去には利根川や荒川の本流だったこともある川です。
三本のうち一つは中川の本流。
今、荒川の西側に寄り添うように流れている川です。
荒川の開削で下流の流路が変わっています。
そしてこのブログによく登場する旧中川。
荒川放水路(現在の荒川)が作られたことによって荒川に分断された元の中川が荒川の西側に残ったものです。
江戸川区と墨田区・江東区の境になっています。
そして今回登場する新中川。
昭和10年(1935年)利根川下流部が水害に襲われ、東京の被害は浸水面積62k㎡、浸水戸数61,000戸、浸水期間15日に及んだといいます。
その三年後、昭和13年(1935年)またしても関東地方が水害に襲われ、中川下流部にも被害が及びました。(昭和13年の洪水で六万戸以上の被害と書いた文章がネットに多く見られますが、これは昭和10年の水害です。)
そこで、中川と江戸川の放水路計画が持ち上がったそうです。
途中、太平洋戦争で中断されて完成したのは昭和38年(1963年)のことです。
葛飾区高砂からほぼ直線で南下し旧江戸川に合流しています。
さて、今回は京葉道路一之江橋下流から左岸を北上。
さすが人口の川、あまり風情がありません。
所々にクルーザーの係留場所があります。(左岸右岸交互に)
大杉橋
鹿本橋(鹿骨と松本を結んでいるから)
鹿骨(ししぼね)新橋から上流
鹿骨新橋の橋の上の像にはなぜかマスクが・・・・。
鹿骨新橋から新小岩方面を目指して川から離れました。
まぁ、のんびりゆったりの川辺散歩でした。