釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

神田祭神幸祭

2013年05月11日 20時07分20秒 | 季節
江戸三大祭の筆頭、神田祭の季節です。

ちなみに江戸三大祭は、神田祭、山王祭、深川祭の三つ、三社祭は入りません。

だって浅草は江戸の外れだもんね。

今年の神田祭は二年に一度の本祭り。

そして神様が氏子町内を巡行する神幸祭は、二年前が東日本大震災で中止されたために四年ぶり。

でも・・・・・・雨の神幸祭になってしまいました。

朝から晩まで広大な氏子町内を回ります。

その区域は、日本橋以北の日本橋地区、大手町、神田、人形町、秋葉原、町会の数は108にも及びます。

神田明神の御祭神はお三方。

一の宮は「大己貴命(おおなむちのみこと)」別名、大国主命



秋葉原を行く一の宮。

二の宮は「少彦名命(すくなひこなのみこと)」。



江戸橋ぎわを進む二の宮。

三の宮は「平将門命」。



小網町あたりの三の宮。

その後には附け祭というパレードが続きます。



平将門の子孫だといわれる相馬家、その縁から相馬野馬追の騎馬武者が十騎ほど。



神田駅前を馬が通っているぞ!





作り物の大江山の鬼や鯰に大石。

花咲か爺もいました。

飴売りとか、唐辛子売りとか、日本髪を地毛で結った集団?とか、神田一橋中学の生徒とか・・・・ 何でもありか!

雨の中、みなさんお疲れ様でした。

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杜若艶色紫

2013年05月10日 23時19分46秒 | 言葉・語彙
『杜若艶色紫』(かきつばたいろもえどぞめ)は鶴屋南北作の歌舞伎で、「お六と願哲」の副題で知られています。

佐野次郎左衛門と八ツ橋の世界がベースとなった歌舞伎です。

歌舞伎の外題(題名)はその内容も表しています。

八ツ橋から『伊勢物語』の杜若が連想され、杜若色というのが同じ色だということで江戸紫を連想させるという仕組みです。

いろいろ調べると色見本によってだいぶ違いますね。


江戸紫

江戸紫

杜若色

杜若色

江戸紫といえば助六の鉢巻の色。

もっと鮮やかな紫のイメージなんだけど。

菖蒲色(あやめ色)

菖蒲色(しょうぶ色)

これはだいぶ違います。

京紫

江戸と京都の違いはいかがでしょうか。

不思議と説得力があります。

画像は根津美術館の杜若。

鉢巻の色はこれをもう少し深みを持たせた感じでしょうか。

同じ紫でもいろいろですね。



















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六日の菖蒲

2013年05月09日 23時34分40秒 | 言葉・語彙
今週の月曜日、そう5月6日に見た風景。

その時は気づかなかったのですが、これが正しく、「六日の菖蒲(あやめ)」。

菖蒲が必要なのは5月5日、6日には必要がないということなのです。

軒菖蒲といって、蓬と菖蒲を束にして軒に差す風習がありました。

5月5日は端午の節句、その日は節季といって、上方では掛売買の決算日にあたります。

今でいうとクレジットカードの引き落とし日かな。

近松門左衛門の『女殺油地獄(おんなごろしあぶらじごく)』では、主人が集金に行くっている間に、決算日に金の支払いができない不良少年に人妻が殺されて、金が奪われてしまいます。

舞台で公演した時に、殺人現場の豊島屋の軒先に軒菖蒲が差してあったのを記憶しています。

蓬も菖蒲も香りの強い植物で、その香りで邪気を払うということなのでしょう。

軒先に差すのは、魔が家に入り込まないようにするためです。

季節の変わり目の夜は魔物がやはり横行するのですね。

でも怖いのは魔物ではなくて人間・・・・近松の物語はそんなことも物語っているのかもしれません。

最初の画像は軒ではなく入口に吊るしてありました。

これでも魔物は入れないか・・・・・。

そうそう、菖蒲湯もそんなわけであの香りで身を清め邪気を払うというわけです。

だから何度もいいますが、花菖蒲の葉や菖蒲(あやめ)の葉をお風呂に入れてもダメですよ。



これが菖蒲(ショウブ)、サトイモ科の植物で中央にある茶色の物体が花です。

花菖蒲やアヤメのように美しい花は咲きません。

いま水辺に美しく咲いているのは、杜若(燕子花・かきつばた)です。



江戸川区内の散歩でも見かけました。




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新中川に沿って

2013年05月08日 14時54分44秒 | お散歩日記/東京地名の話
新中川といってピンとくる人はなかなかいないのではないでしょうか。

特に墨西の方々は。(笑)

※「墨西」とは、ごん汰の造語で「墨東」に対していいます。

だから、墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区以外はみんな墨西です。

今回は墨田区と江東区の人もわからないかも。

さて話を戻して。

東京には中川と名乗る川が三本あります。

もともと一本の川で、過去には利根川や荒川の本流だったこともある川です。

三本のうち一つは中川の本流。

今、荒川の西側に寄り添うように流れている川です。

荒川の開削で下流の流路が変わっています。

そしてこのブログによく登場する旧中川

荒川放水路(現在の荒川)が作られたことによって荒川に分断された元の中川が荒川の西側に残ったものです。

江戸川区と墨田区・江東区の境になっています。

そして今回登場する新中川

昭和10年(1935年)利根川下流部が水害に襲われ、東京の被害は浸水面積62k㎡、浸水戸数61,000戸、浸水期間15日に及んだといいます。

その三年後、昭和13年(1935年)またしても関東地方が水害に襲われ、中川下流部にも被害が及びました。(昭和13年の洪水で六万戸以上の被害と書いた文章がネットに多く見られますが、これは昭和10年の水害です。)

そこで、中川と江戸川の放水路計画が持ち上がったそうです。

途中、太平洋戦争で中断されて完成したのは昭和38年(1963年)のことです。

葛飾区高砂からほぼ直線で南下し旧江戸川に合流しています。

さて、今回は京葉道路一之江橋下流から左岸を北上。

さすが人口の川、あまり風情がありません。

所々にクルーザーの係留場所があります。(左岸右岸交互に)



大杉橋



鹿本橋(鹿骨と松本を結んでいるから)



鹿骨(ししぼね)新橋から上流



鹿骨新橋の橋の上の像にはなぜかマスクが・・・・。

鹿骨新橋から新小岩方面を目指して川から離れました。

まぁ、のんびりゆったりの川辺散歩でした。

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役者寺・・・大雲寺

2013年05月07日 23時22分26秒 | 寺社仏閣
昨日は江戸川区瑞江駅近くの大雲寺へ。

このお寺は歌舞伎役者のお墓が多いことから別名役者寺といわれています。



画像で見るといい雰囲気の寺なんですが、まわりはなぜが住宅分譲中。

お墓でも整理して宅地として売り出し開始したばかりという状況で、この鬱蒼とした参道の雰囲気が嘘のよう。



本堂も立派ですがちょっと新しめ。

もともと江戸初期に蔵前に創建されて、昭和6年にここに移ってくる前は、墨田区業平にあった寺です。

役者さんたちの墓は本堂裏手にひとかたまりになってあります。

門前の説明書によると市村羽左衛門累代墓(初代より17代合葬、13代は五代尾上菊三郎)、坂東彦三郎累代墓(初代より七代合葬)、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺島家門弟一同建立碑、寺島家門弟代々墓、瀬川菊之丞累代墓(初代より六代合葬)(歌舞伎狂言作者、初代瀬川如皐を合葬)、中村勘三郎累代墓(初代より十三代合葬)、三代中村勘三郎墓、福地家墓、坂東彦三郎墓(初代より二代合葬)とあるのですが、お墓のところに説明書きがなく、お墓も古いので文字がよく読めずに非常にわかりにくかったです。

また江戸時代の役者さんは、名前も色々と変わったので違う名前でふたりの役者が書かれていたりとワケがわかりません。

また、ご存知のように中村勘三郎という名前はもともと役者の名前ではなく、座元の名前だったというようなこともあるので、ますます複雑です。(もちろん、市村羽左衛門も座元の名前。)




市村家の墓


菊五郎家や勘三郎家の墓


瀬川家の墓

まぁ、江戸時代の古い墓がたくさんあったという感覚でした。

ただ、瀬川菊之丞の墓には六代目瀬川菊之丞も合葬されているということで、六代目の菊之丞さんは前進座に在籍されていた方でしたので、手を合わせてきました。

ただし、ご存命の時にはまざ私は在籍していなかったので、お目にかかったことはありませんでしたが。

子供心に大河ドラマ「勝海舟」のお役が印象に残っています。






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安行と赤山陣屋

2013年05月06日 20時03分42秒 | お散歩日記/東京地名の話
お散歩の後半は、植木の町「安行」。







農村の風情がいっぱいなんだけど何か違う。

畑の中は庭木だらけ。

変わった垣根も。



これなどは銀杏の垣根。

こんな低い銀杏を見たのは初めてです。

その畑の中にあるのが「赤山陣屋」(赤山城)跡。



関東郡代の伊奈家の陣屋跡で広大なもの。

伊奈家が改易のあとは農地に利用されたようで、陣屋跡の多くが植木畑になっていました。



でも空堀なども残って当時を忍ばせています。

安行の植木の歴史もこの赤山に伊奈家の陣屋ができて、植木の栽培を奨励したことや、大火のたびに大量の植木が必要だった江戸の事情が合致したためだといわれています。

伊奈家に関しては劇団時代に七代目忠順(ただのぶ)の宝暦富士噴火に対する復興事業を扱った「怒る富士」 (新田次郎原作)の上演に携わったことがあります。

ですから親近感を持っていました。

その居館あとを訪れることができたのは感慨無量でした。

そのあとそばにある伊奈家の菩提寺の源長寺にも行くことができました。


源長寺

歴史と植物の有意義な一日でした。

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草加・新田駅から川口・新井宿まで

2013年05月05日 21時29分14秒 | お散歩日記/東京地名の話
今日は少しだけ遠出しました。

東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の新田駅から埼玉高速鉄道の戸塚安行駅経由、新井宿駅までお散歩しました。

前半は綾瀬川沿いやその支流の用水沿い歩き、後半は植木の里・安行の中の史跡を歩きました。



綾瀬川は桶川市を源流として埼玉県から足立区を流れ、下流は荒川に注ぐ川ですが、昔は荒川の本流だったこともあるそうです。

荒川開削以前は、隅田川に注ぎ、合流地点は隅田川の難所で、鐘ヶ淵の伝説にもなった場所です。

今回は中流域、草加市と越谷市の境を上流に向かって歩きました。

河岸は桜並木で、葉桜が気持ちいい季節です。

この川なぜか橋が少ないです。

向こう岸と行き来がないんでしょうね。

橋があるところは、越谷市が南側にはみ出しているということは、昔はもっと蛇行していたんだろうな。

でも単調な川沿いの道。w

そのうち道は川から離れ、新興住宅地の中の用水沿いを西へ。

そして戸塚安行駅へ。

後半戦はまた明日。
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町屋の山吹の里

2013年05月04日 22時50分42秒 | お散歩日記/東京地名の話
七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき

「後拾遺和歌集」の中務卿兼明親王の歌ですが、それよりも太田道灌の山吹伝説で使われているので、太田道灌の歌とか、山吹の里の女の歌だと思っている方も多いのではないでしょうか。

雨宿りの道灌、里の女に所望した雨具の簑。

その返答は山吹の一枝。

歌に寄せて簑がないことを暗に告げた女の真意を解らなかった道灌が、その後歌道に励むという逸話です。

落語「道灌」にも取り上げられている逸話なので広く知られています。

前にも書いたように、神田川にかかる面影橋あたりがその舞台だといわれています。

昨日はもう一つの伝承地、荒川区町屋の泊船軒というお寺に行ってきました。

泊船軒はもともと台東区松が谷の禅寺海禅寺の塔頭で、関東大震災後に先代住職の隠居所があった町屋に移転したそうです。



この境内に山吹塚という伝説にまつわる塚があります。



こじんまりした塚ですが、周囲に山吹が植えられていて風情を出しています。

町屋駅から京成線で二駅、日暮里駅前には太田道灌の銅像があります。



そのそばの道灌山といい、この町屋の地は山吹伝説にしっくりいく場所ではないでしょうか。



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富士は日本一の山

2013年05月03日 13時20分16秒 | 日々雑感
富士山が世界遺産になりそうですね。

鎌倉は残念でしたが。



こうしてみると悲しそうな大仏様。



こちらはスカイツリーから見た富士山。

東京から富士山が見えるとやはり嬉しくなります。

トップ画像は、都市農業公園からのダイヤモンド富士。

ナマの富士山もいいですが、東京にはミニ富士がたくさんあります。





これは足立区柳原稲荷神社にある富士塚。

富士講という富士信仰の団体が江戸期から明治時代にたくさんのミニ富士を都内に作りました。

今でもいたるところで見つけられます。

多くは浅間神社という名前だったりします。

大きな神社の中に浅間神社として祀られていることも多くあります。

みなさんも探して見てください。

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善光寺の出開帳

2013年05月02日 15時32分52秒 | お散歩日記/東京地名の話
善光寺の出開帳が両国の回向院で行われています。

終戦後初めてだとか。

出開帳(でがいちょう)とは何でしょうか。

江戸時代には、現世利益をもとめ社寺への参詣が流行しました。

成田山新勝寺、江ノ島の弁財天、大山の阿夫利神社など遊山をかねた参詣が盛んに行われ、その人気は大変なものでした。

今はどこも電車ですぐですが、当時は徒歩の旅、誰でも行けるというものではありません。

まして旅行が自由ではなかった時代です。

もっと遠方の信州善光寺などなかなか行けるところではなかったのです。

そこで逆に、遠方の寺のご本尊が江戸まで出向してくるのです。

鎌倉時代に信州善光寺の出開帳が京都で行われた記録があるそうです。

江戸では元禄16年の4月から60日間行われた成田山新勝寺の出開帳がその最初で、現・深川不動堂(当時の永代寺の境内)で行われたものでした。

その賑わいぶりは大変なものでした。

それはそうでしょう、有名寺院のご本尊がご近所までいらっしゃるのだから。

その時は、ご本尊は江戸城まで出向たようです。

善光寺の出開帳は本所回向院(両国)で行われ、安永7年(1778)では、60日で1,603万人の参詣があったともいわれています。

江戸時代も今回も出開帳されているのはご本尊の分身仏である前立御本尊です。

善光寺ではこの前立御本尊を奉じて全国各地で出開帳をお行い資金を集めたようです。

宝永4年(1707年)に、この資金をもとに現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられたということです。

このように遠くの寺が江戸で本尊を開帳するのは、資金集めの意味もあったようです。

さて信州善光寺は何宗の寺院なのでしょうか。

実は無宗派なのです。

天台宗大勧進貫主と浄土宗大本願善光寺上人(大本願上人・尼僧)のお二人が善光寺の住職なのです。

その点でも珍しい寺院といえますね。

さて今回です。

いろいろなイベントがあるけど拝観料が1000円(もちろん全額東日本大震災の復興資金になるのですが。)・・・・微妙。

本堂の前はすごい人だかりだし。

長野の善光寺に行ったことあるし。

その時はちょうど御開帳(その場でやる開帳は居開帳という。)だったし。

それに、青山にも善光寺はあるし。

というわけでなかには入りませんでした。(笑)

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